第46話ー梅は嵐をもて遊ぶー
堺屋高山国支店は賊達の襲撃を受けた。
小梅は支店の者達や弥三郎、又六郎を守るため、支店にあった棍棒を手に一人で賊達へ立ち向かい、十四人以上を倒すほどの奮戦を見せた。
しかし、相手は三十人。
最後には残った賊達が一斉に襲い掛かり、数には敵わず押さえつけられてしまった。
そして、小梅が堺屋の副総統であり、総統である鷹司秀高の妻でもあることを知った賊達は、小梅を秀高に対する人質として利用することを決める。
小梅は支店の者達が見守る中、その場で両手首を背後に縛られ、賊達の拠点へと連れ去られてしまった。
その後、支店へ戻った秀高は、小梅が連れ去られた事実を知る。
そして僅かな手掛かりから賊達が向かった場所を絞り込み、直ちに十人の近衛を率いて小梅の救出へ動き始めていた。
その頃。小梅は賊達の拠点、その奥にある広い部屋で、この一団を率いる頭の前へ跪かされていた。
両手首には、支店で捕らえられた時に掛けられた縄がそのまま残されている。
左右には賊が立ち、背後にも数人の男達が控えていた。
小梅は逃げ場のない状況に置かれていたが、それでも俯くことはなかった。
荒れていた呼吸もすでに落ち着いている。
顔を上げ、自分の正面にいる男を真っ直ぐに睨みつけていた。
部屋の奥。
粗末な椅子へ腰を下ろしていた男が、ゆっくりと小梅を見下ろす。
周囲の賊達とは明らかに雰囲気が違う。
この男こそが、一団を束ねる頭だった。
『……その女が、堺屋の副総統か』
頭の言葉に、傍らにいた賊が答える。
『はい』
『支店で暴れていた女です。こいつ一人に十四人以上やられました』
頭の眉が僅かに動いた。
『十四人以上?』
『へい。最初はただの女だと思っていたんですが……とんでもなく強くて』
別の賊も続ける。
『しかも、ただの堺屋の人間じゃありません』
『何?』
『鷹司小梅。堺屋の副総統で、大旦那――鷹司秀高の女房です』
頭の目が細くなった。
それまで以上に注意深く、小梅を観察する。
『……なるほどな』
小梅はその視線を不快そうに受け止めながら、頭を睨んだ。
『あなたが、この人達の頭ですね』
『そうだ』
『では、話は早いです』
小梅の声ははっきりしていた。
『今すぐ私を解放して、堺屋支店から奪った物を全て返しなさい。そして怪我をさせた人達へ謝罪してください』
部屋の中が一瞬静かになる。
やがて、周囲の賊達から小さな笑い声が漏れた。
『おいおい』
『自分が捕まってるって分かってんのか?』
しかし小梅はそちらを見もしなかった。
視線は頭から一度も外れていない。
頭もまた、小梅を見つめたまま口元を僅かに歪める。
『随分と威勢がいいな』
『当然です』
『両手を縛られて、俺達に囲まれているのにか?』
『だから何です?』
小梅は即座に答えた。
『私が間違ったことを言っているわけではありません』
その返答に、今度は笑う者はいなかった。
頭はしばらく小梅を見つめ、それからゆっくり身体を椅子の背へ預ける。
『鷹司秀高の女房……か』
小梅の目が僅かに鋭くなった。
『秀高様の名を軽々しく呼ばないでください』
『ほう』
『あなた達が襲った堺屋の総統です。そして、私の夫です』
『その夫が、お前のためならどこまで動くか見ものだな』
小梅の表情が変わった。
頭は続ける。
『堺屋はこの高山国へ来てから随分と好き勝手やってくれた。商いを広げ、俺達の縄張りにまで入り込んできた』
『だから店を襲ったのですか?』
『それだけじゃねえ』
男の声から笑みが消える。
『お前達が来てから、今まで俺達に従っていた商人まで態度を変え始めた。堺屋と商えば儲かる、堺屋なら守ってくれる、そんなことを言う奴まで出てきた』
小梅は黙って聞いていた。
『それで、秀高様を恨んでいると?』
『ああ』
『随分と勝手な話ですね』
『何?』
『商人の方々があなた達から離れたのなら、それは堺屋のせいではありません』
小梅は真正面から言い切った。
『あなた達が、今まで人を脅して従わせていたからでしょう』
周囲の空気が一気に張り詰めた。
賊の一人が前へ出ようとする。
『てめえ』
『下がれ』
頭が制した。
男は小梅から視線を外さない。
『続けろ』
小梅も引かなかった。
『堺屋は、商人に無理やり商品を買わせたり、お金を奪ったりなどしません。私達は商いをしているだけです』
『その商いで、俺達の邪魔をしている』
『それを邪魔と呼ぶのなら、あなた達がしていることは商いではありません』
頭の頬が僅かに引きつった。
小梅はさらに続ける。
『ただ力で人を脅して、お金を奪っているだけです』
『……言ってくれるな』
『事実ですから』
小梅の声には迷いがなかった。
その姿を見ながら、頭は暫く黙り込む。
両手を縛られ、周囲を男達に囲まれている。
それでも怯えて媚びる様子はない。
むしろ自分達へ正面から言葉を返してくる。
『お前、本当に変わった女だな』
『褒め言葉として受け取っておきます』
『褒めてねえよ』
小梅は僅かに眉を上げるだけだった。
頭は鼻で笑ったあと、再び声を低くする。
『だが、お前の価値は分かった』
小梅の目が細くなる。
『どういう意味です?』
『鷹司秀高は、お前を見捨てられるか?』
小梅は答えなかった。
『堺屋の副総統。であり女房だ。これ以上分かりやすい人質もいねえ』
『……』
『お前がいれば、堺屋に色々と言うことを聞かせられるかもしれねえ』
小梅は頭を睨んだまま、ゆっくり口を開いた。
『やめておいた方がいいですよ』
『何?』
『私を使って秀高様を脅そうとしているのでしょう?』
『だったらどうした』
『後悔します』
頭が目を細める。
小梅の声は静かだった。
しかし、その言葉には確信があった。
『私の夫である秀高様が、ここに来ます』
部屋の中の何人かが顔を見合わせる。
『随分と信頼してるんだな』
『はい』
小梅は迷わず答えた。
『秀高様は必ず私を見つけます』
『ここがどこかも知らねえのにか?』
『それでもです』
頭はしばらく小梅を見つめた後、低く笑った。
『だったら、その自慢の旦那が来るまで大人しく待ってもらおうか』
小梅の眉が僅かに動く。
頭が部下へ視線を向けた。
『この女を奥の監禁部屋へ連れていけ』
『へい』
『部屋の前には見張りを置け。交代で必ず誰か立たせろ』
『分かりました』
『こいつを甘く見るな。十四人以上を一人で倒した女だ。隙を与えるな』
賊達が小梅の左右へ近付いた。
小梅は動かなかった。
ただ、頭を睨み続けている。
『必要ならさらに拘束しても構わん』
頭が口元を歪めた。
『こいつには、堺屋を動かす価値がある』
その言葉を聞いた小梅の表情から、僅かに残っていた余裕が消えた。
『……私は、あなた達の道具ではありません』
『それを決めるのは今のお前じゃねえ』
『違います』
小梅ははっきりと言い返した。
『私は誰の道具にもなりません』
頭は何も答えなかった。
やがて賊達が小梅を立たせる。
支店から連れてこられた時から続いている両手首の拘束は、そのままだった。
『歩け』
小梅は賊を睨む。
『言われなくても歩きます』
そのまま左右を囲まれ、部屋の奥へ続く廊下へ連れていかれる。
頭はその後ろ姿を見ながら、小さく息を吐いた。
『……面倒な女を連れてきやがったな』
しかし、その表情には先ほどまでとは違う警戒が浮かんでいた。
一方、小梅は薄暗い廊下を歩きながら、静かに唇を結んでいた。
秀高が来る。
その確信だけは揺らいでいない。
だが、それまで自分がただ大人しく捕まっているつもりもなかった。
『(秀高様……)』
小梅は僅かに目を細めた。
『(私も、できることをします)』
小梅は数人の賊に囲まれながら、薄暗い廊下の奥へと進んでいった。
やがて先頭を歩いていた男が、一つの戸の前で足を止める。
『ここだ』
戸が開かれた。
その向こうにあったのは、物置として使われていたらしい小さな部屋だった。
窓は高い位置に一つあるだけで、人が容易に出入りできる大きさではない。家具と呼べるような物もほとんどなく、部屋の中央には何も置かれていなかった。
小梅は中へ入れられると、すぐに周囲を警戒した。
『ここに私を閉じ込めるつもりですか?』
『そういうことだ』
『随分と趣味の悪い客間ですね』
『客じゃねえだろ』
『それなら余計に早く帰していただきたいものです』
男は呆れたように小梅を見た。
『本当に口の減らねえ女だな』
『あなた達と楽しくお話をするために来たわけではありませんから』
そう言い返す小梅の背後へ、一人の賊が回った。
そして、支店で施されたままになっている手首の縄へ手を触れる。
小梅が振り返った。
『何をするのです?』
『動くな。縄を確かめる』
『必要ありません』
『必要かどうかは俺達が決める』
男は縄の状態を確認する。
支店で小梅を捕らえた時には、とにかく連れ去ることを優先して急いで掛けた縄だった。さらに、ここへ来るまでの間、小梅は歩き続けている。
そのため、完全に解けているわけではなかったものの、最初より僅かに余裕が生じていた。
男の表情が変わった。
『おい』
『どうした?』
『少し緩んでるぞ』
別の男が近付いて確認する。
『本当だな』
小梅は眉を寄せた。
『だからといって、わざわざ結び直す必要はないでしょう』
『あるに決まってるだろ』
『ありません』
『十四人以上ぶっ倒した奴に言われても説得力がねえよ』
小梅は何も答えなかった。
男達の警戒が明らかに強くなっている。
一人の賊が小梅の両肩へ手を掛けた。
『大人しくしろ』
『嫌です』
小梅は即座に身体を捻った。
『触らないでください!』
しかし、すぐに別の男が加わった。
『押さえろ』
『ちょっと、放しなさい!』
小梅は抵抗したが、支店での戦いによる疲労はまだ完全には抜けていない。しかも最初から両手を背後に拘束されている。
数人に囲まれれば、思うようには動けなかった。
『やめなさい!』
『暴れなきゃすぐ終わる』
『誰が大人しく縛られ直すものですか!』
小梅はなおも抵抗する。
しかし男達は頭から直接、十四人以上を倒した小梅を甘く見るなと命じられている。
一人が肩を押さえ、別の一人が腕の動きを止める。
その状態で、緩みが出ていた手首の縄はいったん整え直された。
小梅は悔しそうに唇を噛む。
『……本当に卑怯ですね』
『好きに言え』
『一人の女性相手に何人掛かりですか』
『その一人に十四人以上やられてんだよ』
返された言葉に、小梅は僅かに目を逸らした。
否定できなかった。
手首の拘束が確認されると、それだけでは終わらなかった。
『もう一本持ってこい』
『まだ縛るのですか!?』
小梅が振り返る。
『頭から、必要なら拘束を増やしてもいいって言われてる』
『必要ありません!』
『俺達にはある』
追加の縄が持ち込まれる。
小梅は再び抵抗しようとしたが、左右から押さえられた。
今度の縄は手首だけではなく、腕の自由をさらに制限するために使われた。
細かな動きを封じるように縄が加えられ、小梅が腕へ力を入れても簡単には大きく動かせない状態にされていく。
『ちょっと……!』
小梅が身体を捻る。
『そこまでしなくても逃げません!』
『信用できるか』
『できます!』
『できねえよ』
あっさり否定され、小梅はむっとした表情を浮かべた。
『失礼ですね』
『自分が何人倒したか思い出せ』
『それとこれとは別です』
『俺達からしたら同じだ』
男達は一切油断しなかった。
やがて上半身の動きを十分に制限したと判断すると、小梅は部屋の床へ座るよう命じられた。
『座れ』
『嫌です』
『座れ』
『嫌ですと言っています』
数秒ほど睨み合う。
しかし結局、小梅は左右から促される形で床へ座らされた。
『……本当に強引ですね』
『お前が素直じゃねえからだ』
『誘拐した人達に素直に従う人間がどこにいるのですか』
男は答えず、今度は小梅の足元へ別の縄を持ってくる。
その意味を理解した小梅の目が見開かれた。
『待ってください』
『動くな』
『足まで縛る必要はないでしょう!?』
『逃げられちゃ困る』
『逃げません』
『さっきと同じだ。信用できねえ』
『……』
小梅は一瞬言葉に詰まった。
もちろん、本当は逃げる機会を狙っていた。
その沈黙だけで男達には十分だった。
『ほらな』
『何がですか!』
『逃げる気だっただろ』
『そんなことは言っていません!』
『顔に出てるぞ』
『出ていません!』
小梅は反論したものの、男達の作業は止まらなかった。
足にも逃走を防ぐための拘束が加えられ、立ち上がって走ることが容易にはできない状態にされる。
小梅は何度か足を動かしてみた。
当然、自由には動かない。
『……』
そこで初めて、小梅の表情に明確な焦りが浮かんだ。
手だけなら、まだ何とかできる可能性があると思っていた。
しかし腕の動きまで制限され、さらに足まで拘束されてしまえば話が変わってくる。
『これでいいだろ』
一人の男が言う。
だが、もう一人が首を横へ振った。
『待て』
『何だ?』
『頭が言ってただろ。こいつは口も達者だ』
小梅の顔が引きつった。
『……何をするつもりです?』
男が布を手に取った。
小梅は即座に察した。
『嫌です』
『大声を出されちゃ困る』
『出しません』
『信用できねえ』
『またそれですか!』
小梅は身体を後ろへ引こうとする。
しかし、両手も腕も足もすでに自由が利かない。
『やめなさい!』
数人の賊が動きを抑える。
『んっ――!』
小梅は顔を背けようとしたが、それも長くは続かなかった。
声を上げたり、外の見張りへ不用意に情報を伝えたりできないよう、口元にも布が用いられた。さらに簡単に外せないよう、その上から別の布で固定される。
『んんっ!』
小梅が抗議するように声を上げる。
しかし、言葉にはならなかった。
『これでいい』
男達は最後に拘束全体を確認した。
両手。
腕。
足。
そして口元。
逃走を防ぐための処置が一通り終わったことを確かめる。
小梅は床へ座らされたまま、男達を睨みつけていた。
『……』
当然、目だけは隠されていない。
そして、その視線だけで小梅が何を言いたがっているのかは十分過ぎるほど伝わった。
『そんなに睨むなよ』
『んんっ!』
『怒ってるな』
小梅はさらに目を細めた。
男は肩を竦める。
『仕方ねえだろ。十四人以上も倒した奴を普通の人質みたいに扱えるか』
小梅は返事をすることができない。
それでも、その瞳には屈服した様子などなかった。
男達は部屋を出る。
最後の一人が戸の前で振り返った。
『大人しくしてろ』
小梅は睨み返した。
ガタンッ。
戸が閉じる。
続いて、外側から施錠される音が響いた。
小梅だけが部屋へ残された。
薄暗い監禁部屋。
閉ざされた戸。
外には見張り。
そして身体には、賊達によって加えられた拘束が残されている。
小梅はしばらく動かなかった。
静かに呼吸を整える。
『(……落ち着いて)』
声にはできない。
それでも頭の中で自分自身へ言い聞かせる。
怖くないわけではなかった。
支店で大勢の賊に取り囲まれ、初めて捕らえられた。
その場で縛られ、秀高への人質として見知らぬ場所へ連れ去られ、今度はさらに厳重に拘束されたうえで、一人きりの部屋へ閉じ込められている。
これまでの人生で経験したことのない状況だった。
それでも、小梅は目を閉じなかった。
『(秀高様は必ず来ます)』
それは願いではない。
小梅にとっては確信だった。
そして同時に、ただ秀高の助けを待つだけでいるつもりもない。
小梅はゆっくりと自分の身体を動かし始めた。
今の自分に何ができるのか。
どこまで動かせるのか。
それを確かめるために。
こうして鷹司小梅は、秀高に対する人質として賊達の拠点へ監禁された。
しかし、この時の賊達はまだ知らなかった。
捕らえた相手が、ただ救出を待つだけの女性ではないということを。
戸が閉じられ、外側から鍵を掛ける音が響いてから、どれほど時間が経ったのか。
小梅は床へ座らされたまま、しばらく動かなかった。
両手首を背後で縛られ、腕と上半身にも拘束が加えられている。さらに脚の自由まで奪われ、声を出せないよう口も塞がれていた。
部屋の外には見張りがいる。
不用意に物音を立てれば、すぐに気付かれるだろう。
小梅はまず呼吸を整えた。
『(……落ち着いて)』
焦ってはいけない。
秀高が自分を探していることは疑っていなかった。支店へ戻れば、自分が連れ去られたことを知る。そして秀高なら、必ず助けに来る。
だが、だからといって何もせずに待っているつもりはなかった。
『(秀高様が来てくださるまで、ただ待っているだけなんて嫌です)』
小梅はゆっくりと身体を動かした。
まず確かめるのは、背後で拘束されている両手首だった。
先ほど賊達によって縛り直されたばかりである。支店からここまで連れてこられた時のような緩みはほとんどない。
それでも小梅は諦めなかった。
身体の柔軟性には自信がある。
護身術を学ぶ中で、掴まれた状態から身体を抜く方法や、限られた範囲で身体を動かす方法も身につけてきた。
小梅は音を立てないよう慎重に手を動かし続けた。
一度で駄目なら角度を変える。
それでも駄目なら、もう一度。
焦らず、少しずつ。
廊下から足音が聞こえた瞬間には動きを止め、何事もなかったかのように身体から力を抜いた。
足音が戸の前を通り過ぎる。
小梅はしばらく待った。
そして再び動き始める。
『(……もう少し)』
指先を動かす。
手首を僅かに捻る。
長い時間を掛けた末、ほんの僅かだった変化が次第に大きくなっていった。
やがて――
片方の手が自由になった。
小梅の目が大きくなる。
『(抜けた……!)』
喜びそうになる気持ちをすぐに抑えた。
まだ終わっていない。
自由になった手を使い、もう片方の手首に残っている縄を外していく。
そしてついに、両手首が自由になった。
小梅は大きく息を吐きそうになり、慌てて止める。
『(まだです)』
次は腕。
背後へ回されていた腕の動きを制限している縄へ手を掛ける。
手首が自由になったことで、先ほどまでとは比べものにならないほど動かしやすくなっていた。
それでも物音を立てるわけにはいかない。
外には見張りがいる。
小梅は何度も戸へ視線を向けながら、少しずつ縄を解いていった。
やがて腕を拘束していた縄も外れる。
両腕が自由になった。
小梅は肩を僅かに動かした。
長時間同じ姿勢を取らされていたため違和感は残っているが、動かせないほどではない。
次は上半身。
身体へ加えられていた縄へ指を掛け、一つずつ解いていく。
ここまで来れば作業は早かった。
最後の縄が外れ、小梅は上半身の自由を取り戻した。
『(よし……)』
だが、まだ口を塞がれている。
小梅は自分の口元へ手を伸ばした。
固定されていた布を外し、続いて口を塞いでいたものも取り除く。
『ぷはっ……』
思わず息が漏れた。
小梅はすぐに口を押さえた。
廊下へ耳を澄ませる。
何も聞こえない。
気付かれてはいないようだった。
小梅は小さく息を吐いた。
『……酷い目に遭いました』
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
床には、自分を拘束していた縄と布が残されている。
だが、まだ脚が残っていた。
『(あと少しです)』
小梅は脚へ手を伸ばす。
ここまで来れば、完全に自由になるまで時間は掛からない。
脚を拘束している縄を解いていく。
一つ。
そして、もう一つ。
最後の縄が外れた。
小梅はすぐに脚を動かした。
自由に動く。
『(できました……!)』
その瞬間だった。
廊下から足音が聞こえた。
小梅の表情が変わる。
しかも足音は通り過ぎない。
こちらへ近付いてくる。
『(まずい……!)』
逃げ場を探す。
だが、部屋には出入口が一つしかない。
次の瞬間。
ガチャッ。
戸が開いた。
飲み物を入れた器を持った男が入ってくる。
『おい、飲み物――』
男の言葉が止まった。
小梅も動かなかった。
数秒。
互いの視線が交わる。
男の目が床へ向いた。
そこには解かれた縄が落ちている。
そして小梅は完全に自由になっていた。
『……お前』
小梅の表情が引きつった。
『……こんにちは』
『縄抜けしてるじゃねえか!』
男が叫ぶ。
『逃げたぞ! 女が縄を抜けた!』
『しまった!』
小梅は即座に動いた。
男が器を放り出し、小梅を捕まえようと手を伸ばす。
だが、小梅はその手をかわした。
『待て!』
『待ちません!』
男の脇を抜ける。
小梅は監禁部屋から廊下へ飛び出した。
『逃げたぞ!』
背後から怒声が響く。
『あの女を捕まえろ!』
『外へ出すな!』
拠点の空気が一変した。
複数の足音が響き始める。
小梅は廊下を走った。
『(捕まるものですか……!)』
前方から二人の賊が姿を現した。
『いたぞ!』
小梅はすぐに方向を変える。
横へ伸びる通路へ入り、そのまま走った。
後ろから男達が追ってくる。
『待て!』
『止まれ!』
『嫌です!』
当然のように言い返しながら、小梅は走り続けた。
角を曲がる。
前方に人影が見えれば、別の通路へ入る。
小梅は自分が連れてこられた時の道順を頼りにしているわけではなかった。
そもそも連れてこられた時は周囲を賊達に囲まれ、拠点全体の構造など確認できていない。
今目の前に見えているもの。
聞こえてくる足音。
開いている戸。
差し込んでくる光。
それらを頼りに、その場その場で進む方向を決めていた。
やがて、小梅の正面に明るい場所が見えた。
『(外……!)』
迷わず走る。
背後から怒声が迫ってくる。
小梅は最後の戸を抜けた。
眩しい光が視界へ飛び込んでくる。
『……出られた!』
しかし、そこで小梅の足が止まった。
『……え?』
確かに建物の外には出た。
だが、そこは拠点の外ではなかった。
周囲を見渡す。
古い倉庫を改造した建物を中心として、その周囲には複数の小さな建物や物置が並んでいる。
さらに、その外側。
敷地全体を囲うように高い塀が築かれていた。
ところどころ補修された跡もある。
見張りが立つための場所まで設けられている。
長い年月を掛け、この場所を根城として使い続けてきたのだろう。
単なる古びた倉庫ではない。
賊達が自分達の拠点として使うため、少しずつ手を加えてきた場所だった。
『……要塞みたいじゃないですか』
小梅は思わず呟いた。
来た時には分からなかった。
賊達に囲まれたまま建物へ連れていかれたため、周囲の構造を落ち着いて見る余裕などなかった。
覚えていることは一つだけ。
ここへ連れてこられた時、正面にあった門を潜った。
小梅は周囲を見る。
塀には、人が抜けられそうな場所が見当たらない。
『(だったら……)』
出口は門。
小梅は正面方向を探した。
見つける。
『(あそこです!)』
門まで行けば外へ出られる。
小梅は駆け出そうとした。
しかし――
『いたぞ!』
小梅の足が止まる。
前方へ数人の賊が現れた。
門へ向かう進路を塞ぐ。
『……退いてください』
『退くわけねえだろ!』
背後からも声が響く。
『こっちだ!』
建物から次々と賊達が飛び出してくる。
小梅は周囲を見た。
武器はない。
支店で使っていた棍棒は、とっくに奪われている。
だが、ここで捕まるわけにはいかなかった。
小梅は構えた。
『……なら、力ずくでも通ります』
『捕まえろ!』
一人の男が飛び込んでくる。
小梅は伸びてきた腕をかわし、その勢いを利用して男の体勢を崩した。
『うわっ!』
二人目が横から掴み掛かる。
小梅は身体を捻り、その手を外す。
さらに一人。
小梅は相手の腕を取り、前へ崩した。
『邪魔です!』
『こいつ……!』
『囲め! 一人ずつ行くな!』
その言葉に、小梅の表情が変わった。
支店での戦いと同じだった。
一人ずつなら対処できる。
二人でも、三人でも状況次第では何とかなる。
だが、相手はそれを知っている。
十四人以上もの仲間を倒された賊達は、もう小梅を侮っていなかった。
正面。
左右。
そして背後。
続々と拠点から出てきた賊達が小梅を取り囲んでいく。
『……』
小梅が後退する。
門は見えている。
あと少し。
それでも、その間に何人もの賊が立ちはだかっていた。
『(ここまで来たのに……!)』
一人が掴み掛かる。
小梅は振りほどく。
別の一人をかわす。
さらに横から伸びてきた腕を外す。
だが、その直後。
背後から肩を掴まれた。
『っ!』
小梅が振り返る。
その隙に右腕を取られる。
『放して!』
左腕にも別の男が掴み掛かった。
『捕まえたぞ!』
『まだです!』
小梅は身体を捻る。
一人の手を外した。
しかし、すぐに別の男が代わる。
『押さえろ!』
『放しなさい!』
肩を押さえられる。
腕を掴まれる。
小梅は必死に抵抗した。
だが人数が増え続ける。
一人を振りほどいても、二人目が来る。
二人目をかわしても、その後ろから三人目が来る。
ついに両腕を取られた。
『離して!』
さらに両肩を押さえ込まれる。
『くっ……!』
小梅は力を込める。
動かない。
『捕まえた!』
『頭のところへ連れていけ!』
『嫌です! 放しなさい!』
小梅はなおも抵抗したが、今度は完全に動きを封じられていた。
門は目の前に見えている。
あと少しだった。
それでも届かなかった。
小梅は悔しそうに門を見つめた。
『……っ』
そして再び、賊達によって拠点の建物へ連れ戻されていった。
広間では、頭が報告を受けていた。
『逃げただと?』
『へ、へい……』
『どうやってだ』
『縄を全部抜けてました』
頭の眉間へ深い皺が寄る。
『全部?』
『手も腕も身体も、足も……口の布まで外して』
『……』
頭は額へ手を当てた。
その直後、廊下の向こうから騒がしい足音が聞こえてくる。
『連れてきました!』
数人の賊に囲まれた小梅が広間へ戻された。
『放しなさい! 自分で歩けます!』
『また逃げるだろうが!』
『逃げるに決まっているでしょう!』
小梅は両腕を左右から取られ、さらに両肩を背後から押さえられたまま頭の前へ連れていかれた。
そのまま跪かされる。
『……っ!』
小梅はすぐに顔を上げた。
頭と目が合う。
男はしばらく小梅を見つめていた。
そして、呆れたように息を吐く。
『まったく、とんだじゃじゃ馬娘だな』
小梅の眉が動いた。
『大人しく捕まっているほど、私はお人好しではありません』
『普通はあれだけ縛られりゃ諦めるもんだ』
『私は普通ではないのでしょうね』
頭が立ち上がった。
ゆっくり小梅へ近付いてくる。
小梅は両腕と肩を押さえられたまま、その男を睨み続けた。
頭は小梅の前で立ち止まる。
そして手を伸ばし、小梅の顔を下から掴んで顎を上げた。
『後悔しても遅いからな』
小梅の目が鋭くなる。
次の瞬間。
小梅は押さえられている身体を強く捻り、顔を背けるようにして頭の手を振り払った。
そして真正面から男を睨み上げる。
『後悔するのは、あなた達です』
頭の表情から笑みが消えた。
小梅も目を逸らさない。
しばらく両者の視線がぶつかり合った。
やがて頭が鼻を鳴らす。
『生意気な女だな』
吐き捨てるように言い、元の場所へ戻って腰を下ろした。
小梅はまだ賊達に押さえられている。
両腕を左右から取られ、背後から肩を押さえられているため、立ち上がることもできない。
それでも顔だけは上げたままだった。
頭はそんな小梅を眺めながら、しばらく考え込んでいた。
先ほどの拘束では足りなかった。
十四人以上を倒しただけではない。
監禁部屋へ閉じ込め、拘束を増やしても、自力で全て抜けて脱走した。
同じことを繰り返せば、また逃げられる可能性がある。
そこで、頭がふと何かを思い出した。
『そう言えば、今日あいつはいるのか?』
側近が首を傾げる。
『あいつって。先生のことですか』
『あぁ』
すると近くにいた賊の一人が答えた。
『今日は部屋で手入れしてました』
その言葉を聞いた頭の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
『よし、呼んでこい』
『へい!』
一人の賊が広間を出ていく。
小梅は眉を寄せた。
『……先生?』
頭は答えない。
ただ、小梅を見ながら笑っている。
その態度が気に入らなかった。
『何ですか、その先生という人は』
『すぐ分かる』
『説明くらいしてください』
『まあ待ってろ』
『私は待つのが嫌いです』
『知るか』
小梅は不満そうに頭を睨んだ。
しかし、両腕と肩は依然として賊達に押さえられたままである。
逃げるために身体を動かそうとしても、すぐに力を加えられる。
『動くな』
『……少しくらい放してくれてもいいでしょう』
『また逃げるだろ』
『逃げません』
『さっき自分で逃げるに決まってるって言っただろうが』
『……』
小梅は黙った。
頭が呆れたように笑う。
しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
だが、先ほどまで小梅を追い回していた賊達とは、どこか歩き方が違う。
やがて一人の男が広間へ姿を現した。
小梅はその男へ視線を向ける。
『(……この人?)』
一目見て、周囲の賊達とは雰囲気が違うことが分かった。
少なくとも、武器を手に怒鳴りながら支店へ押し入ってきた男達とは違う。
男は広間へ入ると、頭を見た。
『どうしたんですかい。お頭さん』
頭が片手を上げる。
『おう。来たか、先生よ』
先生と呼ばれた男は頭へ近付きながら、途中で小梅へ視線を向けた。
両腕と肩を数人掛かりで押さえられ、頭の前へ跪かされている小梅。
男は不思議そうに眉を上げる。
『それで、そこの別嬪さんはどうしたんだ?』
小梅は眉を顰めた。
『……』
何が始まるのか、まったく分からない。
頭が小梅を指した。
『あぁ、このじゃじゃ馬娘か。こいつはあの堺屋の大旦那の女房だ』
『ほう。堺屋の』
先生の目が僅かに細くなる。
頭は続けた。
『さっきまで監禁部屋で拘束してたんだがな、抜け出して今に至るってわけだ』
『拘束から抜け出した』
先生はもう一度小梅を見る。
小梅も警戒するように男を見返した。
『なるほど、それで俺を呼んだわけか』
『そうよ。捕縛術に長けたお前なら、このじゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろってな』
その言葉で、小梅にもようやく話が見えた。
『……捕縛術?』
嫌な予感がした。
先生と呼ばれた男は小梅の問いには答えず、頭へ向かって頷く。
『そう言う事かい。なら、準備してくるから部屋で押さえといてくれ』
『頼んだぞ』
『あいよ』
男はそれだけ言うと、踵を返した。
『待ってください!』
小梅が呼び止める。
男が僅かに振り返った。
『何ですか、捕縛術って! 私に何をするつもりですか!』
しかし男は答えなかった。
そのまま広間を出ていく。
『ちょっと!』
小梅が追おうと身体を動かした瞬間、押さえていた賊達の手に力が入った。
『動くな』
『放してください!』
頭が小梅を見ながら言った。
『今度は逃げられねえようにしてもらうんだよ』
小梅は頭を睨んだ。
『また抜けてみせます』
『その威勢がいつまで続くか見ものだな』
『ずっと続きます!』
頭は鼻で笑った。
『連れていけ』
『へい』
小梅の両腕が左右から強く押さえられる。
『自分で歩けます!』
『信用できねえ』
『だからといって何人掛かりで――ちょっと、引っ張らないでください!』
小梅は抵抗しながら立たされた。
再び逃げようとしていると警戒されているため、今度は先ほど以上の人数が周囲を固める。
小梅は一度だけ振り返った。
頭は元の場所へ座り、小梅を見送っている。
『……覚えておいてください』
頭が眉を上げる。
『私は諦めませんから』
『そうかい』
『秀高様も必ず来ます』
その名前を口にした時だけ、小梅の声から迷いが完全に消えた。
『それまでに、私自身でもここから出てみせます』
『だったら好きなだけやってみろ』
頭は不敵に笑った。
『次も抜けられたらな』
小梅は真っ直ぐに頭を睨んだまま、賊達によって広間から連れ出された。
薄暗い廊下を進み、先ほど自力で脱出した監禁部屋へ戻されていく。
そして再び戸が開いた。
小梅は賊達に囲まれたまま、その中へ入れられる。
今度はまだ縄を掛けられていない。
しかし両腕と肩を押さえられ、逃げる隙も与えられていなかった。
小梅は周囲の賊達を見回し、最後に閉ざされていない戸へ視線を向ける。
あの向こうから、やがて先生と呼ばれた男が戻ってくる。
捕縛術に長けた男。
自分が一度縄抜けしたことを理由に呼ばれた人物。
小梅は唇を結んだ。
『(……何をされるか分かりません)』
不安がないわけではない。
それでも、小梅の瞳から抵抗の意志は消えていなかった。
『(それでも、諦めません)』
秀高が自分を探している。
そして自分も、ここから逃げることを諦めない。
そう心に決めた小梅は、賊達に押さえられたまま、先生と呼ばれる男が戻ってくる時を待つことになった。
一度は自力で拘束を破り、拠点の外まで辿り着いた。
だが、あと一歩のところで脱出は叶わず、再び捕らえられてしまった。
それでも、小梅の心は折れていない。
そして今。賊達もまた、二度と同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。
小梅を確実に封じるため、捕縛術に長けた男が動き始める。
小梅の行く末を巡る攻防は、ここからさらに激しさを増していくことになる。




