第45話ー梅は嵐にも負けずー
与那国の島影が水平線の彼方へ消えてから、二日ほどが過ぎていた。
日ノ本を離れ、南の海を進み続けてきた堺屋の船団は、いよいよ高山国へ近付いていた。
甲板へ出れば、日ノ本とは明らかに異なる暖かな風が頬を撫でる。空は高く、見渡す限りに広がる海は陽光を受けて輝き、その先には少しずつ高山国の島影が姿を現し始めていた。
船の舳先近くでは、小梅が手摺へ両手を添えながら前方を眺めている。
『見えてきましたね』
隣に立っていた秀高も水平線へ目を向けた。
「ああ。あれが高山国だ」
小梅にとって、日ノ本を離れてこれほど遠くまで旅をすること自体が大きな経験だった。与那国を経由したとはいえ、海の向こうに存在する異国へ自ら足を踏み入れるのは、これまでとはまるで違う。
そして今回の旅は、単なる物見遊山ではない。
堺屋が高山国へ築いた商いの道を自分達の目で確かめ、現地の支店が抱えている問題を調べ、今後の交易をさらに発展させる。それが総統である秀高と、副総統である小梅が高山国まで赴いた最大の目的だった。
『あれだけ資料を読んできたのに、実際に見るとなると全然違いますね』
「当然だ。紙の上で分かることには限界がある。だから俺達が来たんだ」
『はい』
小梅は高山国の島影を見つめながら頷いた。
堺屋が日ノ本の外へ商圏を広げる以上、これから先も同じことは何度もあるだろう。気候も文化も生活習慣も違う土地で、日ノ本と同じ商いをそのまま持ち込んだところで成功するとは限らない。
何を求めているのか。
何なら売れるのか。
反対に、高山国から日ノ本へ持ち帰ることで新たな価値を生み出せるものは何なのか。
それを見極めることも、堺屋を率いる二人の役目だった。
やがて港の様子まではっきりと見えるようになり、船上では上陸へ向けた準備が始まった。
秀高が船員達へ指示を出す一方、小梅も荷の確認を進めていく。今回持ち込んだ商品には販売用の品だけではなく、高山国側へ贈る品や、今後の取引を見据えた見本も含まれている。
そして船が港へ入ると、岸壁にはすでに堺屋高山国支店の者達が集まっていた。
『総統がお見えになったぞ!』
『副総統もご一緒だ!』
船が接岸し、秀高と小梅が順に上陸する。
支店長を先頭に、現地で働いている者達が深々と頭を下げた。
『総統、副総統。長旅、誠にお疲れ様でございました』
「出迎えご苦労」
『ありがとうございます』
小梅も笑顔で応じる。
その後ろから弥三郎と又六郎も降りてきた。
二人にとっても今回の高山国行きは重要な経験である。秀高と小梅は、ただ二人を連れて旅をしているわけではない。将来それぞれが大きな役目を担うことを見据え、日ノ本の外にある国と人々を実際に見せる意味もあった。
港では積荷の搬出が始まり、秀高は早速支店長から現状の報告を受けた。
取引量。
主要な商品。
現地商人との関係。
港で必要となる費用。
高山国側から求められている品。
そして堺屋が抱えている問題。
秀高は歩きながら一つずつ確認していく。
小梅もその横で話を聞き、気になった部分があれば質問を加えた。
こうして一行は堺屋高山国支店へ入り、その日のうちから視察を開始した。
支店には日ノ本から運ばれてきた品だけでなく、高山国で仕入れた品も数多く並べられていた。
小梅は商品そのものを見るだけではなく、店を訪れる客の様子にも目を向けていた。どの商品を手に取り、どこで足を止め、何を見て買わずに戻すのか。帳簿の数字だけでは見えてこない情報が、実際の店先にはいくつも存在する。
翌日になってからも視察は続いた。
秀高は支店の外へ出て、市場や港の様子を自分の目で確認することにした。
「俺は市場を見てくる」
『では、私はこちらを見ておきますね』
「ああ。頼む」
秀高は数名の護衛を伴い、支店を出た。
弥三郎と又六郎は小梅とともに支店へ残る。
小梅は帳簿を開き、支店長や店員達から説明を受けながら、商品の仕入れと販売の流れを確認していった。
『この商品、先月より売上が落ちていますね』
『はい。少し値が上がりまして、それから動きが鈍くなりました』
『値上がりした理由は?』
『仕入れ先で不作がありまして……』
小梅は帳簿と棚の商品を交互に見る。
『それなら、値段を下げることだけを考えてはいけません。同じ用途で使える別の商品がないか探してみましょう』
『別の商品、でございますか?』
『はい。同じ物を安く売ることだけが商いではありません。お客様が何のためにその商品を買っているのかを考えれば、代わりになる物を提案できる場合があります』
支店員達が頷く。
弥三郎と又六郎も近くで話を聞いていた。
小梅は二人にも帳簿を見せながら、実際の商品と数字を結び付けて説明していく。
その頃、支店から離れた市場では、秀高が別の問題へ遭遇していた。
現地の商人達から金品を巻き上げている一団である。
秀高は最初から争うつもりなどなかったが、目の前で弱い者から金を奪う行為を見過ごすこともできなかった。
数人の男達は秀高を異国から来た若者と侮った。
しかし、それが間違いであると理解するまでに時間は掛からなかった。
秀高は相手へ大きな怪我を負わせることなく制圧し、商人達から奪った金を返させた。
ただ、秀高には一つ気になることがあった。
男達が去った後も、商人達の表情から恐怖が消えなかったのである。
「……あいつらだけじゃないな」
護衛が秀高を見る。
『総統?』
「あの程度の連中だけなら、ここまで恐れる必要はない。後ろに誰かいる」
秀高は去っていった男達の背中を見ながら、静かに目を細めた。
そして、その推測は正しかった。
秀高に叩きのめされた男達は、そのまま町外れへ向かい、自分達の背後にいる賊達へ報告した。
日ノ本から来た堺屋。
その大旦那。
自分達が受けた屈辱。
話を聞いた賊達は、以前から自分達の縄張りへ入り込み、急速に商いを広げていた堺屋への不満を爆発させた。
そして、秀高が支店を離れていることを知った彼らは動いた。
人数は三十人。
武器を手にした男達が、一斉に堺屋高山国支店へ向かった。
その頃、小梅はまだ帳簿を確認していた。
最初に異変へ気付いたのは、店先にいた支店員だった。
『副総統!』
切迫した声に、小梅が顔を上げる。
『どうしました?』
『外に……武器を持った者達が!』
小梅の表情から笑みが消えた。
すぐに立ち上がり、入口へ向かう。
通りの向こうから、明らかに普通の客ではない男達が近付いてくる。
一人や二人ではない。
『……多いですね』
小梅は目を凝らした。
およそ三十人。
手には棍棒や刀に似た武器を持っている者もいる。
そして、その全員が堺屋支店へ向かっていた。
『支店長』
『はい!』
『店の人達を奥へ。お客様がいるなら裏から逃がしてください』
『副総統は!?』
『私もすぐに行きます』
小梅はそう答えながら、店内を見渡した。
弥三郎と又六郎も異変に気付き、こちらへ来ようとしている。
『二人とも、奥へ行きなさい』
『しかし義姉様!』
『早く!』
普段の柔らかな声ではなかった。
二人は足を止める。
『ここにいてはいけません。支店の人と一緒に奥へ行ってください』
『……はい』
弥三郎が悔しそうに答え、又六郎も従った。
二人が奥へ向かったことを確認すると、小梅は支店内に常備されていた棍棒を手に取った。
支店長が驚く。
『副総統、まさか……』
『時間を稼ぎます』
『危険です!』
『分かっています。でも、今すぐ全員が裏から逃げられるわけではないでしょう?』
小梅は棍棒を握り直した。
『大丈夫です。私、こう見えて結構強いんですよ?』
その直後だった。
ドンッ!
入口へ何かが叩き付けられる。
ドンッ!
二度目の衝撃。
そして――
バキッ!
戸が破られ、武装した男達が店内へ雪崩れ込んできた。
『金を出せ!』
『商品も全部持っていけ!』
『邪魔する奴は叩きのめせ!』
怒号が店内へ響く。
その前に、小梅が立った。
棍棒を両手で構える。
『ここは堺屋の店です。勝手な真似は許しません』
男達の一人が小梅を見る。
『何だ? おい! ここに女がいるぞ』
小梅の目が鋭くなる。
『何をするのです! さっさとここから退きなさい!』
『邪魔だ!』
男が棍棒を振り上げる。
小梅は一歩踏み込み、その攻撃を避けると同時に自らの棍棒を振るった。
ゴッ!
男が床へ倒れる。
二人目が横から襲い掛かる。
小梅は身体を捻ってかわし、その勢いのまま相手の脇腹へ打ち込んだ。
さらに三人目。
四人目。
小梅は店の入口と棚の位置を利用し、一度に大勢から囲まれないよう動き続けた。
賊達は次々と襲い掛かるが、小梅の棍棒は正確に相手の腕や足を捉えていく。
ガンッ!
一人の武器が弾き飛ばされる。
カランッ。
床を転がった武器を踏み越え、小梅は次の相手へ向かった。
『この私が叩き出してさしあげましょう』
しかし、相手は三十人。
小梅が一人倒しても、すぐに次が来る。
それでも小梅は退かなかった。
三人、七人、十人。そして十四人を超えた頃には、店内の床へ何人もの賊が倒れていた。
だが同時に、小梅の身体にも疲労が蓄積していた。
呼吸は荒くなり、棍棒を握る腕も重くなっている。
それを見た賊達は戦い方を変えた。
『一人ずつ行くな!』
『囲め!』
残った男達が一斉に広がった。
小梅は後退しながら棍棒を構える。
一人が正面から飛び込む。
小梅は棍棒で受ける。
その瞬間、横から別の男が腕へ掴み掛かった。
『っ!』
小梅は振りほどこうとするが、反対側からも男が来る。
右腕を掴まれる。
左肩へ別の手が掛かる。
『放しなさい!』
小梅が身体を捻り、一人を振り払う。
しかし、すぐに別の男が代わった。
『押さえろ!』
『棍棒を奪え!』
何人もの男達が一斉に小梅へ殺到する。
小梅はなおも抵抗した。
足を払い、肘を当て、身体を捻る。
だが十四人以上を倒した後の身体では、もう最初のようには動けなかった。
ついに棍棒を持つ手を二人掛かりで押さえ込まれる。
『離して!』
棍棒が奪われる。
さらに両腕を左右から掴まれ、背後から両肩を押さえ込まれた。
『くっ……!』
小梅は力を込める。
動かない。
さらに男達が加わり、完全に身体の動きを封じる。
『はぁ……はぁ……』
小梅は悔しそうに唇を噛んだ。
それでも目だけは死んでいなかった。
『まだ……終わっていませんからね』
その時、支店員の一人が耐え切れず声を上げた。
『そのお方を放せ!』
賊達が振り返る。
『何だ?』
『そのお方が誰なのか分かっているのか!』
『誰だろうが関係ねえ』
『関係ある!』
支店員は叫んだ。
『そのお方は全ての堺屋を率いる巨星の一人、副総統、鷹司小梅様だ! 大旦那、総統である鷹司秀高様の奥方でもある!』
賊達の空気が変わった。
『……堺屋の大旦那の女房?』
『副総統だと?』
小梅は支店員を見る。
しかし、もう遅かった。
賊達は互いに顔を見合わせる。
『だったら、こいつを連れていけばいい』
『何?』
小梅の顔が強張る。
『金や商品なんかより使えるんじゃねえか?』
『頭に判断してもらおう』
『連れていくぞ』
『お断りします!』
小梅は再び身体を捻った。
しかし両腕も肩も押さえられている。
『大人しくしろ!』
『嫌です! 放しなさい!』
小梅は必死に抵抗する。
だが、今度は賊達も油断しなかった。
『縄を持ってこい!』
その言葉に、小梅の表情が変わった。
『……っ』
店内にいた賊の一人が縄を持ってくる。
小梅はさらに強く身体を捻った。
『やめなさい! 放して!』
だが、何人もの男達によって押さえ込まれた状態では逃れることができない。
小梅の両腕が背中側へ回される。
『離しなさい!』
両手首が背後で揃えられ、縄が掛けられた。
小梅は何度も手を動かそうとするが、縄は手首の自由を奪っていく。
やがて結び終えた男が縄を確認した。
『これで逃げられねえ』
『……こんなことをして、ただで済むと思わないでください』
小梅は荒い呼吸を整えながら賊達を睨んだ。
『秀高様が戻ってきたら……あなた達、こんなものでは済みませんよ』
しかし賊達は小梅を解放しなかった。
その光景を、支店長と従業員達はただ見ていることしかできなかった。
自分達の目の前で、副総統である小梅が賊達に押さえ込まれ、両腕を背後へ回されて縄を掛けられている。
助けなければならない。
そう思っても身体が動かない。
すでに何人もの従業員が負傷しており、まだ動ける者達も武器を持った賊達に囲まれている。
支店長が拳を震わせた。
『小梅様……』
その声には、自分達を守るために戦った小梅を助けることのできない悔しさが滲んでいた。
従業員達も同じだった。
十四人以上を相手に倒し続け、それでも最後には多勢に押さえ込まれた小梅。その姿を目の前にしながら、誰一人として手を差し伸べることができない。
そして店の奥では、弥三郎と又六郎もその光景を見ていた。
支店員達に止められながら、二人は廊下の陰から小梅を見つめている。
弥三郎は拳を強く握り締めていた。
『義姉様……』
又六郎も唇を噛み締める。
『どうして……』
二人とも飛び出したかった。
自分達も小梅を助けたい。
だが、今ここで出ていけばどうなるのかは分かっている。
自分達を守るために小梅が戦ったことも分かっていた。
だからこそ動けなかった。
そのことが、二人には何より悔しかった。
小梅が二人の存在に気付いた。
視線が重なる。
弥三郎が一歩前へ出ようとする。
小梅はすぐに首を横へ振った。
来てはいけない。
声に出さなくても、その意味は伝わった。
弥三郎の足が止まる。
小梅は又六郎にも視線を向け、そして二人へ僅かに笑ってみせた。
自分は大丈夫だから、そこにいなさい。
そう伝えるように。
『行くぞ』
賊が小梅の腕を掴む。
支店長が思わず前へ出た。
『待て! 小梅様をどこへ連れていくつもりだ!』
すぐに棍棒を持った賊が立ちはだかった。
『動くな』
『小梅様を放せ!』
『次に動いたら、お前から叩きのめすぞ』
小梅の表情が変わった。
『やめなさい!』
賊が小梅を見る。
『だったら大人しく来い』
小梅は男を睨みつけた。
悔しい。
このまま連れていかれることなど絶対に嫌だった。
だが、ここで自分が抵抗を続ければ、支店の者達へ再び危害が及ぶ。
小梅は唇を噛み、やがて力を抜いた。
『……分かりました』
『副総統!』
『皆さんは動かないでください』
小梅は支店長と従業員達を見た。
『怪我をしている人達の手当てを。それから……弥三郎と又六郎をお願いします』
『しかし、小梅様!』
『お願いします』
支店長は何も答えられなかった。
ただ、深く頭を下げる。
『……必ず』
小梅はそれを確認すると、前を向いた。
賊達に囲まれ、背後で両手首を拘束されたまま、支店の入口へ向かって歩かされていく。
誰も止められなかった。
支店長も。
従業員達も。
弥三郎も。
又六郎も。
ただ、小梅が連れ去られていく姿を見ることしかできなかった。
入口を越える直前、小梅は一度だけ振り返った。
荒らされた支店。
傷付いた従業員達。
悔しさを押し殺している支店長。
そして、その奥にいる弥三郎と又六郎。
小梅は何も言わなかった。
そのまま前を向き、賊達に連れられて支店の外へ出た。
やがて、小梅を囲んだ賊達の姿は通りの向こうへ消えていった。
支店に残された者達は、しばらく誰も言葉を発することができなかった。
弥三郎は小梅が消えた入口を見つめたまま、握り締めた拳を震わせている。
又六郎も俯き、涙を堪えていた。
そして支店長は、荒らされた店の中央で立ち尽くしながら、ただ一つのことを願っていた。
一刻も早く、総統が戻ってきてくれることを。
その頃、小梅を連れ去った賊達は、町外れにある自分達の拠点へ向かっていた。
そして何も知らない秀高もまた、市場の視察を終え、堺屋高山国支店への帰路へ着こうとしていた。
小梅が連れ去られてから、しばらくの時間が過ぎた。
荒らされた堺屋高山国支店では、ようやく負傷者の手当てが始まっていた。
倒された棚を起こす余裕などない。床には割れた器や散乱した商品が残り、入口の戸も大きく壊されている。十四人以上もの賊が小梅によって倒されたとはいえ、残った者達によって店内は荒らされ、従業員の中にも怪我を負った者が出ていた。
それでも、支店長が最初に命じたのは商品の確認ではなかった。
『商品は後でよい! 怪我人を先に運べ!』
『はい!』
『動ける者は手当てを手伝え! それから外へ出るな! 奴らが戻ってくるかもしれん!』
従業員達が動き始める。
その一方で、支店長は何度も入口へ目を向けていた。
小梅が連れ去られていった方向である。
追い掛けたい。
できることなら今すぐにでも追い掛けたい。
しかし、支店長にはそれができなかった。
小梅から託された言葉がある。
怪我をした者達の手当て。
そして、弥三郎と又六郎を守ること。
その二つを放り出して、自分まで無謀に飛び出すわけにはいかなかった。
店の奥では、弥三郎と又六郎が並んで座っていた。
二人とも怪我はしていない。
それこそが、小梅があれほど必死に戦った理由の一つでもあった。
だが、二人の表情は暗い。
弥三郎は俯いたまま、握り締めた拳を膝の上へ置いていた。
又六郎も何も話さない。
しばらくして、弥三郎が口を開いた。
『……俺達が、もっと強かったら』
又六郎が顔を上げる。
『弥三郎義兄上……』
『義姉様一人に戦わせなかった。義姉様が縛られて連れていかれるのを、見ているだけじゃなかった』
悔しさを押し殺した声だった。
又六郎も唇を噛む。
『私も……助けたかったです』
『俺だって助けたかった』
弥三郎の拳へさらに力が入る。
だが、その時だった。
『それは違います』
二人が顔を上げる。
そこには支店長が立っていた。
『小梅様は、お二人を守ろうとなされたのです』
『でも……』
『お二人が飛び出していれば、小梅様はさらに苦しい立場へ追い込まれていたでしょう』
支店長自身、言葉を口にしながら胸が痛んだ。
自分も同じだからである。
助けたかった。
それでも助けられなかった。
『小梅様が最後に我々へ命じられたことを覚えておられますか?』
弥三郎は黙って頷いた。
怪我人の手当て。
そして自分達を頼むという言葉。
『ならば、今は小梅様のお言葉に従うことこそ、我々がすべきことでございます』
弥三郎は俯いた。
納得できたわけではない。
悔しさが消えたわけでもない。
だが、小梅が自分達を守るために戦ったことは理解している。
『……はい』
小さく答えた。
その時、店先から声が響いた。
『総統!』
支店長が勢いよく振り返った。
弥三郎と又六郎も同時に立ち上がる。
『大旦那がお戻りになったぞ!』
支店の空気が一変した。
壊された入口の向こうから、数人の護衛を伴った秀高が姿を現す。
「.........」
秀高の足が止まった。
市場へ出る前とは、まるで違う。
壊された戸。
倒れた棚。
散乱した商品。
血を滲ませながら手当てを受けている従業員。
そして、何より。
いるはずの人物がいない。
秀高の表情から感情が消えた。
「……何があった」
低い声だった。
支店長が秀高の前へ進み出る。
『総統……』
秀高は店内を見渡した。
「……小梅は?」
誰も答えない。
その沈黙だけで、秀高の胸に嫌な予感が広がった。
「小梅はどこだ」
支店長の顔が歪む。
『申し訳……ございません……』
「答えろ」
怒鳴ってはいない。
だが、その一言だけで周囲の空気が張り詰めた。
支店長は深く頭を下げた。
『小梅様は……賊達に連れ去られました』
秀高の目が見開かれた。
「……何?」
『総統がお出掛けになられた後、武装した賊およそ三十人が支店へ押し入りました』
支店長は震えそうになる声を必死に抑えながら、起きたことを説明していった。
小梅が従業員達と弥三郎、又六郎を奥へ逃がそうとしたこと。
支店に置かれていた棍棒を手に、自ら賊達の前へ立ったこと。
そして一人で十四人以上を倒したこと。
秀高は黙って聞いていた。
『しかし、最後には残った賊達が一斉に小梅様へ襲い掛かり……我々の目の前で押さえ込まれました』
支店長の声が詰まる。
『そして……縄を掛けられ、そのまま連れ去られました』
秀高の右手が強く握られた。
「……縛られたのか」
『はい』
支店長は頭を下げたまま答えた。
『我々は……何もできませんでした。小梅様が目の前で縛られているというのに……お助けすることすら……』
「顔を上げろ」
支店長がゆっくり顔を上げる。
秀高は怒っていた。
だが、その怒りは支店長へ向けられてはいない。
「お前達が生きているということは、小梅が守ったということだ」
『総統……』
「なら、その命を無駄にするな」
秀高は負傷した従業員達を見る。
「怪我人の手当てを続けろ。重傷者がいるなら医者を呼べ。商品は後回しでいい」
『はい!』
「それから、店内を必要以上に片付けるな」
支店長が僅かに驚く。
「奴らが何をしたのか分かるものは、そのまま残せ。後で使える」
『承知いたしました』
秀高は静かに息を吐いた。
「(落ち着け)」
今すぐ刀を抜いて飛び出したいほどの怒りが腹の底にある。
小梅が襲われた。
十四人以上もの相手を倒すまで戦い、それでも最後には大勢に押さえ込まれ、縄を掛けられて連れ去られた。
想像しただけで頭に血が上りそうになる。
だが、感情のまま動けば小梅を危険に晒す。
「(最優先は小梅の救出だ)」
敵への報復でもない。
店の損害でもない。
まず小梅を生きて連れ戻す。
それだけだった。
『義兄上!』
秀高が振り返る。
弥三郎と又六郎が駆け寄ってきた。
『義兄上……義姉様が……!』
弥三郎はそれ以上言葉を続けられなかった。
又六郎も目に涙を浮かべている。
秀高は二人の前へ膝をついた。
「怪我は?」
『ありません』
『私もありません』
「そうか」
秀高は短く息を吐いた。
二人が無事だったことだけは救いだった。
弥三郎が俯く。
『義兄上……申し訳ありません』
「何がだ」
『俺は……義姉様を助けられませんでした』
秀高は弥三郎を見る。
『目の前で義姉様が捕まって……縛られて……それなのに俺は……』
「弥三郎」
秀高が言葉を遮った。
「小梅がお前達を奥へ行かせたんだな?」
『……はい』
「なら、お前が謝ることじゃない」
『でも!』
「お前達が飛び出して捕まっていたら、小梅はどうしたと思う?」
弥三郎が黙る。
答えは分かっていた。
自分達を助けようとしただろう。
「小梅はお前達を守った。そして、お前達は小梅の言葉に従った。それでいい」
秀高は立ち上がった。
そして二人へ言った。
「小梅は俺が必ず連れ戻す」
弥三郎と又六郎が顔を上げる。
「だから、お前達はここにいろ」
『義兄上……』
「戻ってくる。大丈夫だ」
秀高の声には迷いがなかった。
「小梅は......俺が連れて帰る」
弥三郎はしばらく秀高を見つめ、やがて強く頷いた。
『……はい!』
又六郎も涙を拭った。
『義姉様を……お願いします』
「ああ」
秀高は支店長へ向き直る。
「奴らが小梅を連れていった方向は?」
『北西です』
「見た者はいるか?」
『おります。数名が、通りの先まで確認しております』
「呼べ」
すぐに従業員が呼ばれた。
秀高は一人ずつ話を聞いていく。
どの道へ向かったか。
何人ほど残っていたか。
どのような武器を持っていたか。
負傷していた者はいたか。
小梅をどのように連れていったか。
証言を重ねるうちに、進路が絞られていく。
『町の北西には、使われなくなった古い倉庫が集まっている一帯があります』
現地事情に詳しい支店員が答えた。
「古い倉庫?」
『はい。港が拡張される以前に使われていた建物が多く、今では人もほとんど寄り付きません』
秀高の目が細くなる。
「賊が潜むには都合がいいな」
『私もそう思います』
「分かった」
秀高は即座に決断した。
「近衛を集めろ」
護衛が姿勢を正す。
『何人でございますか』
「十人」
『はっ!』
秀高直轄近衛部隊員十人。
全員が武装を整え、ほどなく支店の前へ集結した。
彼らは堺屋の用心棒ではない。
秀高自身が選び、鍛え上げてきた直属の者達である。
秀高はその前へ立った。
「目的は一つ」
十人の視線が集まる。
「小梅を救出する」
誰一人として声を上げない。
だが、全員の表情が引き締まった。
「相手は少なくとも三十人規模。そのうち十四人以上は小梅が倒しているが、動ける者が何人残っているかは分からない。増援がいる可能性もある」
秀高は腰の刀へ手を添えた。
「小梅の安全を最優先する。敵を倒すことを目的にするな。道を開き、小梅を確保することだけを考えろ」
『はっ!』
十人の声が揃った。
秀高は支店長を見る。
「ここを頼む」
『承知いたしました』
弥三郎と又六郎も入口に立っている。
秀高は二人へ一度だけ頷いた。
そして踵を返した。
「行くぞ」
『はっ!』
秀高と十人の近衛が走り出す。
向かう先は町の北西にある人の少ない古い倉庫街。
そのどこかに、小梅がいる。
秀高の表情は静かだった。
だが、その内側では激しい怒りが燃えていた。
「(待ってろ、小梅)」
歩みは止めない。
「(必ず俺が見つける)」
一方、その頃。
秀高が支店を飛び出したことなど知る由もなく、小梅は賊達に囲まれたまま町外れへ連れていかれていた。
背後で両手首を拘束された状態では、先ほどまでのように棍棒を振るうこともできない。
周囲には何人もの賊がいる。
小梅は一度だけ立ち止まろうとしたが、すぐに腕を引かれた。
『止まるな』
『引っ張らないでください。自分で歩けます』
『だったら大人しく歩け』
小梅は男を睨んだ。
『好きであなた達について行っているわけではありません』
『口の減らねえ女だな』
『あなた達に好かれようとも思っていませんから』
小梅はそれ以上言葉を続けなかった。
今ここで賊を挑発しても、支店から遠ざかるだけで状況は良くならない。
ただ、胸の奥には一つだけ確信があった。
秀高は戻ってくる。
そして、自分がいないと知る。
『(秀高様……)』
その名前を思い浮かべる。
怖くないと言えば嘘になる。
どこへ連れていかれるのか。
これから何をされるのか。
小梅にも分からない。
それでも、俯くことだけはしなかった。
やがて一行は人通りの少ない一帯へ入った。
町の賑わいが遠ざかり、古びた建物が増えていく。
その中でも特に大きな建物の前で、賊達が足を止めた。
『着いたぞ』
小梅が顔を上げる。
古い倉庫を改造したような建物だった。
入口には見張りらしき男達がいる。
その一人が、小梅を見て眉を上げた。
『誰だ、その女』
『堺屋から連れてきた』
『堺屋?』
『ただの店員じゃねえ。副総統だ』
男の表情が変わる。
『副総統?』
『しかも大旦那の女房らしい』
見張りが小梅をまじまじと見る。
小梅は不快そうに眉を寄せた。
『じろじろ見ないでください』
『……随分威勢がいいな』
『当然です。私はあなた達の客ではありませんから』
『頭のところへ連れていけ』
入口が開かれる。
小梅は賊達に囲まれたまま建物の中へ入った。
外の陽光が遠ざかり、薄暗い空間へ変わる。
何人もの男達の視線が小梅へ集まった。
その中を進み、さらに奥へ連れていかれる。
やがて一つの広い部屋へ辿り着いた。
『入れ』
背中を押される。
『押さないでください!』
小梅が振り返って睨む。
しかし次の瞬間、左右から腕を取られ、その場へ跪かされた。
『……っ!』
両肩を背後から押さえ込まれる。
背中側では、両手首を拘束している縄がまだ解かれていない。
それでも小梅は俯かなかった。
荒い呼吸を整えながら顔を上げる。
その視線の先。
部屋の奥では、一人の男が腰を下ろしていた。
周囲の賊達とは明らかに立場が違う。
この一団を率いる頭だった。
男は連れてこられた小梅をしばらく無言で見つめた後、部下へ視線を向けた。
『……その女が?』
『はい。堺屋高山国支店にいた女です』
『ただの女じゃありません。堺屋の副総統、鷹司小梅。それに、堺屋の大旦那――鷹司秀高の女房です』
頭の目が僅かに細くなった。
そして、小梅へ視線を戻す。
小梅もまた、正面からその男を睨み返した。
両手を縛られ、何人もの賊に囲まれ、逃げることのできない状況に置かれている。
それでも、その瞳から気丈さは失われていなかった。
『あなたが、この人達の頭ですか?』
男は答えず、ただ小梅を見た。
小梅は一歩も引かない。
その頃、秀高と十人の近衛もまた、小梅が連れ込まれた倉庫街へ向けて急いでいた。
小梅を連れ去った嵐。
そして、その小梅を取り戻すために動き始めた秀高。
高山国で起きた騒動は、もはや一つの支店だけの問題では終わろうとしていなかった。
嵐はさらに大きくなろうとしていた。




