第44話ー嵐を越えて、さらに南へー
琉球の島影が完全に見えなくなってから、二日ほどが過ぎていた。
旗艦「堺」を中心とする艦隊は、与那国方面へ向けて穏やかな海を進んでいる。
那覇の湊を出航した直後は、尚清王や月江王妃、東元宰、馬周明、そして堺屋琉球支店の者達との別れが秀高達の胸に残っていたが、長い海の上で過ごしているうちに、意識は自然と次の目的地へ向かい始めていた。
秀高は甲板から前方の海を眺めながら、琉球で過ごした日々を振り返っていた。何日も議論を重ねて堺・琉球修好通商条約を完成させ、調印を終え、その後には王国側との取引条件や堺屋琉球支店への引き継ぎまで行った。
小梅も王妃や王国の才媛達との交流を通じて得たものを支店へ託し、二人がいなくなった後も商いが続くように準備している。
あれほど慌ただしかった琉球滞在も、今では少しずつ旅の一場面へ変わり始めていた。
「琉球を出ると、また一気に旅へ戻った感じがするな」
隣に立つ小梅が海を見つめながら微笑む。
『そうですね。首里城にいる間は毎日のように人とお会いしていましたから、こうして海の上に戻ると少し不思議な感じがします』
「条約の策定から調印まであって、その後にお茶会、それから最後の引き継ぎだったからな。振り返ってみると、かなり濃い時間だった」
『でも、無事に終わってよかったです』
「ああ。後は支店と王国側の者達に任せればいい。俺達は次へ進める」
小梅は髪へ手を添えた。そこには今日も秀高から贈られた櫛と簪がある。
琉球で過ごした時間はまだ記憶の中に新しく、条約を作るために何度も議論したことも、王妃と二人で茶を飲んだことも、昨日のことのように思い出せる。
だが、旅は止まらない。琉球は今回の航海における一つの大きな目的地ではあったが、その先には与那国があり、そのさらに先には高山国が待っている。
『次は与那国ですね』
「ああ。そこで一度、艦隊の状態を確認して、必要なら修理と補給をする。高山国へ向かうのは、その後だ」
『長い旅は、まだ始まったばかりですね』
「そういうことだ」
少し離れた場所では、弥三郎と又六郎が海を眺めながら話していた。
琉球を出てからというもの、二人は以前よりも船員へ質問することが増えている。帆の張り方、船の進む方向、風向き、積み荷の置き方など、目に入ったものをただ珍しがるのではなく、その仕組みを知ろうとしていた。
『二人とも、琉球へ行く前より船のことに詳しくなってきましたね』
「ああ。見たものを覚えるだけじゃなく、自分で考えようとしているのが分かる」
『与那国では、また違うものを見ることになりますね』
「それでいい。違う土地へ行けば、今まで知らなかったことがまた出てくるからな」
その言葉を交わしながら、四人の乗る旗艦は静かな海を進み続けていた。
その日の午前までは、海は穏やかだった。一定の風が帆へ吹き込み、船員達も落ち着いて航海を続けている。
甲板では帆や索具の確認が行われ、船内では琉球で補給した食料や水、交易品が整理されていた。
与那国へ到着すれば、必要に応じて補給や修理を行う予定となっているため、航海士達も現在の進路や海流について入念に確認していた。
ところが、昼を過ぎた頃から空の様子が少しずつ変わった。水平線の向こうに広がっていた雲が次第に厚みを増し、風向きも安定しなくなっていく。
最初は誰もが少し天候が崩れる程度だと考えていたが、雲が近づくにつれて海面の表情まで変わり、先ほどまで一定だった波の向きが乱れ始めた。
航海士が空を確認しながら秀高のもとへやって来る。
『総統。前方の雲ですが、動きが早くなっています。風向きも安定しておりません』
秀高も空へ目を向ける。厚い雲が風に押されるように近づき、その下では海が徐々に暗くなっていた。
「念のため備える。艦隊全体へ伝えてくれ。速度を無理に上げる必要はない。帆の調整と荷物の固定を始めて、各船同士の距離にも注意するように」
『承知しました』
指示が各船へ伝わっていくと、甲板では船員達が一斉に動き始めた。
余分な帆を畳み、索具の状態を確認し、甲板に置かれていた道具や荷物を船内へ収める。
水や食料などの重要な物資も揺れで移動しないよう固定し直され、舵や帆柱についても異常がないか確認されていく。
まだ嵐になると決まったわけではない。それでも、海では何かが起きてから準備を始めるのでは遅い。船員達はこれまでの経験に従って、淡々と必要な準備を進めていた。
小梅は甲板の様子を眺めながら秀高へ近づいた。
『かなり準備していますね』
「ああ。まだ荒れると決まったわけじゃないけど、海は何が起きるか分からないからな」
『弥三郎と又六郎はどうしますか?』
「もう船内へ戻しておこう」
小梅が二人のもとへ向かうと、弥三郎は空を見上げ、又六郎も船員達の動きを気にしていた。
『二人とも、今日は甲板へ出るのを控えましょう。風が強くなっていますから』
『嵐になるのでしょうか?』
弥三郎が尋ねる。
『まだ分かりません。でも、船員の皆様が準備を始めていますから、二人も中へ入りましょう』
『分かりました』
又六郎は一度甲板を見回してから尋ねた。
『何か手伝えることはありますか?』
『今は船員の皆様の仕事を邪魔しないことが、一番のお手伝いですよ』
『なるほど』
二人は素直に船内へ戻っていった。その姿を見送った秀高が小さく笑う。
「前なら、無理にでも外へ残ろうとしたかもしれないな」
『そうですね。でも今は、自分達がいることで作業の邪魔になるかもしれないと考えたのでしょう』
「ああ。それも旅の中で学んだことだろうな」
空はさらに暗くなっていた。
夕方になると風は明らかに強くなり、それまで小さかった波も高さを増して船体を揺らし始めた。
厚い雲が空を覆い、太陽の姿は完全に消えている。甲板に吹き付ける風は次第に強さを増し、船員達が声を掛け合う声も大きくなっていった。
『帆、さらに絞ります!』
『索具、確認しました!』
『右舷側、異常ありません!』
旗艦「堺」からの指示に合わせ、他の船も一斉に帆を調整していく。秀高は艦隊全体の位置を確認しながら、航海士から送られてくる報告を聞いていた。
「後方の船は?」
『まだ視認できます。ただ、波を受けて少し速度が落ちています』
「無理に近づける必要はない。艦隊から離れすぎないよう注意してもらうだけでいい」
『承知しました』
「右手の船は?」
『あちらも帆を絞っています』
「よし。そのまま進める。ただし、船体が危険だと判断したら、すぐに速度を落とすよう伝えてくれ」
『承知しました』
直後、大きな波が船体へぶつかり、甲板へ大量の水しぶきが飛び込んできた。
船が大きく傾き、手すりや柱へ手を添えなければ立っていることも難しくなっていく。遠くでは別の船が波の斜面を上ったと思えば、その直後には船体の大部分が波の陰へ隠れ、しばらくして再び姿を見せていた。
秀高は荒れ狂う海と艦隊の船影を見ながら、状況を判断していく。嵐の中では旗艦だけを守ればいいわけではない。
一隻が大きく損傷すれば、その救援のために別の船まで危険に晒される可能性がある。だからこそ、全ての船がそれぞれ自分の船体を守りながら艦隊として離れすぎないようにする必要があった。
「速度を落として構わない。与那国への到着が遅れても問題ない。今は艦隊全体を守ることを最優先にする」
『承知しました!』
艦隊は予定の進路を維持しながら、荒れ狂う海を慎重に進んでいった。
夜になっても風雨は収まらなかった。甲板へ出ることは難しくなり、船員達は必要な作業以外では船内へ退避している。それでも舵を扱う者や、風向きや船体を確認する者、他の船の位置を確認する者は休むことができない。
秀高も何度か船内へ戻ろうとしたものの、結局は甲板へ出て状況を確認していた。そこへ小梅が近づく。
『秀高様。少し休んでください』
「ああ。でも、もう少し状況を見ておきたい」
『船員の皆さんが頑張ってくださっています』
「それは分かってる。ただ、指示を出す側が何も知らないわけにはいかないからな」
小梅は少し考え、静かに頷いた。
『では、私もここにいます』
「無理はするなよ」
『秀高様もです』
その直後、大きな波が船体を叩いた。船が大きく傾き、小梅の身体がふらつく。秀高がすぐに手を伸ばして支えた。
「大丈夫か?」
『はい。ありがとうございます』
「危ないから、無理に立たなくていいぞ」
『分かっています。それに、秀高様こそ気を付けてくださいね』
二人は手すりへ手を掛けながら、再び前方の海へ目を向けた。
船内では、弥三郎と又六郎が揺れに耐えていた。普段なら何かについて話している二人も、今は必要以上の声を出さず、船の状態を静かに感じ取ろうとしている。
しばらくして弥三郎が口を開いた。
『又六郎』
『何ですか?』
『大丈夫だと思うか?』
又六郎は少し考えてから答えた。
『義兄様達や船員の皆さんがいるから、大丈夫だと思います』
『そうだな』
大きく船が揺れ、二人は手すりへ手を掛ける。しばらくして弥三郎が静かに呟いた。
『薩摩から琉球へ来た時は、こんな海じゃなかったな』
『はい』
『海って、同じところでもこんなに変わるんだな』
又六郎は少し考えてから答えた。
『だから、船員の皆さんは空や風を見ているのかもしれません』
弥三郎は、その言葉を聞いて頷いた。
『そうかもしれないな』
嵐の中でも二人は、ただ不安に怯えるのではなく、目の前で起きていることから何かを学ぼうとしていた。
深夜を過ぎる頃から、風が少しずつ弱まり始めた。波はまだ高いものの、先ほどまで船体を激しく揺さぶっていた雨は勢いを失い、厚い雲の切れ間からわずかに星が見えるようになってきた。
航海士が空を確認し、秀高へ報告する。
『総統。嵐が抜け始めています』
秀高は空を見上げた。
「そうか」
けれど、すぐに表情を引き締める。
「まだ油断するな。波が収まるまでは今の体制を維持してくれ」
『承知しました』
夜明けまで、艦隊は慎重な航海を続けた。
翌朝、太陽が昇ると、荒れていた海にも少しずつ落ち着きが戻ってきた。風はまだ強いものの空には青い部分が戻り、水平線も見えるようになっている。秀高は甲板へ出ると、最初に艦隊全体の状況を確認した。
一隻、また一隻と船影が見える。数に不足はない。それだけで、秀高は胸の奥から安堵が込み上げるのを感じた。
『総統。全船、確認できました』
「損傷は?」
『帆の破損が複数、索具にも損傷があります。一部の船では外板の補修が必要です』
「航行不能な船は?」
『ありません』
「それなら良かった。与那国へ入ったら、修理できるものは全部直す。補給も予定より多めに確保しよう」
『承知しました』
小梅も甲板へ出てきた。
『皆さん、無事だったのですね』
「ああ。全船、残っている」
小梅は大きく息を吐いた。
『本当に良かったです』
そこへ弥三郎と又六郎も姿を見せる。
『義兄様、嵐はもう大丈夫ですか?』
「ああ。もう大丈夫だ」
弥三郎は周囲の船を見渡す。
『全部の船があります』
「そうだな」
又六郎も他の船の状態を確認するように目を向けた。
『昨日、船員の皆さんがずっと作業をしていました』
「それが船員の仕事だからな」
『でも、皆さんが守ってくれたから、全ての船が残ったんですよね』
「ああ。海では、自分の船だけを守ればいいわけじゃない。仲間の船も含めて、全員が次の港へ辿り着けるようにすることが大切なんだ」
『はい』
二人は真剣な表情で頷いた。
数時間後、艦隊は与那国へ近づいていた。水平線の向こうに島影が見え始め、船上では次の寄港に備えて準備が進められる。航海士から入港可能との報告を受けると、秀高はすぐに指示を出した。
「入港したら、まず全船の損傷確認。その後、補給と修理に入る。修理の必要がある船は優先順位を決めて作業してくれ。それから、堺屋与那国支店にも連絡しておいてくれ。俺も到着したらすぐに向かう」
『承知しました』
与那国の港へ艦隊が姿を見せると、港にいた人々が次々と海へ目を向けた。大きな船が一隻だけではなく、複数の船がまとまって入港してくる上、その船体や帆の一部には嵐による損傷が見える。それでも各船は乱れることなく順番に港へ入り、指定された場所へ係留されていった。
係留を終えると、すぐに修理を担当する者達がそれぞれの船へ向かい、帆、索具、甲板、外板、船底などを一つずつ確認していく。嵐によってどこに負担が掛かったのかを調べ、修理に必要な物資をまとめながら作業の順番を決めていった。
秀高はその様子を確認した後、堺屋与那国支店へ向かった。那覇の支店ほど大きな建物ではないものの、与那国での商いを続けるために必要な規模と設備は整えられており、店内には島で生産される品物や周辺地域から運ばれてきた商品が並び、帳場には取引の記録が積み重ねられていた。
秀高が店内へ入ると、支店の責任者がすぐに出迎える。
『総統様。ようこそお越しくださいました』
「急な寄港になった」
『嵐のことは伺っております。船の修理と補給については、できる限り早く準備いたします』
「頼む。食料、水、補修用の木材、帆布、索具、それから今後の航海に必要になる予備物資も確認してくれ。ただし、急ぐからといって修理を雑にするな。高山国までの航海を考えて、本当に必要なところはきちんと直しておきたい」
『承知しております』
秀高は支店の帳簿へ目を向ける。
「最近の取引状況はどうだ?」
『少しずつですが、取引は増えております。島内で扱われる農産物や海産物に加え、周辺の島々から集まってくる品もございます。まだ大きな規模ではありませんが、今回の寄港をきっかけに、もう少し取引の幅を広げられる可能性はあると思います』
「その話を後で詳しく聞かせてくれ」
『承知しました』
船の修理が進む間、秀高達は久しぶりに陸地でまとまった時間を過ごすことになった。嵐の直後ということもあり、艦隊の修理が終わるまでは無理に航海を急ぐ必要がない。秀高自身も連日の緊張から少し身体を休める必要があり、小梅も同じだった。
『秀高様。艦隊の修理が終わるまで、少しゆっくりしてはいかがですか?』
「ああ。俺もそのつもりだ」
『それなら、弥三郎と又六郎の勉強もできますね』
「琉球で見たものを一度整理するには、ちょうどいい」
二人の少年も、その話を聞いて頷いていた。
翌朝、小梅は弥三郎と又六郎の前へ紙と筆を置いた。
『今日は、琉球で見てきたものを復習しましょう。ただ、見たものを書くだけではありません。何を見て、何を思ったのか、そして、そこから何を考えたのかまで書いてください』
弥三郎と又六郎は、それぞれ筆を取った。弥三郎が最初に書いたのは那覇港のことだった。
『色々な船が集まっていたことです』
『どうして、それが印象に残ったのですか?』
『日ノ本では見たことのない船がいたからです。それに、いろいろな国の商人が同じ場所で取引をしていました』
『では、どうして琉球に色々な国の商人が集まるのでしょう?』
弥三郎は筆を止めてしばらく考え、やがてゆっくりと書き始めた。
『色々な国へ行く途中にあるから……でしょうか』
小梅が頷く。
『よく考えましたね。それなら、琉球がその場所にあることで、どのような商いが生まれているのかも考えてみましょう』
『はい』
弥三郎は再び筆を動かした。
又六郎は、人々の暮らしについて考えていた。
『日ノ本と同じように農作物を作っているのに、町の様子が違っていたことが印象に残りました』
『どうして違うのだと思いますか?』
又六郎はしばらく考えた後に答える。
『土地や気候が違うからでしょうか』
『それも理由の一つでしょう。では、その違いが衣装や食べ物、暮らし方にどう繋がっているのかを考えてみてください』
『分かりました』
そこへ秀高が様子を見に来た。
「どうだ?」
『義兄様。琉球と日ノ本の違いについて考えています』
秀高は二人の書いた紙へ目を通した。
「いいな。ただ違うと覚えるだけじゃなくて、なぜ違うのかを考える。それを続けると、次の土地へ行った時にも役に立つ。今は答えが間違っていても構わない。大事なのは、自分で考えることだ」
『承知しました』
午後になると、小梅は二人を連れて与那国の町を見て歩いた。琉球本島とは異なる町並み、土地の使われ方、島で暮らす人々の生活、港へ集まる船、堺屋与那国支店を行き交う商人達を見ながら、二人は興味を持ったことを一つずつ尋ねていく。
弥三郎が農地へ目を向ける。
『義姉様。あちらの農地は、琉球本島で見たものと少し違いますね。土地の違いで作るものも変わるのでしょうか?』
『よく見ていますね。きっと、それも関係しているのでしょう。戻ったら支店の方にも聞いてみましょう』
『はい』
その一方で、又六郎は港に停泊している船へ目を向けていた。
『あの船、荷物の積み方が昨日見た船と違います』
『何が違いますか?』
『こちらの船は重い物を下に積んでいますが、あちらは違います』
小梅は微笑む。
『どうして違うのでしょうね』
『それを船員の方へ聞いてみたいです』
『では、後で聞いてみましょう』
二人は以前よりも積極的に質問するようになっていた。琉球で身に付けた「なぜ」という考え方が、少しずつ二人の中へ根付き始めていることが分かる。
その日の夕方、秀高のもとへ与那国の豪族から会談の申し入れがあった。堺艦隊がこれほど大きな規模で寄港した以上、島の有力者が関心を持つのも不思議ではない。秀高は堺屋与那国支店の責任者を伴って会談の場へ向かった。
待っていた豪族は、まず今回の寄港について尋ねた。
『これほど大きな船団が与那国へ来るとは、正直驚きました』
「嵐で予定より長く滞在することになった。ただ、船の修理だけをして出るつもりもない。せっかく与那国まで来たんだから、こちらでどのような商いが行われているのか知りたいと思っている」
『与那国では、それほど大きな商いは行われておりません。ですが、島で取れるものや、周辺の島々から集まる品はございます』
豪族は島で扱われている農産物や海産物、織物、工芸品などについて説明を始めた。さらに、周辺の島々との間で行われている小規模な交易についても話が続く。秀高は一つ一つの話を聞きながら、堺屋が扱える可能性のある商品を頭の中で整理していった。
「それなら、堺屋でも扱えるものがありそうだな」
『本当ですか?』
「ああ。ただし、最初から大量に買い付けるつもりはない。まずは少量で取引を始めて、品質や数量が安定しているか確認したい」
『それで構いません』
「取引が安定すれば、将来的には与那国から琉球や堺へ商品を流すことも考えられる。ここを単なる寄港地ではなく、商いの中継地点として活用できる可能性もある」
豪族の表情が変わった。
『そこまで大きな商いを考えておられるのですか』
「堺屋は、一度商売を始めた場所とは長く付き合いたいと思っている。与那国にもその可能性があるなら、少しずつ広げていきたい」
『我らにとっても有り難い話です』
「ただし、無理に広げることはしない。品質、数量、価格、それぞれが安定してから次へ進む」
『分かりました』
話し合いの最後には、堺屋与那国支店が島内の取引状況をさらに調べ、今後扱える商品について双方で情報交換を続けることが決まった。琉球王国との条約のような大きな外交関係ではない。それでも、今回の会談は与那国との商いを新たに広げるきっかけになった。
それから数日が過ぎた。
艦隊の修理は順調に進み、嵐によって破損した帆が修繕され、傷んだ索具は交換され、一部の船では外板の補修も行われた。船底の状態も確認され、次の航海に必要な箇所は入念に点検されている。補給も進められ、食料や水だけでなく、帆布、木材、索具など、高山国までの航海中に必要となる可能性のある物資も積み込まれていった。
秀高は毎日、修理の進み具合を確認した。船員達から報告を受けるたびに必要な箇所を自分の目で確認し、修理が完了した船については高山国まで安全に航行できるかを改めて確認する。艦隊全体の安全を守るため、少しでも不安があれば作業をやり直させた。
その間、小梅も堺屋与那国支店の者達と今後の商いについて話し合いながら、弥三郎と又六郎の勉学を続けていた。二人は午前中に机へ向かい、午後には与那国の町や港を見て歩く。琉球で見たものと与那国で見たものを比べ、違いがあれば、その理由を考える。すぐに答えが出ない時には支店の者や船員へ質問し、得た答えをまた自分達の中で整理していく。
そうして過ごしているうちに、嵐による疲れも少しずつ癒えていった。
ある日の夕方。
艦隊の責任者から、ついに修理完了の報告が届いた。
『総統。主要な修理は全て完了しました。補給も予定数を確保しております』
「各船の最終確認は?」
『全て済んでおります。航行に問題はありません』
「よし。では、明朝、高山国へ向けて出港する」
『承知しました』
与那国での滞在は、嵐によって予定より長くなった。しかし、その時間を無駄にすることなく船を整え、補給を済ませ、さらに島との取引関係まで広げることができた。弥三郎と又六郎にとっても、新しい土地を見て学ぶための貴重な時間となっている。
予定通りに進まなかったからこそ得られたものもある。
秀高は、そのことを実感していた。
翌朝。
与那国の港には、再び堺艦隊が並んでいた。修理を終えた船体は整えられ、新しく交換された帆や索具も取り付けられている。船内には食料や水が積み込まれ、必要な補修材も予備として用意された。堺屋与那国支店の者達も港へ見送りに来ている。
『総統。今回の寄港、本当にありがとうございました』
「こちらこそ。船の修理と補給を手伝ってくれて助かった」
『豪族との取引についても、今後はこちらで話を進めて参ります』
「頼む。最初から大きく広げる必要はない。品質と数量を確認しながら、少しずつ進めてくれ。それから、今回新しく得た情報は堺にも送ってくれ。与那国との取引が今後どう広がるか、堺側でも判断できるようにしておきたい」
『承知しました』
「また来ることもあるだろう。その時には、さらに良い報告を聞かせてくれ」
『お任せください』
秀高は最後に支店の責任者へ頷いた。
出港の時間が来る。
船員達がそれぞれの持ち場へ戻り、帆を上げる作業が始まった。風を受けた帆が大きく膨らみ、固定されていた綱が外されると、旗艦「堺」の船体がゆっくりと港から離れていく。それに続いて他の船も順番に動き始め、与那国の港から艦隊が少しずつ離れていった。
秀高は船尾へ目を向けた。嵐に遭遇し、船を修理し、補給を行い、さらに与那国の豪族とも会談した短い滞在だったが、ここで得たものは決して少なくない。
「よし。高山国へ向かうぞ」
船員達から返事が響き、旗艦「堺」を先頭に艦隊は再び海へ出た。
高山国へ向かう海の上では、与那国の島影が遠ざかるにつれて、再び見渡す限りの海が広がっていった。
甲板では弥三郎と又六郎が並んで海を眺めている。その姿は、琉球へ向かっていた頃とは明らかに違っていた。以前なら初めて見るものに驚き、「珍しい」「大きい」と感じたところで終わっていた二人が、今ではその先にある理由まで考えるようになっている。なぜこの港に船が集まるのか、なぜこの土地ではその作物が作られているのか、なぜ人々の衣装が違うのか、なぜ船によって荷物の積み方が異なるのか。琉球と与那国で見たものを比べながら、新しい疑問を自分達で見つけ始めていた。
小梅は少し離れた場所から二人を眺めていた。
『二人とも、本当に変わりましたね』
秀高も頷く。
「ああ。琉球へ行く前は、何を見てもまず驚いていた。それが今は、驚いた後に考えるようになった」
『与那国でも、自分から質問するようになりました』
「それが大事なんだ。旅で一番大切なのは、知識を増やすことだけじゃない。自分で見て、自分で考えて、自分で確かめようとすることだからな」
『はい』
小梅は嬉しそうに微笑んだ。
しばらくすると、弥三郎が秀高のもとへ歩いてきた。
『義兄様』
「どうした?」
『高山国では、どんなことに気を付けて見ればいいでしょうか?』
秀高は少し考えた後に答えた。
「まず、自分が興味を持ったものを見ることだ。誰かに『これを見ろ』と言われたものだけを見る必要はない。ただ、琉球や与那国と比べてみるといい。同じところと違うところを探して、違いがあれば、その理由を考える」
『分かりました』
又六郎も近づいてきた。
『某は、高山国の港を見てみたいと思います』
「どうしてだ?」
『琉球と与那国では、港の役割が違って見えました。高山国ではどうなのか、自分の目で確かめたいです』
秀高は笑った。
「いいじゃないか」
小梅も嬉しそうに頷いた。
『自分から比較しようとしているのですね』
『はい、義姉様』
二人の返事を聞きながら、秀高は満足そうに笑った。
弥三郎と又六郎は、その後も甲板から海を眺めていた。弥三郎は航海士が進路を確認する様子を遠くから眺め、又六郎は船員達の仕事を見ながら、与那国で聞いたことと照らし合わせているようだった。二人とも、もう「見せてもらう」だけではない。「自分から見る」ようになっている。
小梅は二人の姿を見守りながら、静かに口を開いた。
『この旅が終わる頃には、もっと大きく変わっていそうですね』
「ああ。二人自身は、まだ気づいていないかもしれないけどな」
『きっと、そうでしょうね』
「土佐から弥三郎が加わって、薩摩から又六郎が加わった。あの頃は二人とも、まだ外の世を見ることそのものが珍しかった」
『今では、その世界の中へ自分から入っていこうとしています』
「ああ」
秀高は二人の姿を見ながら、穏やかに笑った。
琉球で一つの文化を見て、与那国でまた別の土地を見た。そして次は高山国へ向かう。そこではさらに違う人々や暮らしが待っているだろう。その経験が二人をどう変えていくのか、秀高も小梅も、今ではそれを楽しみにするようになっていた。
夕方になる頃には、与那国の島影も完全に見えなくなっていた。後方にはもう何もなく、前方にもまだ高山国の姿はない。ただ長い海が続いている。それでも艦隊は確実に前へ進んでいた。
琉球では条約を結び、与那国では嵐を越え、船を修理し、新しい商いの可能性を見つけた。それぞれの土地で得た経験が、次の目的地へ持ち込まれていく。
小梅が秀高の隣へ並ぶ。
『この先も、色々ありそうですね』
「ああ」
『楽しみです』
「俺もだ」
二人は微笑んだ。
しばらくして、弥三郎と又六郎が再び二人のもとへやってきた。
『義兄様、義姉様』
「どうした?」
『高山国へ着いたら、まず港を見たいです』
弥三郎がそう言う。
『私は町と人々の暮らしを見てみたいです』
又六郎が続ける。
秀高は二人の顔を見ながら笑った。
「なら、まず自分達で見てみるといい。その後で俺達に話してくれ」
『はい』
『承知しました』
「ただし、勝手にどこかへ行くなよ」
『分かっています、義兄様』
小梅がくすりと笑う。
『二人とも、そこだけは忘れないようにしてくださいね』
『『はい、義姉様』』
四人の間に穏やかな笑いが広がった。
夜になると、甲板には静かな風が吹いていた。船員達はそれぞれの持ち場で仕事を続け、海面には月の光が細く伸びている。後方にはもう与那国の姿はなく、前方にはまだ高山国が見えない。それでも旗艦「堺」は確実に目的地へ近づいていた。
秀高と小梅は並んで海を見つめている。
『与那国では、思いがけず色々なことがありましたね』
「ああ。嵐は余計だったけどな」
『でも、そのおかげで船をしっかり整えることができましたし、新しい取引の可能性も見つかりました』
「弥三郎と又六郎にとっても、良い経験になった」
『はい』
秀高は前方の暗い海を見つめた。
「高山国でも、また色々なものを見せてやろう」
『そうですね』
やがて甲板の向こうから、弥三郎と又六郎の声が聞こえてくる。まだ見ぬ高山国について話しているのだろう。その声を聞きながら、小梅は微笑み、秀高も前方の海へ視線を戻した。
琉球で築いたものを胸に、与那国で得た経験を携え、そして弥三郎と又六郎の成長を見守りながら、旗艦「堺」は高山国へ向けて静かな夜の海を進み続けていた。その先には、まだ誰も見たことのない新たな土地が待っている。
長い航海は、また新たな段階へ進もうとしていた。




