第43話ーさらに南へー
それから数日が過ぎた。
琉球王国での滞在も、いよいよ終わりに近づいていた。堺・琉球修好通商条約の調印を終えた首里城では、これまで続いていた緊張感もすっかり和らぎ、調印式で使用された文書や道具、宴席で用いられた器なども順番に片付けられている。昨日行われた衣装着比べお茶会のために用意された道具や衣装も整理され、王国の日常は少しずつ以前の姿を取り戻していた。
しかし、秀高と小梅にとっては、まだ琉球での仕事が終わったわけではなかった。条約が正式に成立したからこそ、その後の実務を滞りなく動かすための引き継ぎが必要になる。二人が琉球を離れた後も、王国側と堺屋側が同じ内容を理解し、堺屋琉球支店が自分達の判断で商いを続け、必要な時には王国側と円滑に連絡を取れるようにしておかなければならない。
そのため、残された日数は最後の引き継ぎと確認に充てられていた。
秀高は堺屋総統として交易、港湾、関税、支払い、連絡体制などの実務を整理し、小梅は副総統として昨日の衣装着比べお茶会で得た情報や、王妃、才媛達から寄せられた注文依頼をまとめていく。琉球を離れることそのものよりも、離れた後に何を残せるか。それが、この数日間の二人にとって最も重要な仕事だった。
堺屋琉球支店。
朝の支店には、いつもと変わらぬ商いの光景が広がっていた。店先では商人達が商品の確認をしながら話を交わし、倉庫では琉球から届いた農産物や織物、工芸品などの仕分けが進められている。帳場では商品の数量や代金が記録され、港から届いた船の情報も順番に帳簿へ書き加えられていた。
その一方で、支店の奥にある打合せ部屋には、普段よりも多くの資料が並べられている。琉球から堺へ運ぶ商品、堺から琉球へ供給する物資、それぞれの価格や数量、輸送費、関税、港湾利用、荷役、支払い方法、王国側との連絡体制まで、今回の滞在中に決められた内容が一つにまとめられていた。
秀高は支店の責任者達と向かい合い、資料を一つずつ確認していた。
「俺達が琉球を離れた後も、基本的な取引は支店で判断して進めてくれ。今回の条約と細則、それからこれまでの取引実績を基準にすれば、多くの案件はここで処理できるはずだ」
『承知しております、総統』
「ただし、条約そのものに関わる問題や、両国の関係に影響するような大きな案件については、支店だけで判断する必要はない。そういう時は堺へ報告してくれ。堺の三役には条約と細則の内容については既に伝える船を出している」
『はい』
秀高は帳簿へ目を落としながら、これまでの取引状況を改めて確認していった。琉球から仕入れている農産物や乾物、海産物には安定した需要があり、織物や工芸品については、今後さらに取扱量を増やせる可能性がある。一方で、堺から供給している農具や鉄製品については、王国側が継続して購入できる価格を維持する必要がある。単純に取引量を増やせばよいのではなく、琉球側の生産量、堺屋側の仕入れ能力、輸送費、関税、販売価格まで考えなければ、長く続く商いにはならない。
「この織物は、堺側からの問い合わせが増えているな」
『はい。ただ、生産量そのものがそれほど多くありませんので、大量に仕入れるのは難しいかと』
秀高は資料へ目を通した。そこには琉球独特の色彩や文様だけでなく、生産量や仕入れ価格、現在の取引量まで記載されている。
「なら、最初から大量に仕入れる必要はない。まず少量を堺へ送って市場の反応を見るんだ。実際にどの程度の価格なら売れるのか、商人達がどのような仕立て方を望むのかまで確認して、それから次の仕入れ量を決めよう」
『承知しました』
「品質についても確認してくれ。琉球で高く評価されている商品でも、日ノ本へ持っていけば違った評価になることもある。実際に仕立てる職人達の意見も聞いた上で、今後の仕入れ方を決めよう」
『堺側へ確認しておきます』
「頼む」
担当者が資料へ指示を書き加えていく。
続いて、堺から琉球へ供給する農具について確認が行われた。
現在の価格では、原価に輸送費と関税が加わるため、王国側が継続して購入するには少し負担が大きい。
「この価格では、琉球側が買い続けるのは少し難しいな」
『価格を下げますか?』
「ああ。多少利益を抑えてでも、相手が継続して買える価格にした方がいい。一度の取引で大きく儲けるより、何度も買ってもらえる方が長い目で見れば大きな利益になる」
『相手側にも利益が残るようにするわけですね』
「そうだ。こちらだけが得をする取引では、長く続かない。琉球側にも利益が残り、こちらにも利益が残る。そういう形を作ることが大切だ」
『承知しました』
担当者は価格を計算し直し、新しい案をまとめていった。
その後も、商船が入港した際の申告、荷役、倉庫への搬入、補給、出港までの手続きが順番に確認されていく。荷物に破損が見つかった場合には、どの時点で問題が起きたのか後から分かるよう、積み込み時と到着時の記録を残すことも改めて確認された。支払いについては、新しい商人にはまず確実に代金を回収できる方法を使い、問題なく取引を重ねた相手については、その実績に応じて条件を変えていく。
一通りの確認を終えたところで、秀高は王国側との連絡体制についても確認した。
「普段の取引で起きる問題は、まず支店で処理してくれ。ただし、条約そのものに関係する問題や、両国の関係に影響するような案件は堺へ報告する」
『承知しております』
「王国側から急ぎの物資を求められた時も、在庫や船の予定を確認する前に約束するのはやめてくれ。できないことを約束してしまう方が、後から大きな問題になる」
『確実に履行できることだけを約束する、ということですね』
「ああ。その方が信用につながる」
『承知しました』
秀高は資料を閉じ、支店の責任者達を見渡した。
「俺達は七日以内には琉球を離れる。それまでに、今日決めた内容を支店の者達が完全に理解できるようにしておいてくれ。俺達がいなくなった後も、ここが堺屋の琉球における中心になる」
『承知いたしました』
「商売の数字だけじゃなく、人との付き合いも大切にしてくれ。今回の条約で築いた関係は、これから長く続いていくものだからな」
『はい』
秀高は頷いた。
一方、客殿の執務室では、小梅もまた引き継ぎを進めていた。
机の上には、昨日の衣装着比べお茶会で得られた情報と、王妃や才媛達から寄せられた注文依頼が並んでいる。誰がどの色を好んでいたのか、どの衣装を気に入っていたのか、帯と髪飾りのどちらに関心が強かったのか、そして何を注文したいと希望していたのか。小梅は昨日交わした会話を思い出しながら、一人ずつ情報を整理していた。
侍女の一人が、まとめた注文書を小梅へ差し出す。
『小梅様。王妃様からのご注文について、仕入れ先の確認が取れました』
小梅は内容を確認して頷いた。
『ありがとうございます。この品を第一候補にしましょう。ただ、同じものが仕入れられなくなった場合に備えて、色や雰囲気が近いものも第二候補として用意しておいてください。価格も比較できるようにしておきましょう』
『承知しました』
別の注文書には、反物についての希望が記されていた。
『こちらの方は、衣装そのものより反物を気に入っておられましたね』
『はい。昨日も何度も手に取っておられました』
『それなら、仕立て上がった衣装だけではなく、反物そのものも今後扱えるようにしておきましょう。今回の注文だけではなく、これからの商いへ繋げられるかもしれません』
『承知しました』
小梅は次の資料へ目を移す。
ある者は華やかな色を好み、ある者は落ち着いた色を好む。また、髪飾りに興味を示した者もいれば、帯の文様に惹かれた者もいた。そうした違いを一つずつ記録しておくことで、今後、支店の者達が新しい注文を受けた時にも、昨日のお茶会で得た情報を商いへ生かせるようになる。
小梅にとって、昨日のお茶会は単なる交流の場ではなかった。王国の女性達が何を好み、どのような商品に価値を感じるのかを直接知ることができた貴重な機会であり、今後の商いを考える上でも重要な情報を得る場になっていた。
『こちらの仕入れ先なら、品質は十分ですが価格が少し高くなります。一方、こちらなら価格は抑えられますが、納期が長くなります』
侍女が二つの資料を並べる。
小梅は両方を見比べた。
『王妃様のご注文は品質を優先しましょう。こちらを第一候補にして、価格を抑えたものを第二候補にします。才媛の皆様の分は、それぞれの希望と予算に合わせて選べるようにしてください』
『承知しました』
『それから、急ぎの注文は納期を優先し、時間に余裕があるものは価格とのバランスを考えてください』
『はい』
小梅は頷きながら資料へ書き加えた。
『私達が離れた後も、同じような注文が来ると思います。その時に支店の皆さんが困らないよう、今回の注文だけでなく、昨日のお茶会で分かった皆様の好みも一緒に残しておきましょう』
『承知しました』
小梅は最後まで資料を確認していく。
自分がいなくなった後も、昨日生まれた縁が堺屋の商いとして続いていくようにする。
それが、副総統として最後にしておきたい仕事だった。
そして引き継ぎを進める中で、秀高と小梅にはもう一つ、済ませておかなければならないことがあった。
秀高は尚清王へ、小梅は月江王妃へ、琉球を離れる予定を正式に報告することである。
秀高がこの報告をする際、東元宰と馬周明も同席することになった。
条約策定の最初から関わってきた三人にとって、今回の謁見は、これまでの仕事を一つの区切りとして確認する意味も持っていた。
謁見の場へ通された秀高は、尚清王の前で静かに頭を下げた。
『参議殿。今日は何か報告があると聞いておるが。何事かな』
「はい、国王陛下。我々は、残された引き継ぎと出航準備を終えた上で、七日以内に琉球を離れる予定となっております」
尚清王は静かに頷いた。
『そうですか。いよいよ、次の航海へ向かわれるのですね』
「はい。琉球での仕事を終えた後は、堺へ戻るのではなく、次の目的地へ向かいます。まず与那国方面へ進み、その後は高山国へ向かう予定です」
『なるほど。まだ長い旅の途中ということですな』
「そういうことになります」
東元宰が頭を下げる。
『今回の条約策定を通して、我らも多くのことを学びました。これからは王国側でも責任を持って運用して参ります』
馬周明も続ける。
『交易についても、条約締結前とは違い、明確な基準を持って進められるようになりました。これからは実際に商人達が動き、その成果を積み重ねることになるでしょう』
秀高は二人へ目を向けた。
「だからこそ、これからが大切です。実際に使ってみて問題が出たなら、まず話し合ってください。今回の条約を土台にして、双方で調整しながら関係を育てていけばいい」
『承知いたしました』
尚清王はしばらく秀高を見つめ、それから穏やかに語りかけた。
『参議殿。この度の条約が、両国の長い関係の始まりとなることを願っております』
「私も同じです。今回ここで築いた関係を、この先の旅を終えた後も大切に育てていきます。堺と琉球の双方が栄える関係を作れるよう、これからも努めます」
『よろしくお願いいたします』
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
こうして、秀高からの離琉報告は終わった。
謁見を終えると、東元宰と馬周明は秀高と共に回廊を歩いた。
『参議殿』
東が口を開く。
『こうして正式にお知らせいただくと、本当に次の航海へ進まれるのだと実感いたしますな』
「私も同じですよ。条約を作っている間は、その先の旅まで考える余裕がありませんでしたから」
馬周明が笑う。
『今では、その条約を使って取引の準備まで進んでおります』
「それだけ皆さんが真剣に取り組んだということです」
東は静かに頷く。
『次に参議殿が琉球へお越しになる時には、我らも今より成長しておかねばなりませんな』
「その時は、皆さんがどう変わったのかを見るのを楽しみにしています」
『必ずや』
三人は最後に笑い合った。
秀高は、そのまま王国側の最後の引き継ぎについて確認するため、東と馬と共に次の打合せへ向かった。
一方、小梅にも、琉球を離れる前に月江王妃へ直接伝えておきたいことがあった。
これまで何度も顔を合わせてきた二人だったが、最後の挨拶まで大勢の人がいる場で済ませるのではなく、二人だけで落ち着いて話す時間を持ちたいと小梅は考えていた。
そこで、出国を前に月江王妃との個別のお茶会が開かれることになった。
用意された部屋には、二人分の茶が静かに置かれている。侍女達は茶の準備を終えると部屋を退出し、室内には小梅と月江王妃だけが残った。
『小梅様。こうして二人だけでお茶をいただくのも、何だか不思議な感じがいたしますね』
『はい、月江様。昨日のお茶会では、ずっと皆様とご一緒でしたから』
『あれは本当に楽しい時間でした』
『私もです』
二人は茶を口に運びながら、昨日の衣装着比べお茶会についてゆっくりと話した。
王妃が日ノ本の振袖を手に取った時のこと、才媛達が帯や髪飾りを選んでいたこと、琉球の衣装と日ノ本の衣装を比べながら互いの文化について語ったことなど、昨日の出来事を一つずつ思い出していく。
やがて月江が小梅へ穏やかな視線を向けた。
『今日は、大切なお話があるのでしょう?』
小梅は静かに頷いた。
『はい。私達は、残された仕事を終えた後、七日以内に琉球を離れる予定です』
『やはり、もう次の航海へ向かわれるのですね』
『はい。堺へ戻るわけではありません。琉球を離れた後は、まず与那国方面へ向かい、その後は高山国へ進む予定です』
月江は少し驚いた様子を見せた後、静かに頷いた。
『まだまだ長い旅が続くのですね』
『はい。でも、これも旅の途中ですから』
『そうでしたね。少納言様にとっては、琉球も長い旅の中の一つの場所なのですね』
『はい。けれど、琉球で過ごした時間は、この先も忘れないと思います』
月江は、その言葉を嬉しそうに受け止めた。
二人は、これまでの交流についてさらに語り合った。
最初に顔を合わせた時のこと、日ノ本の衣装について話したこと、王妃が振袖や帯を興味深そうに見ていたこと、そして昨日のお茶会で才媛達と笑いながら衣装を選んだこと。
小梅にとって、それらは単なる仕事ではなかった。琉球の女性達が何を好み、どのような文化を大切にしているのかを知ることができた大切な交流でもあった。
『月江様。昨日のお茶会で、皆様と交流できたことを本当に嬉しく思っております』
『私もですよ。小梅様が持ってきてくださった衣装は、皆にとって良い刺激になりました』
『そう言っていただけて嬉しいです』
『これからも、堺屋から品物が届くのでしょう?』
『はい。今回いただいたご注文についても、支店へすべて引き継いでおります。今後も必要なものがございましたら、どうぞ堺屋へお申し付けください』
『それなら、小梅様が琉球を離れても寂しさは少し減りますね』
『私も、そう思います』
月江は微笑みながら茶を口へ運んび、やがて視線が、小梅の髪へ向いた。
そこには、秀高から贈られた櫛と簪がある。
『それを大切にしておられるのですね』
小梅は髪へそっと触れた。
『はい。秀高様からいただいたものですから』
『これからの長い旅でも身に付けていかれるのでしょう?』
『もちろんです』
月江は穏やかに笑った。
『それなら、遠い旅の中でも、この琉球で過ごした時間を思い出すことができますね』
『はい。きっと何度も思い出すと思います』
『また琉球へ来てくださいね』
『はい。今回の旅が終わった後も、またこちらを訪れる機会があると思います』
『その時を楽しみにしております』
『私もです』
二人は静かに茶を飲んだ。
別れを惜しむだけではなく。
いつかまた会えることを信じているからこそ。
最後のお茶は穏やかなものになった。
茶の時間が終わり、小梅は静かに姿勢を正し月江へ深く頭を下げた。
『王妃様。これまで本当にありがとうございました』
『こちらこそ、ありがとうございました。少納言様とお会いできたことを、私は嬉しく思っております』
『私もです』
『また琉球へ来てくださいね。小梅様』
『はい。次にこちらへ来る時には、今回よりもさらに多くのものをお見せできるようにしたいと思います』
『それは楽しみですね』
『その時には、また皆様とお茶をしたいです』
月江は笑った。
『ええ。ぜひ』
小梅も微笑み、これで挨拶のお茶会は終了した。部屋を後にし、回廊を歩きながら先ほどまでの会話を静かに思い返した。
寂しさはあるが、琉球との関係はこれで終わりではない。条約があり、交易があり、堺屋の支店も残っている。
また会える日を思いながら。小梅は静かに前を向いた。
それから残された数日間。
秀高と小梅は、王国側と堺屋琉球支店の双方への引き継ぎを最後まで進めた。
王国側との最終的な取引打合せでは、条約締結後に行う最初の取引について、商品の種類や数量、関税、港湾利用、荷役、支払い方法、連絡手順などを改めて確認し、実際に担当する者達が同じ理解を持てるように整理する。
堺屋琉球支店では、秀高が総統として決めた交易方針を責任者達へ引き継ぎ、小梅も副総統として整理した注文関係や女性向け商品の資料を渡していった。王妃や才媛達からの注文については、それぞれの希望だけでなく、仕入れ先や価格、納期、今後同様の注文が来た際の対応方法までまとめられている。
さらに、王国側との連絡体制についても最後の確認が行われた。普段の交易上の問題は支店で対応し、条約や両国間の関係に影響する重大な案件については堺へ報告する。その線引きを王国側と支店側の双方で確認し、秀高と小梅がいなくなった後も現場が止まらない仕組みが整えられていった。
一つずつ資料が確認され、担当者が内容を理解し、必要な修正があればその場で話し合う。
そして、出国前日。最後の確認が行われた。
堺屋琉球支店。
支店の責任者が、秀高へ最終報告を行う。
『総統。主要な取引関係、王国側との連絡方法、港湾利用、関税、支払い、今後の報告手順まで、全て引き継ぎを終えました』
秀高は差し出された資料を最後まで確認した。
「これなら大丈夫だ」
『はい』
「俺達がいなくなった後も、今回の条約を大切にしてくれ。目先の利益だけを追うんじゃなく、長く付き合える相手だということを忘れないように」
『承知いたしました』
「それから、何か問題が起きた時は、まず相手と話すことだ。現場で解決できるものは現場で解決する。それでも難しい時に、上へ繋げればいい」
『はい』
秀高は静かに頷いた。
「頼んだぞ」
『お任せください』
これで、堺屋琉球支店への主要な引き継ぎは完全に完了した。
小梅の方も、最後の注文関係を確認していた。
王妃の注文、才媛達の注文、仕入れ先、価格、納期、今後の問い合わせへの対応方法まで、全て支店側へ渡されている。
『小梅様。これで、引き継ぎは全て完了いたしました』
『ありがとうございます』
小梅は最後の書類を閉じた。
『これで、私達が離れても、皆さんに続けていただけますね』
『はい。こちらで責任を持って進めて参ります』
『よろしくお願いします』
『承知いたしました』
小梅は微笑みながら頷いた。
自分達がいなくなった後も堺屋はここで仕事を続ける。
昨日のお茶会から生まれた縁も、これから始まる新しい商いも、支店の者達に託すことができた。
小梅は、そのことに静かな安心を覚えた。
そして琉球を離れる朝が来た。
那覇港には、早朝から出航準備を進める船員達の姿があった。旗艦「堺」を中心とした艦隊では、食料や水、予備の帆や索具、航海に必要な道具などが最終確認されている。琉球滞在中に入手した交易品も、それぞれの荷札と帳簿を照らし合わせながら積み込まれていた。
秀高は甲板を歩きながら、出航前の船を最後まで確認する。
『総統、出航準備は完了しております』
「食料と水は?」
『問題ありません。十分な余裕を持たせております』
「予備の帆と索具は?」
『こちらも確認済みです』
「よし。この先も長い航海になる。出航してからも油断しないようにしてくれ」
『承知しました』
秀高は頷き、那覇港へ視線を向けた。
港には、王国側の見送りの者達が集まっていた。
東元宰、馬周明、条約策定に携わった官吏達、堺屋琉球支店の責任者や従業員、これまで交易で関わってきた商人達も姿を見せている。
秀高は船へ乗り込む前に、東元宰と馬周明の前へ向かった。
『参議殿』
東が頭を下げる。
「東殿。ここまで本当にありがとうございました」
『こちらこそ。参議殿から多くのことを学ばせていただきました』
馬周明も続ける。
『今回の経験は、これからの王国の交易や外交に必ず生かして参ります』
「それを聞ければ十分です。俺達が離れた後の方が、本当の意味で今回の条約が試されることになりますから」
『承知しております』
「何か問題があれば、まず話し合ってください。条約を使うのは皆さんですから」
『はい』
三人は最後に深く頷き合った。
その後、尚清王からの使者が秀高の前へ進み出た。
『鷹司参議様。国王陛下より、今後も両国の関係が末永く続くことを願っているとの御言葉をお預かりしております』
「国王陛下へ、私からも同じ願いをお伝えください。今回の条約は終わりではなく、堺と琉球の関係の始まりです。これからも互いに栄える関係を築いていけるよう努めますと」
『承知いたしました』
秀高は首里城のある方向へ一度目を向け、深く頭を下げた。
小梅も、船へ乗り込む前に王国側の者達へ最後の挨拶を行った。
堺屋支店の女性達や、昨日までお茶会の準備を手伝ってくれた者達が集まっている。
『小梅様。どうかお気を付けて』
『ありがとうございます。私達が離れても、堺屋はここに残ります。今回いただいたご注文も、その後の取引も、支店の皆さんが責任を持って続けてくれますから』
『はい』
小梅は一人一人へ礼を述べた。
そして少し離れたところには、お忍びで港まで足を運んできた月江の姿が見えた。
小梅は王妃の方へ歩み寄る。
『王妃様』
『少納言様』
二人は静かに向かい合った。
『もう準備は整ったのですね』
『はい。これで出航できます』
月江王妃は旗艦「堺」を見上げた。
『初めて見た時も大きな船だと思いましたが、こうして出ていくのを見ると、やはり大きいですね』
小梅は少し笑った。
『秀高様は、こういうところが少し派手ですから』
月江も微笑む。
『そうでしたね』
小梅は王妃の手をそっと取った。
『それでは、王妃様。どうかお元気で』
『少納言様も。どうか長い航海、お気を付けて』
『はい』
『また琉球へ来てくださいね』
『もちろんです』
『その時には、またお茶をいたしましょう』
『ぜひ』
二人は静かに頭を下げ合った。
昨日、二人だけで交わした言葉がある。だからこそ今は、それ以上多く語る必要はなかった。
出航の準備が整い船員達が持ち場へ戻りはじめ、帆を上げる作業が始まる。
秀高が声を上げた。
「出航準備は!」
『完了しております!』
「よし、帆を上げろ!」
『帆を上げろ!』
号令とともに帆がゆっくりと上がっていく。
朝の海風を受けて帆が大きく膨らみ、船体が少しずつ前へ進み始める。
那覇港との距離が広がっていく。
港に立つ人々の姿も少しずつ小さくなり、堺屋の支店や王国側の者達が見送る姿が遠ざかっていった。
秀高は船尾へ向かい、遠ざかっていく琉球を眺めていた。
小梅も、その隣へ歩いてくる。
二人はしばらく言葉を交わさず、那覇の町と、その先にある首里城の姿を見つめていた。
やがて、小梅が口を開く。
『最初にここへ来た時は、こんな日が来るとは思っていませんでした』
「ああ。俺もだ」
『あの時は、まだ条約もありませんでしたし』
「それが今では、正式に条約を結んだ」
『お茶会も無事に終わりました』
「支店の引き継ぎも終わった」
『はい』
小梅は遠ざかる琉球を見つめた。
『これで、本当に次へ進めますね』
「ああ」
秀高は前方へ視線を戻す。
「ここでやることは、全部終わった」
小梅は静かに頷いた。
その時甲板の奥から元気な声が響いた。
『『義兄様!義姉様!』』
振り返ると、弥三郎と又六郎がこちらへ向かってきた。
二人は琉球を離れることを寂しがっている様子よりも、これから始まる次の航海への期待を膨らませているようだった。
『義兄様、次は与那国ですね』
「ああ」
『その後は高山国ですか?』
「そうだ」
弥三郎は前方の海へ目を向けた。
『琉球の次は、どんなところなのでしょう』
「それは、自分の目で確かめればいい」
『楽しみです』
又六郎も頷く。
『琉球へ来て、日ノ本とは違うものをたくさん見ることができました。次の土地でも、もっと学びたいと思います』
秀高は二人へ目を向けた。
土佐で長宗我部国親から預けられた弥三郎。
薩摩で島津貴久から預けられた又六郎。
二人は「外の世を見て学ぶ」ために、この旅へ同行している。
琉球でもただ船に乗っていただけではなかった。
那覇港へ入った時には、港へ集まる人々や行き交う船の様子を興味深そうに眺めていた。堺屋琉球支店へ立ち寄った時には、日ノ本や明国、南蛮から来た商人達が荷物を運び、商談を行っている姿を目にしている。二人は、知らない言葉が飛び交う市場の様子や、琉球独自の衣装を身にまとった人々の暮らしを見ながら、それぞれの違いを少しずつ覚えていった。
弥三郎は、秀高や堺屋の者達が商人と話をする姿をよく観察していた。商品の値段を決める時に、単純に高く売ろうとするのではなく、相手が今後も買い続けられるかどうかまで考えていることに興味を持ち、なぜそのような判断をするのかを秀高へ尋ねることもあった。
又六郎は、港に停泊している船や積み込まれていく荷物に強い関心を示していた。どこから来た船なのか、何を運んでいるのか、なぜ琉球へ多くの商人が集まるのかを知ろうとし、堺屋の者達から話を聞きながら、自分なりに考えていた。
二人とも大きく騒いだり、問題を起こしたりすることはなかった。
秀高や小梅の側で過ごしながら、船、港、町、商人、人々の暮らしを自分の目で見て、知らないものがあれば尋ね、それぞれの違いを少しずつ吸収していた。
琉球という一つの土地を離れる今になって。
二人の中にも、この旅で見たものが確かに積み重なっていることが分かる。
秀高は二人へ静かに語り掛けた。
「国が違えば、人の暮らしも商いの方法も考え方も違う。これから先も色々なものを見ることになるだろう。見たものをそのまま覚えるだけじゃなくて、どうしてそうなっているのかを自分で考えるんだ」
『はい、義兄様』
『承知しました』
二人は力強く返事をした。
小梅は、そんな二人の姿を見ながら微笑んだ。
『琉球でも、二人ともずいぶん色々なものを見ましたね』
『はい、義姉様』
弥三郎が頷く。
『最初に那覇の港へ入った時、船の大きさだけでも驚きましたけど、あれだけ色々な国の船や商人が集まっていることにも驚きました』
『堺の港とは違ったでしょう?』
『はい。違うところも多かったです。でも、商人達が船から荷物を運んで商談をしているところは、堺と似ているとも思いました』
小梅は嬉しそうに頷いた。
又六郎も口を開く。
『某は、琉球の町を歩いた時に、日ノ本とは違う衣装を着た人が多いことが印象に残りました。それに、同じ商人でも扱っている品が違っていて、どこから来た者なのかによって話し方も変わるのが面白かったです』
秀高は、その話を聞いて頷いた。
「ちゃんと見ていたんだな」
『はい』
「なら、それでいい。全部を今すぐ理解する必要はない。旅を続けていれば、今まで見たものと次に見るものが繋がってくる時がある。その時に、また考えればいい」
『分かりました』
弥三郎と又六郎は、再び海へ目を向けた。
しばらくすると弥三郎と又六郎は、船員達の仕事や帆の動きをまた眺め始めた。琉球で過ごしている時も、二人は船の上で学ぶことを忘れなかった。甲板での修練を続けながら、船員達がどのように帆を扱い、船を進め、荷物を管理しているのかを観察していた。
又六郎がふと、海へ目を向けた。
『琉球も、こうして見ると遠くなってしまいましたね』
『そうですね』
弥三郎も頷く。
二人にとってこの島で見たものは、これからの長い旅の中で、次の土地を理解するための基準になるのだろう。
小梅は二人の様子を眺め、隣の秀高へ視線を向ける。
『二人とも、少しずつ変わってきましたね』
「ああ」
「土佐や薩摩にいた頃とは、物を見る目が少し違ってきている」
『これから先、もっと多くの国を見れば、さらに変わっていくでしょうね』
「そうだな」
秀高は弥三郎と又六郎が海を眺める姿を見ながら、穏やかに笑った。
船は、さらに南へ進み、湊はもうかなり遠くなっていた。
琉球の町並みも小さくなり、やがて島の輪郭だけが海の彼方に残るようになる。
小梅が船尾から遠ざかる琉球を見つめながら口を開いた。
『また琉球へ来られるといいですね』
「ああ」
「その時には、今よりもっと堺屋の商いが大きくなっているだろうな」
『王妃様も、才媛の皆様も、きっと楽しみにしてくださっていますね』
「そうだな。だからこそ、今回ここで築いた関係を大切にしていかないとな」
『はい』
小梅は髪へ手を添えた。
そこには、今日も秀高から贈られた櫛と簪がある。
『この旅の間も、大切にします』
「ああ」
秀高は静かに微笑んだ。
やがて航海士が進路の確認にやって来た。
『総統。現在の進路に問題ありません。このまま与那国方面へ向けて航行を続けます』
「分かった」
秀高は前方の海へ視線を向けた。
水平線の先には、まだ何も見えない。
ただ海だけが広がっている。
しかしその先には、次の目的地がある。
そして、その先には高山国が待っている。
そこからさらに先にも、多くの土地がある。
秀高は小梅と並んで海を見つめながら、これから始まる旅へ思いを巡らせた。
「琉球では、条約を結ぶことができた。ここで得た経験も、これから先の旅で生かしていく」
『はい』
「そして、弥三郎と又六郎にも、できるだけ多くのものを見せてやりたい」
『私も、その成長を見るのが楽しみです』
「小梅も楽しみなのか?」
『もちろんです。私も、まだ見たことのない土地へ行けるのですから』
秀高は笑った。
「なら、まだまだ先は長いな」
『はい』
二人は同じ方向へ視線を戻した。
しばらくして琉球の島影は、完全に海の彼方へ消えていった。
港も首里城ももう見えないが、秀高達の中には、ここで過ごした日々が確かに残っていた。
条約を作るために何度も議論した日々。尚清王と交わした言葉と東元宰と馬周明との長い協議。
王妃や才媛達とのお茶会を堺屋の支店へ引き継いだ数々の仕事。
そして弥三郎と又六郎が、この土地で見たもの、学んだもの。
それら全てを胸に四人は次の土地へ進んでいく。
船上に海風が吹き抜ける。
弥三郎と又六郎の声が風の中へ混じり、船員達の掛け声も重なっていく。
旗艦「堺」は、穏やかな海を切りながら与那国方面へ進んでいた。
小梅が遠くの海を見つめる。
『次は、どんな場所なのでしょうね』
秀高は前方を見ながら答えた。
「それは、行ってみてからのお楽しみだ」
小梅は微笑み、弥三郎と又六郎も、まだ見ぬ土地のことを話しながら甲板を進んでいる。
琉球で築いたものを後に残し。
新たな学びを求めて。
一行はさらに南へ向かった。
そして、旗艦「堺」は次なる目的地、与那国方面を目指して、長い航海を続けていった。




