第42話ー王国との取引開始ー
翌朝。
琉球王国の空には、柔らかな朝日が広がっていた。
東の空から差し込んだ光が首里城の屋根を淡く照らし、朝の風が城内を静かに吹き抜けている。
昨日までの数日間、首里城は普段とは違う緊張感と華やかさに包まれていた。条約の策定に携わる官吏達が頻繁に行き交い、調印式の準備が進められ、昨日はついに正式な調印まで行われた。その後には、王妃や才媛達を迎える衣装着比べお茶会も開かれ、朝から晩まで多くの者がそれぞれの役目を果たしていた。
だが、一夜が明けた今朝には、その賑わいも少しずつ落ち着きを取り戻している。調印式で使われた文書や机はすでに片付けられ、宴で用いられた器も侍臣達によって元の場所へ戻されている。お茶会で使われた道具や衣装についても整理が始まり、昨日までの華やかな空気は、普段の生活の中へ静かに戻ろうとしていた。
それでも、昨日という一日が残した意味まで消えるわけではない。
堺と琉球王国の間には、正式な約束が生まれた。
これまで堺屋が琉球で積み重ねてきた商取引も、これからは新たな関係の中で進められることになる。そして、条約が成立したからこそ、次はそれを実際の仕事へ落とし込まなければならない。
それは、秀高にとっても小梅にとっても、総統と副総統としての新たな仕事の始まりだった。
客殿。
秀高は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。
眠気が残っているわけではない。昨日一日の出来事が、次々と頭の中へ蘇っていたからである。
調印式で向かい合った尚清王の姿、その隣で最後まで役目を果たした東元宰と馬周明、条約文書を前にして筆を取り、自らの名を記した瞬間、そして調印後の宴で見た王国側の安堵した表情。それらに加えて、午後には別の場所で、王妃や才媛達と楽しそうに話していた小梅の姿も思い浮かんだ。
朝から晩まで、本当に長い一日だった。
秀高は天井を見つめたまま、小さく笑う。
「(本当に、長い一日だったな)」
昨日までの仕事は、条約を完成させて正式な約束へ変えることだった。しかし、条約を結んだからといって、それですべてが終わるわけではない。
港を使い、船を動かし、商品を運び、商人同士が取引を行い、必要な物資を供給し、琉球から堺へ商品を持ち帰る。さらに、取引の際に問題が生じれば、それを解決しなければならない。船が遅れれば予定を調整し、荷物に問題があれば責任の所在を確認する。価格が合わなければ商人同士で話し合い、それでも難しければ支店が仲介する。
条約は、その全ての上に置かれる土台である。
だからこそ、秀高は今日から始まる仕事の方が、別の意味では重要なのだと考えていた。
秀高は布団から起き上がると、窓へ歩み寄った。障子を少し開けると、朝の風が室内へ流れ込んでくる。
眼下には首里城の屋根と、仕事へ向かう人々の姿が見えた。
昨日と変わらない景色だった。
それでも、秀高には少し違って見える。
両国の間に正式な約束ができた今、これまで積み重ねてきた取引や交流は、これからさらに大きく動く可能性がある。
「(条約を結んだ。なら、今日からは動かさないとな)」
秀高は静かに身支度を始めた。
衣服を整え、髪を整え、今日の予定を頭の中で確認する。条約締結後の最初の取引、琉球側が求める物資、堺へ持ち帰る商品の選定、船舶の運航、港湾利用、関税、支払い方法。昨日まで条約の中で話し合っていたものが、今日はすべて実務の問題へ姿を変えている。
それらを一つずつ処理することこそ、堺屋総統として今の秀高に求められている仕事だった。
身支度を整えていると、隣の部屋の襖が開き、小梅が姿を見せる。
『秀高様、おはようございます』
「おはよう、小梅」
昨日の華やかな振袖姿とは違い、今日の小梅は堺屋の副総統として仕事へ向かうための装いに整えていた。派手さはないものの品位があり、仕事をするうえでの動きやすさも考えられている。
ただ、髪には昨日と同じように、秀高から贈られた櫛と簪が飾られていた。
秀高は、それへ目を向けて微笑む。
「今日も付けてるんだな」
小梅は髪へそっと触れた。
『はい。勿論です』
「そうか」
秀高は嬉しそうに頷いた。
小梅はそのまま机へ向かい、昨日のお茶会で得られた情報をまとめた報告書へ目を通した。王妃や才媛達の反応だけではなく、お茶会の後に寄せられた注文依頼も一緒にまとめられている。
帯、髪飾り、反物。
それぞれに希望する色や柄まで記されているものもある。
だが、朝から仕事を始めるつもりはなかった。小梅は書類を一度確認すると、丁寧に重ねて机の端にまとめ、二人は朝食を取りに向かった。
今日の朝食は昨日までの緊張や慌ただしさが嘘のように、静かな時間だった。二人分の膳が運ばれ、温かな茶が用意される。
秀高と小梅は向かい合って座り、しばらくは黙って箸を進めた。
昨日は朝から調印式があり、その後には宴やお茶会まで続いたため、二人とも多くの人と顔を合わせる一日を過ごしていた。だからこそ、今朝のように二人だけで食事を取る時間が、妙に落ち着いて感じられた。
やがて、小梅が茶を一口飲む。
『昨日は、本当に一日が長く感じました』
「ああ、俺もそう感じた」
『朝から調印式で、その後はお茶会でしたし』
「俺も午後は宴まであったからな」
『そうでしたね』
小梅は少し笑った。
『でも、無事に全部終わってよかったです』
「本当にそうだな」
二人は食事を続けながら、昨日のことを振り返った。調印式が無事に終わったこと、王妃や才媛達がお茶会を楽しんでくれたこと、それぞれが自分の役目を果たせたこと。昨日という一日を思い返すうちに、二人の表情には自然と安堵が浮かんでいく。
小梅がふと顔を上げた。
『今日は、昨日とは違う意味で忙しくなりそうですね』
「ああ。昨日までは条約を作ることが中心だったけど、今日からは、その条約を実際に使うことになる」
『私も、お茶会で得たことを仕事に繋げます』
「そうだな」
『まずは朝食をきちんと食べてからですね』
「それは大事だ」
二人は小さく笑い、残りの朝食をゆっくりと済ませた。
朝食を終えると、二人は客殿の奥にある執務室へ向かった。
ここ数日、条約策定のために使われていた机の上には、もう条約草案そのものは並んでいない。代わりに置かれているのは、堺屋琉球支店から届けられた取引帳簿や市場関係の資料、船舶の運航記録、港湾利用に関する書類、昨日のお茶会で得られた情報をまとめた報告書、そして王妃や才媛達から寄せられた注文依頼だった。
昨日までの仕事と、今日からの仕事は明確に違っている。
昨日までは、条文一つ一つの言葉を確認しながら両国の約束を作っていた。
今日からは、その約束を使って、商売を動かす。
秀高は予定表を開いた。
「まず、今日の予定を確認しよう」
『はい』
「俺は支店に向かい堺屋と琉球王国との取引関係を整理する。これまでの取引実績を見直して、今後どの商品を増やすのか、どの程度の量を扱うのかを決める。それに合わせて、価格や輸送条件、港の利用、それから関税についても確認する」
小梅は予定表へ目を落としながら頷いた。
『昨日までに決めた条約を、実際の仕事へ落とし込むわけですね』
「ああ。紙の上で決めただけでは意味がないからな。支店の者達が現場で迷わないようにしておきたい」
『最初の取引だからこそ、慎重に進めるということですね』
「そうだな。いきなり大きな取引を始めて、どこかで問題が起きれば、せっかく築いた関係にも影響する。まずは確実に動く形を作って、その上で少しずつ広げていく」
『分かりました』
秀高は予定表へ印を付けた。
今度は小梅の予定を確認する。
「小梅は?」
『私は、昨日のお茶会で得られた情報を整理します。それから、王妃様や王国の才媛の皆様からいただいた注文依頼を確認して、堺屋へ正式な指示を出します』
「注文は、もう結構来たのか?」
『はい。帯や髪飾り、反物、それから日ノ本の衣装についても、いくつか具体的なご希望をいただいております』
「なるほど」
『ただ、注文を受けて終わりにはできません。どこから仕入れるのか、どの品質にするのか、価格はいくらにするのか、どのように運ぶのか、いつ届けられるのかまで確認した上で手配する必要があります』
「昨日の交流を、そのまま今日の仕事へ繋げるわけだな」
『はい。昨日、皆様が何を気に入られたのかも記録しております。それをこれからの商いに生かしていきたいと思います』
「頼む」
『承知しました』
小梅も予定表へ印を付けた。
そして二人が続いて確認したのは、琉球を離れるまでの予定だった。
小梅が予定表へ目を落としながら言う。
『出航は、一週間以内を目安にしておきましょうか』
「ああ。それがいい」
『それまでに、王国側への最後のご挨拶と、条約締結後の取引についての打合せを済ませておきたいですね』
「そうだな。今回決めた取引条件を、王国側にも改めて確認してもらう。それから、今後の連絡方法や港の利用についても、必要なら追加で話しておく」
『堺屋琉球支店への引き継ぎも必要ですね』
「ああ。俺は交易関係の方をまとめて、支店の責任者達へ直接指示を出す。俺達が琉球を離れた後も、支店が自分達で判断して動けるようにしておきたい」
『私も、お茶会で得られた情報と、王妃様や才媛の皆様からの注文について整理して、支店へ引き継ぎます』
「それでいい」
『出国まで数日ありますから、急いで全部を終わらせるより、確認しながら進めた方がよさそうですね』
「ああ。最後まで雑にしたくはないからな」
小梅が予定表へ新たな日程を書き込む。
『では、この一週間以内を目安に、王国との打合せ、最後のご挨拶、支店への引き継ぎ、出航準備まで終わらせる形にしましょう』
「それで進めよう」
二人は予定を確認し終えると、それぞれの仕事へ向かった。
堺屋琉球支店
堺屋琉球支店では、朝から普段通りの仕事が始まっていた。
店先では商人達が出入りし、奥の倉庫では前日に届いた荷物の確認が行われている。荷札を見ながら商品を仕分けする者、帳簿へ数量を書き込む者、港から届いた情報を整理する者など、それぞれが自分の担当する作業に集中していた。
昨日、首里城で歴史的な条約調印が行われたことは、支店で働く者達にとっても大きな出来事だった。しかし、祝賀が終われば商売は商売として動かなければならない。商品が届けば確認し、注文が入れば仕入れ先を探し、船が来れば荷を積み、代金が動けば帳簿へ記録する。そうした日々の仕事の積み重ねこそが、堺屋を支えている。
秀高が支店へ入ると、店の者達が一斉に姿勢を正した。
『総統、おはようございます』
「おはよう。今日は取引関係を一通り確認する。資料を揃えておいてくれ」
『承知しました』
秀高は短く応じると、そのまま支店の奥へ入っていった。
支店の打合せ部屋には、責任者達がすでに集まっていた。
机の上には、これまでの取引実績が整理されている。琉球から堺へ運んでいる商品、堺から琉球へ供給している物資、それぞれの数量や価格、仕入れ値、輸送費、関税、最終的な利益まで、一つの商品についても複数の数字が並んでいる。
秀高は席へ着くと、最初の帳簿を手に取った。
「まず、これまでの取引状況から確認しよう」
『はい』
支店の責任者が説明を始める。
琉球からは農産物や乾物、海産物、織物、工芸品などが中心となっており、堺からは農具や鉄製品、生活用品などを供給している。取引量そのものは少しずつ増えており、堺屋の支店も王国内で一定の地位を築きつつあった。
秀高は説明を聞きながら帳簿へ目を落とす。売上だけを見るのではなく、仕入れ値や輸送費、関税まで含めて、それぞれの商品がどの程度の利益を生んでいるのかを比較していった。
一方で、利益率が高いからといって大量に扱えるとは限らない。生産量が少なければ仕入れそのものが難しくなり、需要が少なければ在庫が増えてしまう。秀高は数字を照らし合わせながら、今後増やすべき商品と慎重に扱うべき商品を分けていった。
やがて、担当者が織物についてまとめた資料を差し出した。
『総統。こちらの織物についてですが、堺側からの問い合わせが増えております。琉球側でも評価が高い品なのですが、生産量そのものはそれほど多くありません』
秀高は資料へ目を通した。独特の色彩や文様、生産量、現在の仕入れ価格などが細かく記載されている。
「それなら、最初から大量に仕入れる必要はないな。まずは少量を堺へ送って、市場の反応を見る。実際にどの程度の価格なら売れるのか、商人達がどのような仕立て方を望むのかまで確認して、それから次の仕入れ量を決めよう」
『承知しました』
「それから、品質についても確認してくれ。琉球で評価されている商品でも、日ノ本へ持っていけば違った評価になることもある。仕入れるだけではなく、実際に仕立てる職人達の意見も聞いておきたい」
『堺の仕立て職人にも問い合わせます』
「頼む」
担当者は書類へ指示を書き込み、秀高はそれを確認してから次の資料へ手を伸ばした。
今度は、堺から琉球へ供給する農具についての資料だった。
琉球側で需要が安定している商品であり、今後も取引量を増やせる可能性がある。しかし、提示された販売価格を確認した秀高は、少し眉を寄せた。
「この価格では、琉球側が継続して買うには少し高いな」
『原価に輸送費と関税を加えますと、この程度になります』
「なら、少し利益を抑えよう。相手が無理なく買い続けられる価格にすることが大切だ」
『堺屋の利益は減りますが』
「一度の取引で大きな利益を取るより、何度も買ってもらえる方がいい。相手が利益を出せなければ、そのうち取引自体が続かなくなる。こちらも長く商売をしたいなら、相手が続けられる条件を作る必要がある」
『承知しました』
担当者が価格表を修正し、改めて秀高へ差し出す。
秀高は数字を確認し、静かに頷いた。
「これで進めよう」
『かしこまりました』
その後も、港湾利用や支払い方法についての打合せが続いた。
商船が入港した際にどの情報を申告するのか、荷役の責任をどこで分けるのか、倉庫へ搬入した後に破損が見つかった場合にどう記録を残すのか。昨日まで条約の細則で決めた内容を、現場の担当者が迷わず使えるように整理していく。
『到着時に破損が確認された場合は、港側と船側の双方で確認する形で考えております』
「それなら、その確認を必ず記録に残してくれ。積み込みの時点では問題がなかったのか、それとも輸送中に破損したのか、それが分からなくなれば後で揉める」
『承知しました。記録の様式も統一しておきます』
「頼む」
支払いについても、新しい商人には最初から大きな信用を与えず、まずは確実に代金を回収できる方法を使う一方、何度も問題なく取引を重ねた商人には、その実績に応じて条件を変えていく方針が決まった。
一通りの確認が終わる頃には、朝から始まった打合せもかなりの時間を使っていた。
それでも、秀高は席を立つ前に、今後の支店運営についてもう一度確認する。
「俺達は一週間以内には琉球を出る。だから、それまでに今日決めたことを支店側へ完全に引き継ぎたい。俺達がいなくなった後も、王国側との取引が止まらないようにしておいてくれ」
『承知しました』
「判断に迷うものが出た場合は、過去の取引実績と今回決めた方針を基準にする。それでも難しい場合だけ、堺へ連絡してくれ」
『はい』
「頼む」
責任者達が一斉に頭を下げた。
こうして、条約締結後の堺屋の基本的な取引方針が、支店へ少しずつ引き継がれていった。
一方、小梅は客殿の執務室で昨日のお茶会についての資料を広げていた。
王妃や才媛達が何に興味を示していたのか、どの衣装を長く見ていたのか、どの色を好んでいたのか、どんな髪飾りに目を向けていたのか。昨日交わした会話を思い出しながら、一つずつ記録へ加えていく。
その横には、お茶会の後に寄せられた注文依頼が並べられていた。
侍女の一人が書類を手に、小梅の前へ進む。
『小梅様。こちらが王妃様からのご注文でございます』
小梅は受け取った書類へ目を通した。
『帯と髪飾り、それから反物ですね。この帯は昨日、長くご覧になっていました』
『はい。何度も色を確かめておられました』
『では、第一候補にしましょう。ただ、同じものが仕入れられない場合に備えて、色や雰囲気が似ているものもいくつか探してください。価格も一緒に出していただけると助かります』
『承知しました』
侍女はすぐに書き留めた。
続いて、王国の才媛達から寄せられた注文を一人ずつ確認していく。
華やかな色を好む者もいれば、落ち着いた色合いを好む者もいる。また、衣装そのものよりも帯や髪飾りに強い関心を持っていた者もいた。
小梅は昨日の会話を思い出しながら、それぞれに合う品を考えていく。
『こちらの方は、この色を気に入っておられましたね』
『はい』
『なら、この染め方のものを中心に探しましょう。ただし、価格の違うものもいくつか用意してください』
『同じ品を複数用意するのですか?』
『いいえ。品質や価格の違うものを候補として並べるのです。選択肢が一つだけでは、こちらが一方的に商品を決めることになりますから、ご本人に選んでいただけるようにした方がよいでしょう』
『なるほど。承知しました』
別の侍女も、仕入れ先について調べた資料を差し出す。
『こちらの仕入れ先なら品質は十分ですが、少し高くなります。一方、こちらなら価格は抑えられますが、納期が長くなります』
小梅は二つの資料を見比べる。
『王妃様の分は品質を優先しましょう。こちらを第一候補にして、価格を少し抑えたものを第二候補にします。才媛の皆様の分は、ご希望や予算に合わせて選べるようにしてください』
『承知しました』
侍女達は指示を受け、それぞれの注文書へ必要な情報を書き込んだ。
さらに、小梅は昨日のお茶会で得られた情報を、今後の商売へどう繋げるかを考えていた。
王妃や才媛達の注文だけなら、今回の依頼に対する対応で終わる。
だが、それだけではもったいない。
昨日、実際に衣装を手に取ったことで、琉球側の女性達が日ノ本の商品についてどのような関心を持っているのかが見えてきた。振袖そのものに興味を示した者もいれば、帯や髪飾りへ強く惹かれた者もいる。また、日ノ本の反物を見て、染色や仕立て方について質問する者もいた。
小梅はそれらを一時的な注文としてだけではなく、今後の市場を考えるための情報として整理していく。
『こちらの方は、衣装よりも織物そのものに興味が強いですね』
『はい。昨日も反物を何度もご覧になっておりました』
『なら、仕立てた衣装だけではなく、反物のまま扱える商品も調べておきましょう』
『承知しました』
『こちらの方は髪飾りへの関心が高かったので、日ノ本のものだけではなく、琉球の衣装にも合わせられる形を考えてみても面白いかもしれません』
『なるほど』
小梅は商品を売ることだけではなく、相手の文化や好みに合わせて商品を変えることまで考えていた。
作業が進むにつれて、机の上の書類は少しずつ整理されていった。
注文内容が人物ごとに分けられ、商品ごとの仕入れ先が決まり、価格と納期も書き込まれていく。小梅は最後に全体を見渡し、抜けている部分がないかを確認する。
侍女達も、以前なら小梅から指示を受けて書き写すだけだったところから、少しずつ変わっていた。仕入れ価格を比較し、納期を考え、品質とのバランスまで自分達で考えながら意見を出している。
『少納言様。こちらなら価格を少し抑えられますが、納品まで数日長くなります』
『王妃様の分は急ぐ必要がありませんから、品質を優先しましょう。才媛の皆様の中で急ぎのものだけ、納期の早い方へ回してください』
『承知しました』
『それから、同じ品を全員に勧める必要はありません。それぞれ好みが違いますから、昨日のお茶会で伺った内容を思い出して選んでください』
『はい』
小梅は頷きながら、侍女達が自分で考えて仕事を進めている姿を見ていた。
一度筆を置き、机の上に並んだ注文書を眺める。
昨日のお茶会で王妃が振袖を見つめていた姿や、才媛達が帯や髪飾りを選んでいた光景が頭に浮かぶ。
あの時間は、確かに楽しかった。
けれど、副総統として見れば、それだけではなかった。
誰が何を好むのか、何に興味を示すのか、どのような商品なら喜んでもらえるのか。そうした情報を直接知ることができた。それは、そのまま市場の情報になる。
小梅は再び筆を取った。
『せっかく生まれたご縁ですから、一度の注文で終わらせたくありません。今回きちんと品物をお届けして、次も堺屋を頼りたいと思っていただけるようにしたいですね』
侍女達が頷く。
『はい』
『そのためにも、まず今回の仕事を丁寧にやりましょう』
『承知しました』
小梅は静かに微笑んだ。
午後に入ると、小梅はさらに堺屋琉球支店へ引き継ぐための資料作りへ取り掛かった。
今回の注文内容だけを渡して終わるのではなく、誰がどのような商品を好んでいたのか、どの商品について今後問い合わせが増えそうなのか、どの仕入れ先を利用するのかまでまとめていく。
王妃や才媛達からの注文は、一度の売買だけで終わらせるのではなく、今後の関係を築くための最初の取引でもある。
そのため、小梅は注文相手の立場を考えながら、価格の設定にも注意を払った。
『こちらの商品は、品質を考えればこの価格でも問題ありませんが、今後も継続して注文していただくことを考えると、もう少し抑えてもよいかもしれません』
侍女が価格表を見る。
『こちらの仕入れ先へ変更すれば、少し下げられます。ただ、納期が長くなります』
『それなら、急ぎでないものはこちらへ回しましょう。納期が重要なものだけ、今の仕入れ先を使ってください』
『承知しました』
こうして小梅は、価格と品質だけでなく、納期や継続性まで含めて注文を整理した。
やがて秀高の方でも、その日の主要な打合せが一段落した。
今日決めた取引条件について支店側が再確認し、今後の連絡方法や問題が発生した場合の報告手順まで整理する。
秀高は最後に一週間以内に琉球を離れる予定であることを改めて伝え、その間に支店への引き継ぎを完了させるよう指示した。
『承知いたしました。総統がおられない間も、王国側との取引を滞りなく続けられるよう準備いたします』
「頼む。今回の条約は、俺達がいなくなってからが本当の始まりだからな」
『はい』
「支店の判断で進められることは、できるだけ支店で処理する。堺への報告が必要なものだけ、まとめて送ってくれ」
『承知しました』
秀高は頷き、残った資料を整理して支店側へ渡した。
夕方、秀高が客殿へ戻る頃には、小梅もその日の作業を終えようとしていた。
回廊の途中で二人は顔を合わせる。
「終わったか?」
『はい。秀高様もお疲れ様でした』
「ああ。今日の取引条件は、ほぼまとまったよ」
『私も注文の整理は一通り終わりました』
「昨日のお茶会のことか?」
『はい。王妃様や才媛の皆様からの注文だけではなく、昨日のお話から今後の商いに繋がりそうなものも整理しました』
秀高は頷いた。
「それは大きいな。昨日の交流が、もう今日の仕事へ繋がったわけだ」
『はい。せっかく皆様に楽しんでいただけたのですから、そのご縁を一度きりで終わらせたくありませんでした』
「その考え方でいい。堺屋の副総統として、ちゃんと仕事をしているよ」
『ありがとうございます』
小梅は少し照れながら微笑み、二人はそのまま執務室へ戻った。
執務室へ入ると、二人はそれぞれが今日まとめた資料を机の上へ並べた。
小梅は注文書を秀高へ見せる。
『王妃様のご注文はこちらで、才媛の皆様の分はこちらです。それぞれ、ご希望の色や品物だけでなく、価格や納期、仕入れ先まで整理しています』
秀高は一枚ずつ目を通した。
「よくまとめたな」
『ありがとうございます』
「昨日のお茶会が、もう今日の商売へ繋がったわけだ」
『はい。昨日は皆様に楽しんでいただくことを第一に考えておりましたが、今日は、その時間から得たものを堺屋の仕事へ変えることが私の役目です』
「その通りだ」
秀高は資料を小梅へ戻した。
今度は、小梅が秀高の資料へ目を通した。
『こちらが、琉球側への供給品についてですね』
「ああ。農具や鉄製品を中心に、まずは無理のない規模から始める」
『織物もありますね』
「それは少量からだ。生産量が少ないからな。まず堺で市場の反応を見る」
『こちらも、最初から大きくするのではなく、少しずつですね』
「ああ。問題なく取引が続くことの方が大事だ」
小梅は資料を読みながら頷いた。
『昨日まで条約を作っていたのに、今日はもう、その条約を使って商いを始めているのですね』
「そういうことだ。条約は作っただけじゃ意味がない。実際に使って、互いに守って、何度も取引をしていく。その積み重ねで、本当の意味を持つようになる」
『はい』
小梅は静かに資料を閉じた。
夜になり一日の仕事を終える前に、二人は翌日からの予定を改めて確認した。
琉球を出るまでには、まだ数日の時間が残されている。
明日以降は、まず王国側との最後の取引打合せを行い、条約締結後の交易について細かな確認を重ねる。同時に、王国側の重臣や関係者への最後の挨拶も済ませなければならない。
堺屋琉球支店についても、今回の滞在中に決めた取引条件や今後の方針を正式に引き継ぐ必要がある。秀高は総統として交易や支店運営について直接指示を残し、小梅も副総統として、お茶会で得られた情報や王妃・才媛達からの注文依頼、それらに関連する今後の商いについて支店側へ引き渡していく。
それらを全て終えた上で、一週間以内に琉球を出航する。
小梅が予定表へ目を落とした。
『まだ数日ありますから、王国側とも落ち着いて話ができますね』
「ああ。急いで終わらせる必要はない。今回の条約で築いた関係だからこそ、最後のところまで丁寧に整えておきたい」
『支店の引き継ぎもございますし』
「そうだな。俺達が離れた後も、堺屋が変わらず動けるようにしておく」
『私も注文関係をまとめて、支店の皆さんへ引き継ぎます』
「頼む」
『はい』
小梅は予定表へ新しい日程を書き込んだ。
やがて、執務室の机の上から書類が少しずつ片付いていく。
秀高は確認を終えた取引関係の資料をまとめ、明日の最終確認や王国側との打合せで使うものを一つに分けた。小梅も注文書や仕入れ関係の資料を整理し、堺屋琉球支店へ引き継ぐものと、翌日以降も手元に残しておくものを分けていく。
まだ仕事は残っている。
しかしそれは、焦って一日で終わらせるようなものではなかった。
残された数日を使いながら、一つずつ確認し、王国側と話し合い、支店へ引き継いでいけばいい。
それこそが、これから長く続く関係を考えた上で、最も確実な進め方だった。
机の上に残る資料が少しずつ減っていく。
二人の仕事も、ようやく一日の終わりへ近づいていた。
秀高が最後の書類を閉じる。
「今日は、ここまでだな」
『はい』
小梅も筆を置いた。
『琉球を離れるまで、まだ少し時間がありますから、明日からまた一つずつ進めていきましょう』
「ああ。王国側への挨拶も、取引の打合せも、支店への引き継ぎも、全部きちんと終えてから出よう」
『はい』
「一週間以内には琉球を出る」
『次は与那国ですね』
「ああ。その次が高山国だ」
『分かりました』
二人は静かに頷き合った。
昨日、長い議論の末に堺と琉球王国の間で正式な条約が結ばれた。
今日、その約束を土台として堺屋の取引が動き始めた。
そして、ここから残された数日の間に、王国との最後の打合せや挨拶、支店への引き継ぎを終えていく。
それが済めば、いよいよ琉球を離れ、次の土地へ向かう。
小梅は髪へそっと手を添えた。そこには今日も秀高から贈られた櫛と簪がある。
『明日も頑張りましょう』
「ああ。これから数日、まだやることは多いからな」
『はい』
二人は静かな夜の中で、これから始まる最後の準備について思いを巡らせた。
琉球での大きな仕事は、まだ完全に終わったわけではない。
けれど、その終わりは確実に近づいている。
そして、その先には与那国へ向かう新たな旅が待っていた。




