第41話ー条約締結と衣装着比べお茶会ー
朝。
琉球王国の空は、薄く雲が浮かびながらも、穏やかな青色に晴れ渡っていた。
首里城には、いつもの朝とは少し違う空気が流れている。
城内を行き交う侍臣。
調印の間を整える者。
書類を確認する官吏。
そして、今日の茶会に必要な衣装や道具を運ぶ者。
朝早くから、多くの人々が忙しく動いていた。
誰もが。
今日という日が、これまでとは違う特別な意味を持つことを理解していた。
今日は。堺・琉球修好通商条約の正式な調印式が行われる日。
そして同じ日に。
日ノ本と琉球の女性達が、互いの衣装を通じて交流する着比べお茶会も開催される。
長く続いた条約策定。
前文。
前文第一条目から第三条目。
本条第一条から第十四条。
さらに。
それを実際に運用するための細則。
双方が特に確認した重要事項をまとめた議定書。
それら全てが、昨夜までに清書されていた。
今日いよいよ、その文書へ両国の代表が署名する。
そしてその一方で、小梅もまた。
堺屋の副総統として、今日の交流を成功させなければならない。
国と国を正式に結ぶ秀高。
人と人との交流を担う小梅。
二人が、それぞれの立場で積み重ねてきたものが。
今日、一つの形として現れようとしていた。
客殿。
秀高は、すでに朝の支度を終えていた。
身にまとっているのは、調印式へ出席するための正装。
鏡の前で衣装を整えた後。
秀高は、机の上に置かれた書類へ目を向ける。
条約本文。
細則。
議定書。
そして、正式な署名に用いる正本。
秀高は、それらを一枚ずつ確認していった。
前文。
前文第一条目から第三条目。
本条第一条から第十四条。
条番号に間違いはない。
文言にも問題はない。
細則との整合も取れている。
議定書も確認済み。
署名に必要な文書も揃っている。
正本の保管についても手筈は整っている。
最後に。
秀高は条約の表紙を手に取った。
そこには正式な名が記されている。
【堺・琉球修好通商条約】
秀高は、その文字をしばらく見つめた。
ほんの数日前まで。
まだ条約そのものを、どのような形にするかさえ手探りだった。
琉球側の官吏達も、条約策定は初めての経験だった。
一つの文言を決めるだけでも時間が掛かり。
時には意見がぶつかることもあった。
しかし。
一つずつ話し合い。
一つずつ疑問を解決し。
ようやく今こうして、一つの正式な文書が目の前にある。
「……今日か」
秀高は静かに呟いた。
「(ようやく、ここまで来たな)」
条約は。
紙に書かれた約束に過ぎない。
その約束を実際に守り。
交易を進め。
人を行き来させ。
技術を伝え。
互いの信頼を積み重ねる。
そこまでやって、初めて意味を持つ。
秀高は、書類を丁寧に重ねた。
その頃。
同じ客殿の別室では、小梅も朝の支度を終えようとしていた。
今日、小梅が身にまとうのは。
最初のお茶会で着ていた白地に梅の振袖とは、趣を大きく変えた別の衣装だった。
この日の振袖は、深みのある淡い青藤色を基調としている。
裾へ向かうにつれて、やや濃い紫へと変化する上品なぼかし染め。
そこには、流水と扇。
さらに細やかな桜や藤の文様が控えめに配されていた。
中央を彩るのは花々だけではない。
流水の意匠が衣装全体を繋ぐことで、静かな流れを思わせる美しい景色を作り上げている。
帯には、金糸と銀糸を織り込んだ袋帯。
そこには、華やかな唐草文様と小さな鳳凰が織り出されている。
最初のお茶会で見せた、白地に梅の「清らかさ」とは違う。
こちらは。
落ち着き。
知性。
そして、柔らかな華やかさを感じさせる装いだった。
今日という条約の調印を祝う場でると同時に、王妃や才媛達と文化交流を行う場に相応しい衣装であった。
侍女が最後の確認をする。
『小梅様、帯はこちらで問題ございません』
『はい』
『髪も整っております』
『ありがとう』
『髪飾りもこちらでよろしいでしょうか』
『はい』
小梅は鏡へ目を向けた。
鏡の中には。
淡い青藤色の振袖に身を包んだ自分がいる。
いつもの自分とは少し違って見える。
しかし。
今日という日に、この色はよく似合っていた。
侍女が感心したように微笑む。
『とてもお似合いでございます』
『ありがとうございます』
『前のお茶会の時とは、随分と印象が変わりますね』
『そうでしょうか?』
『はい』
『こちらの方が、小梅様の落ち着いた雰囲気に合っておられるかと』
小梅は少し照れながら笑う。
『そう言っていただけると嬉しいですね』
そして。
小梅は髪へそっと手を添えた。
そこには。
今日も秀高から贈られた櫛と簪がある。
小梅は、その飾りへ指先で軽く触れた。
『今日も……一緒ですね』
その顔には、自然な笑みが浮かんでいた。
暫くすると廊下から足音が聞こえてきた。
先に部屋を出たのは秀高だった。
小梅も同じく部屋を出て、客殿から回廊に移る所で二人は顔を合わせる。
小梅を一目見た秀高は、一瞬だけ足を止めた。
「……綺麗だな」
小梅が少し驚いたように目を向ける。
『秀高様?』
「いや。今日の振袖も、よく似合ってる」
小梅は少し照れた。
『ありがとうございます』
秀高は、もう一度その姿を見る。
「前回とは雰囲気が全然違うな」
『はい。今日は、こちらにしてみました』
「こっちも似合ってる」
『ありがとうございます』
秀高の視線が、小梅の髪へ移る。
「今日も、付けてくれてるんだな」
小梅は櫛と簪へ触れる。
『はい。これは私の大切なものであり、戦支度でもありますから』
「そうか」
秀高の表情が和らぐ。
小梅も、秀高の正装へ目を向ける。
『秀高様も、とてもお似合いです』
「そうか?」
『はい』
『今日は、いつも以上に立派に見えます』
「普段は?」
小梅は少し考える。
『普段も立派です』
「なら安心した」
小梅が小さく笑う。
『ふふっ』
二人の間に朝の緊張を少しだけ和らげる時間が流れた。
「今日は、お互い忙しくなるな」
『はい』
「無理するなよ」
『秀高様もです』
「ああ」
二人は頷き合う。
「じゃあ、また後で」
『はい』
二人はそれぞれの役目へ向かって歩き始めた。
そして、調印式の刻限となった。
首里城 謁見の間
広間には、すでに王国側の重臣と官吏達が整然と並んでいた。
中央には琉球王国国王・尚清王の御座。
その左右には。
東元宰。
馬周明。
そして、王国の重臣達。
その後方には、各部署の官吏達。
向かい側には。
堺側の席が用意されている。
その中央に秀高。
その後ろ堺から同行してきた官僚達。
誰一人、軽い表情を浮かべてはいない。
皆が姿勢を正している。
今日、この場所で交わされる約束が。
これからの両国の関係を左右することを理解しているからである。
やがて。
尚清王が姿を現した。
『国王陛下、ご入来』
声が響き、一同が一斉に頭を下げる。
尚清王が御座へ着くと静かに周囲を見渡した。
やがて、その視線が秀高へ向けられる。
『参議殿』
秀高は深く頭を下げる。
「はっ」
『今日という日を迎えられたこと、余も嬉しく思う』
「身に余るお言葉にございます」
尚清王は正面へ置かれた条約文書へ目を向けた。
『これが』
『堺と王国の未来を結ぶ文書となるのだな』
「はい」
「前文から前文条目。本条第一条から第十四条。そして細則、議定書。全て、双方が協議して定めた内容をまとめてございます」
尚清王は静かに頷いた。
『よろしい』
その一言で広間の空気が、さらに引き締まった。
東元宰が立ち上がる。
『これより、堺・琉球修好通商条約の正式な調印を執り行います』
声が広間へ響く。
『まず、双方の代表により、条約本文及び付随文書の最終確認を行います』
秀高が立ち上がる。
条約文書を両手で持つ。
「それでは、改めて確認いたします」
前文。
『本条約は、堺と琉球王国との間においてのみ適用されるものとする』
続いて。
前文第一条目。
第二条目。
第三条目。
そして。
本条第一条から第十四条。
基本原則。
交易。
技術・人材交流。
物資の相互交易。
港湾利用。
相互安全保障。
連絡・協議。
人の往来・保護。
紛争解決。
条約改定。
軍事協力。
秘密保持・情報管理。
相互関税。
そして。
条約の発効・署名・締結。
全てを読み上げる。
さらに細則についても確認する。
交易品目。
関税の運用。
港湾利用。
人の往来。
技術者の派遣。
軍事支援の連絡。
情報管理。
紛争処理。
それぞれの具体的な運用が定められていることを確認する。
最後に議定書。
双方が特に確認した重要事項が、正式な書面として残されていることを確認する。
読み上げを終え秀高は文書を閉じた。
「以上が、これまで双方が協議し、決定した全ての内容となります」
尚清王が口を開く。
『東元宰』
『馬周明』
『王国側として、相違はないか』
東が深く頭を下げる。
『ございません』
馬も続く。
『私も相違ございません』
尚清王は秀高へ目を向ける。
『参議殿』
『堺側はいかがか』
秀高も深く頭を下げる。
「相違ございません」
「ここにある全てが、我々が共に決めた約束でございます」
尚清王は静かに頷いた。
『ならば』
『正式に進めよう』
まず琉球王国側の署名のため尚清王が筆を取る。
広間が静まり返る。
その静けさはまるで筆先の音まで聞こえるかのようだった。
尚清王は条約文書へ目を落とす。
この先歴代の国王へ引き継がれることになる文書。
その意味を確かめるように、ゆっくりと筆を動かす。
一文字。また一文字と最後まで書き終える。
そして静かに筆を置いた。
『これでよい』
続いて堺側。
秀高が前へ進む。
条約文書へ一礼。
そして。
筆を取る。
その瞬間ここ数日間の記憶が、秀高の中を駆け巡った。
前文を巡る議論。
各条文を巡る質問。
相互関税を巡る意見。
軍事協力の範囲。
細則という考え方を説明した時の王国側の戸惑い。
そして。
何度も書き直した議定書。
夜遅くまで続いた清書。
それら全てが今、この一本の筆先へ集約されているようだった。
秀高はゆっくりと自らの名を記した。
そして。
筆を置き、深く一礼する。
「これで、堺も正式にこの約束をお受けいたします」
東元宰が双方の署名を確認する。
『双方の署名を確認しました』
一呼吸。
『これをもって』
『堺・琉球修好通商条約は正式に成立いたします』
その言葉が。
広間に響き渡った。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
数秒の静寂。
やがて幾つもの静かな吐息が漏れる。
条約本文の策定。
細則。
議定書。
清書。
最終確認。
その全てを経てようやく、二つの国の正式な約束となった。
東元宰が正本を手に取る。
『双方の正本を、それぞれ保管いたします』
堺側の正本。
琉球側の正本。
同じ内容を持つ正式な文書が。
それぞれの手元へ渡される。
馬が確認する。
『間違いございません』
秀高も頷く。
「こちらも問題ございません」
尚清王が静かに言葉を続けた。
『これより先』
『堺と琉球王国の関係は、これまでとは違うものとなろう』
『交易だけではない』
『人が行き交い』
『技術が行き交い』
『互いに学び合う』
『困難があれば、協議する』
『その礎が、今ここに築かれた』
秀高は深々と頭を下げる。
「この条約に恥じぬよう」
「堺も誠実に、これを守ってまいります」
尚清王は満足そうに頷いた。
『期待しておるぞ』
こうして。堺・琉球修好通商条約は正式に成立した。
その知らせはすぐに首里城内へ広がっていく。
官吏達。
従者達。
調印式を支えた者達。
皆が安堵の表情を浮かべていた。
ここ数日。
彼らは、条約という馴染みのない仕組みを学び。
何度も考え。
何度も議論し。
ようやく一つの形を作り上げた。
その努力が今日。
正式な国家間の約束として認められたのである。
しかし今日という日は、これだけでは終わらない。
この日はもう一つの交流が待っていた。
調印式を終え、秀高は、尚清王や東元宰、馬周明らとともに、奥の会場へ案内された。
そこでは正式な調印を祝う宴が設けられていた。
料理が並び。
酒が用意される。
調印式の間とは違い。
少しずつ緊張が解けていく。
尚清王が杯を持ち上げる。
『堺と琉球王国の新たなる関係に』
一同が杯を掲げる。
『乾杯』
秀高も杯を掲げる。
「乾杯」
杯が交わされ。
酒が進み始めた。
宴の席では。
条約についての話が自然と出てくる。
『第十三条の相互関税は、商人達にも大きな恩恵となるでしょう』
『港湾の利用についても、これまで以上に分かりやすくなりました』
『人の往来が増えれば、技術交流も盛んになりそうですな』
『王国の職人達にも、堺の技術を学ぶ機会が増えるでしょう』
『逆に、琉球から堺へ伝えられるものもございます』
官吏達は、それぞれ未来について語っている。
秀高は、その話を聞きながら、静かに杯を傾けていた。
その時。
ふと秀高は小梅のことが頭に浮かぶ。
「(小梅の方は、もう始まっているだろうな)」
朝。
振袖姿で鏡を見ていた小梅。
髪には、自分が贈った櫛と簪。
それを身につけていた姿。
そして。
「今日も、一緒ですね」
そう呟いた小梅の顔。
秀高の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「(今頃、どうしているかな)」
「(王妃様や才媛の皆様は、振袖を気に入ってくれただろうか)」
「(小梅なら、一人一人に似合うものを選んでいるだろうな)」
お茶会の準備をしていた時の小梅の姿も思い出す。
帯の組み合わせ。
髪飾り。
反物。
茶菓子。
細かなところまで確認していた。
そして。
琉球衣装を着るための準備までしていた。
「(きっと上手くやっている)」
「(あいつなら大丈夫だ)」
そう思いながら。
秀高は静かに杯を傾けた。
しばらく。
周囲の会話が遠く感じられた。
条約が無事成立した安堵。
そして。
妻が今、別の場所で自分の役割を果たしていることへの誇らしさ。
その二つが。
胸の中で静かに重なっていた。
「(今日の小梅も、きっと綺麗だろうな)」
その考えに。
秀高は小さく笑う。
そして。
ゆっくりと現実へ意識を戻した。
宴席ではまだ王国側の者達が条約の未来について語っている。
秀高は再び、その話へ耳を傾けた。
今日という日。
自分だけではなく。
小梅もまた。
別の場所で大切な役割を果たしている。
そう思うと、不思議と肩の力が抜けた。
そして場面は茶会の一室へと移る。
日ノ本・琉球衣装着比べお茶会の会場。
王妃月江と王国の才媛達が小梅の侍女たちの案内で部屋へ入る。
入室直後、彼女たちが最初に目にしたのは。
色とりどりの日ノ本の振袖だった。
白。
淡い紅梅色。
桃色。
紫。
深い紅。
様々な色彩。
様々な文様。
そしてそれぞれに合わせて用意された帯。
髪飾り。
反物。
月江は思わず足を止める。
『……美しい』
その一言に。
才媛達も一斉に振袖へ目を向けた。
『本当に』
『これほど色があるとは』
『あちらの柄も素敵です』
『帯まで違うのですね』
小梅が微笑む。
『本日は、どうぞごゆっくりご覧くださいませ』
月江が小梅へ目を向ける。
『少納言様』
『はい』
『この中で、私に似合いそうなものを選んでいただけますか?』
『もちろんでございます』
その一言でお茶会が開始が宣言されたのであった。
小梅は、一着の振袖の前へ立つ。
この日の小梅自身が着ているのは。
最初のお茶会で身につけていた白地に梅の振袖とは別のもの。
淡い青藤色を基調とし。
流水と扇。
桜と藤。
控えめながら上品な文様が描かれている。
それを見た才媛の一人が声を掛ける。
『少納言様の振袖も、とても美しいですね』
『ありがとうございます』
『前のお茶会とは、また違う印象ですね』
『はい』
『今日は、少し落ち着いた雰囲気のものを選びました』
月江も微笑む。
『とてもお似合いです』
『ありがとうございます』
小梅は一礼すると。
改めて目の前の振袖へ向き直った。
『こちらは、白を基調として、裾へ向かうにつれて紅梅色へ変化するように仕立てております』
『そして、この中央に描かれているのが梅でございます』
王妃が文様を見る。
『梅……』
『はい』
『梅は寒い時期にも花を咲かせることから、高潔さや忍耐を象徴する意匠として使われることがございます』
『なるほど』
才媛の一人が袖へ目を向ける。
『少納言様、こちらの花は?』
『藤でございます』
『こちらは?』
『菊でございます』
次々に質問が飛んでくる。
小梅は一つ一つ丁寧に答えていく。
その様子を月江は興味深そうに聞いていた。
『日ノ本では、花や文様にも様々な願いを込めるのですね』
『はい』
『衣装そのものに意味があるのですね』
『そのように考えていただければ分かりやすいかと思います』
月江は改めて振袖を見る。
先ほどまで「美しい衣装」として見ていたものが。
今はその文様に込められた意味まで含めて。
より深いものに感じられていた。
やがて。
一人の才媛が声を上げる。
『少納言様』
『はい』
『これ……着てみてもよろしいのでしょうか?』
小梅は笑顔になる。
『もちろんです』
その一言をきっかけに。
別の才媛も声を上げる。
『私も着てみたいです』
『私はこちらの色が』
『私は、あちらの柄を』
月江も笑う。
『私も一着、選んでみたいですね』
小梅は嬉しそうに頷いた。
『では、皆様のお好みに合わせて選びましょう』
侍女達が一斉に動き始める。
小梅は一人一人の顔を見ながら。
似合う衣装を考えていく。
『王妃様でしたら、こちらの帯の方がよろしいかと思います』
『こちらですか?』
『はい』
『この振袖は華やかなので、帯を少し落ち着かせた方が全体が綺麗にまとまります』
『なるほど』
『髪飾りはこちらを』
『では、それにしましょう』
別の才媛には。
『こちらの色の方が、お顔立ちが明るく見えると思います』
『本当ですか?』
『はい』
『では、こちらを』
その手際を見て。侍女達も感心していた。
『少納言様』
『何でしょう?』
『まるで、堺屋でお仕事をされている時のようでございます』
小梅は少し苦笑した。
『そうでしょうか?』
『はい』
『相手に合わせて最も良いものを選んでおられます』
小梅は少し考える。
『堺屋で教えていただいたことが、こういうところでも役に立つのかもしれませんね』
月江は、その様子を見ながら笑った。
やがて月江の着付けが終わり、鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。
『……これが私?』
才媛達から歓声が上がる。
『王妃様、とてもお似合いです』
『本当にお美しい』
月江も笑う。
『普段とは全く違いますね』
『こちらの帯だけでも、雰囲気が変わるのですね』
小梅が微笑む。
『はい』
『衣装は、帯や髪飾りによっても印象が大きく変わります』
『面白いものですね』
月江の顔には子供のような好奇心が浮かんでいた。
それから才媛達も次々と振袖を身につけていく。
白。
紅。
紫。
淡い桃色。
一人一人の個性に合わせて。
少しずつ違う組み合わせにしていく。
『この帯ならどうでしょう?』
『こちらの方がよろしいかと思います』
『では、これを』
『こちらの髪飾りも』
『ありがとうございます』
『次は、この振袖を』
小梅は笑顔で応じる。
『はい』
『どうぞ』
お茶会の場はもはや単なる披露の場ではなかった。
衣装を通して。
相手を知る。
相手の好みを知る。
会話が増える。
笑顔が増える。
それだけで。
自然と距離が縮まっていく。
そして今度は小梅と侍女達の番になる。
『では私たちも着替えて参ります』
小梅と数名の侍女達が、奥へ下がる。
月江と才媛達は、琉球衣装を纏う小梅たちの姿を期待した表情で待っていた。
しばらくして。
襖が開き、琉球衣装を纏った小梅と侍女達が、戻ってきた。
部屋の空気が、一瞬だけ止まる。
『まあ……』
『素敵……』
『少納言様、とてもお似合いです』
小梅は少し恥ずかしそうに微笑む。
『ありがとうございます』
日ノ本の振袖とは全く違う。
色。
形。
文様。
着こなし。
けれど。
小梅が身につけることで、そこにはまた別の美しさが生まれていた。
月江が静かに言葉を漏らす。
『琉球の衣装を日ノ本の方が着ると……このようになるのですね』
『はい』
『私達も、王妃様達の衣装を拝見して、とても素敵だと思っております』
月江は嬉しそうに微笑んだ。
そして才媛の一人が、小梅の衣装へ目を向ける。
『少納言様』
『はい』
『こちらの文様は、どのような意味なのですか?』
小梅は少し考え。
『私もまだ全てを理解しているわけではありませんが』
『琉球には、日ノ本とはまた違った意味や美意識があるのだと思います』
『それをこうして実際に身につけてみると』
『少しだけ、その文化へ近づけたような気がします』
その言葉に、月江が静かに頷いた。
『そのお気持ちは嬉しいです』
『少納言様が、琉球の衣装を大切に着てくださっていること』
『それだけでも、私達にとっては嬉しいことです』
『ありがとうございます』
小梅は深く一礼した。
やがて全員の着替えが終わったことを確認した小梅は指示を出す。
小梅の指示により、お茶が運ばれる。
日ノ本の茶と菓子
琉球のお茶と菓子。
互いの味を楽しみながら。
今度は食文化の話へ移っていく。
『この菓子は?』
『日ノ本の菓子でございます』
『甘いですね』
『こちらは琉球のお菓子です』
『こちらも美味しいですね』
『材料も少し違うのでしょうか?』
『はい』
『作り方にも、その土地ならではの工夫がございます』
衣装だけではない。
茶。
菓子。
作法。
言葉。
文化。
様々なものが自然に行き交っていった。
月江が、小梅へ目を向ける。
『少納言様』
『はい』
『今日の会、とても楽しいです』
『ありがとうございます』
『条約を結ぶことが大切なのは、これまでの話で分かっていました』
『でも、こうして実際に衣装を着て、笑いながら話して、互いの文化について知ることができると。.....国同士の約束が、より身近に感じられる気がします』
小梅は静かに微笑んだ。
『はい』
『私も、そう思います』
月江は頷く。
『条約が国と国を結ぶなら』
『こうした交流は、人と人を結ぶのでしょうね』
『その通りだと思います』
小梅は深く頷いた。
やがてお茶会も終わりに近づいていく。
才媛達は。
最後まで衣装の話を楽しそうにしている。
『この帯の色が気に入りました』
『私は、この振袖の柄が好きです』
『同じ衣装でも、着る人によって違って見えるのが面白いですね』
小梅は笑顔で答える。
『はい』
『それも衣装の面白いところでございます』
『今日、このような場を作ってくださってありがとうございます』
『こちらこそ』
月江が小梅へ微笑みかける。
『少納言様のおかげで、とても楽しい時間を過ごせました』
小梅は深く頭を下げた。
『そのように仰っていただけて、私も嬉しく存じます』
こうして日ノ本・琉球衣装着比べお茶会は大きな成功を収めた。
それは衣装を見せるだけの場ではなかった。
互いの文化を知り。
互いの価値観に触れ。
そして。
人と人との距離を縮める時間だった。
夕暮れ。
調印式と宴を終えた秀高は。
客殿へ戻る回廊を一人歩いていた。
朝から長い一日だった。
調印式では、条約の重みを改めて感じた。
宴ではこれから始まる交易や技術交流について、様々な話を聞いた。
そしてその合間にも。
何度も小梅のことを考えていた。
「(小梅は、どうだったかな)」
「(もう終わった頃だろうか)」
そう考えながら歩いていた、その時。
回廊の向こうから。
一人の女性が歩いてくる。
淡い青藤色を基調とした振袖。
流水と扇。
桜と藤。
そして。
髪には、見慣れた櫛と簪。
秀高はすぐに分かった。
「……小梅?」
小梅も足を止める。
『秀高様?』
二人はしばらく顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
「お疲れ様」
『秀高様も、お疲れ様でございます』
「今日、無事に終わったな」
『はい』
「条約」
『お茶会』
「どっちも成功したみたいだな」
小梅は嬉しそうに笑う。
『はい』
『王妃様も、才媛の皆様も、とても楽しんでくださいました』
『とても喜んでいただけました』
「そうか」
秀高も嬉しそうに笑う。
「こっちも、無事に調印できた」
『尚清王様は?』
「喜んでくださった」
『それは良かったです』
「東元宰も馬周明も」
「終わった時、本当に安心した顔をしていたよ」
小梅が笑う。
『皆様、本当に頑張っておられましたから』
「小梅もな」
『私も?』
「ああ」
「今日の茶会を成功させたのは、小梅だろ」
小梅は少し照れた。
『ありがとうございます』
二人は並んで客殿へ歩き始める。
回廊には夕方の風が静かに吹いている。
「それにしても」
秀高が笑う。
「今日は一日が長かったな」
『はい』
『朝からずっと緊張しておりました』
「俺もだよ」
『秀高様も?』
「ああ」
「表では平静にしてたけどな」
小梅が少し笑う。
『意外です』
「意外とは失礼だな」
『すみません』
二人は笑いながら歩き客殿へ戻った。
客殿に戻った秀高と小梅は部屋着に着替え、楽な恰好になる。
そして小梅が侍女へ声を掛ける。
『お酒を一つ、お願いします』
侍女が一礼して退出する。
しばらくして。
二人の前に酒が置かれた。
秀高が杯を持つ。
「じゃあ」
『はい』
「条約の成立と」
『お茶会の成功に』
「乾杯」
『乾杯』
杯が静かに触れ合う。
二人は酒を口にする。
小梅がほっと息を吐いた。
『……今日は、本当に長い一日でしたね』
「ああ」
「でも、良い一日だった」
『はい』
小梅も微笑んだ。
秀高が杯を置く。
「お茶会はどうだった?」
『とても楽しかったです』
『最初は皆様も少し緊張されていたのですが』
『振袖をご覧になった途端、次第に表情が変わっていきました』
「やっぱり喜んでくれたか」
『はい』
『王妃様も、才媛の皆様も、とても興味を持ってくださいました』
『文様の意味についても、たくさん質問されました』
「小梅らしいな」
『私らしい……ですか?』
「ああ」
「相手が何に興味を持っているのかを見て」
「そこから話を広げるのが上手い」
小梅は少し照れながら笑った。
『ありがとうございます』
「衣装選びも?」
『はい』
『王妃様には、この帯が良いと思って』
『才媛の皆様には、それぞれ違うものを』
「ちゃんと一人一人に合わせたんだな」
『はい』
『せっかくのお茶会ですから』
『皆様に楽しんでいただきたくて』
「それが、小梅らしい」
小梅は少し笑う。
『でも』
『これも、堺屋で学んだことが大きいです』
「うん」
『相手が何を求めているのか考える』
『その上で、最も喜んでいただけるものを選ぶ』
『商いでも、社交でも、同じところがあるのかもしれませんね』
秀高は頷いた。
「その通りだと思うよ」
『ありがとうございます』
今度は、小梅が秀高へ尋ねる。
『秀高様は、調印式はいかがでしたか?』
「ああ」
「無事に終わった」
『緊張されましたか?』
「かなりな」
『やはり』
「ああ。条約を作るところまでは、何度失敗してもやり直せる」
「でも。..........署名した瞬間から、これは本当に両国の約束になる」
「そう考えると、やっぱり緊張する」
小梅は静かに頷いた。
『それでも』
『無事に終えられて、本当に良かったです』
「ああ」
「小梅もな」
『はい』
小梅は杯を置く。
『今日、王妃様が仰っていました』
「何を?」
『条約は国と国を結ぶ』
『でも、こうした交流は人と人を近づける』
『どちらも大切だと』
秀高は少し考えた。
「なるほどな」
『私も、その通りだと思います』
「ああ」
「国同士の約束だけでは、きっと足りない」
「人と人が互いを知ることも必要だ」
小梅は頷く。
『だから』
『今日の一日は、とても意味のある日だったのだと思います』
秀高も静かに笑った。
「そうだな」
二人の間にしばらく静かな時間が流れた。
今日一日のことを思い返す。
朝。
調印式。
署名。
正本の交換。
祝宴。
お茶会。
振袖。
琉球衣装。
そして今。
客殿で酒を酌み交わしている二人。
一つ一つの出来事が。
一本の線のように繋がっている。
秀高が静かに口を開く。
「これからだな」
『はい』
「条約を作っただけじゃない」
「これから、堺と琉球が本当に付き合っていくことになる」
『交易も』
『技術も』
『人も』
「そして、文化も」
『はい』
「今日のお茶会も、その最初の一歩だったんじゃないか」
小梅は嬉しそうに頷いた。
『はい』
『私も、そう思います』
小梅が、ふと髪へ手を添える。
今日も秀高から贈られた櫛と簪がある。
秀高がそれに気づく。
「今日もずっと付けてたな」
『はい』
「調印式でも?」
『はい』
「お茶会でも?」
『もちろんです』
小梅は微笑む。
『今日一日、ずっと一緒でした』
「そうか」
秀高も嬉しそうに笑う。
「これからも大事にしてくれ」
『はい』
『ずっと大切にします』
秀高は小梅のその言葉を聞いて静かに笑った。
そして二人は最後の一杯を手に取った。
「今日は、本当にお疲れ様」
『秀高様も』
「条約の成立に」
『そして、お茶会の成功に』
「乾杯」
『乾杯』
二人は杯を合わせる。
今度は先ほどよりも少しだけ柔らかな音がした。
酒を飲み終えると。
小梅が静かに笑う。
『今日は、もう十分ですね』
「ああ」
『明日も、まだ仕事がありますから』
「そうだな」
二人は並んで座る。
しばらく何も言わず静かな夜を味わった。
やがて。
秀高が立ち上がる。
「そろそろ休もうか」
『はい』
小梅も立ち上がる。
二人で客殿の奥へ向かって歩く。
今日という一日は終わった。
だが今日から始まるものは多い。
堺と琉球の正式な関係。
今日、条約という形で刻まれた。
そして小梅のお茶会によって。
その条約の向こうにいる「人」の顔も見え始めた。
国と国の約束。
人と人との交流。
政治と社交。
経済と文化。
それぞれが別々に動いているように見えて。
実際には、少しずつ一つの未来へ繋がっている。
そして秀高と小梅もまた。
互いの今日の成功を喜びながら。
新たな明日へ向かって静かに歩き出すのであった。




