第40話ー堺・琉球修好通商条約完成ー
この日。
堺・琉球修好通商条約の草案は、ついに完成した。
前文。
前文第一条目から第三条目。
そして、本条第一条から第十四条。
数日にわたって繰り返された議論と修正の末、堺と琉球王国がこれから築いていく関係を定めた条約が、一つの形として整ったのである。
その完成した草案は、応接間の中央に静かに置かれていた。
何枚もの紙が重なり、その一枚一枚には、ここ数日間に交わされた言葉と、双方が譲り、譲られながら決めてきた約束が刻まれている。
最初の日。
まだ条約とは何なのか。
どこまでを定めればよいのか。
どのような文言なら、両国の未来を正しく表すことができるのか。
そのことすら、手探りの状態だった。
しかし。
議論を重ねるうちに、琉球側の官吏達も自ら問題点を見つけ、意見を述べるようになった。
前文に掲げる理念。
友好と信義。
交易の発展。
人の往来。
安全保障。
技術交流。
紛争解決。
そして、相互関税。
それぞれの条文を一つずつ積み重ね、ついに十四条もの条文が完成した。
東元宰は完成した草案を見つめながら、静かに息を吐いた。
馬周明もまた、机上の文書へ目を向ける。
そこには、もはや単なる「交易の約定」と呼べるものではないものがあった。
それは。
堺と琉球王国が、これからどのような関係を築いていくのかを示す、一つの未来像だった。
『……ついに、ここまで来たな』
東の呟きに、周囲の官吏達も静かに頷いた。
長い協議だった。
意見がぶつかったこともあった。
一つの文言を巡って、何度も話し合ったこともあった。
それでも。
誰一人として途中で投げ出すことなく、ここまで辿り着いた。
秀高も完成した草案を見つめる。
「これで、ようやく形になりました」
その声には、確かな達成感があった。
しかし。
秀高は、すぐには筆を置かなかった。
視線は、完成した条文の先へ向いている。
これで終わりではない。
それを、秀高は知っていた。
条約は紙に書かれただけでは、まだ本当の意味では動かない。
条文に「交易を促進する」と書かれていても。
実際に商人が港へ来た時、誰が何を確認するのか。
関税を軽減すると書かれていても。
どの商品に、どの程度の税率を適用するのか。
商船の入港を認めると書かれていても。
どのような手続きを行い、どこまで補給や修理を認めるのか。
人の往来を認めると書かれていても。
誰が身分を確認し、どの程度の期間滞在できるのか。
軍事支援を行うと書かれていても。
誰が要請し、誰が判断するのか。
秘密情報を守ると書かれていても。
何を秘密とし、誰が管理するのか。
そして。
紛争が起きた時。
どこから先を国家間の問題として扱うのか。
そうした実務上の問題は、本文だけでは全てを定めきれない。
だからこそ。
条約本文が完成した今、新たな仕事が始まろうとしていた。
しかし、これで全てが終わったわけではなかった。
むしろ。
本当に条約を「使えるもの」にするための作業は、ここから始まる。
条約本文には、両国が守るべき基本的な原則が記されている。
だが、それだけでは実際の運用において、様々な疑問が生じる。
「この場合はどうするのか」
「誰が判断するのか」
「どのような手続きを取るのか」
「どこまでを条約の対象とするのか」
こうした具体的な部分まで全て本文へ盛り込めば、確かに誤解は減る。
実際の場面でも判断しやすくなり、条約を運用する者達にとっては分かりやすい。
しかし。
細かく定めすぎれば、今度は別の問題が生まれる。
一つ一つの項目について双方の合意を得なければならなくなり、合意そのものが難しくなる。
また。
あまりにも細部まで固定してしまえば、時代が変わった時に対応できなくなる。
今は必要な取り決めでも、十年後、二十年後には不要になっているかもしれない。
反対に、現在は想定していない新しい問題が生まれる可能性もある。
今の時代に必要だからといって、未来の全てを予測することはできない。
だからといって、未来を考えすぎて何も決めなければ、今日から条約を使うこともできない。
つまり。
『曖昧すぎれば誤解を生み、細かすぎれば硬直する』
その狭間で、どこまでを定め、どこからを双方の裁量に委ねるのか。
それが、秀高達にとって新たな難題となった。
条約本文を作ることも難しかった。
しかし。
実際に人が使う仕組みを作ることは、それ以上に難しい。
本文を作った者達自身が。
その本文を、後世の者達が使える形へと変えていかなければならない。
そして。
この問題を解決するために必要となるのが、条約細則と議定書であった。
細則とは、条約本文で定められた原則を実際に運用するための具体的な取り決め。
議定書とは、本文そのものとは別に、双方が確認した重要事項を書面として残すためのもの。
本文を支えながら、実務を円滑にする。
その役割を持つのである。
条約本文を「骨格」とするならば。
細則は、その骨格を実際に動かすための仕組み。
そして議定書は、双方が特に確認しておくべき事項を記録として残すもの。
それぞれ役割が異なるからこそ。
どこまでを本文に置き。
どこからを細則に回し。
何を議定書として残すのか。
その線引きそのものが、新たな議論となった。
首里城・応接間。
昨日まで何度も使われた部屋には、今日も東元宰、馬周明、そして王国の官吏達が集まっていた。
だが、昨日までとは少しだけ様子が違っている。
机上には、清書前の条約草案。
その横には、新たに用意された数枚の白紙。
これまでとは少し違う。
条約本文を定めるための紙ではない。
これから始まる細則と議定書のための紙である。
秀高は席に着くと、机上の書類へ目を向けた。
東が完成した条約草案へ目を向ける。
『参議殿』
『これで条約草案が完成しましたな』
「はい」
東や馬、そして周囲の官吏達も、完成した草案を静かに見つめていた。
しかし。秀高は、まだ筆を置かなかった。
「……ですが」
その言葉に、東が秀高へ目を向ける。
『まだ何かございますかな?』
「はい」
秀高は机上の条約草案を指差した。
「条約本文は、これで完成です」
「前文から本条第十四条まで、双方が協議し、決定した内容が全て盛り込まれています」
「しかし、このまま正式な文書として締結する前に、もう一つ考えておかなければならないことがあります」
東が首を傾げる。
『もう一つ……?』
「はい」
「実際に、この条約を運用するための仕組みです」
『運用……ですか?』
「条約本文には、両国が守るべき基本的な原則が記されています」
「ですが、実際に商人や港の役人、技術者、使者などが条約を使う時には、本文だけでは判断できない場面が出てきます」
『例えば?』
「第十三条の相互関税です」
「条文には、双方が協議の上で関税を軽減すると定めました」
「しかし、実際に商人が商品を持ってきた時に、『この品にはどの程度の関税を掛けるのか』『誰が確認するのか』まで本文には記していません」
東と馬が顔を見合わせる。
『……確かに』
「そこで、条約本文とは別に、実際の運用に必要な細かな取り決めを定めておく必要があります」
『それは、条約そのものとは別のものですかな?』
「はい」
「こうした取り決めを、細則と呼びます」
東は初めて聞く言葉を確かめるように呟いた。
『細則……』
「条約本文が『何を約束するのか』を定めるものなら、細則は『それをどう実行するのか』を定めるものです」
『なるほど……』
馬も頷いた。
『それならば、我らにも分かりやすいですな』
「ただし」
秀高は続けた。
「細かければ細かいほど良い、というわけではありません」
「必要以上に細かく定めれば、双方の合意が難しくなります」
「そして、将来になって情勢が変わった時、その細則がかえって両国の動きを縛ってしまう可能性もあります」
東が静かに頷く。
『決めなさすぎても駄目』
『決めすぎても駄目』
「その通りです」
「その中間を探さなければなりません」
秀高は、さらに別の紙を一枚取り上げた。
「そして、もう一つあります」
東が目を向ける。
『もう一つ……?』
「はい」
「今回の条約締結にあたり、双方が特に確認しておくべき重要事項を、別の書面として残します」
『別の書面ですか?』
「これを議定書と呼びます」
東と馬は、再び初めて聞く言葉に顔を見合わせた。
『議定書……』
「はい」
「条約本文に全てを書き込むのではなく、今回の協議で双方が確認した重要事項や、本文を補足する取り決めを、別の文書として残しておくのです」
『つまり……』
東がゆっくりと言葉を選ぶ。
『条約本文とは別に、実際の約束を補う文書を作る、と』
「その通りです」
「条約本文が両国の基本的な約束」
「細則が、その約束を実際に運用するための具体的な取り決め」
「議定書が、双方が特に確認した重要事項を記録として残すもの」
「それぞれ役割が違います」
東はしばらく黙って考えた。
そして。
『……我々には、まだ馴染みのない考え方ですな』
「でしょうね」
秀高は頷いた。
「このような条約を作る経験がなければ、最初から知っているものではありません」
「だからこそ、ここから私が順に説明しながら、一緒に作っていきましょう」
東は完成した条約草案を見つめる。
『なるほど』
『条約を作るだけではなく、実際に使えるようにするための仕組みまで考える』
「はい」
『では、参議殿』
『どこから始めますかな』
秀高は条約本文へ目を向けた。
「まずは、実際の運用で解釈が分かれる可能性が高いところから整理しましょう」
「全てを細則にするのではなく、本当に必要なところだけを定めます」
『分かりました』
こうして。
条約策定の経験がない琉球王国の官吏達は、秀高から初めて「細則」と「議定書」という考え方を学ぶことになった。
秀高は紙を一枚取り上げた。
「まず、第一に交易品目です」
「堺から琉球へ供給する物資」
「琉球から堺へ向かう物資」
「それぞれ主要な品目を整理しておきます」
一人の官吏が尋ねる。
『どのような物を想定されていますか?』
「琉球側からは、農産物、織物、工芸品など」
「堺側からは、農具、鉄などの金属類、生活用品、その他王国が必要とする物資」
「ただし、今後新たな品が交易される可能性もあります」
「そのため、最初から全てを固定するのではなく、主要品目を定めた上で、双方の協議によって追加できるようにします」
馬が頷く。
『それならば、将来の交易にも対応できますな』
「はい」
「今の時点で確認できる主要品目を定めておきながら、新しい交易品を排除しない」
「これが大切です」
『なるほど』
秀高は次の項目へ進む。
「そして、関税率ですが」
「これについては、品目ごとに一定の基準を設けます」
『全て同じ税率にはしないということですな』
「そうです」
「生活に必要な物資や、双方の産業を育てるために必要な物資については、低く設定する」
「一方で、国内産業に大きな影響を与える可能性のある品については、慎重に扱う」
官吏達が頷く。
「さらに重要なのは、税率を変更する方法です」
「一度決めた数字を絶対に変えないのではなく、双方の協議によって見直せるようにしておきます」
『第十三条の内容と一致しますな』
「はい」
「本文と細則が矛盾してはいけませんから」
「むしろ、細則は本文を補うために存在するのです」
東が満足そうに頷く。
『条約本文を読んだ者が、細則を見れば具体的な運用まで分かる』
「その形が理想です」
次に話題となったのは、港湾利用だった。
「第五条についても、細則が必要です」
「商船が港へ入り、荷を下ろす。次の港へ行くための補給、必要なら修理を行う」
「これらについて、その都度判断していては時間が掛かります」
馬が尋ねる。
『では、入港時に申告する内容などを定めますか?』
「はい。船名、船主の名前、船の目的、積荷、乗組員の人数。こうした基本的な情報を港へ届けるようにします」
『それなら、怪しい船が紛れ込むことも防げる』
「その通りです」
「同時に、事故や揉め事が起きた時にも、誰の船なのかを確認できます」
『港湾管理の面でも必要ですな』
「はい」
「ただし、申告手続きを複雑にしすぎてはいけません」
「手間が増えれば、商人が港を利用することを嫌がりますから」
『誤解を防ぎながら、商人の負担も増やしすぎない』
「そのバランスが重要です」
別の官吏が口を開く。
『補給や修理についても、一定の範囲を認めるのでしょうか』
「基本的な食料、水、船の修繕に必要なものは、可能な限り認めるべきでしょう」
「ただし、軍事目的の船舶については、商船とは別に扱う必要があります」
『第十一条との関係ですな』
「はい」
「商船と軍船を同じ扱いにすれば、かえって危険になります」
こうして、第五条だけでも複数の問題が浮かび上がっていく。
その度に秀高と王国側は、何を明確にし、何を将来の協議へ委ねるのかを考えた。
さらに、人の往来についても細則が必要となった。
「第八条では、商人、職人、技術者、使者その他の者の往来を認めています」
「ですが、実際に人が国境を越える以上、身分の確認は必要です」
若い官吏が手を挙げた。
『滞在期間についても定めるべきでは?』
「そうですね」
「短期の商用や技術指導。長期の滞在、使者、それぞれ扱いが異なります」
「ただし、ここでも全てを厳格に固定するのではなく、原則を定めた上で、必要に応じて許可できるようにしておきます」
『細かすぎると人の往来そのものが難しくなる』
「はい」
「条約の目的は、人を縛ることではなく、人の往来を安全にすることです」
「必要な確認は行う」
「しかし、それを理由に正当な商人や技術者まで不当に待たせることは避ける」
「その両方を守らなければなりません」
その言葉に、官吏達は静かに頷いた。
技術者や職人の派遣についても、議論が生まれた。
『技術者が長期間滞在する場合、その宿や生活の費用はどちらが負担するのでしょう』
官吏の一人が尋ねる。
秀高は少し考えた。
「原則として、派遣を求めた側が負担する方が分かりやすいでしょう」
「ただし、双方が共同で必要としている技術については、別途協議できます」
『なるほど』
「また、技術者本人が持つ知識と、国家機密に関わる技術は分けて考える必要があります」
「全ての技術を無条件に共有するという意味ではありません」
東が頷いた。
『第三条の技術交流も、細則では現実的な範囲にする必要があるわけですな』
「その通りです」
「交流を促進する」
「しかし、何でも公開するわけではない」
「その線引きも、細則である程度整理しておいた方が良いでしょう」
『また一つ、決めすぎてはいけない問題が出てきましたな』
「ええ」
秀高は苦笑した。
軍事協力についても、議論は難航した。
第十一条には、兵員、武器、兵糧、船舶その他必要な物資又は役務の提供について協力すると定めている。
だが。
具体的な要請方法まで決めるとなれば話は変わる。
『軍事支援の要請は、誰が行うのでしょう』
一人の官吏が尋ねた。
秀高は答える。
「原則として、両国を代表する者を通じて行うべきでしょう」
「ただし、緊急時には正式な使者が到着するまで待てない場合もあります」
「その場合の緊急連絡については、別に手段を定めます」
東が頷く。
『通常時と緊急時を分けるわけですな』
「はい」
「そうでなければ、戦時に条約が役に立たなくなります」
『しかし、緊急時の判断を自由にしてしまえば、逆に問題が起こる』
「だからこそ、誰が要請できるのか、どの程度の緊急性があるのかを確認できる仕組みだけは必要です」
『軍事支援を求める権限を、あまり多くの者に与えるべきではない』
「その通りです」
『そうなると、現場の武将が勝手に要請することはできない』
「原則として、そのようにしておくべきでしょう」
『なるほど』
しかし。
「ただし、海賊や武装勢力による急襲など、数日も待っていられない事態もあります」
「その場合は、現地の責任者が緊急通報だけを行えるようにする」
「最終的な軍事支援の判断は、中央で行う」
『通報と決定を分ける』
「はい」
「そこを明確にすれば、緊急時にも対応しやすいでしょう」
ここでも議論が続いた。
細則を決めていくが、内容は決めすぎない。
それが、この日の協議で何度も繰り返された。
秘密情報の扱いについても同様だった。
第十二条では、外交、軍事、交易その他の秘密情報を第三国へ漏らさないことを定めている。
しかし、ここでも議論は難航する。
「秘密」とは何なのか。
誰が管理するのか。
誰まで閲覧できるのか。
漏洩した場合はどうするのか。
それらを細かく定めすぎれば、情報を扱う者の負担が増える。
逆に曖昧にすれば、今度は「どこまでが秘密なのか」という新たな問題が生じる。
秀高は、そこで一枚の紙へ項目を書き出した。
「まず、秘密情報については、原則として『相手国から秘密として提供されたもの』を対象とします」
『つまり、全ての情報を秘密にするわけではない』
「はい」
「公開されている情報まで秘密として扱う必要はありません」
「重要なのは、双方が秘密として扱うべき情報を明確にすることです」
馬が頷く。
『なるほど』
「そして、情報を取り扱える者も必要以上に広げない」
「ただし、必要な者まで情報を得られないようでは業務に支障が出ます」
「ですから、役割に応じて閲覧できる仕組みにします」
東が静かに頷いた。
『これも、決めすぎず、曖昧にもせず』
「はい」
「その中間を探す必要があります」
若い官吏が尋ねる。
『もし、担当者が交代した場合はどうなりますか?』
「新しい担当者へ必要な範囲で引き継ぐことになります」
「ただし、引き継ぐ者もまた、秘密保持の義務を負う」
『なるほど』
『それなら、人物が変わっても情報管理が途切れませんな』
「そのための細則でもあります」
紛争解決についても、同じ問題があった。
第九条では、商人その他の者の間に紛争が生じた場合、まず当事者間での解決を促し、難しい場合には双方の関係機関が協議すると定めている。
『では、その関係機関とは、具体的にどこなのですかな』
東が尋ねる。
「最初から一つの部署に固定してしまう必要はないでしょう」
「交易に関する問題なら商務を担当する者」
「港湾の問題なら港を管理する者」
「外交上の問題なら外交を担当する者」
「問題の性質に応じて窓口を定めた方が実務上は便利です」
『なるほど』
『つまり、窓口そのものを柔軟にする』
「はい」
「ただし、最終的に国家間の協議が必要となった場合には、双方が責任を持って対応できる者を通す」
「そこだけは明確にしておく必要があります」
官吏達が頷く。
『それなら、商人同士の小さな争いが、いきなり国王や参議のところまで上がってくることも避けられますな』
「その通りです」
「問題の大きさに応じて、解決する場所を変える」
「それも条約を長く使う上では重要です」
こうして。
一つ一つの細則について協議が続いた。
交易。
関税。
港湾。
人の往来。
技術者の派遣。
軍事支援。
秘密情報。
紛争処理。
外交連絡。
そのどれもが、細かくしようと思えば、いくらでも細かくできる。
しかし、細かくしすぎれば、その全てについて双方の合意が必要になる。
その結果、条約そのものの運用が遅くなってしまう。
反対に、簡略化しすぎれば、現場で判断できない。
秀高達は、その境界を探り続けた。
時には意見がぶつかり。
時には一つの文言を巡って何度も書き直し。
時には、せっかく決めた内容を再び白紙に戻すことさえあった。
『これは決めすぎではありませんか?』
『しかし、ここを曖昧にすると現場が困ります』
『では、文言を少し柔らかくしては?』
『それでは意味が変わってしまいます』
そんなやり取りが、何度も繰り返された。
しかし。
互いに譲れる部分と譲れない部分を整理し。
将来の情勢変化にも対応できる余地を残しながら。
少しずつ、細則の形が整っていった。
そして。
最後に残ったのが、議定書であった。
秀高は、新しい紙を机へ置く。
「ここまでで、条文を実際に運用するための細則は、ほぼ整いました」
「しかし、もう一つ」
「今回の条約締結にあたり、双方が特に確認しておくべき事項があります」
東が頷く。
『それを議定書として残すということですな』
「はい」
「条約本文ほど広い範囲を定める必要はありません」
「しかし、今回の交渉で双方が確認した重要事項は、後になって『そんな約束は聞いていない』ということにならないよう、書面に残しておくべきです」
馬が頷いた。
『つまり、条約を補足するための記録ですな』
「その通りです」
「条約本文。細則。議定書。この三つを役割ごとに分けることで、文書全体を整理できます」
東が深く頷いた。
議定書には、今回の締結時点で双方が特に重要と認めた事項をまとめることとなった。
両国の主要交易品。
相互関税の基本的な運用。
港湾利用に関する確認事項。
技術及び人材交流の基本的な手続き。
軍事支援を要請する際の連絡。
秘密情報の管理。
そして、将来的に細則を変更する場合の協議方法。
どれも、条約本文を補いながら、現場で迷わないための重要な事項である。
しかし。
議定書についても、全てを固定することは避けた。
「これ以上先まで細かく定めてしまうと、かえって双方の手足を縛ることになります」
秀高がそう説明すると、東も馬も頷いた。
『必要な部分だけを定める』
「はい」
「それ以外は、時代に応じて双方が協議する」
『それが最も現実的でしょうな』
「そして、将来になって新しい項目が必要になった場合には、その時の双方が新しい議定書を取り交わすこともできるようにしておきましょう」
『それなら、時代の変化にも対応できますな』
「はい」
「最初から全てを予測することなどできませんから」
長い時間が流れた。
何度も休憩を挟み。
何度も文言を書き直した。
朝に始まった議論は、いつの間にか昼を過ぎ。
やがて、夕刻が近づいても続いていた。
それでも、誰一人として席を立とうとはしなかった。
目の前には、二つの国がこれから長く付き合っていくための仕組みがある。
だからこそ。
最後の一文字まで慎重に決めなければならない。
そしてついに。
東が、机上に並べられた複数の書類を見渡した。
『……これで、よろしいでしょう』
馬も一つずつ確認し、頷いた。
『私も問題ございません』
秀高も細則と議定書を最後まで確認する。
一枚。
また一枚。
最後の紙まで目を通した。
そして。
「これなら、本文との矛盾もありません。必要なところは明確になっています」
「それでいて、後世の者達が情勢に応じて協議できる余地も残されています」
東は静かに息を吐いた。
『難しい仕事でしたな』
「そうですね。条約本文を作るより、むしろ難しかったかもしれません」
『なぜですかな?』
「本文では、両国が目指す大きな方針を定めました」
「しかし細則は、実際に人が使うものです」
「現場で迷わないようにしながら、未来を縛りすぎないようにする」
「その両方を満たさなければなりませんから」
東は完成した書類へ目を向ける。
『なるほど』
『だからこそ、この形に辿り着くまで時間が掛かったのですな』
「ええ」
秀高は小さく笑った。
「ですが、皆様の意見があったからこそ、ここまでまとめることができました」
「一人で考えていたら、どこかを決めすぎていたかもしれません」
「皆様が疑問を出してくださったからこそ、必要なところと、残すべき余地の両方が見えました」
官吏達の間からも、安堵の声が上がった。
こうして。
堺・琉球修好通商条約の本文十四条。
そして、その運用を支える細則と議定書。
その全てが、ようやく定まった。
これで、ようやく次の段階へ進める。
残された最後の作業は。
正式な文書として清書することである。
秀高は、机上に並べられた大量の草稿を見渡す。
「では、清書に入りましょう」
東が頷く。
『はい』
「まず、前文から」
「そして前文第一条目から第三条目」
「本条第一条から第十四条」
「続いて細則」
「最後に議定書」
「全ての文言を改めて確認しながら、一字一句、正式な文書として書き上げます」
馬も立ち上がる。
『いよいよ、完成した条約を形にするのですな』
「はい」
秀高は静かに頷いた。
「清書の段階では、誤字や条番号の間違いも許されません」
「本文と細則の表現が食い違っていないか」
「議定書と細則の内容が矛盾していないか」
「そうした部分も最後まで確認しましょう」
東が頷く。
『分かりました』
「明後日、正式に署名を行えるよう、今日のうちに全てを整えましょう」
応接間にいた官吏達も一斉に立ち上がった。
『『承知いたしました』』
それから数刻後。
条約本文の清書が始まった。
前文。
前文第一条目。
前文第二条目。
前文第三条目。
本条第一条から第十四条。
その一つ一つが、正式な文書として丁寧に書き写されていく。
書き終えた部分は、別の官吏が読み上げる。
その声を聞きながら、別の者が原稿と照らし合わせる。
一文字。
一語。
一つの句読点。
どれも慎重に確認された。
『第一条、相違ございません』
『第二条、問題ございません』
『第六条も確認済みです』
『第十三条、関税の文言も一致しております』
そして。
本条第十四条までの確認が終わる。
秀高は一度、深く息を吐いた。
「本文、清書終了です」
東が頷く。
『では、次は細則ですな』
「はい」
続いて、細則が清書される。
そして最後に。
議定書。
それぞれが正式な書式へと整えられていった。
夜が近づく頃。
机上には、数日前まで存在しなかった一つの完成した文書があった。
表紙には、正式な名が記されている。
【堺・琉球修好通商条約】
その下には、前文と前文条目。
本条第一条から第十四条。
続いて細則。
そして議定書。
全てが一つにまとめられていた。
秀高は静かに表紙へ手を置く。
「……完成しました」
東も、しばらく言葉を失っていた。
やがて。
『本当に……完成したのですな』
馬も静かに頷く。
『これが、堺と琉球王国がこれから共に歩むための正式な文書になる』
「はい」
「明後日、この文書に双方の代表が署名すれば」
「正式に条約が成立します」
東は深く頷いた。
『では、明日は最後の確認と調印式の準備を行いましょう』
「その方がよいでしょう」
「誤字や書き損じがないか」
「正本の部数」
「署名する場所」
「式次第」
「一つずつ確認しておきましょう」
『承知しました』
こうして。
条約そのものは、正式な形となった。
その後。
東元宰と馬周明は、完成した条約を携えて王宮へ向かった。
目的はただ一つ。
国王・尚清王への報告である。
尚清王の御前へ通されると、東と馬は深々と頭を下げた。
『国王陛下』
『ご報告申し上げます』
尚清王が静かに顔を上げる。
『申せ』
東が、両手で条約文書を掲げる。
『本日、堺・琉球修好通商条約の草案、及びこれを実際に運用するための細則と議定書の策定が完了いたしました』
尚清王の目が、文書へ向けられる。
『……そこまで進んだか』
『はい』
馬が続ける。
『前文から本条第十四条まで、交易、技術交流、人の往来、港湾、安全保障、軍事協力、秘密保持、相互関税など、両国が今後築く関係の基本が定められております』
『さらに、各条文を実際に運用するための細則と、今回の交渉において双方が確認した重要事項をまとめた議定書も整えました』
尚清王は静かに頷いた。
『余にも内容を』
『はい』
東は順を追って説明を始めた。
条約の目的。
両国の対等な関係。
交易促進。
技術と人材交流。
物資の相互交易。
港湾利用。
安全保障。
人の往来。
紛争解決。
条約改定。
軍事協力。
秘密保持。
相互関税。
そして。
正式な署名と発効。
一つ一つ、簡潔に説明していく。
尚清王は黙って聞いていた。
やがて、馬が最後に告げる。
『そして、第十四条により、双方の正式承認と代表者による署名によって、条約が成立することとなっております』
尚清王はしばらく文書を見つめた。
そして。
『……良い』
『これまで堺との間で交わしてきた約束を、より明確な形にするものとなっておる』
『交易だけではない』
『技術、人、港、そして安全まで含めた関係を築こうとしている』
東が深く頭を下げる。
『ありがたきお言葉にございます』
『参議殿は、よくまとめた』
馬も続く。
『王国側も、多くを学ばせていただきました』
尚清王は頷いた。
『では、調印式はいつの予定か』
東が答える。
『明後日を予定しております』
尚清王は少し考えた。
『明日は最終的な確認と準備に使う』
『そして明後日』
『正式に署名する』
『それでよい』
『ありがとうございます』
『式は、両国の代表が揃う形とせよ』
『はい』
『条約本文だけでなく、細則と議定書も、正式な文書として共に確認するのだな?』
『その通りでございます』
『ならば、その準備も抜かりなく行え』
東と馬が深々と頭を下げる。
『承知いたしました』
こうして。
堺・琉球修好通商条約の調印式は、明後日に正式決定した。
一方。
その頃の客殿では。
小梅が、明後日に迫った日ノ本・琉球衣装着比べお茶会の準備に追われていた。
机の上には、振袖や帯、反物、髪飾りの一覧。
琉球衣装の確認書。
当日の進行を書き出した紙。
そして、王妃や才媛達の着付けに関する確認事項まで並んでいる。
『小梅様、こちらの振袖についてですが』
『はい』
『王妃様が着られる際には、こちらの帯の方がよいかと思います』
小梅は帯の一覧を見比べる。
『そうですね』
『こちらの方が振袖の色合いに合います』
『承知しました』
別の侍女が声を掛ける。
『こちらは才媛の皆様用です』
『それなら、少し華やかな方がよいでしょう』
『はい』
『ただし、全員が同じ雰囲気にならないよう、それぞれ少しずつ変えましょう』
侍女達が頷く。
『では、帯はこちらの三種類を』
『お願いします』
小梅は一つ一つ確認していく。
その姿は、もはや単なる公家の姫ではなかった。
堺屋の副総統として。
社交の場を成功させるために。
必要なものを判断し、指示を出していく。
侍女達もまた、堺屋の者として商才を働かせながら、小梅を支えていた。
『こちらの反物は、どのように見せますか?』
侍女が尋ねる。
小梅はしばらく考えた。
『これは実際に手に取っていただきましょう』
『こちらは展示だけにします』
『そして、この反物については、織り方の違いを説明できる者を一人付けましょう』
『承知しました』
『衣装だけではなく、日ノ本の織物そのものにも興味を持っていただけるはずです』
『はい』
『昨日のお茶会で、皆様が振袖をとても気に入ってくださいましたから』
小梅は微笑む。
『明後日は、もっと楽しんでいただきましょう』
侍女達も嬉しそうに頷いた。
『はい!』
さらに小梅は、琉球衣装についても細かく確認していた。
自分が着る衣装だけではない。
一緒に着用する侍女数名の衣装についても、色や文様、着付けに必要なものなどを確認していく。
『この衣装は、私が着るものより少し軽いですね』
『はい』
『侍女達が動きやすいものを選んでくださったようです』
『それなら、当日も動きやすそうですね』
『はい』
「私たちが琉球衣装を着ることで、王妃様や才媛の皆様にも、日ノ本側が琉球文化へ関心を持っていることが伝わります」
『それだけでも、雰囲気が柔らかくなるでしょうね』
「ええ」
「衣装は、言葉より先に人を笑顔にすることがありますから」
侍女達も頷いた。
『着比べお茶会、楽しみでございます』
『私もです』
小梅は笑った。
夜もかなり深くなった頃。
客殿の襖が、静かに開いた。
「戻ったよ~」
小梅が顔を上げる。
『秀高様』
侍女達も一礼する。
『お帰りなさいませ』
秀高は少し疲れた顔をしていた。
「遅くなった」
『お疲れ様でございます』
「まだ起きてたのか?」
小梅は少し笑った。
『はい』
『明後日のお茶会の準備が残っておりまして』
秀高は机の上を見る。
そこには、衣装や帯、反物、髪飾りの一覧が所狭しと並んでいた。
「これは……かなり準備したな」
『はい』
小梅は少し誇らしげに答える。
『王妃様と才媛の皆様には、せっかくですから、日ノ本の衣装を十分に楽しんでいただきたいと思いまして』
「なるほど」
秀高は一枚の一覧を手に取る。
「これは?」
『王妃様がお召しになる予定の振袖です』
「そして、こっちは?」
『才媛の皆様の分です』
「こっちは……」
『琉球衣装です』
「小梅の分か?」
『はい』
秀高は笑った。
「そうか」
「似合いそうだな」
小梅の頬が少し赤くなる。
『まだ着ておりませんのに』
「いや」
秀高は小梅の髪へ目を向ける。
そこには、今日も秀高から贈った櫛と簪があった。
「それを付けている小梅なら、きっと何を着ても似合うだろう」
『もう……』
小梅は恥ずかしそうに視線を逸らした。
小梅はふと、秀高の顔を見る。
『秀高様』
「ん?」
『条約の方は、いかがでしたか?』
秀高は小さく笑う。
「何とか終わった」
『本当に?』
「ああ」
「本文だけじゃない」
「細則と議定書まで作って、ようやく正式な文書としてまとめ終えた」
小梅は目を輝かせた。
『それは大変でしたね』
「かなりな」
『それでも、明後日には調印式なのですね』
「ああ」
「東元宰と馬周明が尚清王へ報告してくれて、調印の日程も正式に決まった」
『明後日……』
小梅は嬉しそうに微笑む。
『いよいよですね』
「そうだな」
「そして、その日には小梅の着比べお茶会もある」
『はい』
二人は顔を見合わせる。
秀高は、小梅の前に座った。
「小梅も今日はかなり働いたようだな」
『はい』
「振袖の準備に、琉球衣装の確認に、帯や髪飾りまで」
「副総統らしくなったな」
小梅は少し驚いたように目を丸くした。
『そうでしょうか?』
「ああ」
『でも……』
小梅は少し考える。
『これも、堺屋の皆さんに教えていただいたことが多いです』
「うん」
『最初の頃は、商いの話をされても何が何やら分かりませんでした』
『でも、皆さんの話を聞いて、実際に書類を見て、少しずつ覚えて……』
『今では、準備の段取りを自分で考えられるようになりました』
秀高は優しく笑った。
「十分成長したよ」
小梅は少し照れながら笑う。
『ありがとうございます』
しばらく二人は並んで、机の上の資料を見ていた。
秀高が一枚の紙を見る。
「これは当日の順番か?」
『はい』
「最初に挨拶」
「その後、日ノ本の衣装をご覧いただく」
「そして実際に着ていただく」
『はい』
「その後、小梅と侍女達が琉球衣装を着る」
『そうです』
「最後に、お茶会」
『はい』
秀高は頷く。
「よく考えているな」
『ありがとうございます』
しばらくして。
秀高は小梅の隣へ少し近づいた。
「でも」
『はい?』
「明後日が楽しみだな」
『はい』
「小梅の琉球衣装姿も見たい」
『……お茶会の前に見ることはできませんよ』
「そうか」
『当然です』
秀高は少し残念そうに笑う。
「じゃあ、当日まで楽しみにしておこう」
小梅も笑った。
『私も、秀高様の正装姿を見るのを楽しみにしております』
「なら、お互い様だな」
『はい』
夜は、さらに深くなっていた。
侍女達も、いつの間にか静かに退室している。
客殿には、秀高と小梅だけが残っていた。
小梅は今日の最後の書類をまとめる。
『これで、明日の確認事項も整理できました』
「うん」
『秀高様も、もうお休みになった方がよろしいのでは?』
「そうだな」
秀高は小梅の髪に手を伸ばす。
そして、櫛と簪へ目を向ける。
「今日も身につけてくれてるんだな」
小梅は優しく微笑んだ。
『はい』
『これは、私の大切なものですから』
秀高も嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえると、贈った甲斐があるな」
『大切にします』
「知ってる」
二人の間に、穏やかな時間が流れた。
やがて。
二人は並んで客殿の奥へと戻っていく。
明日は正式な条約文書の最終確認。
そして明後日は。堺・琉球修好通商条約の調印式。
さらに。
同じ明後日には、日ノ本と琉球の女性達が互いの衣装を着比べる、お茶会が待っている。
国家同士の約束と。
衣装と茶を通じて生まれる、人と人との交流。
形は違っていても。
どちらも、これから始まる新しい関係を支える大切な一歩だった。
条約を完成させる秀高。
社交の場を整える小梅。
二人の仕事は違っていても。
その先にある未来は、同じ方向を向いていた。




