第37話ー条約草案会議ー本文編1ーー
小梅のお茶会が終盤へと差し掛かる中、秀高たちは条約の前文の制作を行い、前文及び前文条目は、すべて承認された。
応接間には、それまでとは少し違う緊張感が漂っていた。
前文では、この条約を何のために結ぶのか。
そして、両国がどのような姿勢でこの約束を守っていくのか。
その基本方針が定められた。
ここから先に協議するのは。
堺と琉球王国が、実際に何を行い、何を約束するのか。
条約の本体とも言うべき、具体的な本文である。
東元宰は、目の前に並べられた草案へ視線を落とした。
『前文が定まったことで、条約の土台は完成したと考えてよろしいですな』
『ならば、ここからは本条へ移るということでよろしいでしょうか』
「はい」
秀高は静かに頷いた。
「前文では、この条約の目的と、双方が守るべき基本的な考え方を定めました」
「ここからは、その理念を実際の仕組みへ落とし込んでまいります」
「特に今回の条約は、単なる友好関係の確認ではありません」
「交易、人材交流、技術協力、産業振興、そして両国の安全に関わる内容まで含めたものにしたいと考えております」
東が頷いた。
『先日の謁見でも、その大枠について伺いましたな』
『我々としても、今回の条約が通常の商取引に関する約定ではないことは理解しております』
馬周明も頷く。
『はい。王国にとっても、今後の国政に関わる重要な条約となるでしょう』
秀高は二人の顔を見ながら、改めて草案を整えた。
「では、本条第一条から協議してまいりましょう」
「第一条は、この条約における両国の基本的な関係を定める条文といたします」
「素案になりますが」
「【堺及び琉球王国は、相互の独立及び統治を尊重し、対等な立場において友好、交易その他の交流を行うものとする。】」
「といたしたいと思います」
馬が、草案を見つめながら口を開く。
『参議様』
「どうぞ」
『この「相互の独立及び統治を尊重し」という部分について、もう少し詳しく伺いたい』
『我らの理解では、堺が王国の政へ干渉しないということでしょうか』
「基本的には、その認識で問題ございません」
「今回、私が提案しているのは、琉球王国を堺の領地とすることでも、王国の政を堺が直接支配することでもありません」
「琉球王国は琉球王国として、国王陛下を中心とした統治を続けていただきます」
「同様に、琉球王国が堺の政へ直接干渉することも想定しておりません」
『なるほど』
東が頷く。
『つまり、互いの領域と統治を尊重し、その上で必要な部分について協力するということであるな』
「はい」
「双方が相手の政へ必要以上に口を出さない」
「しかし、友好、交易、技術交流など、共に利益を得られる部分では積極的に協力する」
「それが今回の条約の基本になります」
後方の官吏達も、静かに頷いていた。
東は官吏達へ目を向ける。
『ここまでで、何か意見のある者はおるか』
しばらくして。
『ございません』
『私も問題ないかと』
『異議ございません』
複数の官吏から声が上がった。
東は一度頷いた。
『よろしい』
『では、最終確認を行いましょう』
秀高が顔を上げる。
「承知いたしました」
秀高は改めて草案へ目を落とした。
そして、ゆっくりと読み上げる。
「【堺及び琉球王国は、相互の独立及び統治を尊重し、対等な立場において友好、交易その他の交流を行うものとする。】」
「以上が本条第一条の最終案となります」
「東宰相、馬殿、そして官吏の皆様」
「この内容で、認識に相違はございませんでしょうか」
東が頷く。
『儂は問題ないと思うが』
馬も続ける。
『私も問題ございません』
東が後方へ振り返る。
『官吏諸君は?』
『『異議ございません』』
『よろしい』
東が宣言する。
『それでは、本条第一条を正式に承認とする』
秀高も頷き、第一条の欄へ筆を置いた。
「続いて、本条第二条へ移ります」
「第二条は、今回の条約の重要な柱となる交易について定めます」
秀高は、別の草案を取り出した。
「先日の謁見でも申し上げた通り、堺は日ノ本各地だけでなく、南蛮や明国とも交易を行っております」
「一方、琉球王国は、日ノ本と大陸、そして南蛮を結ぶ海上交易の要衝にあります」
「双方が、それぞれの強みを活かせば、大きな利益を生み出すことができます」
「そこで第二条は」
「【堺及び琉球王国は、相互の交易を促進し、双方の商人及び商船による交易を広く認めるものとする。また、双方は交易の円滑化を図るため、必要な施設及び制度の整備に努めるものとする。】」
「以上を素案といたします」
一人の官吏が手を挙げる。
『参議様』
「どうぞ」
『双方の商人及び商船による交易を広く認めるとのことですが、これは具体的にどこまでを認めるのでしょうか』
「まず、双方の商人が相手国へ赴き、商品を売買することを認めるという意味です」
「また、商船についても、必要な手続きを済ませた上で相手国の港へ入港できるようにいたします」
『なるほど』
別の官吏が続ける。
『では、王国の商人が堺へ行くことも可能になると』
「はい」
『堺の商人も王国へ参る』
「その通りです」
「交易を一方通行にしてしまえば、いずれ不満が生じます」
「双方がそれぞれの市場へ進出できるようにすることで、長く続く交易関係を築けると考えております」
すると、別の官吏が立ち上がった。
『しかし、商人が一気に増えた場合、市場が混乱する恐れはないでしょうか』
「非常に重要なご指摘です」
秀高は頷いた。
「そのため、条約では交易を行う権利と原則を定めますが、入港、商人の身分確認、荷物の検査、滞在期間などの細かな運用については、別途協議して決めるのがよいでしょう」
「条約そのものに細かな規定を詰め込みすぎれば、後々の状況変化に対応できなくなります」
東が頷く。
『前文でも同じ考え方を示されておりましたな』
「はい」
「大きな原則は条約に記す」
「細かな実務は、状況に応じて双方で調整する」
「その方が、長く使える条約になると考えております」
東は官吏達を見渡した。
『他に意見はあるか』
『ございません』
『私もありません』
『異議ございません』
東は頷いた。
『では、ここで最終確認を行います』
秀高が立て掛けていた草案を正面へ戻した。
「それでは、第二条の最終案を読み上げます」
「【堺及び琉球王国は、相互の交易を促進し、双方の商人及び商船による交易を広く認めるものとする。また、双方は交易の円滑化を図るため、必要な施設及び制度の整備に努めるものとする。】」
「こちらが、質疑を踏まえた最終案となります」
「この内容で、東宰相、馬殿、そして官吏の皆様に周知された内容と相違ございませんでしょうか」
東が答える。
『異存なし』
馬も頷いた。
『私も問題ございません』
東が官吏達へ目を向ける。
『諸君はどうか』
『『異議ございません』』
『よろしい』
『それでは、本条第二条を正式に承認とする』
「続いて、本条第三条です」
秀高は草案へ視線を落とす。
「ここからは、今回の条約の中でも特に重要な部分に入ります」
「堺と琉球王国との交易を、単なる物品の売買だけで終わらせないための条文です」
「琉球には琉球の技術があります」
「そして堺には、日ノ本各地から集まる技術と人材があります」
「双方が学び合えば、それぞれの国の発展につながります」
「そこで第三条は」
「【堺及び琉球王国は、農業、畜産、造船、武器製造その他の産業の発展を図るため、必要に応じて技術者、職人その他の人材を相互に派遣し、技術及び知識の交流を行うものとする。】」
「といたします」
一人の官吏が手を上げる。
『参議様』
「どうぞ」
『人材を相互に派遣するとありますが、我が国の職人が堺へ赴くことも含まれるのでしょうか』
「もちろんです」
「それこそが技術交流です」
「堺から一方的に技術を持ち込むだけでは、本当の意味での交流とは言えません」
「琉球には琉球の技術があります」
「例えば織物や染色など、日ノ本にはない技術を学ぶことも、堺にとって大きな利益となります」
その言葉に、何人かの官吏が頷いた。
『なるほど』
『つまり、王国が堺から学ぶだけではなく、堺も王国から学ぶ』
「はい」
馬が口を挟んだ。
『それなら、王国側の職人達も安心するでしょう』
『自分達の技術を一方的に奪われるのではなく、互いに技術を交換するのですから』
「そのつもりです」
秀高は微笑んだ。
「私は、技術を一方的に独占するより、互いに学び合った方が最終的には双方の発展につながると考えております」
その時、東が一つ質問をした。
『参議殿』
「はい」
『人材派遣には当然、費用も掛かりましょう』
『その費用については、どのように考えておられますかな』
「案件ごとに、双方で協議して定めるべきでしょう」
「全てを一方が負担する形では、長期的には続きません」
「必要な技術を求める側が一定の費用を負担する」
「その代わり、派遣された側も技術や知識を得る」
「そうした相互利益の形が現実的だと思います」
東は何度か頷いた。
『なるほど』
『一律の負担を定めるのではなく、その時々の事情に応じて決める』
「はい」
『他に意見は?』
『ございません』
『異議ございません』
東は草案を見た。
『では、最終確認を行いましょう』
秀高は修正内容を確認してから、改めて読み上げた。
「【堺及び琉球王国は、農業、畜産、造船、武器製造その他の産業の発展を図るため、必要に応じて技術者、職人その他の人材を相互に派遣し、技術及び知識の交流を行うものとする。】」
「これが第三条の最終案となります」
「この内容について、皆様に誤解や異議はございませんでしょうか」
東が答える。
『異存なし』
馬も続く。
『私もございません』
『官吏諸君は?』
『『異議ございません』』
『よろしい』
東は頷いた。
『それでは、本条第三条を正式に承認とする』
「では、本条第四条です」
「第四条では、琉球王国で生産された物品と、それを活かした交易について定めます」
「琉球王国では農作物、織物、工芸品など、様々な品が作られております」
「しかし、国内で全てを消費できるとは限りません」
「そこで、その余剰分を交易へ回す仕組みを作ります」
秀高は草案を示した。
「素案は」
「【琉球王国において生産された農産物、工芸品、織物その他の物品について、王国において必要とされる量を除いた余剰分は、王国の意思に基づき、堺屋その他の交易商へ売却することができるものとする。】」
「このようにいたします」
一人の官吏が手を上げる。
『参議様』
「どうぞ」
『なぜ「堺屋その他の交易商」とされるのでしょうか』
『堺屋との条約なのですから、堺屋のみが買い取るとしてもよいように思われますが』
秀高は少し微笑んだ。
「専売にしてしまえば、王国側の選択肢が狭くなってしまいます」
「私は、堺屋に優先的に売却していただく仕組みは歓迎いたします」
「しかし、王国が別の商人へ売却することまで禁止するつもりはありません」
『なぜでしょう?』
「その方が、長期的には堺屋にとっても有利だからです」
「王国にとって『堺屋へ売りたい』と思っていただけるような取引を行う」
「その方が、専売権を押し付けるよりも強固な関係を作れます」
馬が感心したように頷いた。
『なるほど』
『独占することより、信用を積み上げる方を選ぶ』
「はい」
「商いは一度だけ利益を得れば終わりではありません」
「十年、二十年と続いて初めて、大きな利益になるのです」
東も草案へ視線を落とした。
『確かに』
『王国にとっても、余剰品を売る相手が増えることは悪い話ではありません』
『そして、その中でも堺屋が最も良い条件を示せば、自然と堺屋へ品が集まる』
「その通りです」
「それが健全な商いだと私は考えております」
すると、馬が手を挙げた。
『参議様』
「はい」
『一つ、追加でお願いしたい』
『王国から堺へ品を売却するだけではなく、王国が必要とする物資を堺から優先的に購入できるようにしていただくことは可能でしょうか』
秀高は即座に頷いた。
「もちろんです」
「それこそが、相互の交易です」
「琉球から余剰品を購入する」
「その一方で、琉球が不足している物資を堺から供給する」
「一方通行ではなく、双方が必要なものを融通する仕組みを作りましょう」
馬の表情が明るくなる。
『ありがとうございます』
秀高はその場で筆を取り、第四条へ文言を書き加えた。
「では、修正案です」
「【また、堺は琉球王国において必要とされる物資について、可能な限りその供給に努めるものとする。】」
「この一文を加えるのはいかがでしょう」
東は頷いた。
『非常に良いと思います』
『これならば、王国から堺へ売るだけではなく、堺から王国へ供給することも明確になります』
「はい」
「先日の謁見でお話しした構想も、これで条文へ組み込めます」
秀高が示した構想では、琉球で生産された品々の余剰分を堺屋が買い取り、日ノ本だけでなく南蛮や明国へ売買することが想定されていた。
『では』
東が一度、全員を見渡した。
『第四条についても、最終確認といたしましょう』
秀高は、修正された条文を手に取った。
「それでは、第四条の最終案を読み上げます」
「【琉球王国において生産された農産物、工芸品、織物その他の物品について、王国において必要とされる量を除いた余剰分は、王国の意思に基づき、堺屋その他の交易商へ売却することができるものとする。また、堺は琉球王国において必要とされる物資について、可能な限りその供給に努めるものとする。】」
「以上が第四条の最終案となります」
「この内容で、皆様の認識に相違はございませんでしょうか」
馬が頷く。
『問題ございません』
東も続ける。
『異存なしじゃ』
そして官吏達へ目を向けた。
『諸君は?』
『『異議ございません』』
『よろしい』
東は静かに宣言した。
『それでは、本条第四条を正式に承認とする』
ここまで来ると、会議の進み方そのものが、少しずつ変わっていた。
最初は、秀高が草案を提示し、王国側が内容を聞く。
その後、疑問があれば質問をし、必要なら修正する。
そして最後に。
秀高自身が修正後の条文を改めて読み上げる。
その内容を全員へ周知する。
東、馬、そして官吏達が最終確認を行う。
全員が内容を理解したと確認してから、正式に承認する。
その手順が、自然と会議の中で定着し始めていた。
東は、しばらく考えた後に口を開いた。
『参議殿』
「はい」
『このように一条ごとに最後の確認を行うことには、何か理由がございますかな』
秀高は少し微笑んだ。
「条約は、一度正式に結ばれれば、簡単には変更できません」
「そして、今日ここにいる者達がいなくなった後も、条約は残ります」
「だからこそ、その条文が何を意味するのかを、その場にいる全員が理解しておく必要があるのです」
『つまり』
東が続ける。
『承認とは、単に「異議なし」と言うだけではなく』
『その条文の意味を理解した上で、受け入れることだと』
「はい」
「私はそう考えております」
馬が深く頷いた。
『それならば納得できます』
『後世の者達に、「この条文はどういう意味だったのだ」と尋ねられた時、今日ここにいる我々が説明できなければなりません』
「その通りです」
『なるほど……』
東は草案へ視線を落とした。
『前文で申された「後世に至っても理解できる文書」という考えが、ここでも繋がっているのですな』
「はい。条約の文章だけではなく、作る過程そのものも大切なのです」
その言葉を聞いた官吏達の表情が変わった。
最初は、単に外国との条約を作るという未知の仕事を学ぶために集められた。
しかし今では。
自分達も、この条約を作っている。
その実感が生まれていた。
そして、それぞれが自分達の疑問や意見が条文へ反映されていくことを目の当たりにしていた。
若い官吏が、隣の年配の官吏へ小さく呟く。
『自分達の意見が、こうして条文へ入るとは思いませんでした』
『私もだ』
『これならば、自分もこの条約を守ろうと思えます』
その声を聞いた秀高は、何も言わず静かに微笑んだ。
夕刻が近づき、外から差し込む日差しが、少しずつ赤みを帯び始めていた。
しかし、会議はまだ終わっていない。
机の上には、修正された草案が幾枚も並んでいる。
東はその一枚を手に取った。
『本日は、ここまでとしよう』
『第一条から第四条まで、いずれも承認された』
『残る条文については、明日以降さらに協議することとしよう』
『諸君、ご苦労であった』
官吏達が一斉に頭を下げる。
『『ありがとうございました』』
秀高も静かに立ち上がった。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「非常に有意義な会議となりました」
「皆様の意見があったからこそ、より良い条文になったと思っております」
東が笑った。
『それはこちらの台詞ですな』
『本日だけでも、王国にとって大変勉強になりました』
馬も頷く。
『明日もよろしくお願いいたします、参議殿』
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
会議室を出た秀高は、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
「……思った以上に時間が掛かってしまいましたな」
東が苦笑する。
『初めて条約を結ぶのであるから、時間がかかるのは仕方ないのう』
馬も頷いた。
『しかし、今日は随分と前へ進みました』
「はい」
秀高は一度だけ振り返った。
会議室の中では、まだ数人の官吏達が草案を見ながら何かを話している。
その姿を見て、秀高は少しだけ笑った。
「良い傾向ですね」
『何がですかな?』
「最初は、私が提案した内容を聞いているだけでした」
「しかし最後には、皆様自身が条文の意味を考え、修正案まで出してくださった」
「そして、最後に全員へ内容を確認してから承認した」
「それなら、この条約はきっと長く続くものになります」
東は静かに頷いた。
『確かに』
『我々自身が納得して作ったものならば、後世へも伝えやすい』
『後世に我らが定めた条約が残る。喜ばしい限りだ』
「そうですね。では私はここで。明日も宜しくお願い致します」
『宜しくお願い致す』『宜しくお願い致します』
秀高は二人と別れ、客殿へ歩みを進めた。
外はすっかり夕暮れになり、琉球の空は赤く染まり、日中の暑さも少し和らいでいた。
「……今日は疲れたな」
普段の秀高ならば、それだけで終わるはずだった。
しかし。
今日の秀高には、もう一つ気になっていることがあった。
「(小梅はどうしているかな)」
朝。
それぞれの仕事へ向かうため、客殿を出る時。
小梅は笑顔で「頑張ってください」と送り出してくれた。
そして小梅もまた、王妃・月江との茶会へ向かった。
今日の会議で自分が条約草案を詰めていたように。
小梅もまた、自分の役目を果たしているはずだった。
「……ちゃんと仕事してるかな」
秀高は少しだけ笑う。
その頃小梅はというと、既に客殿に戻り仕事をしていた。
机の上には、お茶会で聞いた話を簡単にまとめた覚書が何枚か置かれている。
そして、その隣には堺屋の帳簿や報告書。
小梅は茶会を終えた後も、きちんと副総統としての仕事へ戻っていたのである。
『王妃陛下とのお茶会は、大変有意義なものとなりましたね』
侍女が報告する。
『次回は、日ノ本の振袖と琉球の衣装を互いに着てみるお茶会を開くとのことですね』
小梅は頷く。
『はい。それに加えて、琉球の織物や染色についても詳しく伺うことになりました』
『すでに職人方への確認もお願いしております』
『承知しました』
小梅は手元の書類へ目を通す。
『それから、堺屋の琉球支店へは、この件を伝えておいてください』
『衣装だけではありません』
『琉球の織物がどの程度市場へ流通しているのか、どのような商人が扱っているのか』
『生産量と品質はどの程度なのか。確認できる範囲で調べてもらいましょう』
『直ぐに指示を伝えます』
小梅は書類を一枚、丁寧に整理した。
『今日のお茶会は社交の場でしたが、そこで終わらせてはいけません』
『社交で得た情報を、堺屋の仕事へ繋げる。それが私の役目です』
その横顔には、先ほどのお茶会で見せた柔らかな笑顔とは違う、堺屋副総統としての鋭さがあった。
小梅が客殿で仕事に邁進していると、外から足音が聞こえた。
『秀高様がお戻りになりました』
侍女からの報告に、小梅の表情が一瞬で柔らかくなる。
『まあ』
小梅は思わず立ち上がり、仕事そっちのけで部屋の出入り口の襖に向かう。
『お帰りなさいませ』
小梅が勢い良く襖を開ける。
そこには、少し疲れた顔をした秀高が立っていた。秀高は部屋から響いて来た足音で小梅が来ていることに気づき、襖からは離れていた。
「ただいま」
小梅が笑顔で迎える。
『お疲れ様でした』
小梅は大胆にも秀高に正面から抱き着いた。秀高は小梅の顔が下から見上げる形となったが、ふっと表情を緩めた。
「小梅も、お疲れ様」
秀高は抱き着いた小梅を優しく抱擁し頭を撫でる。
撫でられた小梅は恥ずかしがりながらも、顔の表情筋が緩んでいく。
『はい。ありがとうございます』
秀高は抱擁を解いて部屋へ入り、腰を下ろした。その隣に小梅も腰を下ろす。
身長の大きい秀高は小梅の頭が肩の位置になるため見下ろす形となる。
その小梅の頭を見て、秀高の顔はさらに優しくなった。
今日も小梅の髪には、あの日からずっと身につけている櫛と簪が挿されている。
秀高は、それを見ると小さく笑った。
「……やっぱり今日も着けてるんだな」
小梅は髪へ手を添えた。
『もちろんです』
『秀高様から最初に頂いた、大切なものですから』
「六年も経つのに、本当に毎日着けてるよな」
『これからも、ずっと着けるつもりです』
秀高は嬉しそうに笑った。
「そっか」
「……嬉しい限りだ」
小梅の頬が少し赤くなる。
『そんなことを仰られると、私も嬉しくなってしまいます』
秀高は少し姿勢を正した。
「そうだ」
「小梅はどうだった?お茶会」
『はい』
小梅は今日の出来事を順番に話し始めた。
王妃・月江との茶会。
夫人達との会話。
馴れ初めを語ったこと。
振袖を褒められたこと。
次回、日ノ本と琉球の衣装を交換して着る茶会を開くことになったこと。
そして。
織物や染色、さらに堺との交易へ話が広がったこと。
秀高は黙って最後まで聞いていた。
そして。
「……小梅」
『はい?』
「凄いじゃないか」
『え?』
「俺が思っていた以上だよ」
秀高は嬉しそうに笑う。
「最初は王妃と有力貴族の茶会だから、挨拶と親睦が中心になるかなと思ってた」
「でも、そこから衣装の話へ持っていって、文化交流へ繋げて、その先に織物や交易の話まで進めた」
「それを嫌味なく自然にやったんだろ?」
小梅は少し照れた。
『それは、皆様が優しく接してくださったからこそです』
「いや」
秀高は首を振った。
「それだけじゃない」
「小梅自身が、人の話を聞いて、そこから相手が興味を持つ話題へ繋げたからだ」
「昔の小梅なら、そこまでできなかったと思う」
『……』
小梅は静かに秀高を見る。
「本当に成長したな」
その一言が胸に響いた。
『秀高様……』
「公家の娘としての礼儀」
「俺の妻としての気遣い」
「そして、堺屋の副総統としての判断力」
「全部をちゃんと身につけてる」
「正直、俺も驚いた」
小梅の目が少し潤んだ。
『……ありがとうございます』
「俺の方こそ、ありがとうだよ」
『はい?』
「俺が条約を作ることに集中できたのも、小梅が王妃との間にこうした繋がりを作ってくれたからだ」
「俺一人ではできないことを、小梅がやってくれてる」
「それって、夫婦としても、仕事仲間としても最高だと思う」
小梅は、嬉しそうに微笑んだ。
『私も』
『秀高様と一緒に仕事ができること、とても嬉しく思っております』
秀高は、隣に座る小梅を自分の胡坐の中に乗せる。
「今日は本当に頑張ったな」
そう言って、後ろから小梅の頭を優しく撫でる。
『……子供扱いしないでくださいませ』
「だって、可愛いから」
『もう……』
小梅は少しむくれた顔をするが、秀高にもたれ掛かる。
『でも……もう少し、このままでいてください』
「もちろん」
秀高はもたれ掛かった小梅を後ろから抱擁する。
二人はしばらく何も言わず、そのまま寄り添っていた。
やがて秀高が、小梅の髪に挿された櫛と簪へ目を向ける。
そっと指先で触れる。
「これ、似合ってるよ」
『ありがとうございます』
「……昔、これを渡した時のことを思い出すな」
小梅が微笑む。
『私もです』
「まさか六年後に、琉球でそれを見ながらこんな話をするとは思わなかった」
『私も思っておりませんでした』
「人生って、本当に何が起こるか分からないな」
『ですが』
小梅は秀高を見上げる。
『私は、あの日秀高様にお会いできて、本当に良かったと思っております』
「俺もだよ」
『本当ですか?』
「本当だよ」
『でしたら……』
小梅は少しだけ笑う。
『これからも、ずっと私をお傍に置いてくださいませ』
秀高は、三度、小梅に抱擁する。
「当たり前だろ」
「これから先も、ずっと一緒だ」
『はい』
小梅も秀高へさらにもたれ掛かる。
『私も、ずっと秀高様のお傍におります』
そのまま二人は窓の外を眺めた。
琉球の夕暮れ。
遠くから波の音が聞こえる。
昼間まで互いに別々の仕事をしていた二人。
秀高は条約を作り。
小梅は社交と商いの道を繋いだ。
それぞれの役割を果たしたからこそ、今こうして安心して一緒にいられる。
「明日も大変そうだな」
『はい』
「でも」
秀高は小梅の手を握った。
「小梅がいるなら大丈夫そうだ」
小梅も、その手を握り返した。
『私も、秀高様がいらっしゃれば大丈夫です』
「じゃあ、明日も頑張ろう」
『はい』
「今日は……」
秀高は少し悪戯っぽく笑った。
「このまま小梅を独占していい?」
『……今夜だけではなく、毎晩でよろしいのでは?』
「それ、最高だな」
『ふふ』
小梅は秀高へ向きを変え、まじまじと見つめる。
『ただし、明日の会議に遅れるようなことはなさらないでくださいませ』
「それは小梅次第かな」
『もう……』
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
琉球の夜が静かに近づく中。
二人は今日もまた、互いの温もりを確かめるように寄り添っていた。
条約草案会議の第一日目。
その夜は、仕事の成果を喜び合う二人の穏やかな時間で締めくくられたのであった。




