第35話ー閉話、小梅の回想ー
琉球王国王妃、月江の突然の問いに、小梅は一瞬だけ目を丸くした。
『私達の馴れ初め……でございますか』
『ええ。もし差し支えなければ、ぜひお聞かせ願いたいのです』
月江の言葉に続き、夫人たちも静かに頷く。
『少納言様ほどのお方が、どのようにして参議様と出会われたのか』
『きっと、素敵なお話なのでしょうね』
和やかな笑みが広がる中、小梅は少し照れたように視線を落とした。
『そのように申されますと、お話しするのが少し恥ずかしくなってしまいます』
その初々しい反応に、お茶席には穏やかな笑いが広がる。
やがて小梅は茶碗を静かに畳へ置き、一つ深く息をついた。
『……分かりました。それでは、お話しいたします』
『ありがとうございます』
月江は嬉しそうに微笑み、小梅へ続きを促す。
小梅は窓の外へ目を向けた。
南国の柔らかな風が庭の花々を揺らし、その光景が、遠い昔の記憶を静かに呼び覚ましていく。
『……あれは今から六年前。まだ秀高様が「鷹司秀高」ではなく、「木下日高」と名乗っておられた頃のお話でございます』
私と秀高様が夫婦となる、その全ての始まり。物語は、第6話ー貴き御方と婚約者ーの頃まで遡る。
六年前。
まだ「鷹司秀高」という名が日ノ本に広く知られるよりも前。
夫は鷹司秀高ではなく、木下日高という名前でした。
そして、私は摂関家、鷹司家の娘、小梅。
祖父は鷹司兼輔。父は鷹司忠冬。
公家の家に生まれた私は、幼い頃から礼儀作法を身につけることを求められて育ちました。
朝起きれば身支度を整え、侍女達の教えを受けながら日々の作法を学ぶ。
人前では姿勢を崩さず、言葉遣いにも気を付ける。
父や祖父から政や家のことを聞かされることもあれば、母や侍女達から女性としての嗜みを教えられることもありました。
外から見れば、何不自由なく育てられた公家の娘。
それが当時の私だったのでございます。
しかし、そんな私にも普通の少女らしい一面がございました。
珍しいものが好き。
美しいものを見ると嬉しくなる。
知らないことを知ると心が弾む。
そして。
まだ見ぬ外の世界に、ほんの少し憧れていたのです。
そんな私の目に、ある日、堺から届けられた品々が映りました。
美しい反物。
珍しい菓子。
南蛮から来た品々。
それまで私が見たことのないものが、屋敷に次々と運び込まれてきたのです。
『まあ……』
私は思わず目を輝かせました。
『これが堺から……』
侍女が笑顔で答えます。
『はい。堺は日ノ本中の商人が集まる町でございますから』
『このようなものまで集まるのですね』
『はい』
私は品々を眺めながら、堺という町に少しだけ興味を持ちました。
まさか、その「堺」という名前が、やがて私の人生を変える人物そのものを指すようになるなど、この時の私は知る由もありませんでした。
時は少し遡ります。
この頃、木下日高様は堺衆の長として、堺を大きく発展させておられました。
そして、細川晴元方と細川綱氏方による戦では、堺衆を率いて初陣を果たされました。
その戦で鉄砲百丁を実戦投入し、勝利へ大きく貢献したことで、日高様の名は瞬く間に広まっていきます。
戦後も日高様は堺へ戻ると、戦乱に乗じて現れた落武者や野盗を討ち、堺周辺の治安を短期間で回復させました。
その結果、商人達は安心して商売を行えるようになり、街道には荷車が戻り、堺港には商船が次々と入るようになります。
鍛冶屋から鉄を打つ音が響き、商家には全国各地から商品が集まる。
堺という町そのものが、大きく変わり始めていたのでございます。
そしてその堺を治める若き長こそが、木下日高様でした。
初陣から二か月ほど経った頃。堺へ、ある大名が訪れました。
三好筑前守長慶様です。
長慶様は細川晴元様の家臣として大きな力を持つ御方。
その長慶様が日高様のもとを訪れ、先の戦における礼を述べ、堺との交易や物流などについて話し合われました。
そして。
その話し合いの中で、日高様へ一通の重要な書状が渡されたのです。
それは、将軍・足利義晴様から日高様へ宛てられた書状でした。
『近々、京にて将軍・足利義晴様へも挨拶をしていただきたい』
そう告げられた日高様は、当然のことながら驚かれたそうです。
「……将軍様、ですか?」
しかも、長慶様が取り出した書状には、将軍家の花押。
将軍からの直々のお召し。
日高様としても、断ることなどできませんでした。
「三好様。将軍・義晴様より直々のお召しであれば、お断りするわけにはまいりません。二か月後、必ず京へ参上いたします」
こうして。日高様の上洛が決まったのでございます。
当時の私は、そんな事情など何一つ知りませんでした。
ただ。
遠く離れた堺という町で、一人の少年が何か大きなことを成している。
それだけのことでした。
そして二か月後。
日高様は、いよいよ京へ上洛されました。
将軍・足利義晴様への拝謁。
将軍家へ献上品を納め。それを終えた翌日からは、朝廷や公家の皆様への挨拶が待っていました。
この時、日高様の補佐をしていた宗久様をはじめとする堺衆も、献上品の目録を確認しながら準備を進めていたそうです。
反物。
香木。
南蛮渡来の硝子細工。
絹織物。
茶器。
その他にも様々な品々。
それらを一つ一つ整え、日高様は正装へ着替えて公家屋敷を回られました。
『本日は近衛様をはじめ、摂関家や清華家など幾つもの公家屋敷を訪問する予定でございます』
宗久様がそう告げると、日高様は静かに頷かれたそうです。
失礼のないようにしないといけませんね」
堺の名を背負っている。
それを意識しながら、日高様は一軒一軒の屋敷を訪ねていきました。
そしてその訪問先の一つに、鷹司家がございました。
その日の鷹司屋敷は、朝からいつも以上に屋敷の者達が慌ただしく動いていました。
堺から献上品が届く。
それだけでも、屋敷にとっては一つの大きな行事でございました。
門前では受け入れの準備が進められ、侍女達も献上された品々を整理するために動き回っています。
私は、その様子を眺めていました。
『今日は、随分と慌ただしいですね』
『はい。堺から献上品が届くそうでございます』
『堺から……』
私は少しだけ興味を持ちました。
これまでにも、堺から届けられた品々を目にしています。
反物。
菓子。
南蛮の品々。
どれも珍しく、美しいものばかりでした。
『今日も何か珍しい品が届くのでしょうか』
侍女が笑います。
『きっとそうでしょう』
私は、それを見に行こうと思いました。
しばらくして。
門前から人の声が聞こえてきました。
『堺からの皆様が参られたようでございます』
私は思わず門の方へ目を向けました。
すると。
数人の商人や従者達が、荷を運びながら入ってきます。
ですが、その中央にには、一人の少年がいました。
『……』
私は、なぜかその御方へ目を奪われました。
若い。けど大人と引けを取らない体格をしている。
私とそれほど年齢が離れているようには見えません。
なのに。妙に落ち着いている。
周囲の大人達が、その御方の指示に従っている。
献上品の扱いにも気を配り、屋敷の者達へも丁寧に接している。
決して偉そうではない。
けれど、自然と人を従わせるような雰囲気がある。
『……あの御方は……』
私は、思わず呟いていました。
胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴ります。
けれど、その時の私は、それを何だとは思っていませんでした。
ただ。
「もっと近くで見てみたい」
そう思ってしまった私は、門前へ少しずつ近づいていきました。
侍女が驚いたように声を掛けます。
『小梅様?』
『……少しだけ、近くで見たいのです』
『ですが……』
『大丈夫です』
私はそのまま歩いていきました。
その少年は、まだ献上品の確認をしていました。
周囲の大人と何やら話している。
時折、品物を確認しては指示を出す。
その姿を見れば見るほど。
何故か、気になって仕方がありません。
『(どうして私は、こんなにもこの御方を見ているのでしょう)』
胸が少しずつ速くなる。
顔が、ほんのり熱くなる。
それでも目を逸らせない。
私は、もう一歩だけ近づきました。
その瞬間。
その少年が、ふと顔を上げました。
そして。私に気付いたのです。
『……』
目が合いました。
その一瞬、私の胸が大きく跳ねました。
どくん。
まるで身体の中で太鼓を叩かれたようでした。
私は慌てて目を逸らそうとしました。
けれど。
逸らせない。
少年もこちらを見ています。
そして。
ほんの僅かに微笑みました。
『……』
私は、完全に言葉を失いました。
『(何でしょう……)』
『(この御方……)』
『(どうして、こんなにも……)』
そんなこと考えていると、少年は私へ向かって歩いてきました。
『……えっ』
私の心臓がさらに大きく鳴ります。
やがて、目の前まで来られると。
「こんにちは」
と、私の目線まで膝を折り、挨拶していただいたのです。
『……こ、こんにちは』
私はどうにか返事をしましたが、恐らく驚きのあまり声が裏返ってしまったかもしれません。
ですがその方は穏やかに微笑みます。
そして、懐へ手を入れました。
懐から取り出されたのは。
小さな包み。
「これをどうぞ」
『……え?』
私は戸惑いながら包みを受け取ります。
「開けても……よろしいのでしょうか?」
「はい」
緊張しながら包みを開くと、そこには装飾の凝った櫛と簪が入っていました。
『……まあ』
私は思わず息を呑みました。
細かな細工。
美しい装飾。
手に取るだけで分かる、丁寧な作り。
けれど、それ以上に私を動揺させたのは。
その品を。
この御方が。
私のために。
直接、手渡してくださったことでした。
『私に……ですか?』
「はい。お似合いになると思いまして」
短い返事。
その声が、胸に響きます。
『……ありがとうございます』
私は両手で大切に櫛と簪を受け取りました。
その方は穏やかに微笑みます。
そして、また献上品の仕事へ戻っていきました。
私は、その背中を見つめ、目が離せませんでした。
やがて、日高様達は鷹司屋敷を後にしていきました。
私は門前に残ったまま、その姿が見えなくなるまで見つめていました。
『……』
手には、先ほど頂いた櫛と簪。
私は何度も見つめました。
『(どうして……)』
『(どうして私は、この御方のことばかり考えているのでしょう)』
自分でも分かりません。
けれど。
胸の鼓動が止まらない。
先ほど目が合った瞬間が、何度も蘇る。
直接手渡された櫛と簪。
そして、あの笑顔。
それらを思い出すたび、胸がさらに高鳴っていく。
『……あの方は、どなたなのでしょう』
私は侍女へ尋ねました。
侍女は少し驚いた顔をした後、答えました。
『あの御方ですか?』
『はい』
『堺から来られた方でございます』
『それは分かっております』
私は少しだけ身を乗り出しました。
『あの方のお名前を……』
『木下日高様、とお呼びするそうでございます。巷では堺様とも呼ばれている模様です』
『木下……日高様……堺様』
その名前を聞いた瞬間。
胸がまた大きく鳴りました。
どくん。
どくん。
私は、その名前を胸の中で何度も繰り返しました。
『木下日高様……』
そして、その瞬間。私は、ようやく自分の気持ちに気付きました。
『……これが』
一度、言葉を止める。
手に持った櫛と簪を胸元へ抱き寄せる。
『これが……一目惚れ、というものなのでしょうか』
顔が一気に熱くなりました。
恥ずかしい。
けれど。
嬉しい。
もっと知りたい。
また会いたい。
そう思ってしまう。
『……私』
小梅は小さく呟く。
『木下日高様に……一目惚れしてしまったのですね』
自覚した瞬間。
胸の鼓動は、さらに速くなっていきました。
そして同じ頃。
日高様の一行は、まだ京の町を歩いていました。
公家屋敷への献上は、まだも続いています。
そして、予定していた最後の一軒へ向かおうとした、その時でした。
近衛家の家臣と思しき武士が、日高様のもとへやって来たのです。
『木下日高様でございますか』
「はい、私ですが」
『突然のご無礼、お許しください』
『私は近衛家の従者を務めております者にございます』
『関白・近衛稙家様が、ぜひ木下様にお会いしたいとのことでございます』
『お時間を頂戴できますでしょうか』
日高様は宗久様と顔を見合わせました。
宗久様は静かに頷きます。
『近衛様直々のお招きでございます。お受けするのがよろしいでしょう』
「分かりました」
日高様は頷かれました。
「では、伺いましょう」
こうして日高様は、近衛家へ向かわれることになったのでございます。
近衛屋敷。
そこで待っていたのが、関白・近衛稙家様でした。
日高様は稙家様と対面し、そこで一つの脇差を見せられます。
その脇差を見た日高様は、父・弥右衛門様から譲り受けたものであることを説明しました。
『なるほど……では、その由来を記した書付などは残っておらぬか』
稙家様の問いに、日高様は答えます。
「ございます」
「父より、この脇差と共に『決して失くしてはならぬ』と託された書状がございます」
日高様は、ずっと大切に保管していた書状を取り出しました。
稙家様がそれを受け取り、封を開く。
そして。
『……そういうことであったか』
稙家様の表情が変わりました。
書状の内容。
そこには、木下弥右衛門様と鷹司家の過去の縁が記されていたのでございます。
しかし、日高様はその内容をまだ知りません。
稙家様は書状を日高様へ返し、静かに言いました。
『ならば、一度ご覧になるがよい』
日高様は、恐る恐る書状を開かれました。
そこに記されていたのは。
かつて木下弥右衛門様が尾張で、若き日の祖父、鷹司兼輔様と嫡子であった父・忠冬様を賊の襲撃から救ったという事実。
そして。
その大恩に報いるため鷹司家の脇差を授け、書状を残したということ。
さらに。
木下弥右衛門様、またはその子孫が都へ来た際には、鷹司家の縁者として遇するという約束。
日高様は、その事実を初めて知ったのです。
「父上が……」
おそらく、日高様にとっては信じられないほど大きな出来事だったことでしょう。
自分の知らなかった父の善行。
そして、自分自身へ受け継がれていた、鷹司家との縁。
日高様が驚いているところで、稙家様は静かに立ち上がりました。
『この書状の真意は、私だけでは判断できぬ』
『鷹司殿にも、ぜひ見ていただかねばならぬ』
そして、控えていた家臣へ命じました。
『急ぎ鷹司家へ使いを出せ』
『近衛稙家が、堺殿と共に今より伺うと伝えるのだ』
『はっ』
こうして先触れの使者が、鷹司屋敷へ向かったのです。
そして稙家様と日高様は共に鷹司家へ向かわれることになりました。
その頃。
鷹司屋敷では、まだ誰もが普段通りの時間を過ごしていました。
私も自室に戻っていました。
手には、先ほど日高様から頂いた櫛と簪。
それを机の上へ置き、何度も眺めています。
『……木下日高様』
名前を口にするだけで、胸が高鳴りました。
あの御方の顔。
あの声。
あの笑顔。
そして。
この櫛と簪を、直接手渡してくださった時の感覚。
私は頬を両手で覆いました。
『……私、本当にどうしてしまったのでしょう』
先程まで、何も知らなかった御方。
それなのに、今はもう。
頭の中から離れない。
『一目惚れ……』
その言葉を思い出すだけで、また顔が熱くなります。
けれど、その時でした。
屋敷の外から、いつもとは違う慌ただしい声が聞こえてきました。
『近衛様がお越しになる!』
『急ぎ支度を!』
『先触れが来ておるぞ!』
『何事でしょう……』
私は不思議に思いました。
近衛様が来られる。
それ自体は、鷹司家にとって決して珍しいことではありません。
私は最初、いつものことだと思っていました。
しかし。
父・忠冬様そして祖父・兼輔様。
二人が、いつになく緊張した表情を浮かべていることに気付きました。
『お祖父様……?』
私は廊下からそっと様子を窺いました。
父上様も、祖父様も、普段とは明らかに違う。
そこへ近衛家からの先触れが届きます。
『近衛稙家様が、ただいまこちらへ向かわれております』
『……稙家殿が?』
祖父・兼輔様の表情が変わりました。
父・忠冬様も驚いた様子です。
『何かあったのであろうか』
私はその様子を見ながら、首を傾げました。
『(近衛様が突然来られるなんて……)』
けれど。
私の頭の中には、まだ日高様の姿が残っていました。
それが、まさかこれから始まる出来事と繋がっているとは、この時の私は知りませんでした。
しばらくすると。
屋敷の門前から声が上がります。
『近衛稙家様、ご到着です!』
屋敷の者達が一斉に動きます。
私は、その声を聞きながら自室で待っていました。
やがて。
廊下を行き交う足音が増えていきます。
どうやら、大切な話が始まるようです。
私は、まだ手元の櫛と簪を見つめていました。
『……日高様』
その時。
屋敷のどこかから、聞き慣れない声が聞こえました。
私は顔を上げます。
『(……え?)』
胸が、また大きく鳴りました。
まさか。
そんなはずはない。
私は立ち上がり、そっと廊下へ出ました。
そして。
庭へ続く廊下の先。
そこには。
近衛稙家様の後ろを歩く。
あの方の姿がありました。
『……!』
私は息を呑みました。
あの御方です。
先ほど門前で私が一目惚れしてしまった御方。
木下日高様。
なぜ、この御方がここへ……。
胸が高鳴ります。
先ほどよりも、ずっと近い。
けれど、日高様はこちらへ目を向けることなく、稙家様と共に父上様達のいる部屋の方へ向かっていきました。
私はその姿を見つめることしかできませんでした。
日高様は、稙家様達が話をされる部屋とは別の隣室で待機されることになりました。
この時、私は日高様が屋敷に来たということに興奮し、落ち着きませんでした。
一方、父・忠冬様、祖父・兼輔様、そして稙家様は、脇差と書状を前にして話を進めておられました。
稙家様から示された脇差。
それを見た祖父様と父上様の表情が変わる。
『……間違いない』
『あの時、尾張で弥右衛門殿へお渡しした脇差にございます』
続いて、書状を確認する。
やがて全ての事情が明らかになったのでしょう。
祖父様は深く息を吐きました。
そして。稙家様の口が開きました。
『その木下弥右衛門殿のご嫡男が、今、都へ来ておる』
『先刻、堺の長として諸家へ献上品を届けておった者だ』
木下日高。
今日、門前で出会ったあの御方。
私が一目惚れしたあの御方。
その御方が。
祖父と父を助けた恩人であること。
そして、その御方が鷹司家と深い縁を持つ御方なのだと知りました。
稙家様の言葉に、祖父と父は同時に顔を上げた。
『何と申された……』
『弥右衛門殿の、ご子息が……』
稙家様は静かに頷かれます。
『今、隣の部屋で待たせておる』
『お通ししても、よろしいですかな』
祖父は静かに立ち上がる。
その目には、懐かしさと喜びが入り混じっていたと、稙家様が言っておりました。
『無論だ』
『これ襖を開けよ』
『はっ』
父が家臣に指示を出して、静かに隣の襖を開かれます。
襖の向こうでは、日高様が畳に額が着くほど深く頭を下げ、三人方が呼ぶのを静かに待っておりました。
「木下弥右衛門の子、木下日高にございます」
祖父様と父上様は、日高様の姿を見つめています。
やがて祖父様の口から、言葉が漏れます。
『……弥右衛門殿だ』
その後、父上様達から日高様へ、過去の出来事が語られていきました。
父上様達が尾張で賊に襲われたこと。
その命を木下弥右衛門様が救ったこと。
その大恩を忘れず、鷹司家が約束を残していたこと。
そして。
『木下家は我が鷹司家にとって恩人の家』
『その子孫が都へ来たならば、縁者として迎えると決めておった』
祖父と父が日高様にこの様な話をしていた時。
私は自室で再び、いただいた櫛と簪を見つめておりました。
『……木下日高様』
名前を呟く。
その度に胸が高鳴る。
今日、初めて会ったばかり。
けれど。
私はもう、この御方を忘れることなどできません。
門前で初めて見た時。
目が合った時。
そして直接、装飾品を手渡してくださった時。
全部が胸に残っています。
『(もう一度、お会いしたい)』
『(もっとお話ししたい)』
『(この御方のことを、もっと知りたい)』
そんなことを考えていると。
『小梅様』
襖の向こうから侍女が私を呼んだのです。
『御父上様がお呼びです』
『……私を?』
『はい。御祖父様及び近衛様もお待ちです』
それを聞いて私は慌てて櫛と簪を大切にしまいます。
祖父と父の他に関白殿下の近衛稙家様が待っていると聞いてしまっては、お待たせしてしまうのは言語道断です。
直ぐに身支度を整え
私は胸を落ち着かせるように一度深呼吸をします。
『……行きましょう』
そして私は祖父と父そして関白殿下の待つ部屋へ向かいました。
この時、私は日高様がまだ部屋に残っていることなど知る由もありませんでした。
私は、お三方がお待ちになている部屋の手前で深呼吸をしてから。静かに襖の前へ座りました。
『父上様。小梅にございます』
『入ってもよろしいでしょうか』
忠冬は穏やかに答える。
『うむ。入りなさい』
『はい』
私は静かに襖へ手を掛け、ゆっくりと襖を開き部屋の中へ入りました。
私は祖父様、父上様、そして近衛様へ向かって丁寧に一礼いたしました。
その時、部屋の隅には一人の御方が深々と頭を下げて座っていたのですが、私は気づくことができませんでした。
私は父上様へ向かって穏やかに微笑みました。
『お呼びと伺いました。何か御用でしょうか』
父上様は優しく微笑み返されました。
『うむ。今日は堺の長より、多くの献上品が届いたのは知っておるな』
『はい。反物も、お菓子も、南蛮の品々も、とても素晴らしゅうございました。見ているだけで心が躍りました』
祖父様は、その様子に目を細められます。
『それは何よりだ』
そして。
『実は今日、お前を呼んだのは、お前の婚儀のことでな』
『婚儀……で、ございますか』
私は驚き、思わず父上様の顔を見つめました。
頬が少しずつ朱に染まっていきます。
祖父様は穏やかな笑みを浮かべられました。
『案ずることはない』
『まずは、お前の気持ちを聞かせてほしい』
そして。
『小梅、お前には心に決めた者がおるか』
その問いに、私は少し俯きました。
胸の中には、今日出会ったばかりの御方の姿があります。
穏やかな笑顔。
優しい声。
直接、手渡してくださった櫛と簪。
私は胸の前で手をぎゅっと握りました。
『……はい』
『実は……』
私はそこで一度、言葉を切りました。
けれど、もう隠すつもりはありませんでした。
『今日、お屋敷へ献上品を届けに来られた殿方がおりまして』
『侍女にあの殿方は誰かを尋ねたところ、堺様と言うらしく……』
私はそこで一度言葉を切り、胸の前で手をぎゅっと握ります。
『そのお姿を見た瞬間、一目でお慕い申し上げてしまいました』
『もし……宜しいのであれば、私は、堺様のお傍にお仕えしたいと思っております』
その言葉を聞いた瞬間。
部屋の隅にいた御方が、頭を下げたまま肩を小さく震わせました。
私は、その反応に気付いておりません。
私の胸の中には、ただ今日出会ったあの御方の姿だけがありました。
けれど。
その御方こそ。
私が門前で一目惚れした、木下日高様だったのでございます。
そして、父・忠冬様が静かに口を開かれます。
『堺殿。顔を上げられよ』
その言葉によって。
部屋の隅にいた御方が、ゆっくりと顔を上げました。
私はそこで初めて。
部屋の隅で、頭を下げてこちらを向いている。その御方の顔を、正面から見たのでございます。
『……っ』
私は、その御方の顔を正面から見た瞬間、息をすることさえ忘れそうになりました。
今日、門前で私が一目惚れした御方。
先ほどまで「堺様」と呼んでいた御方。
そして、直接私の手へ櫛と簪を渡してくださった御方。
その全てが、今、一本の線で繋がったのです。
『……あの時の……』
思わず声が漏れました。
日高様も、私の顔を見て固まっておられます。
「……っ」
お互いに言葉が出ません。
先ほど門前では、ただ一目見ただけ。
その後、屋敷へ入って来られたことは見ていました。
けれど、部屋の隅で深々と頭を下げておられたため、まさか目の前にいらっしゃるとは思っていなかったのです。
それが今。
こうして、正面から顔を合わせている。
私は自分の頬が、一気に熱くなるのを感じました。
祖父様が、そんな私達の様子を見て静かに笑われます。
『堺殿。顔を上げられよ』
日高様は、ぎこちなく顔を上げられました。
その瞬間、私と視線が重なります。
『……っ』
胸がまた大きく跳ねました。
どくん。
どくん。
日高様も完全に固まっております。
その様子を見た祖父様は、どこか嬉しそうに微笑まれました。
『どうやら、話は早そうだな』
父上様も、日高様と私を交互に見つめられます。
『小梅』
『こちらが堺の長、木下日高殿だ』
『先ほど、お前が申しておった堺様、その御本人である』
『は、はい……』
私は恥ずかしさのあまり俯きながらも、姿勢を正して深く一礼しました。
『改めまして……鷹司忠冬の娘、小梅と申します』
『先ほどは、大変失礼いたしました』
日高様も慌てて居住まいを正され、一礼されました。
「こちらこそ、申し遅れました」
「堺衆の長を務めております、木下日高と申します」
「本日は、お目に掛かる栄を賜り、誠に光栄にございます」
私は再び日高様を見ました。
すると日高様も、こちらへ視線を向けられます。
お互いの目が合う。
私は照れたように微笑みました。
日高様も、少し照れくさそうに笑みを返してくださいました。
『(この方が……堺様)』
『(思っていた以上に、お優しそうなお方……)』
そう思った瞬間。
先ほどまで胸の中にあった一目惚れの気持ちは、さらに大きくなっていきました。
祖父様は、その様子をしばらく見守った後、満足そうに頷かれます。
『どうやら、互いに悪い印象ではなさそうだ』
『近衛卿、いかがかな』
近衛様も柔らかな笑みを浮かべられました。
『兼輔殿。先ほど申したとおり、あとは若い二人の気持ち次第でしょう』
『無理に話を進める必要はありますまい』
父上様も頷かれます。
『うむ。まずは二人だけで少し話をさせてみてはいかがでしょう』
『互いを知らずして婚儀を決めるのは、あまりにも早計ですからな』
祖父様は嬉しそうに笑われました。
『そのとおりだ』
『では、近衛卿、忠冬。我らは別室で話を続けよう』
『若い二人には、ゆっくり語り合ってもらうとしよう』
近衛様は立ち上がりながら、日高様へ優しく声を掛けられます。
『堺殿。肩肘張らず、ありのままのご自身で話されるとよい』
日高様は少し緊張した面持ちで頭を下げられました。
「はい」
祖父様、父上様、近衛様の三人は静かに部屋を後にされました。
襖が閉まり。
部屋には日高様と私だけが残りました。
静かな沈黙が流れます。
私は何を話せばよいのか分かりません。
『(……何をお話しすればよいのでしょう)』
日高様も同じことを考えておられるようでした。
「(……気まずい)」
しばらくして。
二人は同時に口を開きました。
「「あの」」
声が重なります。
そして、また二人とも黙ってしまいました。
その様子が何だか可笑しくなり、私達は顔を見合わせます。
小さな笑みがこぼれました。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぎました。
日高様が軽く咳払いをされます。
「先ほどは驚かせてしまい、申し訳ありません」
「まさか私の話をされているとは思わず、頭を下げたまま固まってしまいました」
『い、いえ……』
『私の方こそ、勝手なことを申し上げてしまい、お恥ずかしい限りです』
「ですが……」
日高様は、穏やかな表情で私を見つめられます。
「小梅様のお気持ちは、とても嬉しかったです」
その一言に、私の頬はさらに赤くなりました。
『ありがとうございます……』
しばらく、また沈黙が流れます。
日高様は重苦しい空気を変えようと、小さく笑われました。
「ここで向かい合っているだけでは、お互い緊張したままですね」
『そう……ですね』
「もし宜しければ、お庭を歩きながらお話ししませんか。その方が少し気が楽になると思います」
私は嬉しくなって顔を上げました。
『はい。ぜひ、ご一緒させてください』
二人は部屋を出ると、鷹司家の庭園へ向かいました。
池には鯉がゆったりと泳ぎ、色鮮やかな草花が風に揺れていました。
私は日高様と並んで歩きながら、何とも不思議な気持ちになっていました。
今日まで、名前すら知らなかった御方。
それなのに。
今はこうして二人きりで庭を歩いている。
それだけで胸が高鳴ります。
日高様が、静かに口を開かれました。
「改めまして。私は尾張の百姓の家に生まれました」
「父の死後、様々な縁があって堺へ参り、今は堺衆の長を務めています」
「正直なところ、今でも自分が領主のように扱われていることに慣れていません」
私は思わず微笑みました。
『ですが、そのようには見えませんでした』
『献上品を届けに来られた時も、家臣や商人の方々が皆、堺様を心から敬っておられました』
『とても自然で、温かな雰囲気でした』
日高様は照れくさそうに頭を掻かれます。
「皆に支えられているだけですよ。私一人では、堺はここまで大きくなりませんでした」
私は歩みを止め、日高様の横顔を見つめました。
『そのように仰るところが、堺様らしいのでしょうね』
『だから皆様が、お慕いするのだと思います』
日高様は少し照れながら苦笑されました。
「そんな風に言われると、何だか照れてしまいます」
私も小さく笑いました。
庭園には穏やかな風が吹いています。
先ほどまでの緊張は、少しずつ自然な会話へと変わっていきました
庭園を歩きながら、私は思い切って尋ねました。
『堺様……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか』
「もちろんです」
『堺様は、これほど大きな堺を治めておられますのに、どうしていつもご自身を低くされるのですか』
日高様は少し考え、空を見上げられました。
「私は治めているつもりはありません」
「皆で堺を守り、皆で堺を大きくしてきただけです」
「商人も、職人も、農民も、子どもたちも。誰一人欠けても、今の堺はありません」
「だから私一人の功績ではないんです」
私は静かに耳を傾けました。
『そのように考えておられるのですね』
「はい」
「父から教わりました。人は一人では生きられない。だからこそ、人を大切にしなさい、と」
私は微笑みました。
『お父上様は、本当に立派なお方だったのですね』
日高様も優しく頷かれます。
「ええ。私にとって、自慢の父です」
その言葉を聞いた私は、先ほどまでの出来事を思い出しました。
日高様の父君と、鷹司家との縁。
この御方は、その父君から何を学んでこられたのだろう。
そんなことまで知りたくなっていました。
やがて、二人は池のほとりまで歩いていきました。
鯉が水面をゆったりと泳ぎ、その波紋が静かに広がっています。
私はしばらく景色を眺めました。
そして。
私は少しだけ勇気を振り絞ります。
そっと日高様の袖をつまみました。
日高様が驚いて振り返られます。
「小梅様?」
私は俯いたまま、小さな声で申し上げました。
『一つだけ……お願いしてもよろしいでしょうか』
「はい」
『どうか……私を置いていかないでください』
その言葉を言ったあと、私の手はは震えていました。
今日お会いしたばかり。
それでも。
私は、この御方と離れたくありませんでした。
日高様は、私の表情を見つめられます。
日高様の答えを聞こうとする私は、不安そうで、それでいて真っ直ぐな目。をしていたと、後に日高様から聞きました。
日高様は静かに微笑まれました。
「小梅様」
「まだ今日お会いしたばかりですが……私は、人とのご縁を何よりも大切にしたいと思っています」
「父が結んでくださったご縁なら、なおさらです」
そして。
日高様は私の目をまっすぐ見つめられました。
「ですから」
「私でよろしければ、お守りします。命ある限り、小梅様を悲しませるようなことはいたしません」
その言葉を聞いた時。
私の目には、うっすらと涙が浮かびました。
『……ありがとうございます』
『私も、生涯、日高様のお傍でお支えしたいと思います』
二人で微笑み合いました。
その穏やかな光景を、少し離れた縁側から祖父・兼輔様、父・忠冬様、そして近衛稙家様の三人が静かに見守っていたことを、私は後になって知りました。
祖父様は満足そうに頷かれたそうです。
『どうやら、我らが案ずる必要はなかったようだな』
父上様も穏やかに笑われた。
『はい。二人ならば、きっと良い夫婦になります』
稙家様も扇子を閉じながら静かに仰ったそうです。
『これも弥右衛門殿が遺してくださった縁』
『まこと、不思議な巡り合わせでございますな』
三人が縁側から静かに部屋へ戻ると、祖父様は満足そうに頷かれたそうです。
『どうやら、答えは決まったようだな』
父上様も穏やかな笑みを浮かべられました。
『父上のお考えどおりでございました』
『小梅も、あれほど自然な笑顔を見せたのは久しぶりです』
稙家様は扇子を畳み、ゆっくりと口を開かれます。
『では、この御縁を正式に結ぶ方向で話を進めましょう』
そして、庭園へ向かっていた家臣へ声を掛けたそうです。
『日高殿と小梅をお呼びしなさい』
『はっ』
しばらくして、日高様と私は並んで部屋へ戻りました。
祖父様が二人を見渡し、静かに問い掛けられます。
『日高殿。小梅と話してみて、いかがであった』
日高様は一度私へ目を向け、それから祖父様へ向き直られました。
「はい。小梅様は、とても心優しく、思いやりのある方だと感じました」
「もし小梅様がお望みくださるのであれば、私に異存はございません」
祖父様は満足そうに頷かれ、今度は私へ視線を移されました。
『小梅。お前の気持ちは変わらぬか』
私は静かに頷きました。
『はい。私の気持ちは変わりません。日高様のお傍で、お支えしたいと思っております』
祖父様は嬉しそうに笑われました。
『そうか。……ならば、この縁談、我らとしては異存なしだ』
その時、日高様が静かに頭を下げられました。
「兼輔様、忠冬様」
「一つ、お願いがございます」
祖父様達が日高様へ視線を向けられました。
『申してみなさい』
「私はまだ十一の歳になったばかりです。小梅様も、まだお若くございます」
「婚姻は人生を左右する大切な儀」
「どうか祝言は、お互いが十六歳となるまで待っていただけないでしょうか」
「その五年間で互いを知り、互いに成長し、その上で夫婦となりたく存じます」
私はその言葉を聞いて、胸が温かくなりました。
日高様は、ただ自分の都合だけで婚姻を決めようとはしておられない。
私自身の気持ちと、これからの時間を大切にしようと考えてくださっている。
祖父様は満面の笑みを浮かべられました。
『はははは』
『実に日高殿らしい答えだ』
父上様も満足そうに頷かれます。
『相手を思いやる心があるからこその願いですな』
稙家様も静かに笑みを浮かべられました。
『これならば安心して娘御を託せます』
祖父様は大きく頷かれます。
『よかろう』
『婚約を本日ここに結び、祝言は互いに十六となった時に執り行う』
『それまでは堺で共に暮らし、互いを知るがよい』
私と日高様は揃って深く頭を下げました。
「ありがとうございます」
『ありがとうございます』
こうして。
私と木下日高様の婚約が決まったのでございます。
しかし、その日はまだ大きな話がまだ残っていました。
祖父様が改めて姿勢を正されます。
『では、この婚約を機に、日高殿は鷹司家の縁者となる』
『元服も合わせて執り行うのがよかろう』
父上様も賛同されます。
『うむ』
『これより先は、一人の武家としてだけでなく、公家である鷹司家の縁者として歩むことになる』
『日高という幼名ではなく、元服名を名乗るがよい』
日高様は静かに頭を下げられました。
「畏まりました」
そして。
「では、木下日高改め、木下秀高と名乗らせていただきます」
私は、その名前を耳にした瞬間、胸の中で小さく繰り返しました。
『秀高様……』
まだ、その名を呼ぶことには慣れていません。
それでも、その響きが何故かとても嬉しく感じられました。
祖父様は満足そうに微笑まれます。
『よい名だ』
『これよりは鷹司家の縁者として、姓も改めるがよい』
『鷹司秀高。今後はそう名乗るがよい』
『鷹司……秀高』
私はもう一度、その名前を心の中で呼びました。
今日、門前で一目惚れした御方。
木下日高様。
その御方が。
今、私の目の前で鷹司秀高という新しい名を授かっている。
そして、この先、その御方と共に歩むことになる。
そう思うだけで、胸がいっぱいになりました。
さらに近衛稙家様が口を開かれました。
『鷹司家の縁者となられた以上、朝廷へも奏上いたしましょう』
『秀高殿には相応の官位を賜るべきですな』
祖父様も力強く頷かれました。
『うむ』
『明日にでも朝廷へ奏上しよう』
『秀高殿には従五位下、右近衛権少将の官位をお願いする』
日高様。
いえ、秀高様は突然の話に目を丸くされました。
「わ、私が……官位を」
稙家様は穏やかに微笑まれます。
『もう堺の長というだけではありません』
『鷹司家の縁者として、朝廷を支える一人となるのです』
秀高様は姿勢を正し、深く頭を下げられました。
「この秀高、この御恩に報いるべく、これからも堺の繁栄と朝廷への忠節を尽くすことをお誓いいたします」
私はその姿を静かに見つめていました。
ほんの少し前まで、門前で出会った少年だった御方。
それが今。
私の婚約者となり、鷹司家の縁者となり、これから朝廷に仕える武家となろうとしている。
その姿が、とても頼もしく見えました。
そして同時に。
自分がこの御方と一緒に生きていくのだという実感が、少しずつ胸の中へ広がっていったのでございます。
こうしてこの日。
木下日高様は元服し、「鷹司秀高」と名を改めました。
私にとって、この日は忘れることのできない一日となりました。
朝までは、ただ鷹司家の娘として過ごしていた。
昼には、門前で一人の少年に一目惚れした。
そして夕刻には。
その少年が、私の婚約者となった。
これほど人生が大きく動く一日を、私は後にも先にも経験しておりません。
ですが、これで終わりではありませんでした。
私と秀高様の物語は、ここから始まったのです。
婚約は決まりました。けれど、祝言はまだ先。
私達はそれぞれ成長し、互いを知る時間を過ごすことになります。
そして、その時間こそが。
後に私が「秀高様」と心から呼べるようになるまでの、大切な日々となっていったのでございます。
そして翌日。
京での用事を済ませながら宿で過ごしていた秀高様のもとへ、一人の武士が訪ねてきました。
『失礼いたします。鷹司家より参りました』
私はその時、屋敷にはおりましたが、その場にいたわけではありません。
けれど、後から聞いた話では、秀高様は宗久様と顔を見合わせられたそうです。
「鷹司家から……」
使者は懐から一通の書状を取り出しました。
『兼輔様よりお預かりしております』
『朝廷より宣旨が下りましたので、本日夕刻、鷹司家へお越しいただきたいとの仰せにございます』
秀高様は書状を受け取り、内容を確認されました。
そこには祖父様の筆で、
『朝廷より無事に宣旨が下された。夕刻、屋敷にて正式な儀を執り行う』
と記されていたそうです。
秀高様は静かに書状を閉じられました。
「承知いたしました。夕刻、必ず伺うと兼輔様へお伝えください」
『はっ』
使者は一礼すると、宿を後にしました。
夕暮れが近づいた頃。
私は屋敷の中で、その日の出来事を聞いておりました。
どうやら、朝廷から正式に宣旨が下された。
そして今夜、秀高様が屋敷へ来られる。
そう聞いた時、胸が高鳴りました。
今日から、あの御方の人生がさらに大きく変わる。
そして、その変化を私はすぐそばで見届けることになる。
そんな気持ちになったのでございます。
やがて。
正装へ着替えた秀高様は宗久様を伴い、馬車で鷹司家へ向かわれました。
屋敷の門前では、家臣たちが秀高様を出迎えます。
『秀高様、兼輔様、忠冬様がお待ちにございます』
「ありがとうございます」
秀高様は一礼され、宗久様を従えて屋敷の奥へ進まれました。
昨日と同じ座敷。
そこには祖父様、父上様、そして近衛様が既に待っておられました。
宗久様は秀高様の一歩後ろへ控えられます。
秀高様は畳へ手をつき、深々と一礼されました。
「秀高にございます。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
祖父様は穏やかに頷かれました。
『秀高殿、面を上げられよ』
『本日は、朝廷より正式な宣旨が下された。その宣旨を、そなたへお渡しするため、お越しいただいたのだ』
「はっ」
秀高様が姿勢を正されると。
近衛様が静かに立ち上がられました。
その手には、一通の巻物。
それが、朝廷より下された宣旨だったのでございます。
私はその場にはおりませんでした。
ですが、後から聞いた話では、秀高様はその巻物を見つめておられたそうです。
「(あれが……宣旨)」
その視線に気付いた近衛様が、穏やかに説明された。
『不思議そうな顔をしておりますな、秀高殿』
『宣旨とは、本来は帝の御意思を記した正式な文書であり、朝廷において厳格な手続きを経て下されるものです』
『ゆえに、これを読み上げるのも本来は朝廷の役目を担う者が行う』
そして、近衛様は続けられた。
『しかし今回は、秀高殿が鷹司家の縁者となり、その叙位任官の儀でもあるため、私が朝廷より宣旨を預かり、この場で帝の御意をお伝えする役を仰せつかっております』
『すなわち、私が官位を授けるのではありません』
『あくまで帝の御言葉を記した宣旨を、朝廷に代わって読み上げるだけのことにございます』
秀高様は深く頭を下げられました。
「ご説明いただき、ありがとうございます」
そして、近衛様が巻物を広げられた。
部屋の空気が変わったことでしょう。
祖父様も、父上様も、宗久様も姿勢を正す。
そして近衛様が、厳かな声で宣旨を読み上げられました。
『奉る
木下日高、先の戦において将軍家に力を尽くし、堺の安寧と繁栄に尽力した功、まことに顕著なり
また、鷹司家との縁を結び、朝廷に忠節を尽くさんとする志、誠に嘉すべきものなり
よって、今ここに木下日高の元服を認め、以後、鷹司秀高と称することを許す
あわせて、従五位下に叙し、右近衛権少将に任ずる
以後、朝廷と武家の橋渡しとなり、民のため、天下のため、一層励むべし
右、宣旨に依る』
読み終えた近衛様は、静かに巻物を閉じられました。
秀高様は畳へ両手をつき、深々と頭を下げられたそうです。
「謹んで、お受けいたします」
近衛様は秀高様の前まで歩み寄り、宣旨を両手で差し出されました。
秀高様もまた両手で恭しく受け取り、再び一礼された。
祖父様は、そんな秀高様を見ながら穏やかな笑みを浮かべられました。
『秀高殿。本日この時より、そなたは朝廷より正式に認められた武家である』
『従五位下とは、朝廷に列する者として正式な身分を与えられた証』
『そして右近衛権少将とは、近衛府に属する武官として帝をお守りする名誉ある官職である』
父上様も続けられます。
『もっとも、今すぐ御所へ出仕するという意味ではない』
『その官位は、秀高殿が朝廷より信任され、その働きを期待されている証でもある』
『これより先、公家も武家も、秀高殿を一介の商人や堺の長としてではなく、朝廷に列する武家として遇することになろう』
秀高様は宣旨を胸に抱き、静かに頷かれました。
「身に余る光栄にございます」
「この官位に恥じぬよう、朝廷への忠義を尽くし、堺の繁栄と民の安寧のため、生涯を懸けて励むことをお誓いいたします」
祖父様は満足そうに頷かれたそうです。
『その言葉を聞き、安心した。秀高殿ならば、この官位に恥じぬ働きをしてくれるであろう』
近衛様も静かに目を細められました。
『朝廷は、ただ名を与えたのではない。秀高殿という一人の器に、これからの世を託したのだ』
その言葉に、部屋の空気はさらに引き締まったことでしょう。
秀高様は一瞬だけ目を伏せ、そして強く頷かれました。
「必ずや、その御期待に応えてみせます」
その声には、まだ少年の面影を残しながらも、確かな覚悟が宿っていたのだと思います。
その夜。
官位授与の儀を終えた秀高様は、祖父様、父上様、近衛様と共に奥の座敷へ招かれ、祝いの膳を囲まれました。
けれど。
これで京での務めが終わったわけではありませんでした。
その後も秀高様は、朝廷への諸手続き。
帝への拝謁。
公家衆への挨拶。
様々な務めに追われる日々を過ごされました。
また、堺から同行してきた方々も、京の治安維持や復興支援、炊き出しなどに力を尽くしていたそうです。
京の人々からも、堺から来た者達への感謝の声が少しずつ広がっていきました。
そして気が付けば。
京へ来てから半年近い歳月が流れていたのでございます。
やがて、秀高様達が堺へ帰る日が来ました。
鷹司家の門前には、祖父様、父上様、近衛様、そして私が立っていました。
長かった京での日々。
この日が来るのを、私はずっと待っていたような気がします。
これから堺へ行く。
秀高様と同じ町で暮らす。
婚約者として、その御方の傍で過ごす。
嬉しい。
けれど。
祖父様や父上様と離れることを思うと、少し寂しくもありました。
父上様が、秀高様へ静かに微笑まれました。
『秀高殿。約束どおり、小梅を頼みますぞ』
秀高様は深く一礼されます。
「お任せください。必ずや命に代えても、小梅様をお守りいたします」
私は、その言葉を聞いて胸が温かくなりました。
父上様。
祖父様。
そして近衛様へ、私は順に頭を下げました。
『行ってまいります』
祖父様と父上様は優しく頷かれました。
『うむ。堺で多くを学び、立派な夫婦となるのだぞ』
『祝言の日を楽しみに待っておるぞ』
私は少し寂しそうに微笑みながらも、しっかりと頷きました。
『はい』
秀高様は三人へ最後の一礼をされ、私を輿へ案内してくださいました。
やがて、堺へ向かう長い行列がゆっくりと動き始めました。
先頭には秀高様。
その後ろには、私の乗る輿。
さらに後方には、護衛の兵や運搬隊の皆さんが整然と続いています。
後々、話を聞いたところ、今回の上洛した堺の総勢は五千人にも及ぶ大行列だったそうです。
京の人々は街道の両脇へ集まり、その壮観な行列を見送っていました。
『あれが堺の殿様か』
『まだあれほど若いというのに、朝廷から官位まで賜ったそうだぞ』
『後ろの輿には鷹司家のお姫様がお乗りなのだとか』
人々の囁きが行列を包みます。
私は輿の中から、そんな声を聞いておりました。
時折、簾を少しだけ上げて前を見ます。
そこには。
馬に乗って前を進む秀高様の背中がありました。
私は、その背中を静かに見つめました。
門前で初めて見た時とは、何もかもが違って見えます。
あの日は、ただ惹かれただけ。
今は。
この御方と共に生きていく。
そう思える。
私は小さく微笑みました。
数日後。
私達一行は、無事に堺へ帰還しました。
東通用門には、堺屋の者達をはじめ、多くの堺の民が詰めかけています。
秀高様と私の帰還を、盛大な歓声で迎えてくださいました。
私は初めて、秀高様の治める堺の町を目にしました。
活気に満ちた町。
多くの商人が行き交う町。
職人が働き、荷車が走り、港へ人が集まる町。
そこには、これまで私が暮らしてきた京とはまた違った力強さがありました。
そして。
ここが、これから私が暮らしていく場所。
秀高様と共に歩む場所。
私は、輿の中から堺の町を眺めました。
『……ここが、秀高様の堺なのですね』
まだ婚姻していません。
まだ祝言も挙げていません。
けれど。
私は、この時すでに思っていました。
この御方と共に。
この町で。
これから多くのことを学び、歩んでいきたい。
あの日、門前で一目惚れした御方。
木下日高様。
そして今。
鷹司家の縁者となり、朝廷から官位を賜った。
鷹司秀高様。
この御方との長い物語は、ここからさらに続いていく。
そんな予感を抱きながら。
私は、初めて見る堺の町へ静かに足を踏み入れたのでございます。
『以上が私小梅と夫秀高との馴れ初めでございます』
小梅はお茶会に参加している全ての才媛に目配せし秀高との馴れ初めを語り切ったのであった。
誤字脱字等がありましたら、ご連絡お願い致します。
できるだけ早く修正して参ります。




