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秀吉の兄に転生したけど、そんなの居ないよな   作者: 牧場のオヤジ
2章ー新婚旅行と海外遠征ー

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第34話ー琉球に咲く一輪の梅ー



秀高を条約協議の場へ、小梅を王妃の茶会へ案内する官吏が客殿を訪れた。


二人は互いに顔を見合わせる。


「それじゃあ、行ってくる」


『はい。私も行って参ります』


「昨日のように、無理はするなよ」


『貴方様こそ。条約のお話ですから、つい夢中になりすぎないようにしてくださいね』


「分かっているよ」


秀高は苦笑し、小梅も微笑む。

二人は互いに頷き合い、それぞれの官吏の案内で歩を進めた。

秀高が応接間に向かうのに対して、小梅は首里城の奥へ案内される。


二人は同じ客殿から出た。しかし、その進む先は全く異なる。


秀高は琉球王国の官吏たちと条約という一つの文書を作り上げる。


そして小梅は、王妃をはじめとした王国の女性たちとの交流を通して、堺屋という存在を知らしめていく。


どちらも、これからの堺と琉球の関係を左右する大切な役目であった。

小梅は案内役の官吏の後ろを歩きながら、静かに息を吐いた。

回廊を進んでいると、海から吹き込んでくる風が頬を撫でる。

吹き込む潮風は穏やかで、色鮮やかな琉球の花々が風に揺られながら回廊の周りと庭園を彩っている。

赤や黄色、白。

日ノ本で見慣れた花とは異なる色合いの花々が咲き誇り、その向こうには青い空と海が広がっていた。

小梅は一瞬、その美しい景色へ目を奪われる。


『綺麗……』


思わず声が漏れそうになる。


しかし、小梅はすぐに意識を戻した。

今日の自分には役目がある。

それを忘れてはいけない。


『(今日は王妃様と有力士族の方々とのお茶会)』


歩きながら、小梅は頭の中で今日の役目を反復する。


『(昨日とは違って、今日は多くの方がいらっしゃる)』


昨日は王妃と二人きりであった。

だが、今日は違う。


王妃の側には、王国の有力士族の夫人や姫君たちが集まる。

つまり、小梅がこれから相対するのは、単なるお茶会の参加者ではない。

王国の有力者たちと繋がりを持つ女性たちである。


『(隙を見せれば喰われてしまうのは私だけじゃない)』


小梅の足取りが僅かに重くなる。


『(秀高様が興した堺屋ごと飲まれちゃう)』


堺屋。

それは秀高が長い年月をかけて築き上げてきたもの。

堺の商人たち。

職人たち。

船乗りたち。

そして、秀高を信じて付いてきた多くの人々。


小梅自身もまた、その一員として副総統という立場を担っている。


『(そんなことにはさせない)』


小梅は拳を軽く握った。


自分一人の失敗なら、まだ耐えられる。

だが、自分の言葉一つで堺屋の立場が悪くなることだけは絶対に避けなければならない。

小梅も秀高から与えられた役目の大変さを理解していた。

いや。

昨日まで理解していたつもりだった。


『(昨日の王妃様との初謁見)』


小梅の脳裏に、昨日の光景が蘇る。

王妃の柔らかな笑顔。

そして、あえて政務の話をせず、純粋な茶会のような空気を作り出していたこと。


『(王妃様が意図してあんな姿勢を取ったのか、それとも完全に素だったのかわからないけど……)』


小梅は眉を僅かに寄せる。


『(まんまと空気に吞まれてしまってたわ)』


もし、あのまま王妃の流れに乗っていたら。


もし秀高から教えられていたことを思い出せなかったら。


もし、その場の心地よさに甘えていたら。


『(あのまますいすい行っていたら、堺屋に不利益をつかまれたかもしれない)』


小梅は静かに息を吐いた。


昨日、王妃との茶会を終えた後。

小梅は自分自身の未熟さを痛感していた。

自分は鷹司家の娘であり、少納言という朝廷の官位も持っている。

そして、秀高の妻であり、堺屋副総統でもある。

それだけの立場を持ちながら、相手の作った空気に呑まれてしまった。


『(そんなの絶対にダメ)』


小梅は前を向く。


『(堺のみんなと、そして私の旦那様がこれまで築き上げた堺屋の看板に大きな傷を付けてしまう)』


堺屋という名は、単なる商家の名前ではない。


堺の民が生きるための基盤であり、交易によって多くの国と繋がるための窓口でもある。

そして何より。

秀高がこれまで積み重ねてきた信頼そのものだ。


『(それだけはダメよ、小梅)』


小梅は自分へ言い聞かせるように心の中で呟いた。

しばらく歩いたところで、小梅はふと昨日の夜のことを思い出した。

秀高と二人で話した時間。

そして、自分の不安を打ち明けた時。


『(でも……)』


小梅の表情が僅かに緩む。


『(昨晩の秀高様の言葉、心に沁みたな)』


「君の屈託のない笑顔は人を安心させる」


昨夜、秀高が自分に向けてくれた言葉。


「その後の大見得も、ただ勢いがあるだけじゃない」


「相手が『この人なら任せられる』と思える不思議な力が君にはある」


「それが君の一番の強みだよ」


『ふふふ』


思わず小梅の口元が緩んだ。

そして、歩きながら頬まで緩んでいく。


『小梅様。お顔が緩々ですよ』


隣を歩いていた侍女が小声で告げる。


『ハッ』


小梅は我に返った。


『あ、ありがとう』


小梅は慌てて表情を引き締める。


『(私ったら、声に出しちゃうなんて)』


そして少しだけ俯く。


『(……でもやっぱり、秀高様は優しいな)』


再び顔が緩みそうになる。

小梅は慌てて頬を引き締めた。


『(ダメよ小梅)』


自分へ言い聞かせる。


『(ここからは社交という戦場へ行くのだから、気を引き締めなきゃ)』


小梅は深く息を吸い込んだ。

そして、先程まで浮かべていた柔らかな笑顔を、外交の場に相応しい穏やかな表情へと切り替えた。

侍女はそんな小梅を見て、僅かに微笑む。

昨日までの小梅とは違う。

いや。

正確には、昨日まで知らなかった小梅の一面が、少しずつ表へ出てきているのかもしれない。

やがて回廊を抜ける。


その先に、今回のお茶会が催される御殿が姿を現した。

琉球特有の朱塗りの柱と琉球瓦が朝の陽光を受けて美しく輝いている。

周囲には色とりどりの花々が咲き誇り、庭の一角からは涼やかな水音が聞こえてくる。

風が吹くたびに木々の葉が揺れ、穏やかな空気が辺りを包んでいた。

まるで、この場所だけ時間がゆっくり流れているようだった。

だが。

そんな心地の良い情景でも、小梅は心を奪われることはなかった。

これから赴くのは、華やかな茶会の席である。


しかし、それだけではない。


堺屋の将来を左右しかねない社交という名の戦場。

昨日の失態を思い出し、小梅は兜の緒を締めるが如く、自らを律した。


『(大丈夫)』


小梅は胸の中で呟く。


『(私は一人じゃない)』


秀高がいる。

堺の皆がいる。

そして、自分には自分にしかできない役目がある。


『(だったら、私らしくやればいい)』


小梅は小さく頷いた。


やがて案内役の官吏は御殿の前で足を止めた。


そして小梅へ向き直り、恭しく一礼する。


『鷹司少納言様。こちらがお茶会の会場にございます』


『はい』


『王妃様へお伺いを致しますので、少々お待ちください』


『ありがとうございます。宜しくお願い致します』


小梅は一礼する。

そして、官吏が扉へ向かうのを見届ける。

一人になった小梅は、静かに深呼吸をした。

吸って。

吐く。

もう一度。

衣装の乱れを確認する。

袖を整える。

帯を確認する。

髪にも乱れない。

小梅は最後に背筋を伸ばした。

案内役の官吏は扉の前へ進み、一礼する。

そして、穏やかな声で取り次いだ。


『王妃様。鷹司少納言様をお連れいたしました』


ほどなくして、室内から王妃の声が返ってきた。


『どうぞ、お通ししてください』


『承知致しました』


官吏は静かに扉を開き、小梅へ一歩道を譲る。


『鷹司少納言様、どうぞお入りください』


小梅は小さく頷いた。


そして、背筋を正し、御殿の中へ足を踏み入れた。

その瞬間。

室内にいた王妃をはじめ、有力士族の夫人や姫君たちの視線が一斉に小梅へと集まった。

誰もが、日ノ本の国で少納言という朝廷の官位を授かり、かつ、堺屋副総統という重責を担う若き才媛を、自らの目で見極めようとしていた。


しかし。


彼女たちが最初に目を奪われたのは、小梅の身分や肩書きではなかった。

その姿だった。

この日、小梅が身にまとっていたのは、日ノ本を代表して琉球王国へ臨む者にふさわしい格調高い振袖であった。

地色は雪のように清らかな白を基調とし、裾へ向かうにつれて淡い紅梅色へと移ろう優雅なぼかし染め。

その意匠の中心には、小梅の名にも通じる紅白の梅花が咲き誇り、松や竹、桜、藤、菊など四季折々の花々が京友禅の繊細な技法によって描かれている。

一つ一つの花は決して派手に主張していない。

それぞれが調和し、全体として一つの美しい景色を作り上げていた。


寒さの中でもいち早く花を咲かせる梅。

高潔さ。

忍耐。

そして、揺るぎない意志。

その姿は、外交という重責を担う小梅自身を映し出しているかのようであった。

金糸と銀糸を織り込んだ袋帯には、優雅に舞う鳳凰と格調高い有職文様が品よく織り出されている。

その意匠は決して華美を誇示するものではない。

日ノ本の美意識と品位を静かに物語っていた。


それは美しさを競うための装いではない。


日ノ本を代表する者として。

そして、堺屋の名を背負う者として。

他国に臨む者の覚悟を、その一針一針に込めた正装であった。

琉装とは趣を異にするその優雅な姿に、王妃をはじめ王国の女性たちは思わず息を呑む。


『まぁ……』


『これが日ノ本の才媛の正装……』


『梅の花が、まるで本当に咲いているようだわ……』


『なんと品に満ちたお姿でしょう』


そんな囁きが静かに広がる。


しかし小梅は、周囲へ必要以上に視線を向けることなく、真っ直ぐ王妃のもとへ歩みを進める。

一歩。

また一歩。

歩幅は乱れない。

振袖の長い袖が歩みに合わせて優雅に揺れる。

その姿には、摂関家の息女として培われた所作の美しさと、外交の場に立つ者としての凛とした風格が備わっていた。

やがて王妃の前へ至る。


小梅は静かに振袖の裾を整え、背筋を伸ばして深く一礼した。


『日ノ本の国の少納言及び、堺屋副総統を拝命しております。鷹司小梅にございます。本日はこのようなお席へお招きいただき、誠にありがとうございます』


小梅の澄み切った声が室内に静かに響く。


その一礼は決して華美ではない。

しかし、一分の隙もない所作には、やはり幼き頃より作法を修め、さらに堺屋副総統として諸国の要人と相対してきた者だけが備える気品と風格があった。

王妃は小梅の姿を静かに見つめる。


『(昨日とはまるで別人ね)』


月江は心の中で呟いた。


昨日の二人だけの茶会では、小梅はわずかな揺らぎを見せていた。

言葉を選ぶ時に僅かに迷い、王妃の言葉に戸惑う場面もあった。

しかし。

今、目の前に立つその姿には、その面影はない。

一つひとつの所作に迷いはなく、相手へ敬意を払いながらも、自らの立場を決して崩さない。


『(何か貴方を変えるきっかけがあったのね)』


王妃は心内でそう呟く。


そして柔らかな笑みを浮かべた。


『ようこそお越しくださいました、鷹司少納言様』


その穏やかな声に、緊張感のあった室内の空気がふっと和らぐ。


『本日は昨日のように政務を論じる席ではございません』


『どうぞ肩の力を抜き、お茶を召し上がりながら、我々との語らいを楽しんでいただければ幸いです』


『はい。王妃様の温かなお心遣い、誠にありがとうございます』


小梅は再び一礼する。


『本日は、日ノ本と琉球王国の友誼がより深まる一日となりますよう、微力ながら努めさせていただきます』


その言葉に、数名の夫人たちが静かに顔を見合わせた。


自らを誇るでもなく。

必要以上にへりくだるでもない。

絶妙な距離感で紡がれたその一言に、日ノ本の代表としての器を感じ取ったのである。

王妃は静かに頷いた。

そして、隣の席へと手を添える。


『どうぞ、私の隣へお掛けください』


『失礼いたします』


小梅は勧められた席へ静かに腰を下ろした。


それを合図とするように控えていた侍女たちが動き始める。

琉球の香り高い茶。

そして、色鮮やかな菓子。

それらが一人ひとりの前へ運ばれていく。

こうして。

二人の女性を中心とした、もう一つの外交の幕が静かに上がったのであった。




室内を穏やかな静寂が包む。


先ほどまで互いの姿を探るようだった視線も、次第に柔らかなものへ変わっていく。

やがて王妃は、目の前に置かれた茶碗を両手で静かに持ち上げた。


『皆様、それではいただきましょう』


柔らかな微笑みとともに茶を一口含む。


その所作を合図とするように、居並ぶ夫人たちも一斉に茶碗へと手を伸ばした。

小梅もまた両手で茶碗をいただき、一礼してから静かに口元へ運ぶ。

ふわりと立ち上る湯気とともに、琉球特有の優しい香りが鼻先をくすぐる。

口に含めば、柔らかな甘みとほのかな渋みが絶妙に調和し、どこか心を穏やかにしてくれる味わいが広がった。


小梅は茶碗を眺めながら、昨日のことを思い出していた。

昨日も同じようにこの茶をいただいた。

しかし、昨日とは自分の心持ちが違う。

昨日は王妃という存在を前に、ただ緊張していた。

今日は違う。

相手を知る。

そして、自分も知ってもらう。

そのために、この席へ来たのだ。

王妃は小梅の表情を優しく見つめながら問いかける。


『いかがでございますか、少納言様。琉球のお茶は、お口に合いましたでしょうか』


小梅は茶碗を静かに膝前へ戻し、微笑みを浮かべる。


『はい。昨日もいただきましたが、とても優しいお味でございます』


『日ノ本の茶とはまた異なる趣がございますが、不思議と心が安らぎます』


その率直な感想に、王妃は嬉しそうに頷いた。


『ふふ、ありがとうございます』


『このお茶は、大切なお客様をお迎えする際にお出しするものでございます』


王妃は茶碗へ目を向ける。


『訪れた方々が肩の力を抜き、心穏やかに語り合えるよう願いを込めております』


『そのお心遣いが、お茶の味わいにも表れているのでございますね』


小梅の言葉に、夫人たちの表情も自然とほころぶ。


『まぁ、上手なお言葉ですこと』


『少納言様は、お茶の味だけではなく、そこに込められた心まで見ておられるのですね』


『いえ、私はただ感じたままを申し上げただけでございます』


小梅は少し照れながら答える。

その飾らない姿に、室内の空気がさらに和らいだ。




お茶会が始まり、暫くすると、月江が小梅に語り掛けた。


『少納言様は、倭の国でもお茶を嗜まれるのですか』


月江からの問いに、小梅は静かに頷く。


『はい。幼き頃より都で学んでおりましたが、嫁いだ後の方が学ぶ機会が多くなりました』


小梅は少しだけ微笑む。


『……まだまだ未熟ではございますが、「お茶の席は、人と人との心を結ぶ大切な場である」と私の夫から指導を受けております』


月江はその言葉を聞き、静かに目を細めた。


『人と人との心を結ぶ場……』


『(鷹司参議様あって、鷹司小梅ありということね)』


王妃はその言葉をゆっくりと繰り返す。


『なるほど……そのお考えは、琉球でも同じでございます』


『大切なお客様と茶を囲む時間は、言葉を交わす以上に、その人となりを知ることができます』


小梅は穏やかに微笑んだ。


『国は違えど、人を敬い、おもてなしを大切にする心は同じなのでございますね』


『ええ。そのように感じていただけて、とても嬉しく思います』


王妃の表情は、先ほどよりもいっそう柔らかくなっていた。

やがて、お茶会に参加している一人の夫人が、卓上に並べられた菓子を手に取りながら口を開く。


『少納言様は、こちらのお菓子は初めてでございますか』


小梅は菓子へ目を向ける。


鮮やかな黄色と淡い紅色に彩られた南国らしい菓子は、日ノ本では見かけぬ愛らしい姿をしていた。


『はい。初めて拝見いたします』


『見た目も大変美しく、いただくのが惜しく思えるほどでございます』


『こちらのお菓子はどのようなお菓子なのですか』


その飾らない言葉に、夫人たちから小さな笑みがこぼれる。


『ありがとうございます』


『それは王国の菓子職人が、この日のために用意したものでございます』


王妃はそう答えると、どこか誇らしげな表情を浮かべた。


『少納言様にも、ぜひ琉球の味をご堪能いただければ幸いでございます』


『そうなのですね。それでは、ありがたく頂戴いたします』


小梅は菓子を一つ手に取り、小さく口へ運ぶ。

口へ運ぶと、優しい甘みの中に南国の果実ならではの爽やかな香りがふわりと広がった。


小梅の表情が自然にほころぶ。


『……とても美味しゅうございます』


その一言に、室内は穏やかな笑みに包まれた。

王妃はその様子を見つめながら、静かに思う。


『(この方は、相手を立てるために褒めているのではない)』


『(心から感じたことを、素直に言葉にできる方なのね)』


その飾らぬ人柄こそが、多くの人々を惹きつける理由なのかもしれない。


王妃は茶碗をそっと置き、小梅へ穏やかな眼差しを向けた。


『少納言様』


『はい』


『もし差し支えなければ、倭の国、いえ、日ノ本のお話を聞かせていただけませんか』


その一言をきっかけに、二人の語らいは、互いの国や文化へとゆっくり広がっていくのであった。



月江からの問いを受け、小梅は少し考えるように微笑んだ。


『日ノ本と申しましても広い国でございまして、私も全てを存じているわけではなく、一言で申し上げるのは難しゅうございますが、宜しいでしょうか』


『かまいませんわ』


小梅からの返答を許諾した月江と夫人たちは、興味深そうに耳を傾ける。


小梅は周囲を見渡す。


そして、少し考えた後に口を開いた。


「では、少々、屛風をお借りしても宜しいでしょうか」


『屛風?』


月江は少し驚いた。


『…………ええ、勿論ですとも』


そして侍女へ目を向ける。


『これ、少納言様の所へ屛風をお持ちせよ』


『承知いたしました』


侍女が動く。

月江は小梅の様子を見ながら、内心で首を傾げていた。


『(何をなさるおつもりなのかしら?)』


やがて屛風が小梅の隣へ運ばれてくる。


小梅は礼を述べると、懐より一枚の折り畳まれた紙を取り出した。


それを丁寧に広げる。

そして、屛風の縁に挟んだ。

その紙に描かれていたのは、かつて秀高が書斎で記した日本列島と周辺国の地図であった。

そこには樺太、蝦夷、日ノ本の国、明国、琉球、高山国が描かれ、地名も記されている。


『少納言様……これは』


お茶会に参加している一人が、思わず声を漏らした。

小梅は地図を見ながら答える。


「日ノ本の国を説明するには、こちらの方がわかりやすいかと思いまして」


「この絵は南蛮商人からもたらされた情報を基に作成した、日ノ本とその周辺の地形図になります」


『このような物を南蛮の商人は持っているのでございますか?』


「全ての商人が持っているわけではないようです」


小梅は心の中で少しだけ笑う。


『(本当は秀高様から頂いたものですが、それは秘密でございます)』


『ですが、こうして見ると日ノ本の国や明国、そして我ら琉球がどこにあるのか一目でわかりますわね』


月江も地図へ近づく。


『少納言様、どうか説明を続けていただいても』


『勿論でございます』


小梅はさらに指し棒を取り出す。


そして地図の各地を指し示しながら説明を始めた。


『日ノ本は一つの国ではございますが、地域ごとに訛りも異なれば、祭礼や伝統もそれぞれに受け継がれております』


『同じ日ノ本であっても、旅をすれば別の国へ来たかのように感じることもございます』


夫人たちは興味深そうに耳を傾ける。


『あと、日ノ本は四季折々の景色が美しく、春には桜が咲き誇り、人々は花の下で酒や茶を楽しみます』


『夏には各地で祭りが催され、秋には山々が紅く染まり、冬には一面の雪景色となる地方もございます』


『雪……』


一人の若い姫君が思わず声を漏らした。


『少納言様、雪とはどのようなものでございますか』


小梅は微笑む。


『雪とは、簡単に申しますと、水が凍って白い粒となり、それが空から降ってくるものでございます』


『本当に空から白いものが降ってくるのでございますか』


『はい』


小梅は頷く。


『雪が深く積もる土地では、人の背丈を超え、家屋ほどの高さにまで積もることもございます』


『まぁ、そのような所があるのですね』


姫君は目を丸くした。

周囲の夫人たちも驚いたように顔を見合わせる。

月江もまた、感心したように小さく頷いた。


『琉球では日ノ本のような雪を見ることはほとんどございません』


『だからこそ、少納言様のお話を伺っておりますと、まるで物語を聞いているような心地になりますわ』


『私も実際にその光景を見るまでは、同じように思っておりました』


小梅は少し笑う。


『そして王国に参りましてからは、その思いがさらに強くなりました』


小梅は窓の外へと視線を向ける。

庭では南風に揺れる花々が、鮮やかな彩りを見せていた。


『日ノ本では見られぬ花々が咲き、冬でも緑が絶えない』


『この景色もまた、私には物語の中へ迷い込んだように思えます』


その言葉に、夫人たちの表情が明るくなる。


自分たちにとって当たり前の景色を、美しいと言ってもらえた。

それが素直に嬉しかったのである。

月江も穏やかな笑みを浮かべた。


『少納言様のお話を伺っておりますと、日ノ本がいかに広く、多様な文化を持つ国であるかがよく分かりますわ』


『恐縮でございます』


小梅は軽く頭を下げる。


すると月江が、少しだけ表情を変えた。


『では少納言様』


『はい』


『少納言様から見て、我が琉球はどのような国に映りましたか』


月江の瞳が小梅を見つめる。


『(この問いに、貴女はどう答えるのかしら)』


小梅は少しだけ考えるように微笑んだ。


そして、ゆっくりと口を開く。


『一言で申しますならば』


小梅は庭の向こうに広がる海を見つめた。


『「人と海が共に生きる国」でございます』


『人と海……』


夫人たちがその言葉を静かに繰り返した。


『はい』


小梅は頷く。


『王国へ参るまで、私は海とは漁を営み、交易船が行き交う場所という印象しか持っておりませんでした』


『しかし、堺へ嫁ぎ、それから交易を学び、こうして堺から王国へ来て、さらに実感致しました』


小梅は障子越しに見える青空へと視線を向ける。


『港には日ノ本だけでなく、明国や南蛮、さらには南の島々からも船が集まり、多くの言葉が飛び交っております』


『それぞれ異なる言葉を話す人々が笑顔で品を売り買いし、互いに礼を交わしている光景を目にした時、私は【海は国と国を隔てるものではなく、人と人を結ぶ道でもあるのだ】と感じました』


その言葉に、月江は静かに目を細める。


『海が人を結ぶ道……』


小梅は静かに頷いた。


『はい』


『日ノ本では海も勿論ですが、山や街道が人を結びます』


『しかし、この王国では海こそが街道なのだと感じました』


夫人たちは互いに顔を見合わせ、小さく頷き合う。


それは幼い頃より見慣れた海であり、あまりにも当たり前すぎて、その価値を改めて考えたことはなかったのである。


月江は穏やかな笑みを浮かべた。


『少納言様は、我らが当たり前と思っていたものの価値を、改めて教えてくださいますのね』


『(この方の淀まず真っ直ぐとした瞳……かような目を今まで見たことがあっただろうか)』


小梅は首を横に振る。


『そのような大それたことではございません』


『ただ、私が見たまま、感じたままを申し上げているだけでございます』


少し言葉を置く。


『そのように考えるようになったのも、夫から教えられた言葉のおかげでございます』


月江の目が僅かに輝く。


『その言葉とは…………』


『(これは聞かなければいけませんわ)』


夫からの教え。


小梅から発せられる秀高からの言葉。


月江はそこへ強い関心を示した。


『夫は日頃より【相手を知り、敬い、互いの想いを共有し、助け合うことが信頼への第一歩である】と申しております』


小梅は穏やかに微笑む。


『…………私は、その教えを実践しているに過ぎません』


月江と夫人たちは、その言葉を聞き、静かに茶碗へと視線を落とした。


『そうなのですね』


『(また鷹司参議様のお言葉……)』


昨日抱いた一つの疑問が、再び月江の胸に浮かぶ。


目の前の女性は、いかにして参議・秀高の心を支え、そして堺屋副総統という重責を担うまでになったのか。


その理由を、もっと知りたい。


月江は穏やかな微笑みを絶やさぬまま、小梅へ静かに問い掛けた。


『少納言様』


『はい』


『もし差し支えなければ、お二人がどのようにして夫婦となられたのか、お聞かせ願えませんでしょうか』


突然の問いに、小梅は一瞬だけ目を丸くした。


『私達の馴れ初め……でございますか』


『ええ。是非とも』


月江は微笑む。


『(このままではお茶会の主導権を小梅様に獲られてしまいますわ)』


小梅はその内心を知る由もない。


ただ、月江の言葉を聞いて少し困ったように笑った。


『昨日より少納言様とお話をしておりますと、参議様のお話になるたび、お顔がとても穏やかになられるのでございます』


『そ、そのようなことは……』


小梅の頬が赤くなる。


『『そうでございますわ』』


この時ばかりは月江だけでなく、周囲の夫人たちも微笑みながら頷いていた。


『先程も、ご主人のお話をされる時だけ、お声が一段と優しくなられておりました』


『私もそう感じましたわ』


『本当に仲睦まじいご夫婦なのでございますね』


夫人たちから次々と言葉を掛けられ、小梅は照れ隠しのように小さく咳払いをする。


『そんなに顔へ出ておりましたでしょうか……』


その初々しい反応に、室内には穏やかな笑いが広がった。

先程まで地図を広げ、堂々と日ノ本や交易について語っていた少納言の姿は、そこにはない。

そこにいるのは。

一人の若き妻として、愛する夫の話をされて照れる小梅であった。

その飾らぬ姿に、夫人たちの緊張もすっかり解けていく。

月江は優しく目を細めた。


『安心いたしましたわ』


『安心……でございますか』


『ええ』


月江は微笑む。


『少納言様ほどのお立場のお方でも、ご主人を慕うお気持ちは、私達と何も変わらないのだと分かりましたもの』


その言葉に、小梅は少し照れながらも静かに頷いた。


『はい』


小梅は一度、秀高の姿を思い浮かべる。

そして、迷うことなく言葉を続けた。


『秀高様は、私にとって夫であると同時に、学びの師でもあり、人生で最も尊敬するお方でもございます』


迷いのないその言葉に、夫人たちは思わず息を呑む。

月江は微笑みながら口を開いた。


『そのように言い切れるご夫婦とは、実に羨ましいものですわ』


『ありがとうございます』


小梅は少し照れながら頭を下げる。


『ですが、私も最初から今のようであったわけではございません』


『秀高様と出会い、共に歩み、堺で多くを学び、皆に支えられながら、今の私がございます』


その一言に、夫人たちはさらに身を乗り出す。


『なおさら、お二人のお話を伺いたくなりました』


『ええ、私もですわ』


『是非ともお聞かせくださいませ』


小梅は少しだけ照れ笑いを浮かべる。


そして、懐かしむように遠くへ視線を向けた。

その瞳には、遠い過去の光景が映っているようだった。


『……分かりました』


小梅は静かに息を整える。


『お恥ずかしい話もございますが、それでも宜しければ、お話しいたします』


『『ぜひ、お聞かせくださいませ』』


夫人たちの声が重なる。


室内には先ほどまでとは違う、どこか期待に満ちた空気が広がった。


小梅は目の前の茶碗へ一度視線を落とす。

そして、そっと微笑んだ。

今から語るのは、まだ自分が「鷹司小梅」として秀高の隣に立つ前の話。

まだ秀高が「鷹司秀高」ではなく、木下日高と名乗っていた頃。

自分と秀高が初めて出会い、そして夫婦となるきっかけとなった、遠い日の記憶。

小梅はゆっくりと口を開いた。


『……あれは、今から六年前』


『まだ秀高様が「鷹司秀高」ではなく、「木下日高」と名乗っておられた頃のお話でございます』


琉球の穏やかな風が御殿の中へ吹き込む。

色鮮やかな花々が庭で揺れる。

そして小梅は、遠い日の記憶へと静かに思いを馳せるのであった。


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