第33話ー条約草案会議ー前文編ーー
謁見初日を終え、一夜が明ける。
琉球王国の朝日が東の海から昇り、まだ薄く霞の残る空を、柔らかな黄金色へと染めていく。
首里城の屋根々々にも朝の光が差し込み、朱色の瓦が朝日に照らされて輝いていた。
遠くからは鳥の鳴き声が聞こえ、城内では早朝から働く者たちの足音が静かに響いている。
昨夜までの謁見による緊張がまだ城内に残っている一方で、新たな一日が始まろうとしていた。
そんな首里城の一角。
秀高達に宛がわれた客殿の庭では、既に二人の男女が汗を流していた。
秀高と小梅である。
「ふっ……!」
秀高が一歩踏み込み、手にした刀を振り下ろす。
空気を切り裂く音が庭に響いた。
一度、二度、三度。
基本の型を確認するように刀を振り、続いて足運びを変える。
琉球へ来てからも、秀高は可能な限り毎朝の鍛錬を欠かしていなかった。
環境が変わろうとも、身体を動かすことは日々の生活を整える上で欠かせない。
その傍らでは、小梅もまた薙刀を手にしていた。
「はっ!」
小梅も負けじと薙刀を振る。
しかし数度振ったところで、その動きが次第に鈍くなっていく。
琉球特有の蒸し暑さは、朝だというのに容赦がなかった。
額には大粒の汗が浮かび、首筋にも汗が流れている。
秀高もまた額に汗を浮かべていた。
「ふぅう……。こんなものか」
秀高は刀を止め、ゆっくりと息を整える。
そして隣を見る。
「しかし流石沖縄、この時代でも暑いな。小梅は大丈夫か」
『ぜぇ、ぜぇ、は、はい。大丈夫です』
小梅は薙刀を杖代わりにしながら、なんとか答えた。
『いや、沖縄の暑さ、完全に甘く見てました』
「やっぱりそうか」
秀高は苦笑する。
『昨日までは、日ノ本より少し暖かい程度だと思っていたのですが……』
「季節や場所が違えば暑さも変わるからな。それに、この湿気は堺とも少し違う」
『はい……。汗が止まりません』
小梅は額を手拭いで押さえる。
秀高も刀を納めると、空を見上げた。
まだ朝だというのに、太陽の日差しは既に強い。
「いつの時代でも熱中症は危険だから、これくらいにして汗を拭こうか」
『賛成です』
二人はそれぞれ手拭いを取り、額や首筋の汗を拭った。
その様子を少し離れた場所から見ていた侍女たちは、二人が戻ってきたのを確認するとすぐに動き始める。
客殿へ戻った二人を侍女たちが迎え、汗を拭き取るための湯や手拭いを用意する。
護衛たちもまた、朝の身支度を整えていく。
こうした日常的な時間も、二人にとっては琉球で過ごす大切な一部となりつつあった。
やがて身支度を終え、朝食の席に着く。
秀高は今日の予定を頭の中で確認してから、小梅へ声を掛けた。
「さて、今日の日程だが、私は条約の草案を東宰相殿と馬殿とで詰めていく予定だが、小梅は」
『はい。王妃様と他の有力士族の方々とのお茶会に呼ばれまして。そちらに参ります』
「そうか」
秀高は頷く。
小梅にとっても、昨日の王妃との謁見に続く重要な役目である。
「なら堺屋の代表として引き続き頼むよ」
『はい。お任せください』
小梅は微笑む。
『貴方様も頑張ってくださいね』
「ああ。もちろんだ」
秀高も頷く。
「条約締結へ向けて、一日一日が大事になっていくからな」
今回の訪琉は単なる商談ではない。
堺と琉球王国。
これまで正式な条約を結んだことのない二つの勢力が、これから長きにわたって関係を築いていくための第一歩なのである。
秀高にとっても、東元宰にとっても、そして琉球王国にとっても、この交渉は大きな意味を持っていた。
二人は互いの日程を確認しながら朝食を終える。
ちょうどその頃。客殿の外から、複数の足音が近づいてきた。
秀高を条約協議の場へ、小梅を王妃の茶会へ案内する官吏たちである。
二人は顔を見合わせる。
「それじゃあ」
『はい』
互いに小さく頷き合う。
それぞれが、それぞれの役目を果たすために歩き始めた。
今日もまた、二人にとって別々の「外交」が始まるのであった。
首里城 応接間
秀高が応接間へ案内されると、既に東元宰と馬周明が待っていた。
『鷹司参議殿。本日は宜しくお頼み申す』
東が頭を下げる。
『お願い致します』
馬も続く。
「こちらこそ、堺と王国の繁栄の為、宜しくお頼み申す」
秀高も丁寧に頭を下げた。
しかし、顔を上げた秀高は、そこで少しだけ目を見開いた。
「(まさか、こんなに官吏も来ているとはね)」
応接間には、東元宰と馬周明の他にも、官吏が二十名以上集まっていた。
一見すれば、まるで小さな評定の場である。
秀高は東を見る。
「(東宰相の事だから、何か意図があるのだろうな)」
応接間の中央には、三人が向かい合って話し合えるように席が設けられている。
秀高が片側の席に座る。
対面には東と馬が席に着いた。
秀高はその後ろに官吏たちが控えるものと思っていた。
ところが、官吏たちは三人とは別に設けられた長机へと着席していく。
その人数は二十名を超えている。
年齢も様々だった。
若い者もいれば、長年王国の政に携わってきたと思われる年配の者もいる。
文官らしい者もいれば、身体つきからして武官に近い雰囲気を持つ者もいた。
彼らは皆、これから始まる会議を真剣な眼差しで見つめている。
その位置は、単なる傍聴席ではない。
三人の協議を見守り、必要に応じて質疑を行うための席であることが、秀高にも理解できた。
秀高は東へ視線を向ける。
「東宰相。これは」
東は少し申し訳なさそうに笑った。
『驚かせてしまい、申し訳ない』
東は一度、周囲の官吏たちへ視線を向ける。
『実はですな、今回、琉球史上初めての外国との条約を結ぶことになりますのでな』
秀高は黙って聞く。
『我々二名も含め、条約を結ぶまでの過程や、その内容を協議した経験もございませぬ』
東の言葉に、官吏たちも静かに頷いている。
『ついては、今回、今後の王国のためにも一つ学びの場とさせていただきたく、こうして官吏達を呼んだ次第なのです』
東は秀高へ向き直る。
『参議殿。かまいませぬか?』
秀高は少し考える。
そして、穏やかに笑った。
「なるほど、そうでありましたか」
秀高は周囲の官吏たちを見回す。
「全く問題ありません。むしろ歓迎いたします」
その言葉に、何人かの官吏が顔を上げる。
「多くの目で確認することで、より良い条約となるでしょう」
秀高はさらに続ける。
「それに、条約というものは、我々三人だけが理解していればよいものではありません。後世に残るものである以上、王国を支える皆様にも内容を理解していただくことが重要です」
その言葉を聞いた東の表情が柔らかくなる。
秀高は官吏たちへ向けて頭を下げた。
「皆様もよろしくお願いいたします」
『『はい』』
複数の声が重なった。
秀高からの許諾をもらえたことで、東をはじめ官吏達の表情が明るくなった。
中には、緊張していた顔を僅かに緩める者もいた。
東はその様子を見届けると、ゆっくりと立ち上がった。
『感謝致します』
そして、応接間全体へ視線を向ける。
『ではこれより、条約草案会議を始める』
東の宣言と共に、会議の幕が上がった。
東は会議に集まった官吏たちを見回す。
『参議殿には昨日下話を済ませておるので、官吏諸君達に今回の草案の流れを説明する』
官吏たちが一斉に姿勢を正す。
『まず、参議殿より条約の内容についての素案を出して頂く』
『『コクコク』』
官吏たちが頷く。
『その素案に対して、我ら二人と官吏諸君から質疑を行い、必要に応じて内容を修正していく』
東は一度言葉を切る。
『問題なければ素案を正式に条文として承認する。この流れで進めていこうと思うが、諸君達から何か質問はあるか』
『『ございません』』
『結構』
東は秀高へ向き直った。
『では、参議殿。宜しくお頼み申す』
「はい。それでは始めて参りましょう」
秀高は目の前に置かれた紙へ視線を落とす。
これから記される言葉が、堺と琉球の未来を左右する。
「この条約を制定するにあたり、まず前文を定めます。この前文からご説明いたします」
官吏たちが筆を手に取る。
「条約には、その効力がどこまで及ぶのかを最初に明記しておく必要があります」
秀高は一枚の紙を示した。
「そこで前文には【本条約は堺と琉球王国との間においてのみ適用されるものとする。】と記したいと思います」
東は静かに頷いた。
『私としては問題ないと思うが、馬殿はどうか』
『私も問題は無いかと』
『官吏諸君、何かあるか』
東が長机へ視線を向ける。
官吏たちは互いに顔を見合わせる。
だが、異論を唱える者はいなかった。
『ございません』
『では、前文はこの内容で承認とする。参議殿』
「はい。ありがとうございます」
秀高は一度、紙へ目を落とす。
そして次の説明へ移る。
「続いて、前文の条目についてご説明いたします」
『『条目?』』
官吏たちが首を傾げる。
その反応を見た秀高は、少しだけ笑った。
「条目とは、条約の内容を目的ごとに区分し、分かりやすく整理するために設けるものです」
官吏たちは黙って聞いている。
「これにより、後に条約を見返した際にも、どこに何が定められているかを容易に確認することができます」
秀高は紙へ簡単な線を引きながら説明する。
「また、新たな取り決めを加える場合にも、必要な箇所だけを改めれば済むため、条約全体を作り直す必要がなくなります」
官吏たちは互いに顔を見合わせる。
これまで条約というものを体系的に作った経験がない彼らにとって、秀高の説明は新鮮なものであった。
すると、ここで中年ほどの官吏が席を立つ。
『参議様。質問よろしいでしょうか』
「どうぞ」
『ありがとうございます。それほど細かく分ける必要があるのでしょうか』
官吏は紙へ視線を落とす。
『……続きの文章として記しても、意味は変わらぬように思えますが?』
秀高は頷いた。
「確かに、短い約定であれば、それでも差し支えありません」
まず相手の考えを否定しない。
その上で、秀高は続けた。
「しかし、今後、交易や外交が盛んになれば、条約の内容は増えてまいります」
「そのたびに条文を書き足していては、どこに何が書かれているのか分かりにくくなってしまいます」
秀高は紙を示す。
「例えば、『交易に関する取り決めはここ』『外交に関する取り決めはここ』『争いが生じた場合の取り決めはここ』と分けておけば、必要な箇所を探すだけで済みます」
「そこで、内容ごとに条目を設けて整理しておけば、『交易はこの条目』『外交はこの条目』というように、必要な箇所をすぐ確認できるようになるのです」
質問した官吏は、何度か頷いた。
『なるほど……』
その言葉に、馬からも声が出た。
『なるほど。つまり、後々の利便性を考えて、あらかじめ秩序立てておくということですな』
「はい。その通りでございます」
秀高は頷く。
「そして、もう一つ大切なことがあります」
官吏たちの視線が集まる。
「条約はその一代限りだけではありません」
「二十年、五十年、百年後の後世の者達が見ても理解できる文書にしなければいけません」
その言葉に、東の表情が変わった。
『後世に至っても理解できる文書か……』
東は紙へ目を落とす。
『これは王国の法や歴史の記録を残す際にも応用出来そうだな』
秀高は微笑む。
「そう思っていただけるだけでも、この場を設けた甲斐がございます」
東は小さく頷いた。
「では、続けます」
秀高は再び紙へ視線を戻す。
「それでは、前文第一条目についてご説明いたします」
「第一条目は、本条約を締結する趣旨、すなわち『何のためにこの条約を結ぶのか』を明らかにするための条目になります」
秀高は一語ずつ、丁寧に説明していく。
「条目に記す内容は【本条約は、堺と琉球王国との永続なる友好及び繁栄を願い、互いの信義を重んじ、末永き和平と交易の発展を図ることを目的として締結する。】と記したいと考えております」
「この条目は、本条約全体の根幹となる考え方を示すものでございます」
「第一条目の素案は以上です」
応接間が静かになる。
東は内容を頭の中で確認するように、しばらく沈黙した。
やがてゆっくりと頷く。
『ふむ……この素案に対して意見のある者は』
今度は先ほどよりも長い沈黙が流れた。
すると、少し年配の官吏が席を立った。
『参議様。お尋ねいたします』
「どうぞ」
『第一条以下に具体的な取り決めを記すのであれば、このように締結の目的まで記す必要があるのでしょうか』
官吏は慎重に言葉を選んでいる。
『約束事だけを書き記しても、条約としては十分に成り立つように思ってしまいまして』
秀高は静かに頷いた。
「ごもっともなご質問です」
「確かに、約束事だけを書き記しても条約を結ぶことはできます。その方が楽になります」
数名の官吏が頷く。
しかし秀高は続ける。
「しかし、先ほど申し上げたように、二十年、五十年、百年後の後世の者達が見ても理解できる文書を記さなければなりません」
「月日が経過し、この条約を締結した者は表舞台から姿を消し、当時の事情を知る者も少なくなるでしょう」
「その時、条目無しの条文だけでは、後世の者達は各々で都合よく解釈してしまう恐れがあります」
「だからこそ、『何のためにこの条約を結んだのか』を最初に明らかにしておく必要があるのです」
官吏はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷く。
すると、先程の官吏とは別の官吏が手を挙げる。
『では、この第一条目は、後に条文の解釈が分かれた際の拠り所にもなるということでしょうか』
「その通りでございます」
秀高は即答した。
「もし条文の解釈に迷うことがあれば、この第一条目に立ち返り、『友好と繁栄』『和平と交易の発展』という目的に照らして判断することができます」
「目的が定まっていれば、条約は末永くその役目を果たし続けることができるのです」
その説明を聞いた馬が感心したように声を上げる。
『なるほど。つまり、この第一条目は各条目の上に立つ指針ということですな』
馬は秀高を見る。
『後に疑義が生じても、この条目に照らして考えれば、大きく道を誤ることはないという意で相異ないですかな、参議様』
「はい。相異ありません」
秀高は頷く。
「条約とは約束を並べた文書ではなく、双方が共通の目的を持って歩むための道標でもあります」
その言葉に、応接間の空気が少し変わった。
単なる約束を書き記すための会議。
そのように考えていた官吏たちも、少しずつ条約というものの意味を理解し始めている。
東はしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
『…………実に興味深い』
東は紙に視線を落とした。
『約束事をただ書き綴るのではなく、互いの意志も文書にして残すというわけであるな』
その目には、新たな法体系への関心が浮かんでいた。
『やはりこの考えは王国の法を編む際に、大いに参考になる。この年でいい勉強になるわい』
「その通りでございます」
秀高は微笑む。
『うむ……他に意見のある者はおるか』
今度は誰も立ち上がらなかった。
『無ければ、前文の第一条目をこの内容にて承認とする』
会議は次の段階へ進む。
「では続きまして、前文第二条目についてご説明いたします」
秀高は新たな紙へ目を向ける。
「先程、第一条目で条約を締結する目的を定めました」
「続く第二条目では、その目的を実現するため、双方がどのような姿勢で条約を守るのかを定めます」
「第二条目の素案になりますが、【双方は、本条約の各条を誠実に遵守し、互いの信義を損なう行為をしてはならない。】と記したいと考えております」
東は頷いた。
『この第二条目に対して意見のある者は』
しばらくして、一人の若い官吏が立ち上がる。
『はい。宜しくお願い致します』
「どうぞ」
『参議様、条文の中に「信義を損なう行為」とありますが、その範囲はどこまでを指すのでしょうか』
秀高は少し考えた。
そして、なるべく具体的に説明する。
「条約の文言だけを守り、その趣旨に反する行いをすることも含みます」
「例えば、条文の抜け道を利用して相手に損害を与えること」
「約束を故意に先延ばしにすること」
「協議すべき事項を一方的に決めること」
「こうした行為も、明確に禁止された言葉が書かれていなかったとしても、相手との信頼を損なうものであれば、信義に反する行為と考えるべきでしょう」
秀高は官吏たちを見渡す。
「条約は文だけではなく、互いの信用によって支えられるものなのです」
若い官吏は深く頷いた。
『なるほど……』
その説明を聞いていた官吏たちの間から、小さなざわめきが起こる。
すると、最後列に座っていた年配の官吏が静かに立ち上がった。
『東宰相。宜しいですかな』
東はその姿を見ると、少し驚いた表情を浮かべた。
『ん?……おぉぉ、祭殿か。貴殿も来ていたのだな』
『はい』
『今の参議殿の説明で何かあったか』
祭は静かに頷く。
『はい』
祭は秀高へ視線を向ける。
『今しがた参議様のご説明を聞いておりますと、この第二条目には「協議」という言葉も加えた方が良いように思いましてな』
会場が静かになる。
『互いに疑義が生じた際は、まず話し合うことを明らかにしておけば、不要な争いを避けられると思うたのじゃが、いかがかの』
祭の提案に、官吏たちは互いに顔を見合わせる。
東は少し口角を上げた。
『ほう。……条文の修正ということか』
東は周囲を見回す。
『流石は祭殿。他の官吏諸君も祭殿の様にどんどん提案せよ』
そして秀高へ向き直る。
『さて、参議殿。この修正提案、いかがであろう』
秀高は穏やかな笑みを浮かべた。
「はい。大変良いご提案です」
秀高は祭へ一礼する。
「実は、後の条目で協議の手続きを定めることを考えておりました」
祭が少し目を見開く。
「しかし、第二条目にもその精神を盛り込むことには十分な意義があります」
秀高は手元の素案を見つめる。
「少々お待ちください」
秀高は筆を取り、素案へ線を引く。
そして、新たな文言を書き綴っていく。
筆が紙の上を走る音だけが、応接間に響いた。
やがて秀高が顔を上げる。
「お待たせしました」
「では先程の修正案を取り入れた条目になります」
秀高は読み上げる。
「【双方は、本条約の各条を誠実に遵守し、互いの信義を損なう行為をしてはならない。また、本条約に疑義が生じた場合は、誠意をもって協議し、円満な解決に努めるものとする。】と記すのはいかがでしょうか」
『『おおぉぉ』』
一同から感嘆の声が上がった。
東も満足そうに頷く。
『よいぞ。実によい』
東は祭を見る。
『参議殿の素案に、王国の意見が加わった』
そして、周囲の官吏たちへ視線を向けた。
『まさに共同で条約を作っていると言えよう』
秀高も頷く。
「はい」
「私の考えた言葉だけでなく、皆様の声も取り入れてこそ、条約は信頼性を増していきます」
東は満足そうに頷いた。
『そのとおりであるな』
そして官吏たちへ問い掛ける。
『皆、この修正された第二条目に対して、他に意見はあるか』
『『ございません』』
『うむ、ならばこれで前文第二条目の素案を正式に承認する』
東の言葉で、王国の官吏達の目が活き活きし始めた。
先ほどまで遠慮がちに話を聞いていた者たちの中にも、自分たちの意見が条文へ反映されることを目の当たりにし、少しずつ積極性が生まれている。
東はその変化を見逃さなかった。
『では次へいこう。参議殿』
「はい」
秀高は頷く。
「それでは次は前文の最終条目であります、第三条目を定めたいと思います」
「第一条目では条約を締結する目的を、第二条目では双方が誠実にこれを守り、疑義があれば協議する姿勢を定めました」
「第三条目では、この条約を誰が、どのような立場で守り続けるのかを明らかにいたします」
秀高は第三条目の素案を示す。
「第三条目の内容は【本条約は、堺及び琉球王国の双方が等しくこれを尊重し、その権利及び義務を誠実に履行するとともに、後世に至るまで継承されるべきものとする。】と記したいと考えております」
「条約とは、一方が相手に従うためのものではありません」
「双方が対等の立場で約束を交わし、互いに守ることによって初めて成り立つものになります」
「以上です」
東は紙を見つめる。
『うむ、この条目の件で意見がある者は』
しばらくして、一人の官吏が立ち上がった。
その体格はまるで武官のように逞しい。
『宜しいでしょうか』
『申してみよ』
『条文の中にある、「後世に至るまで継承されるべきものとする」。この箇所でご提案させていただきます』
『ほう』
東が促す。
『はい』
官吏は言葉を選びながら続ける。
『この条文では、仮に国王陛下の王位交代や、宰相様をはじめとした大臣の皆様の役職交代などがあった場合、前王や前任者が決めた条約など守る必要はないと思う者が現れるやもしれませぬ』
何人かの官吏が頷いた。
『国王陛下が代われば国の方針も変わる。そう考える者が出る可能性は確かにございます』
官吏はさらに続ける。
『もし差し支えなければ、【国が滅びぬ限り、王位、役職を継ぐ者もまた、この条約を継承しなければならない。】という趣旨を加えるのは如何かと思いまして』
東は満足そうに何度も頷く。
『なるほど』
東は条文を見つめる。
『条約を制定した時の人物ではなく、国同士の約束として記すということだな』
『はい』
『確かに、後世の者たちに繋げるためには、その方がいいであろうな』
東は秀高へ視線を向ける。
『参議殿。この修正提案はどうか』
秀高は穏やかな笑みを浮かべた。
「実に見事なご提案です」
秀高は立ち上がった官吏へ向けて頷く。
「条約は個人同士の約束ではなく、国と国との約束でございます」
「それゆえ、世代が代わろうとも、その効力は失われてはなりません」
「では、ご提案を踏まえ、修正しましょう」
再び、秀高の筆が走る。
今度は先ほどよりも長い文章になる。
官吏たちは静かにその筆先を見つめていた。
やがて秀高が筆を置く。
「お待たせ致しました」
秀高は修正案を読み上げる。
「修正した第三条目の内容は【本条約は、堺及び琉球王国の双方が等しくこれを尊重し、その権利及び義務を誠実に履行するものとする。また、双方の国が滅びぬ限り、双方の統治者及びその後継の者は、本条約を継承し、これを遵守するものとする。ただし、継承の際に、条約の内容を変更または修正する際は双方で協議の上、これを可能とする】というのはいかがでしょうか」
一瞬、誰も口を開かなかった。
やがて。
『『おおぉぉ』』
再び応接間に唸り声が響いた。
馬は何度も条文を読み返している。
『なるほど……』
馬はゆっくりと顔を上げる。
『この条目でしたら、誰が政を執ろうとも条約は国の約束として受け継がれる』
『そして受け継ぐ者は、その時代に合わせて条約の内容を変更、修正することも可能にする』
『我々の代から後世の者達へ十分引き継げる内容ですな』
馬は東を見る。
『……いかがです、東宰相』
東は静かに頷いた。
『うむ』
その表情には、会議が始まった時にはなかった確かな満足感が浮かんでいた。
『素晴らしい修正案であると私は思う』
東は官吏たちを見回す。
『他に意見はないか』
『『『ございません』』』
複数の声が重なった。
東は静かに頷く。
『よろしい』
そして、目の前に並べられた条文へ視線を落とす。
『これをもって前文及び前文条目はすべて承認とする』
その言葉が応接間に響いた。
長い議論の末、条約の最初の部分がようやく形となった。
誰も大声を上げることはなかった。
しかし、官吏たちの表情には明らかな達成感が浮かんでいる。
ほんの少し前まで、条約とは「決めた約束を書き記すもの」程度に考えていた者もいた。
だが、今は違う。
条約には目的があり、守るべき姿勢があり、そして未来へ受け継ぐための仕組みが必要なのだ。
それを自分たち自身の議論によって形にした。
その経験は、彼らにとって大きな意味を持つものとなった。
東もまた、目の前の条文を静かに眺めていた。
この条約は、堺との関係を定めるだけの文書ではない。
これから琉球王国が外国との関係を築いていく上で、初めて手にする「外交文書」でもある。
そして同時に、王国の法や制度そのものを見直すための、一つのきっかけになるかもしれない。
東は隣に座る馬を見る。
馬もまた、完成した条文へ目を向けていた。
やがて東は秀高へ視線を向ける。
『参議殿』
「はい」
『まずは、見事な前文である』
「ありがとうございます」
『しかし、まだ始まったばかりであるな』
東の言葉に、秀高は小さく笑った。
「ええ。ここからが本番です」
前文が定まったことで、条約の土台は築かれた。
互いの信義。
末永き和平。
交易の発展。
そして、後世へと受け継ぐ約束。
その一文一文には、堺と琉球がこれから歩もうとする未来が刻まれている。
秀高は完成した前文へ静かに目を落とした。
「皆様、ありがとうございます。これにて前文は完成いたしました」
応接間には、穏やかな安堵の空気が流れた。
しかし、会議は終わらない。
ここから先には、交易、航海、船舶、商人、関税、港湾、外交、そして双方の安全に関わる様々な取り決めが待っている。
今日定めた前文は、それら全ての上に立つ土台となる。
東も、馬も、そして官吏たちも、それを理解していた。
『では、少し休憩を挟んだ後、次の条項へ進むこととしよう』
『『承知いたしました』』
官吏たちが一斉に頭を下げる。
会議は一度、区切られた。だが、それは終わりではない。
むしろ。堺と琉球王国が、初めて対等な立場で未来を語り合う長い協議の始まりであった。
そしてこの日。首里城の一室で交わされた一つ一つの言葉が、やがて両者の関係を形作る条約へと姿を変えていくのである。




