最終話
暗闇の中に男がいた。
木箱やずた袋が積み重なる船倉の中は明かりもなく、身動きしない男の存在に気づくのは困難だ。
男は荷物に紛れて小さくなっていたが、漂わせる生き物の臭いだけは誤魔化せなかった。
そもそも潮の香りで自覚がないのかもしれないが、長い船旅の間ロクに身体を洗えない船乗りは、けっこうな臭いがするものだ。
船倉の入り口から差しこんでくる光に、男はますます小さくなる。
「そちらの方。当局では現在、渡航許可のない人間の出入りに対して厳しく接しておりまして。密航者は第二級犯罪者として強制送還、あるいは五年間の強制労働を課すことと決められております」
私が言うと、男はビクンと身を震わせた。見つかったことには気づいただろうが、さてどう反応してくるだろう。
私はさらに港湾課の印である腰飾りを外すと、それを男に見せつけながら言った。暗いので印までは見えないだろうけど、逆光を背負った私の姿が見えないはずはない。
「国家治安維持部隊港湾課、ラーダ隊の隊長として申し渡します」
私はにこりと微笑んだ。
「問答がしたいのであれば、詰所でお伺いします」
現場で言い訳をさせる気はまったくない。言葉の直後、私の後ろからは捕縛するため数名の男たちが雪崩れこんでいった。
密航者を手早く捕まえたところで、私は船から降りた。
「隊長、この男はどうします?」
「いつも通り、詰所の方に連れていってください。処遇については、密航者の存在について承知だったかどうかを船主に確認をとってからですね。承知の上だったら船ごと差し押さえになりますから」
「うっわ、容赦ない……」
「何か言いました?」
「いえいえいえいえいえ!それにしても隊長はスゴイですよね、他の隊は滅多に犯罪者に当たらないのに……」
「うーん……」
かつてアラム先輩には”犯罪者ホイホイ”なんて不名誉な名前で呼ばれたものだけど。
「そういう巡り合わせなんでしょうね」
私はさらりと答えて、若い部下たちが密航者をひっとらえていくのを見送った。
ダーラー様のクーデターから一年。私は相変わらず国家治安維持部隊の港湾課で働いている。階級は少しばかり上がって、数名の部下を持つ隊長職だ。かつてアラム先輩が左遷された最下級の位になる。
ダーラー様の事件は、今じゃあ『一日天下』なんていう不名誉なあだ名をつけられているが、その数日後に帰国したサンジャル様が手早く後処理をしたので、ペテルセア帝国からの介入なども起こらずに平和に治まった。多くの国民は、何があったのかもよく理解していないままのようだ。
「ラーダ」
聞き覚えのある声を聞いて、私はギョッとして振り返った。
見ればお忍びであることを隠そうともしない、フードを目深にかぶった怪しい男。護衛に連れているのは国軍であることを隠そうともしない――……。
「ファル、ボルナーさん。何度言ったら分かるんですか。ひょいひょいと港まで出て来られちゃ困ります。何かあったらどうするんです?」
「すみません、ラーダさん。どんなに申し上げても聞き入れてくださらないんです……」
一年ですっかり苦労性になったボルナーさんが言うけど、当の本人はにこりと微笑むほどの余裕だった。
「まだ夜明け前だ。オレの仕事は朝議からだから、当分は自由だよ」
国王ファルザード。エラン王国の現役国王陛下である。
港湾課の仕事は、夜明け前からはじまる。
密航者を捕えたということでその事後処理もあり、ファルのことはしばらく放っておいて、私は船主を問い詰めた。
どうやら密航者を乗せたのは意図的ではなかったようで、一所懸命言い訳していたけど、積んでいた荷物に若干不審な点があるため、船主も一緒に詰所行きである。
私の仕事ぶりを楽しそうに見守っていたファルは、一応の処理が片付いたところで声をかけてきた。
「ラーダと一緒に食事がしたいと思って来たんだ。朝食はまだだろう?」
「……ええ、まあ。そうですけど」
「ボルナーもまだだろうから、一緒していいか?ああ、もちろん、ロクサーナ嬢も一緒で構わないけど」
「ロクサーナは今日は非番なので……」
「そうか。なら、二人きりだな」
「いえいえいえ、ボルナーさんが一緒でしょうが!」
「……自分のことは、いないものと思ってください」
本当に、どうしてこうなっちゃったのだろうか。
ダーラー様の次の国王陛下には、ファルが選ばれた。
もともと王位継承権を持つ者の中では継承順位が一番上だったので、誰も反対しなかった。ダーラー様を捕縛しに黄金宮まで出向いたことも高く評価された形になる。サンジャル様不在の間にダーラー様のクーデターを収めてみせたということで、サンジャル様配下の方々も皆、賛同していたようだ。サンジャル様ご自身はもともと王子派を表明していたわけだし。
ただ、彼が国王陛下となるにあたって、問題はあった。
エラン王国において、独身王が成立したことはかつてなかったのだ。国の体裁もあるし、何よりも後継者の問題があるので、ファルには王妃の誕生が急務とされたのだが。
――国王ファルザードは、周囲がすすめてくる女性たちを、ことごとく拒否した。
「おかしなことはないと思うが?」
ファルはそう言って、夜明け前から店を開いている馴染みの食事処へと向かう。街中を歩き慣れた様子は、とても一国の国王がやることじゃない。
「この時間帯じゃないとラーダに逢えないからな」
臆面もなく。赤面したくなるようなことを言う。
「……私だって仕事がありますから」
私の返答に、彼はいつものように穏やかに微笑んだ。
「ああ。ラーダの仕事ぶりは王宮にも聞こえてくる。誇らしいと思っているよ。我が国最初の港湾課の実務職員にして、初の隊長だ」
「ええ。それについては……」
賛辞を素直に受け取ろうとした私は、続くファルの言葉に思わずため息をついてしまった。
「だけど、くれぐれも怪我については気をつけてくれ。右腕はまだ――」
「大丈夫ですよ。雨が降ったら多少引きつれますが、それ以上のことはありません。火傷跡もだいぶ目立たなくなりました」
「……そうか」
本当は、とファルはポツリと呟いた。
「彼女に願えば、君の腕を綺麗に治してあげることもできた。それをしなかったのは、俺の我が侭だ。……すまない」
どうやらファルはそれをずっと気に病んでいるらしく、時たま口に出す。
私自身はまったく気にしていないと言うのに。
「いいえ。あなたは自分の意志を貫いただけです。謝ることなんてありませんよ」
食事処についた私は、ファルがフードを外すのを見て、内心そっと息を吐いた。
一年で国王としての風格もついてきたファルは、直視すると気恥ずかしくなるような男の色気を身に着けてきた。顔を隠していればマシだが、隠していたとしても女が寄ってくるので、街中をほっつき歩いているのを見ると心配になる。護衛を連れているとはいえ、ボルナーさん一人では限界があるだろうに。いつ国王だと気づかれて、命の危険があるとも知れないというのに。
「ラーダ、今夜だが……」
「はい?」
頭布をはずし、私は首をかしげた。
「日が暮れたら王宮に来て欲しい」
「……それは、どういう……」
「あれから一年だ。おそらく今夜、――魔神がくる」
ファルの言葉に私はごくりと息を呑んだ。
脳裏に思い出すのはちょうど一年前の出来事だった。
□ ◆ □
ダーラー様の一件から、明けて二日。
ファルの意識が戻ったと聞かされて、私は王宮に出向いた。
本来であれば、港湾課の一番下っ端など王宮に上がる資格はないのだが、そこはアラム先輩の部下という形でうやむやになったようだった。
ファルはまだ絶対安静扱いを受けていたので、王宮といってもごく私的な謁見室での遭遇だ。
そこで、私は魔神やそのしもべたちから連絡があったという話を聞かされた。
「すまない。本当はオレから出向くべきなんだが」
王宮から出られない様子のファルが謝罪を入れてくるのを、アラム先輩と二人して苦笑いする。
「気軽にホイホイいらっしゃっても困ります。それに、こちらも事務所で相手できる時間はあまりないんですよ」
「そうなのか?」
「ああ。予想通りというか、国外脱出をしたがる連中がまだまだいるんだ」
ダーラー様の残した爪痕は、主に港湾課に振りかかっていた。クーデターは無事に終わったというのに、世情不安を懸念した商人が国外に脱出するということはその後もしばらく続いたからだ。ただ脱出するだけならばいいのだが、そういった商人はたいがい、持ち出し不可の商品をごそっと隠し持っていることが多いのである。
「それで……。魔神と、しもべたちについてですよね?」
「ああ。彼らが現れたのは、昨日の夜だ」
ファルによれば、月光も美しい深夜に、窓をするりと抜けて5人が現れた、ということらしい。
魔法を使わない魔神は、魔神とはいいがたい。とはいえ、人間でもないので、天界に相談に向かったらしい。天界の回答は1年単位でしか返ってこないので、今後1年は返答待ちということで日々を暮らすことになる。
『シンドバッドの船で、しばらく旅行をしてきたいと思います。他の地域の魔神がどうなっているのか見て回るのもいいでしょうし』
『魔神は魔法を使うなって話だったけど、僕の船は、そもそも僕の存在そのものだからね。否定させないよ』
シンドバッドはそう言って、それから肩をすくめた。
『全員でってわけじゃねえけどな。行った先が気に行ったら、そっちに定住することもありってこった』
キルスが言い添える。ファルはそこで、キルスの言葉が彼らと同じものになっていることに気が付いた。完全に魔神のしもべとなったのだろう、とファルは思った。
『あたしはアラムにあいに、いちねんごにかならずくるけど』
ヒナはそういって拗ねたような顔をした。魔神と一緒に世界巡りというのは不本意な結論だったのかもしれない。
『わたくしはずっと、地下にいたから。外が見られるのは楽しみよ』
ナクシェ村にいた”影”はそういって色っぽく微笑んだ。
そして、5人は窓の外に用意してあったシンドバッドに乗りこんで、いずこへといなくなったのだ。
「おそらく一年後、彼らは現れるだろう」
「んじゃ、この話題の続きは一年後ですかね」
アラム先輩はあっさりとそう言って、「一応、彼らの姿を目撃したら報告がもらえるよう、各地に人間を派遣しておきましょうか」と付け加えた。
「エランに影響がなければいいですが、他国が魔神を手に入れたりしたら厄介です。……とまあ、サンジャル様はおっしゃるでしょうから」
「ああ。……そうだな」
□ ◆ □
その会話をして、一年。
日が暮れた王宮に私は向かった。事務仕事の方は早々に片づけて、今日は早上がりにしてもらっている。
一般人が王宮に入れないのは以前と変わりないのだが、今の私には一応、隊長職という仕事もある。国王陛下からの招集だと言えば入れるだろう……と思ったところ、王宮の出入り口には見覚えのある人物が待っていた。
最上位の軍人であることを示す、藍色の生地に銀の刺繍が施された上着。腰に下がっている曲刀は、ファルから下賜された品のはずだ。
「よう、ラーダ」
一年前とほぼ変わらぬ声で、アラム先輩はニヤリと笑った。私はその場に膝をつき、挨拶を口にする。
「国家治安維持部隊港湾課、ラーダ隊の隊長職を預かっております、ラーダと申します。本日は国王陛下の勅命により――」
「あー、いいって、いいって、そういう堅苦しいの。俺以外の時にしとけ」
「……変わりませんねえ、先輩」
ダーラー様の一件の後、一番環境に変化があったのはアラム先輩だろう。
出世を阻んでいたダーラー様がいなくなったことと、ダーラー様の反乱を押さえるのに功績があったことが評価されて、なんと彼は、一件から半月ほど経ったころ、ダーラー様の後任として港湾課のトップに就任してしまったのだ。一足飛びどころか二足か三足飛んでいる。
おかげで、ものすごーく女性にモテるようになったらしいのだが、今度は選択肢がありすぎるのがいけないのか、やはり結婚する様子がない。
「こっちだ、来いよ」
スタスタと先導するアラム先輩に続き、向かったのは玉座の間だ。現在の私の役職ではまだまだハードルの高い場所である。ここは国民に演説をする時に使われるバルコニーへとつながっている。国王ファルザードの場合、戴冠したことを内外に宣言した時に使用したが、それ以降は一年もの間使われていない。
「……ところでラーダ。まだ決心する気にならないのか?」
「決心、とは?」
「ファルのことだよ」
「何のことでしょう」
私の返答に、アラム先輩はきょとんとして――……顔を引きつらせた。
「まさか、まだちゃんと言ってないのか、あいつ。内外からせっつかれてさぞかし追いつめてるだろうと思ってたってのに、なんだそのヨユー……。いや、予想以上にヘタレなのか……」
ごにょごにょと何か言っているが、私が怪訝な顔をしているのが分かったのか、やがてアラム先輩は諦めた。
「まあ、いいけど。おまえが知らんだけで、周囲はわりと、諦めモードだからな」
「?」
玉座の間には、ファルがいた。金の刺繍が施された赤い上着を身に着けた服装が、彼が貴族であることを物語る。まあ、貴族どころか王族なわけだが。
「すまないな、二人とも」
呼び寄せたことに詫びを入れてから、ファルはバルコニーへと視線を向けた。
――シンドバッドでやってくるとすれば、直接ここに来るだろう。その予想は、間違っていなかった。
三人揃って視線を向けたとたん、バルコニーの外が光り輝いた。穿ったことを言えば、私たちの行動をどこかで見ていたのではないかと思うほどのタイミングだった。
「魔神……!」
ファルの言葉に、バルコニーの外に降りてきた空飛ぶ船シンドバッド。甲板の上には5人の人影があった。
『もう、魔神ではありません』
最初に魔神はそう言った。
『天界より、魔神から精霊に変換するよう指示を受けました。我ら5人はそれぞれ、火の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊……。わたしはもっと広い意味での精霊です』
魔神はそう言ったが、見た感じでの変化はなかった。
魔神にしろ精霊にしろ、おとぎ話の世界の存在であるという点ではなんら変わりはないのだが。わざわざ天界が言ってきたということは、魔神と精霊との間には明確な差があるのだろう。魔神の言い分から伝わるのは、それは彼女たちには降格にあたる処分だということだ。
「そうか、すまない。……降りてこないのか?」
ファルがそう尋ねたが、魔神――否、精霊は首を横に振った。
『一年あれば、あなたの気も変わるかと思いました。わたしの力を必要とするかと。……けれど、あなたの心は変わっていない様子です』
「ああ」
『そうであれば、あなたの前に現れる必要はない。最後の主人、どうぞお元気で。』
「精霊と言っていたな。……それは、魔神とはどう違う?やはり魔法を使うのか?」
『魔神であった時のように、すべてを叶えるようなことはできません。できるのは、ほんの少し運を呼び寄せるくらいの、ささいなことだけです。それさえも強制はされない。精霊は、ただ存在して、大地に恵みを与えるための存在ですから』
ファルは少しばかり反応に困っていた。
魔神やおとぎ話については国でも有数の詳しさを誇る彼だが、精霊というものについてはさほど詳しくはないらしい。彼女の言い分を信じることしかできない。そして、彼女の言っていることを信じるのであれば、精霊というのは魔神ほど影響力のある存在ではないようだった。
『本当は、今日も来ないでいようかと思いました。ただ、一つだけ。約束した以上はと思いまして』
魔神――否、精霊は、そう言って私を見やった。
『ラーダ』
「えっ?」
私が魔神と何か約束しているとでも言うのだろうか。そのような覚えはまったくない。
『わたしの名はジンニーヤー、と言います』
「え。え。えっ?」
『あなたは知らなくて当然。ですが、……はるか昔、わたしに願いをかけた唯一の姫が、わたしに願ったことでした。
一つ、わたしの名前を教えること。
二つ、王の前で女の姿をしないこと。
三つ、女であっても王の力になれる時代になること』
戸惑う私に、魔神――否、精霊――いいや、ジンニーヤーは告げる。
『わたしは断りました。魔神は魔神でしかなく、個体名は必要なかったので、わたしには名前がありません。シンドバッドもヒナも、彼らの名は自分で名付けたものではありません。
だけど、その時姫は言いました。
”じゃあ、名前を決めたら教えて欲しい”――と。わたしは約束したんです』
「……ジンニーヤー」
『ええ。それがわたしの、今日からの名前。ラーダ、あなたは姫ではないけれど、姫の願いが生んだ存在。どうか代わりに聞いてください』
「…………」
ふっと口端に笑みが浮かんだ。笑っているのは私なのか、それともジンニーヤーが私を通して見つめている姫なのかは分からない。
「確かに、聞き届けました。ジンニーヤー、あなたがたはこれからどこへ行くんです?」
私がそう答えると、彼女は口を開いた。
『黄金宮があった場所へ、行こうと思っています。あそこはわたしたちにとって思い出深い場所。それに、……『土』のゆくえを探したいと思うので』
「『土』?」
『キルスと交代したとはいえ、彼も魔力の塊でした。魔力が降り注いだあの時、彼も蘇っていてもおかしくない。
この一年、海の向こうに渡った時に、おかしな話を聞いたのです。
『砂人形』を使う商人が、ペテルセアの姫に求婚しているらしい、というものです』
「……!」
ルーズベフのことだ。あの日目の前で消滅した彼が、生きているかもしれない?
『さよならです』
にこりと、ジンニーヤーは私とよく似た顔をして微笑んだ。
水の精霊が、風の精霊が、土の精霊がそれに従う中、火の精霊――ヒナだけが、ひょいとシンドバッドから飛び降りる。ふわりと炎の翼を広げ、彼女はアラム先輩の前で宙に浮かんだ。ちょうど顔の位置が合う高さで、ヒナは拗ねた顔をする。
『ジンニーヤーはこういってるけど。あたしはまたあそびにくるから』
「ああ。楽しみに待ってる」
にこりと笑って、アラム先輩はポンポンとヒナの頭を撫でた。
熱かったのか、わずかに顔をしかめたが、表情はすぐに苦笑に変わった。
『もう、またこどもあつかいする!』
ぷんぷんと怒ってみせてから、ヒナは空飛ぶ船シンドバッドに戻っていった。
□ ◆ □
バルコニーから見る空飛ぶ船が、完全に星と同化して分からなくなるまで、私たち三人はその場に佇んでいた。
「……終わりましたね。ようやく」
私がポツリと呟くと、ファルが感慨深そうにうなずいた。
「ああ。これからのエランに、魔神はいない。願いはすべて自分の力で叶えていくんだ。人々を幸せにするのも、国土を豊かにするのも、外国との付き合いを円滑に進めるのも、何もかも……」
「その前におまえは叶えないといけないことがあるんじゃないのか、ファル」
「っ……!」
アラム先輩のツッコミに、ファルの頬に朱が走る。
「そ、それはっ……」
「せっかくの機会なんだ。俺は先に出口に行ってるから、大人しく玉砕してこい」
ひらひらと片手を振りながら、アラム先輩は一人玉座の間を後にする。
その後姿を見送りながら、私は困った顔を取り繕えなくなっていた。
チラリと視線を向けると、彼もまた私を見つめている。頬に朱色が走った顔は、造形が良いだけに勿体無い。
「……」
「……」
さて、困った。
実のところ、アラム先輩の言わんとしているところが何か、私は知っている。
この一年というもの、サンジャル様がたびたび港湾課の事務所に通って来たり、ファルと会った後にボルナーさんにぼやかれたりしているからだ。
それはつまり。
――妃になる気がないなら、さっさとファルをフッて諦めさせてくれ、ということでもあり。
――断る気がないなら、さっさと王妃になって世継ぎをもうけてくれ、というものらしい。
私が身分などないも同然の天涯孤独の生まれであることはこの場合問題視されないようだ。ファルが妃の一人もいない独身王を続けるよりもはるかにマシだということらしい。
「……あの、ですね」
だからといって、じゃあ、妃になりたいかというと、違う気がする。
妃ということは、つまり、ファルと結婚するということなのだ。
私はファルに好意を持っているけれど、それは恋だとか愛だとか、そういうものじゃなくて――……。
いや、もしかしたらそういった類であるかもしれないのだが、一度選んでしまったら引き返せないその道を、決断する覚悟がないのである。
かつて港湾課のラーダの良さは度胸の良さだと褒めてもらったというのに、この点に関しては踏み切れない。
世の中の女性たちはどうやって覚悟を決めているというのだろうか。
「ラーダ」
私の言葉にかぶせるように、ファルは口を開いた。
「オレの気持ちは変わっていない。君以外を妃に迎える気もない。
……だけど、国家に対する義務だとか、周囲に追いつめられてだとか、民間出身王妃の誕生による女性進出機会の増加を狙ってだとか、……そういう理由でオレを選んでは欲しくない。
一人きりの妃にかかる重責は、想像以上に重いと思う。オレは君の身を守るけれど、その心まですべて守れる保証はないから」
「……ファル……」
「そ、それに。その、オレとしては承諾が得られるようならすぐさま家に帰したくなくなってしまうので、うかつな返答はしてほしくないというか。だからまだ、そこまでの感情がないのであればスッパリ断ってくれていいというか――……」
ますます赤くなって言い訳のように続く彼のセリフを途中で遮って、私は言った。
「……ファル。私は、港湾課の調査官としてまだ働いていたいんです。現場が好きですし、それに現場で働いた時間が長いほど、女性進出に対して良い前例を残せると思うので。
それに、私があなたに抱いている感情は、プラスではありますが、あくまでも友情。それがこれから先、変化するかというと、そこは今ひとつ自信がありません。
……ですからね」
彼はどこまでも誠実で真面目で、融通の利かない王様だ。だから私も、誠実に回答したいと思う。
「オトモダチからではいけませんか?」
結論を先送りにする私のズルイ言葉に、彼は微笑んでくれた。
「そのつもりでいる。それはつまり、……オレのことをきちんと考えてくれているんだろう?」
スッと私の手を優しくとり、彼は指先を絡めてくる。
握手ではない。それでいて少しだけ彼を意識してしまう、不思議な触れ方だ。つながったのは一瞬だけで、指先はすぐに離れる。
急かすわけではなく、だからといって逃がしてくれる気もしない。
「……はい、まあ。その……」
今のところ、私に他の選択肢はない。彼のような求婚者がいる中で、他の男に恋したり、愛したりすることはないだろう。
だけど。
……そう、まだ私には覚悟が足りないのだ。
「よろしくお願いします」
私は困った顔をしたまま、ぺこりと頭を下げた。
□ ◆ □
昔々、エランの西には黄金で出来た都があった。
伝説でしかなかったその場所を見つけ、緑の都へ変えた王がいた。
彼は誠実な人柄をした正義感の強い王であり、緑の都を交通の要衝とすることで国を豊かにしていった。
王を妬んだ臣がクーデターを起こした時、臣に味方する者は一人もいなかった。誰しも王の正義を信じており、王を支持した。
砂漠の国と呼ばれ、他国よりも不毛だった土地は、彼の代で緑豊かな国へと変貌を遂げた。
また、王は生涯一人の妃を愛した。
妃は身分のない娘だったが、官吏として優秀だった。
妃となってからも、娘はエランのために働いた。国中の娘たちは彼女に倣い、働くという道筋があることを学んだ。
女の意見を聞き入れぬ国で、女の意見を聞きたくなる、そんな矛盾を世に広めた。女が働くようになって、エランはますます栄えた。
王には一人の忠臣がいた。
奸臣が世を乱そうとした時、王と共にそれを打倒した男である。忠臣は王の片腕として、世に二人といない将軍になった。
男も女も魅了する忠臣は不死鳥にさえ愛された。幾多の戦乱に巻きこまれても、決して命を落とすことはなく、彼がいるだけでエランの民は勝利を確信する。忠臣は守護神と呼ばれた。
やがてエランは戦いに巻きこまれることはなくなった。
エランの新しい伝説に、魔神の名前は出てこない。ただ大地は神々に祝福をされたように豊かであると記されるだけである。




