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第三節 ― 黒鍵結界

 待機室の灰黒い灯は、時間の感覚を鈍らせた。


 窓の外には朝がある。黒硝子の向こうで、ザイ=ヴェルムの石柱群が薄い光を受けているのが見えた。けれど室内に落ちる光は、昼とも夜ともつかない。黒鍵石柱の刻印に似た鈍い灯が壁を照らし、椅子や机の影を床に硬く貼りつけている。


 ノアは椅子に座ったまま、足元の影を見ていた。


 影は落ち着いている。


 そう見える。


 けれど、完全には信じられなかった。


 さっき黒鍵結界が閉じたとき、影は石畳へ縫いつけられるように重くなった。痛みはなかった。だが、痛みではないからこそ嫌だった。身体ではなく、自分がここにいるという証そのものを押さえられたような感覚。


 逃げようとしたわけではない。

 旧道へ返事をしたわけでもない。

 外界へ向けて手を伸ばしたわけでもない。


 それでも、閉じられた。


 ノアは胸元の仮保護名札に手を置いた。


 ノア。


 今は、その名で立つ。


 そう何度も言い聞かせているのに、ザイ=ヴェルムに来てから、その名すら硬い壁の中に閉じ込められているようだった。


 室内には、重い沈黙があった。


 リィゼは窓際に立ち、外を睨んでいる。腕を組んでいるが、落ち着いているわけではない。指先が外套の布を小さく掴んでは離していた。


 ガルドは扉のそばにいる。姿勢は変わらない。けれど、部屋の中で一番静かな彼が、一番危険な気配をまとっていた。何かが起きれば、すぐに動く。それが分かる沈黙だった。


 オルフェは記録板を膝に置き、黒鍵結界と影縁反応の記録を整理している。筆は何度も止まり、また動く。彼にしては珍しく、書く前に言葉を選んでいるようだった。


 セヴラ=クロウゼルは、王都への再照会と結界段階の調整のため、部屋を出ていた。


 出ていく前、彼女はラウドに言った。


 黒鍵衆の独断は認めない。

 本人同意なき術式行使は行わない。

 王都裁定を待つ。


 その声は命令だった。


 だが、命令があっても不安は消えなかった。


 なぜなら、ラウド=ヴェルムは納得していない顔をしていたからだ。


 ノアは、机の向こうに座るラウドを見た。


 彼は沈黙している。黒い義眼めいた片目は、灯をほとんど返さない。もう片方の淡い目だけが、記録板とノアの足元を交互に見ていた。


 憎まれている、とは思わない。


 それが、逆に苦しかった。


 憎しみなら反発できる。罵倒なら傷つきながらも拒める。


 でもラウドは、ノアが悪いとは言わない。帰りたいことも責めない。ただ、危険だと言う。鍵だと言う。閉じる必要があると言う。


 ノアは、それにどう抵抗すればいいのか分からなかった。


 扉の外で、低い話し声がした。


 黒鍵衆の部下たちだろう。


 内容までは聞こえない。けれど、何度か「王都」「外界回収官」「間に合わない」という言葉が混じった。


 リィゼが顔をしかめる。


「嫌な空気」


 ガルドが短く答えた。


「動くかもしれん」


 ノアは息を呑んだ。


 オルフェが筆を止める。


「セヴラ監察官の命令下です。黒鍵衆が独断で追加術式を行うなら、明確な越権になります」


「越権をしない奴だけなら、そもそも急進派とは呼ばれない」


 ガルドの声は低かった。


 ノアは膝の上で手を握った。


 急進派。


 黒鍵衆。


 閉じる者たち。


 彼らは、ノアを殺したいわけではない。


 それは分かる。


 けれど、帰れなくすればよいと思っているなら、それはノアにとって何と違うのだろう。


 生きている。

 息もできる。

 話すこともできる。

 でも、帰りたいという願いだけを閉じられる。


 それは、生きたまま、自分の一部を失うことではないのか。


 そのとき、扉が開いた。


 ラウドの部下が一人、室内へ入ってきた。若い男だった。黒鍵徽章の下に、赤ではなく黒い封蝋印を下げている。緊張しているように見えたが、目だけが妙に固い。


「指揮官」


 ラウドが顔を上げる。


「何だ」


「外縁石柱に外界式反応。微弱ですが、先ほどの回収官接触記録と近似しています」


 室内の空気が、変わった。


 ノアの指が冷える。


 ヴィクトル。


 白手袋。

 外界式の礼装。

 記録院の徽章。

 ノア=リントベルと呼ぶ声。


 リィゼが窓から離れた。


「どういうこと」


 部下はリィゼを見ず、ラウドへ報告を続けた。


「客館側からではありません。封鎖区画外縁、旧道分岐側に一瞬だけ反応。追跡線か、照会線か、判別不能です」


 オルフェが立ち上がった。


「その情報をセヴラ監察官へ」


「すでに伝令を出しています」


 ラウドは立ち上がった。


 椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。


「王都応答は」


「まだありません」


「セヴラ監察官は」


「外縁結界の調整中です。戻るまで、数分はかかります」


 数分。


 その短さが、ノアにはひどく長く聞こえた。


 ラウドはノアを見た。


 その目に、迷いがあった。


 ほんの少し。


 だが、その迷いはすぐに消えた。


「帰路封じを準備する」


 オルフェが即座に声を上げた。


「許可できません」


 リィゼが一歩前へ出る。


「何だ、それ」


 ノアは、言葉の意味を理解するより先に、足元の影が震えるのを感じた。


 帰路封じ。


 その言葉だけで、影の縁留めが反応した。


 ラウドは、ノアから目を逸らさずに言った。


「対象に残る外界への追跡線、契約線、帰還線を一時的に遮断する閉門術式です」


「一時的に?」


 ノアの声は掠れた。


「はい」


 ラウドは答えた。


「本来は、外界からの追跡や旧道呼称を防ぐための緊急防護です。あなたの命を害するものではありません」


「でも」


 ノアは胸元の札を握った。


「帰る道を、閉じるんですよね」


 ラウドは黙った。


 その沈黙が、答えだった。


 リィゼが怒鳴った。


「ふざけるな」


 その声は、これまで抑えていたものが一気に噴き出したようだった。


「ノアは帰りたいって言ってる。回収されたいわけじゃない。旧道に呼ばれたいわけでもない。でも、帰りたいって言ってる。その願いごと閉じる気か」


「外界反応が出ています」


 ラウドの声にも力が入った。


「このまま王都応答を待って、外界側が先に線を引いたらどうする。旧道が再び呼んだらどうする。名裂きが反応したらどうする」


「だからって本人に同意も取らずに」


「同意を待っている間に門が開くこともある」


 ガルドが、低く言った。


「ラウド=ヴェルム」


 それだけで、室内の空気が重く沈んだ。


 ラウドはガルドを見る。


「その術式を今行えば、敵対行動と見なす」


「殺害でも拘束でもありません」


「本人の願いを封じるなら、十分だ」


 ガルドの手が、ゆっくりと腰の得物へ近づく。


 黒鍵衆の部下たちも身構えた。


 オルフェが声を張る。


「双方、武力行使を停止してください。帰路封じは、セヴラ監察官の術式体系にも含まれますが、本来は本人同意または王都裁定が必要です。緊急遮断権で代替するには、条件が不足しています」


 ラウドは言った。


「外界式反応が出た」


「まだ追跡線か照会線かも判別不能です」


「判別してからでは遅い場合がある」


「本人同意のない帰路封じは庇護ではありません」


 オルフェの声が、室内に鋭く響いた。


「それは閉門ではなく、拘束です」


 ノアの胸に、その言葉が落ちた。


 庇護ではない。

 拘束。


 第8話で、エルネアが言った。


 守るための契約が本人から奪うものになった瞬間、それは搾取です。


 血を拒んだ。

 声を拒んだ。

 髪を拒んだ。

 夢を拒んだ。


 差し出せないものは、使わないと言ってもらえた。


 では、帰りたいという願いは。


 それは身体の一部ではない。

 血でも声でも髪でも夢でもない。


 でも、今のノアにとって、それは自分を支える芯だった。


 それを勝手に閉じられるなら、自分は何を守ったことになるのだろう。


 ラウドの部下が、黒い短杖を取り出した。


 それを見た瞬間、リィゼが動いた。


「させるか!」


 リィゼはノアの前へ飛び出そうとした。


 だが、床の鍵型刻印が光った。


 影門閉鎖。


 ノアは、その言葉を知らない。


 けれど、見た。


 リィゼの足元に黒い門の形が開き、影の縁だけを閉じるように跳ね上がった。物理的な壁ではない。だが、リィゼの影が門に挟まれたように止まり、身体だけが前へ出ようとして弾かれた。


「っ!」


 リィゼが床に片膝をつく。


「リィゼ!」


 ノアは立ち上がろうとした。


 しかし、その瞬間、ノア自身の影が床へ吸いついた。


 椅子から立ち上がることはできた。

 でも、足が動かない。


 影が先に止まっている。


 ノアの身体は、影に引き戻された。


 黒鍵結界が起動していた。


 待機室の壁の刻印が一斉に鈍く光り、床に鍵の紋が浮かび上がる。机、椅子、扉、窓、すべての影が硬くなっていく。その中心に、ノアの影があった。


 ラウドの声が響く。


「帰路封じ、第一鎖。外界追跡線遮断」


 オルフェが叫んだ。


「停止してください!」


 ガルドが一歩踏み出した。


 その手に黒晶の光が宿る。


 彼は床の刻印ではなく、壁際の黒鍵石柱端末を見た。そこを破壊すれば、結界の基点を潰せる。ノアにもそれが分かった。


 だが、オルフェがすぐに叫んだ。


「ガルドさん、破壊は駄目です! 石柱を壊すと街道全体の封鎖術式が暴走します!」


 ガルドの動きが止まった。


 その一瞬が、痛いほど長い。


 壊せば止まるかもしれない。


 でも、暴走すればノアだけでは済まない。通行者も、検問区画も、黒冠街道そのものも巻き込む。


 ガルドは歯を食いしばり、黒晶具を構えたまま別の手を探した。


 リィゼは影門に阻まれながら、短剣を抜いた。


「影だけ閉じるとか、性格悪すぎるだろ!」


 刃を振るう。


 しかし、影門は金属ではない。刃は灰黒い膜を裂きかけるが、すぐに別の鍵紋が重なって塞がる。


 ラウドの部下たちは、術式を進めていた。


 彼らの顔に喜びはない。


 誰も笑っていない。

 誰もノアを嘲っていない。


 ただ、任務として閉じようとしている。


 それが、いちばん怖かった。


 ノアの足元で、影が激しく震えた。


 《影の縁留め》が警告を発している。


 胸元の仮保護名札が冷たくなり、銀糸輪が強く締まる。痛みではない。けれど、息が詰まるほどの圧迫感があった。


 黒い鍵紋が、ノアの影の端を押さえる。


 一本目の鎖が、影の外縁にかかった。


 ノアの視界が、わずかに暗くなる。


 外界。


 その言葉が遠くなる。


 ヴァルテリアの港。

 記録院の廊下。

 仕事机。

 壊れた懐中時計。

 船の揺れ。

 潮の匂い。

 リントベルの音。


 それらが、黒い布で覆われるように鈍っていく。


「ノア!」


 リィゼの声が聞こえる。


 近いのに、遠い。


 ラウドが続ける。


「第二鎖。外界契約線遮断」


 黒鍵の光が、ノアの胸元へ伸びる。


 仮保護名札が震えた。


 ノアは両手で札を押さえた。


「やめて……」


 声が小さすぎた。


 誰にも届かないような声だった。


 だが、オルフェが聞いた。


「ノアさんが拒否しています。停止してください!」


「拒否は確認した」


 ラウドの声が、わずかに揺れた。


 けれど、術式は止まらない。


「それでも、今は閉じる」


 その言葉が、ノアの中で何かを凍らせた。


 拒否は確認した。


 それでも。


 第8話の契約士とは違う。


 グリム=ラハドでは、拒否は止める線だった。


 ここでは、拒否を知ったうえで踏み越えられている。


 ノアの足元の影が、さらに黒くなる。


 影の縁留めが鳴っている。音ではない。だが、ノアには分かった。危険だと叫んでいる。返事をする前に警告するための契約が、今、閉じられる危険を拾っている。


 けれど、警告されても、逃げられない。


 そのことが、ひどく恐ろしかった。


 黒鍵衆の一人が、ノアの背後の刻印へ短杖を向けた。


「第三鎖、帰還線遮断準備」


 帰還線。


 その言葉が、ノアの中でかすかな火を点けた。


 帰還線。


 帰る線。


 それを閉じる。


 ノアの身体が震えた。


 怖い。


 怖くて、息ができない。


 でも、同時に、怒りがあった。


 自分が何も分かっていないから守ってやるという声。

 危ないから閉じるという声。

 後で確認すると言う声。

 記録上は本人希望だったと言う声。


 どれも、ノアの声より先に進もうとする。


 ノアは、黒くなった足元を見た。


 影が、完全に床へ縫われようとしている。


 その影の中に、昨日の黒布幕が重なって見えた。


 グリム=ラハドの契約室。


 血契の針。

 声留めの小瓶。

 髪紐の銀糸。

 夢見留めの水盤。

 影の縁留めの黒布。


 血は嫌です。

 声も預けません。

 髪も嫌です。

 夢も嫌です。

 影の縁だけなら、考えます。


 あのとき、自分は選んだ。


 怖いまま、選んだ。


 差し出せないものを、差し出さないと決めた。


 では、今は。


 帰りたいという願い。


 それは、差し出していいものなのか。


 閉じてくださいと頼んだのか。


 違う。


 ノアは、喉の奥に詰まった息を押し出した。


「……いやです」


 黒鍵の音にかき消されそうな声だった。


 リィゼが顔を上げる。


「ノア!」


 ノアは、胸元の札を握りしめた。


 ノア。


 今は、その名で立つ。


 リントベルは遠い。


 外界は遠い。


 けれど、遠いからといって、勝手に閉じていいものではない。


 ノアは足元の影へ、力を込めるように立った。


 足は動かない。


 それでも、立つことはできる。


 彼女はラウドを見た。


 視界の端で黒鍵が揺れる。胸元の札が冷たい。影が痛みのない悲鳴をあげている。


 それでも、ノアは言った。


「私の帰りたいを」


 声が震えた。


 涙が出そうだった。


 でも、止めなかった。


「勝手に閉じないでください」


 室内の術式音が、一瞬だけ乱れた。


 黒鍵の鎖が、ノアの影の上で軋む。


 ラウドの顔が強張った。


 彼は何かを言おうとした。


 だが、その前にノアは続けた。


「私は、回収されたいわけじゃありません。旧道に呼ばれて行きたいわけでもありません。誰かを危険にしたいわけでもありません」


 息が苦しい。


 でも、言わなければならない。


「でも、帰りたいって思うことまで、あなたたちに閉じられたくありません」


 黒鍵の第三鎖が、震えながら止まった。


 完全には消えない。


 だが、進まない。


 影の縁留めが、黒く大きく波打つ。


 警告の震えが、今度はただの恐怖ではなく、ノアの言葉に呼応しているようだった。


 オルフェが叫ぶ。


「本人拒否、明確に確認! 帰路封じの継続は違法です!」


 リィゼが影門に短剣を突き立てる。


「聞こえただろ、黒鍵衆!」


 ガルドが黒晶具を構え直す。


「次に鎖を進めたら、石柱ではなく術者を止める」


 ラウドの部下たちが動揺した。


 ラウドはノアを見ていた。


 その目に、迷いが戻っている。


 いや、迷いだけではない。


 痛みがあった。


 彼もまた、何かを守ろうとしている。


 ノアにはそれが分かってしまった。


 分かってしまうから、苦しい。


 けれど、分かることと、閉じられることを受け入れることは違う。


 ノアは、床に縫われた影を見下ろした。


 影はまだ黒鍵に押さえられている。


 でも、完全には沈んでいない。


 胸元の仮保護名札が、小さく震える。


 ノア。


 その名が、まだここにある。


 遠くで、ザイ=ヴェルムの外縁石柱が大きく鳴った。


 今度の音は、先ほどまでの黒鍵結界の低音とは違った。


 外から、何かが触れた音。


 白い手袋の気配が、ノアの脳裏をよぎる。


 同時に、待機室の扉の向こうで、鋭い靴音が近づいてきた。


 セヴラ=クロウゼルの声が、扉越しに響く。


「術式を止めなさい」


 黒鍵結界の灯が、ざわりと揺れた。


 閉じる門の内側で、ノアの影はまだ震えていた。


 けれどその震えは、もうただ引きずられるだけのものではなかった。

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