第4話 レモンサワー
安居酒屋に到着すると、細田は額の汗をハンカチで拭いながら「じゃ、また来週!お疲れ!」と言って駅へ向かった。九条さんは控えめに手を振りながら細田の背中を見送った。こういう細やかな礼儀も九条さんの美徳だ。九条さんは踵を返し、花々の暖簾をくぐった。九条さんの髪からシャンプーの残り香がふんわりと香る。僕のシャンプーとは違う香りだ。ここでシャンプーのメーカーを聞いたらまるでストーカーのようなので、それとなく坪内さんから情報を聞き出そうと思う。
「九条さん、こっち!」
フランケンシュタイン佐藤が店の座敷の奥から手招きしている。
「18時30分の団体です。あのテーブルの人と一緒です」
九条さんは出入り口の近くに立つ金髪の男性店員に丁寧に伝える。この店員の髪色ならまともな社会人ではないだろう。アルバイトか、フリーターだろうと睨んだ。「ご案内しまーす」と間の抜けた声で席に通された。
テーブルの奥から、フランケンシュタイン佐藤、坪内さんの順に並んで座っている。となれば、必然的にフランケンシュタイン佐藤の向かいに九条さん、坪内さんの前が僕になるだろう。脱いだローファーを揃えた九条さんは、手前の座布団に座ることなく坪内さんの隣に座った。
「お疲れ様です」
九条さんはそこに座るのが当然という表情で、保育部門の採用部2人に声をかける。
「九条さん」
僕は思い切って言ってみた。
「何もわざわざ奥に行かなくてもいいじゃん。角の席空いてるよ。僕の隣座ったら?」
「今日は坪内さんと佐藤さんとお話したいことがあるので、ここで大丈夫です」
「今日はって、いつも坪内さんの隣の席で仕事してるじゃんよ。飲み会くらい離れたっていいでしょう」
九条さんは顔を曇らせた。しまった。これでは九条さんが僕の隣に座りにくくなってしまう。フランケンシュタイン佐藤はともかく、九条さんは毎日坪内さんの隣で仕事をしているのだ。ここで断れば九条さんの居所が悪くなってしまう。月曜日の出社の足取りが重くなり、欠勤することになったら九条さんと僕の会えない日が続いてしまう。相手が傷つかないようにやんわりと断りの言葉を丁寧に選ぶ、九条さんはそういう配慮のできる女性だ。僕のように即断即決な人間とはタイプが違う。
「いや、仕事ではできない積もる話もあるもんね。僕が角に座らせてもらうよ。帰るときは僕が靴を取るから声かけてね」
白い歯を覗かせて九条さんに微笑んだ。
「そういえば西田さん以外はまだ業務ですか?時間的にそろそろ注文しなきゃなんですよね」
フランケンシュタイン佐藤は飲み放題メニューを読みながら言った。人と話すときくらいしっかりと人の目を見ることができないのだろうか。こういうガサツなところもフランケンシュタイン佐藤の苦手なところだ。
「まだ皆仕事してますよ。いつ終わるか分かりませんけど、注文していいんじゃないかな」
「田川さんもお仕事されてました?」
「田川さんもまだいたはずですね。けど、彼女は優秀な方ですし、そろそろ来る頃合いなんじゃないですか。僕はレモンサワーで。女性陣が決まったら注文しちゃってください」
フランケンシュタイン佐藤は不機嫌そうな声で返事をすると、飲み放題メニューを女性陣で囲うように眺めた。
「ところでレモンサワーありますか?」
「はい?」
飲み放題メニューからフランケンシュタイン佐藤が顔を上げた。マスカラで塗られたまつ毛が黒黒としている。美人の部類に入るかもしれないが、こいつは化粧で塗りたくられた紛い物の美だ。対して九条さんは薄化粧でありながら、大きな目を縁取るまつ毛は長くて濃い。九条さんは自然な美である。
「だからレモンサワーありますか?って聞いているんです」
「どういう意味ですか?」
フランケンシュタイン佐藤の目に敵意の色が浮かんでいるのが見て取れる。機嫌の悪さを取り繕うことも彼女はできない。
「メニュー表がないと何があるか分からないじゃないですか。だからレモンサワーありますか?って聞いたんです」
「それなら自分でメニュー表見ればいいじゃないですか」
「僕は見たいけど、女性陣たちで独占してるから見たくてもメニュー表が見れないんだよ」
「一言『見せてください』って言えば良くないですか?なんでいちいち棘のある言い方するんですか。大体ね、自分からレモンサワーって言ってるんだから飲み放題にレモンサワーがあること分かってるじゃないですか」
「レモンサワーは大抵置いてあるけど、今日も必ずレモンサワーがあるのは限らないじゃないか」
九条さんが立ち上がり、隣のテーブルから飲み放題メニューを取り上げた。美しい指から滑るように僕に飲み放題メニューが手渡される。やっぱり九条さんは優しいし、気が利く。困っている人がいたらこうして手を差し伸べることができる女性だ。
「ありがとう」
九条さんに最高の笑顔を返してみせると、照れてしまったのか九条さんは顔を背けて席に戻った。フランケンシュタイン佐藤は「ごめんね」と、九条さんに謝っているが、謝る対象は僕だろう。飲み放題メニューを独占するなんて卑しい女だ。
僕は細田に「メニューがないから何を注文できるか分からないよね」と、論理的に返答した。改めて飲み放題メニューを読むことで先の発言が嘘ではないことも九条さんに証明できる。僕は誰よりも誠実で真っ直ぐなのだから。
「レモンサワーは確かにあるね。君たちの注文が決まり次第、一緒に注文していいから」
僕はスマホを持って店外に出た。
安居酒屋のトイレはこの世で最も不潔だと思う。トイレの個室で調べものをするなら、多少暑くても外に出る方がいい。書類格納室で写した九条さんの履歴書を改めて読み返す。住所を頭に入れて地図アプリで検索をかけると、クリーム色の洒落た外観のアパートが表示された。アパートの駐車場をズームし、建物名を確認する。『花木イーストレジデンス』。鉄筋製らしいアパートの洒落た外観に似合う名前だが、所詮はアパート、低層階だ。花木イーストレジデンスの建物名を不動産住宅情報サイトに入力する。表示された賃貸情報を一つ一つ確認していく。まず、住所は履歴書のものと一致している。稀にてきとうな住所を履歴書に書いて寄越す求職者がいるため、住所検索はしっかりと行わなければならない。真面目な九条さんに限っててきとうなことを書くわけないと思うが、念には念を入れる。
花木イーストレジデンスは家賃6.5万円の2LDK。管理費は月々3千円。僕は一人暮らしをしたことがないから家賃の相場は分からないけれど、きっとこんなものなんだろう。部屋写真を見る限り一人暮らしするには十分な部屋の広さだと思う。エアコンも完備されており、九条さんが夏の暑さにやられたり冬の寒さに凍える心配はなさそうだ。アパートから400m先にコンビニとスーパーマーケット、1km先に大きなドラッグストアがあり、そこからさらに2km進むと市役所がある。一応徒歩圏内で事足りるが、これでは風邪を引いて薬を買いに行くのもしんどいだろう。バス停はアパートのすぐ目の前にあるが、このバス路線は本数があまりにも少ない。九条さんがバスの最終便を理由に飲み会の途中で帰るのは、まるっきり嘘ではないことが分かった。
「西田さん」
ひんやりとした声色を辿ると田川さんが立っていた。
「お疲れ様です。保育部門の皆様はお揃いですか?」
「九条さん、坪内さん、佐藤さんが来ているよ。課長とエリア長はまだ来ていませんね」
再びスマートフォンに目を落とすと再び田川さんから声をかけられた。スマートフォンから視線を移すと、いつも以上に不愉快そうな顔つきをして折れそうな足で立っている。
「何か?」
「派遣の私が言うのも差し出がましいとは思いますが、もう少々周りに目を配っていただけると助かります」
差し出がましいと思うなら口に出すな。僕の頭にカッと血がのぼった。スマートフォンを持っていた右手も怒りのあまり震えている。
「出過ぎたことを申し訳ありません。採用部の皆さんが今もお仕事されているのは、履歴書の原本が見当たらず探していたからです」
「あいつらの残業が僕のせいだって言いたいのかよ」
紳士的に振る舞っている普段の僕からはあり得ないほどの大きな声が出た。
「西田さんのせいとは言いません。ただ、西田さんのご協力があれば皆さんもスムーズにお仕事ができたのではないかと思います」
たかが派遣のくせに。僕らのおこぼれ業務がなければ雇う先なんてないくせに。
「そういう田川さんは協力してあげたんですか?」
「私も一緒に履歴書を探しました。手分けして探して見つかったので、課長から上がるように指示されました」
「履歴書が見つかったならいいじゃないか。まるで僕一人の責任のような言い方されて、こっちは不快ですよ」
「西田さんのデスクの引き出しから見つかったんです。エリア長にいつもお渡しする選考書類一式のコピーをクリアファイルに入れて保管していますよね。コピー書類のクリアファイルと原本が混ざっていたんです」
「僕の許可なしにデスクを触ったのか!プライバシーの侵害じゃないか!」
もうどうなってもいい。鶏ガラのように痩せたこの女の髪の毛を掴んで引きずり回してやりたい。鳩尾に2発蹴りをお見舞いして、店前に置かれたビールの空き瓶で頭を叩き割ってやりたい。僕に詫びを入れるまで、ありとあらゆる暴力を浴びせてやりたい。
「西田さんの社用携帯にこちらから何度もご連絡差し上げました。私用のスマートフォンにも何度か着信を入れましたが繋がらなかったので。西田さんだけでなく、採用部全員の引き出しをひっくり返して探しました」
「それで僕の許可を得られていないんだから、連絡しようがしまいが関係ないだろ」
憎き田川。少しばかり仕事ができるからとこの僕をコケにするなんて調子に乗るにも程がある。派遣風情に説教をされる僕があまりにも惨めで可哀想だ。履歴書紛失の犯人扱いをされた挙げ句、個人情報が詰まっている引き出しを勝手に引っ掻き回されて、被害者はどう考えても僕だ。僕を責めて楽しいか?楽しいよな。普段からいけ好かないと思っていたけど、やはり僕の直感は正しかったんだ。僕の濡れ衣に謝罪するでもなく、こつこつと僕を責め立てることで鬱憤を晴らしている。何でこんな女を派遣として雇ったんだ。
「それとこれは別です。皆さんの業務も落ち着く頃だと思うので、一言お話されるのが良いかと思います」
正社員の僕を貶したことでスッキリしたのだろう。田川は満足そうな顔で花々の暖簾をくぐった。
許さない、あいつは絶対に許さない。




