第3話 電気ブラン
九条さんの態度には少々改善が必要と思われる。けれども、いつまでもクヨクヨしたって仕方ない。気持ちを切り替えて今夜の飲み会を存分に楽しもうと思う。
毎月第三金曜日は僕の所属する塾部門の採用部と九条さんの所属する保育部門の採用部の合同打ち合わせが行われる。打ち合わせと言っても単なる飲み会で、塾部門と保育部門のそれぞれのエリア長が大酒飲みのため今年から企画された。僕は安居酒屋でバカ騒ぎする飲み方が好きじゃない。同じテーブルに座る僕まで低俗なサラリーマンだと思われる。本来の僕とは違う見られ方をされるなんて真っ平ごめんだ。が、この飲み会に毎月参加する理由はもちろん九条さんがいるからだ。オールドミス2人も参加するのは気が重いが、アルコールの入った田川さんは気が大きくなるのか、いつもより鷹揚になるため話しやすさが普段とは格段に違う。九条さんはいつも「バスの最終便が出てしまうので」と、途中で帰ってしまう。先月の飲み会で坪内さんは九条さんがどこから来ているのか訊ねていたが、歯切れが悪そうに答えてカシスオレンジを飲んでいたことを覚えている。
定時の18時になり、デスクの上を片付けた。隣の席の先輩がこちらを一瞥した。「ちょっと仕事を少し頼めないかな」と、まゆ毛をハの字にして依頼する先輩の様子が目に浮かぶ。仕事を頼まれる分には問題ないが、自分から声をかけずに声かけ待ちをしている女々しい姿を見てしまうと、こちらから声をかけようという気持ちが失せてしまう。そもそも自分の仕事を時間内に終わらせられないのは先輩の管理の問題だ。僕が割を食う理由にはならない。
「先に行っていつものところで待ってますね」
フロアに残る採用部の面々に声をかけ、その足でトイレに向かう。鏡で身だしなみをチェックする。鼻とおでこのテカリをハンカチで抑え、カサつきのある唇にリップクリームを塗る。元々男性ホルモンが少ないのか、青くなるほど髭も生えず肌も田川さんより滑らかだ。カバンからアトマイザーを取り出し、耳裏と手首、首筋に吹きかける。日本橋の百貨店の化粧品売り場に男一人で買い物する姿は目立ったが、美容部員に甘く微笑むと歓待されたことを思い出す。香水だけではなく、思い切ってスキンケアのラインもそのブランドで揃えた。
高級化粧品ブランドのスキンケアのおかげか、ここ最近の肌のコンディションは最高で、ゆで卵のようにつるりとしている。これで白肌なら本物のゆで卵だが、父とコース巡りをしたらあっという間にこんがりと肌が小麦色に焼けた。母も「何だかワイルドになったわね」と褒め、「これならモデルになれるかもよ」と親バカ丸出しに讃美した。
身長176cm体重65kg、有名私大卒業で教育業界の最大手で採用部勤務。家族以外にも容姿を褒められたことは何度もある。女性とはそれなりに付き合ってきたけど、僕のお金と容姿目当てで近づいてくる子が多くて中身の伴っていない女性があまりにも多かった。 ひどい子になると、カフカの『城』を読んだことも聞いたこともないのだ。だから僕がカフカを解説をすると「知識マウントしないでよ!」と激昂され、そのまま別れた。他にも「自己中」「気が利かない」「ズレている」など、とても恋人に言うべきではない言葉を投げかけられ、その度に僕は傷つけられた。その傷心の僕の目の前に現れたのが九条さんだ。鏡を見ながら失恋の痛みと九条さんへの甘い気持ちが混ざり合い、複雑な感傷気分になった。
定時すぎのエレベーターはいつも混雑している。せっかく身だしなみを整えたのに、エレベーターの中でぐちゃぐちゃになってしまう。中年男性の皮脂が付かないように体勢を整える。前後左右のサラリーマンが一瞬迷惑そうに顔を顰めた。この時間帯に乗り込む人が多いということを分かっていながら、人が乗り込む度に嫌な顔をする。器の小ささを現す行動の一つだ。嫌なら階段を使えばいい、階段が嫌なら我慢してエレベーターに乗るのが一般的な思いやりではないか。このビルに勤める人間の器の小ささに辟易しているところで、エレベーターが4階に止まった。九条さんが乗ってくるのではないかと期待したが、そんな奇跡は起きなかった。九条さんのかわりにエレベーターに乗り込んできたのは坪内さんと、九条さんと同じ保育部門の採用部に勤める女性社員だ。僕より年齢は上で、細身の美人と社外でも評判だが、しゃくれた顎がフランケンシュタインを想起させて僕の苦手な顔立ちだ。性格もややきつめで、アルコールが回り始めると「九条ちゃーん、西田さんじゃなくて私と話そうよぉ」と九条さんを困らせる。そして僕が4階の保育部門の採用部へ内線で繋ぐと「言った言わないでトラブルのもとになるので用件はチャットで送ってください。外線から内線につなぐときだけこちらへ連絡してください」と、毎回抑揚のない声で応答する。一度、保育部門の会社説明会を見学したが、あの冷徹な声の持ち主とは思えぬほど、にこやかに司会をしている姿に度肝を抜かれた。そしてこんなにも裏表の激しい人間は見たことがない。
2人とも黙礼し、一階のエントランスに着くまで無言で過ごした。一階に着いてエレベーターを降りる。満員のエレベーターから解放され、思わず蹴伸びをしてしまう。
「そこに立ってたら通行の邪魔になります。気をつけてください」
先に降りたはずの保育部門の採用部2人の片割れ、フランケンシュタインが冷たく言い放った。その直後、僕の後から降りてきたサラリーマンが僕の肩にぶつかってきた。僕よりも背の低いサラリーマンはそのままビルの入退館改札へと向かうので、その背中を追う。サラリーマンが僕に気付き足を速めるが、僕も速度を上げて追う。すると、僕の左腕が強く掴まれた。フランケンシュタインが口をへの字にして僕を見上げた。
「西田さんやめてくださいよ」
「僕は何もしていないけど。何をやめろって言うんだい?」
左腕を振り解くとフランケンシュタインは眉間にしわを寄せた。
「西田さんにぶつかった人を追いかけてましたよね。ぶつかってムカつくのは分かりますけど、エレベーター降りてすぐのところで立ち止まったら通行の邪魔になるって言ったじゃないですか。西田さんも気をつけてくださいよ」
「僕が立っていることを認識したなら、向こうが避ければいい話だろう。こっちは完全なる被害者です」
何かを言いかけようと口を開いたフランケンシュタインの腕を坪内さんが引いた。
「まぁまぁ。西田さんも次から気を付ければいいじゃないですか、佐藤さんもほらほらパーッと飲んでスッキリしましょうよ」
そうだ、フランケンシュタインの苗字は佐藤だ。佐藤を半ば引き摺るように2人は僕を追い越してビルを出て行った。行き先が同じなのだから「一緒に行きましょう」と誘えばいいものの、その一言が出ない気遣いのなさがこの2人の性格を如実に表している。
2人に置いてけぼりにされた僕は、入退館改札を抜けてエントランスのソファに腰掛けた。そのまま九条さんを待つ。入退館改札から流れてくる人の波に九条さんの姿がないか目を凝らす。仕事終わりの九条さんはまとめ髪を解いて流しているので、セミロングヘアの美人を探す。しかし入退館改札から出てくるのは疲労が顔に表れたサラリーマンや、着飾ったOLたちばかりだ。楚々とした綺麗な人がこのなかにいたら、あっと目を引くだろうな。いつも飲み会の途中で帰ってしまうから九条さんとはあまり話せない。ならば、いつもの安居酒屋まで一緒に行って少しでも九条さんとお喋りしたい。九条さんと肩を並べてお喋りに興じることができるなら、行き先は安居酒屋だろうがゲームセンターだろうがどこでもいい。思い返せば、保育部門の採用部2人とあのとき一緒に行っていたら九条さんとお喋りするチャンスは潰れていた。僕はなんて運がいいんだ!
スマートフォンの内カメラで再び身だしなみをチェックする。顔のテカリも問題なし、髪も乱れていない。いつ九条さんと顔を合わせても大丈夫だ。スマートフォンのカメラアプリを閉じたところで、再び入退館改札が混雑した。くすんだサラリーマンたちのなかに咲く一輪の白百合が表れた。九条さん!
駆け出したい気持ちを抑え、平生を装って入退館改札に近付く。さり気なく右手を挙げて九条さんに手を振る。やぁ、偶然だねという風に。
「おう、お疲れ!」
僕に手を振り返したのは、九条さんの背後に立つ横幅の大きな腹の出た若いサラリーマンだった。このデブリーマンは4階の総務にいる細田という男で、僕と同じ年齢だ。特段、僕と親しいわけじゃないのに、九条さんに手を振ったのに、馴れ馴れしく声をかけて手を振り返すこの男の異常な距離感に寒気がする。九条さんもぽかんとした顔をしているじゃないか。
「西田さんも定時上がり?」
デブのくせに細田という苗字は皮肉以外の何ものでもない。
「あぁ、そうさ」
九条さんはやはり髪を解いて、後ろに流している。シュシュの結んだ跡がついているが、それさえもチャームポイントになるのだ。
「じゃ、僕と九条さんはこの後飲み会あるからここで。またな、細田。九条さん一緒に行こう」
馴れ馴れしい細田から九条さんを引き離そうとすると、細田は僕と九条さんの間に割って入った。
「水臭いこと言うなよ〜。飲み会って駅前の『花々』でやってるいつものだろ?途中まで一緒に行こうぜ」
「そうですね、せっかくなので細田さんも一緒に行きましょうよ」
九条さんの優しいところも僕は好きだが、こういう誰彼構わず優しくするところは改善点の一つだ。存在するだけで暑苦しいデブリーマン細田が、僕と九条さんの間という立ち位置でそのまま三人横並びで安居酒屋まで向かう。
暦は秋でも9月の半ばはまだ少し暑い。細田はすでに額から汗が吹きだしている。
「いやぁ、9月ってこんなに熱かったかな?これじゃまだ夏だよ、夏!」
「確かに暑いですよね、私も早く冷たいもの飲みたいです」
「九条さんはお店着いたら何を飲みたいですか?」
「そうですね〜、烏龍茶!今さっぱりしたお茶を飲みたい気分です」
細田と九条さんは僕を置いてけぼりに会話をしている。2人とも僕のことが見えないみたいに話題を振ってくれない。
「西田さんはお店に着いたら何注文する?」
「どうだろう。メニューがないから何を注文できるか分からないよね」
馬鹿らしい質問に論理的に返答すると、細田はそれ以上何も質問しなかった。
「細田さんは今何飲みたいですか?」
「俺は電気ブラン飲みたいなぁ」
「ここで電気ブランを挙げるとは珍しいですね。私お酒に詳しくないんですけど、その電気ブランってどこで飲めるんですか?」
九条さんに興味を持たれたのが嬉しいんだろう。細田は卑しい視線を九条さんに投げた。
「有名なところだと浅草の神谷バーで飲めますよ。神谷バーで電気ブランを飲むと自分が太宰治になった気持ちになって、そこで日記なんか書くといつもより文章が上手くかけた気がするんですよ。えっとね、その神谷バーに太宰治も通ってたんです」
「なるほど〜。たしかに『人間失格』にも電気ブランが出てきますもんね」
「九条さんが読書好きっていうのは聞いてたけど、太宰も読むの?」
細田の太宰呼びに、己の知識を鼻にかけるいやらしさを感じた。僕を差し置いてバカみたいにキャーキャーと九条さんと話し込む細田が途端に憎たらしくなってきた。
「太宰治も読みますけど、有名どころしか読んでないんですよね。それこそさっき挙げた『人間失格』と『斜陽』とか。細田さんは太宰治が好きなんですか?」
「太宰好き!実はこう見えても俺って読書家なんだよね。あ、今人は見かけによらないなって俺の腹見て思ったでしょ!」
笑い合う2人が途端に低俗な人間に思えてきた。何が太宰治だ、何が電気ブランだ。カフカもロクに知らないやつが得意げになりやがって。
「じゃあ他に誰読むの?好きなジャンルは?」
僕が問いかけると、細田は二重顎に手を当てた。
「他は坂口安吾かなぁ。今の新しい作家も読むけど、好きな作品を繰り返し読むから読書家とは言ってもそんなにたくさんの作家は知らないんだよね〜。だからジャンルもなんて言ったらいいんだろう、いわゆる純文学が好きで読んでるよ」
「それで読書家を名乗るのはさすがに恥ずかしくないか?」
面の皮が厚い細田は、僕の言葉に怯んだ。九条さんの前だからって格好つけようとするからこうして恥を晒すんだよ。少しだけ胸がスッとした。
「そんなことないですよ。それで言ったら私だってサスペンスばかり読んでいるので、手に取るのはもっぱら松本清張と西村京太郎ですもん」
九条さんは優しい。
「へぇ、九条さんはサスペンスが好きなんですね」
「そうなんです!サスペンス小説読む割には、毎回犯人当てられませんけどね。坂口安吾なら『不連続殺人事件』が面白いなと思いました」
「推理したけど犯人を当てられないの分かるなぁ」
九条さんのフォローで復活した細田が再びうっとおしい。
「九条さん、さっき話したときは森村誠一も詳しそうだったよね」
爽やかな笑みとともに九条さんに言葉を投げかけた。細田と笑い合っていたのは、上っ面の会話を続けるためだったんだと確信した。九条さんは優しい微笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「そこまで詳しくはないんですけど、森村誠一も好きです。好きな理由を言葉にするのはちょっと難しいんですけど、点と点を結んだら線になってそれを辿っていくと…という点つなぎが面白くて夢中になるんだと思います」
「なるほどね。点と点といえば、僕はドストエフスキーの『罪と罰』が好きだな。普段はカフカを読むんだけど、それだけじゃ読書家と名乗るには足りないかなって。『罪と罰』」は主人公の青年が高利貸しの老婆を殺害するところが序盤にあって、いやこれは僕があらすじを話すよりも実際に読んだほうが断然面白いよ。現代こそドストエフスキーを読むべきだと僕は思う」
「西田さんってドストエフスキーとか読むんだな。ロシア文学読むって何かかっけぇわ」
心から感心していることが細田から伝わる。
「別にかっこよくないさ。けど、教養として読んでおいて損はない。良かったら来週の月曜日にでも僕のおすすめのロシア文学の本を何冊か持っていくよ」
読める自信がないのだろう。細田は顔を引きつらせながら断った。同年代の言う読書家のレベルの低さたるや。九条さんは僕の読書家の一面を垣間見たようで、神妙な面持ちでしっかりと相槌を打っていた。話の腰を折らずに、人の話を聞くことができる。九条さんの傾聴姿勢は尊敬に値する。




