第2話 アールグレイ
16時30分。再び離席し、ポーチを持って下の階の給湯室へ向かう。部門ごとに経費を分けているため、塾部門の僕たちは本来5階の給湯室を使わなければならない。4階は保育部門の給湯室だが、何だかんだ課長やエリア長も4階の給湯室を使っているので、僕だけが咎められる理由はそこにない。
4階の給湯室に誰もいないことを確認し、ケトルで熱湯を沸かす。ポーチからアールグレイのティーパックを取り出す。昨日の帰り道にわざわざ輸入食料品店に寄って購入したものだ。
「お疲れ様です」
軽やかなソプラノボイスとともに給湯室にやってきたのは九条さんだ。九条さんは16時30分を少し過ぎた頃、給湯室で紅茶を淹れる。
三日前、4階の備品室に模造紙を取りに行ったときだった。廊下ですれ違ったオールドミス坪内さんはマグカップを片手に話しかけてきた。その日も一口チョコレートを持って九条さんのデスクに出向いていた。そしてまた坪内さんがいたので、仕方なしに一口チョコレートをお裾分けしたのだ。なので、「いつもごちそうさまです〜」と、声をかけられたのだ。田川さんよりは坪内さんの方に好感を持てるが、それはあくまで田川さんと比較した場合であって、単体の坪内さんは僕の苦手なタイプの人だ。喋りだしたら止まらない、マシンガンよりもマシンガンなお喋りが疲れるのだ。そろそろ切り上げようとしたときだった。
「いい香りでしょ。これね九条さんからいただいたの。九条さんも紅茶が好きでいつもこれくらいの時間になると給湯室で紅茶を淹れているのよ。紅茶好きな人が選ぶ紅茶ってティーパックでもこんなに香りが違うのかってびっくりしちゃったんです」
左腕にはめたカルティエのタンクの針を確認した。時刻は16時30分。坪内さんの無駄なお喋りを半ば強引に切り上げ、模造紙を抱えながら4階の給湯室に向かった。
給湯室には誰もいなかった。坪内さんもきっかり16時30分に九条さんが紅茶を淹れていると言ったわけではない。「戻ろう」そう決心したときだった。クリップで髪をまとめた九条さんが給湯室にやってきたのだ。タンクの長針は6と7の間を指していた。
やや驚いた表情の九条さんは電気ケトルでお湯を沸かす。
「お疲れ様です。あれ、こんなところで模造紙抱えてどうしたんですか?」
九条さんがマグカップにティーパックをセットしながら訊ねた。その日の九条さんはボーダーのカットソーにベージュのアンクルパンツ、黒のバレエシューズとカジュアルでシンプルな装いをしていた。左手の薬指は変わらず空いている。シンプルな装いとは反対に、マグカップは豹柄に赤いイチゴとピンクの花柄がプリントされており何だか毒々しく、正直センスの欠片もない。が、清楚な九条さんが持つとギャップ萌えのアイテムとなるのだから、九条さんの美貌には脱帽する。
「課長に取ってこいって言われて。今度の会社説明会で使うんだと思います。小休憩させてもらってます」
「塾部門も大変ですね。こちらも説明会続きですが、お互いに頑張りすぎない程度に頑張りましょう」
やや突出した前歯を見せて九条さんは微笑んだ。
その日から16時30分になると4階の給湯室へ向かうことがルーティンとなった。昨日も4階の給湯室で九条さんとしっかりとお話することが一応はできたのだが、「そういえば4階の給湯室使ってて大丈夫ですか?」と訝しげに訊ねるものだからしどろもどろになって、三日前ほどはお話できなかったのだ。
今日は輸入食料品店で購入したティーパックを話題に、九条さんのことをもう少し深掘りしたい。その思いが通じてか、今日も九条さんは軽やかなソプラノボイスで挨拶をしてくれた。
「九条さんって好きな紅茶の品種ありますか?」
センスの悪いマグカップを取り出す九条さんに訊ねた。
「そうですねぇ、無難ですけどアールグレイが好きです」
マグカップにティーパックをセットされる前に、僕の持ってきたティーパックを九条の前に差し出した。
「良かった。これ飲んでみてください。アールグレイのティーパックです。昨日の仕事帰りにカルディ寄って買ったんですよ。偶然にも九条さんのお好きな品種でホッとしました」
頬が熱くなる。九条さんの大きな瞳には、はにかむ表情の僕が映し出されていた。突然のプレゼントに驚きのあまり固まった九条さんのかわりに、マグカップにプレゼントのアールグレイのティーパックをセットした。
「カルディで買ったんできっと美味しいです」
顔の熱を感じながら一言付け加えた。
「そんな、いつもお菓子までいただいているのに。紅茶までいただくなんて申し訳ないです」
控えめな反応が九条さんらしい。
「いいんですよ。僕がやりたくてやっているんですから」
九条さんはもごもごと何やら言いたげな雰囲気を出しつつ固辞しようとする。そして沸かしたばかりだと言うのにケトルの熱湯をシンクに流した。まさかすでにお湯が沸いていたと思わなかったのだろう、熱い湯気に九条さんは驚いて小さな悲鳴を上げた。それでもシンクにお湯を流すことを止めない九条さんに僕は話しかけた。
「それ僕が沸かしておいたんです!」
「そうだったんですか?すみません!」
九条さんはお湯を流す手を止めた。
「すみません、お湯使うのに半分以上流しちゃいました。前の人がお水を入れっぱなしにしたのかと思って、失礼しました」
「いやいやそれはいいんです。僕は使いませんから。ただ、九条さんはいつもこの時間になると紅茶を淹れているから、先にお湯を沸かしておけば楽かなと思って」
心の内を全て曝け出してしまった気分だ。全身が熱い。毛穴という毛穴から汗が吹き出る。僕の恋心の1ミリは九条さんにここでバレてしまったかもしれない。嬉しいような恥ずかしいような気持ちがくすぐったい。僕の気持ちを今すぐに伝えたいけど、給湯室で告白はロマンチックではない。僕の緊張や気持ちが九条さんにも伝わったのか、九条さんは固まったままだ。よくあるオフィスドラマのようにここでお互いの気持ちが瞬時に伝わるというのは、まったくの夢物語だ。ただ緊張が2人の沈黙の間に走り、その気持ちを自分の中でしっかりと噛み締めている。
カチコチの九条さんの顔の前で手を振ってみせる。九条さんの瞳は熱で呆けるようにぼーっとしている。オリーブ色のカットソーに黒のワイドパンツ、黒のローファーで今日はややメンズライクな着こなしだが、髪をまとめているシルクの白いシュシュと、恋する乙女のような呆けた表情が非常に女性的であまりにも素敵だ。
「残りのパックも良かったら飲んでよ。今度感想教えてね」
とろけた瞳には薄い唇から白い歯を覗かせて微笑む僕が映っていた。
やや照れくさくなって九条さんに背を向けて、冷蔵庫に入れておいた飲みかけのボトルコーヒーに口を付ける。
「九条さんって読書が好きなんだよね」
「えぇ、そうですけど」
どこかぎこちない声色なのは無理もない。
「どんなの読むの?」
「最近のから何でも読みます」
「そうなんだ。ジャンルは何が好き?」
「そうですね、本当に何でも読むので。強いて言えばサスペンスが好きです」
「サスペンスいいよね。面白くて僕も好きだよ。サスペンスで好きな作家は?」
「松本清張とかですね」
「とかって何よ。他にもいるなら教えてよ」
「本当に何でも読むので挙げだしたらキリがないんです」
「なるほどね。松本清張ってことは社会派サスペンスかぁ。僕も松本清張読むよ。棟居弘一良が出てくる…『人間の証明』だ!あの三部作は面白くて松本清張作品の中でトップクラスに好きだよ」
『好きだよ』と言いながら振り返り、九条さんを見つめた。思い切って『好きだよ』を強調した。
「あの、それ松本清張じゃないです」
マグカップを手にした九条さんは真っすぐにこちらを見つめていた。
「え?」
聞き返すと、九条さんは浅いため息を一つ吐き出す。
「『人間の証明』は松本清張じゃないです。森村誠一です」
「そうだっけ?」
九条さんはマグカップを手にしたまま給湯室を出て行った。
聡明さが九条さんの美点の一つではあるけれど、僕の少し高いプライドが傷つけられた。思い返せば確かにあれは松本清張ではなく森村誠一だったかもしれない。だけど、訂正するにしたって言い方というものがある。九条さんは真面目さ故に目の前の間違いを許せないのかもしれない。けれども、そこを臨機応変にしていかないと九条さんが損をしてしまう。せっかく美人に生まれたのに性格で嫌厭されるのはあまりにも勿体ない。
芥川龍之介と太宰治を間違えるのは義務教育の習得レベルを疑うけれど、松本清張と森村誠一は義務教育の教科書に載っていない。それに僕と同世代で森村誠一の三部作を読んだ男はそんなにいないだろうし、松本清張の『黒革の手帖』だって読了した。これでも一応有名私大を卒業して、国文学を専攻していた。その僕が記憶の引き出し違いで言ったことをあんな風に言うこともないだろう。輸入食料品店で購入したアールグレイのティーパック、しめて972円を返金してもらいたい気分になった。




