第1話 一口チョコレート
シュシュで一つに括った髪を揺らしながら、九条さんは談笑していた。談笑相手は派遣で来ている坪内さんだ。坪内さんは今年52歳になるらしく、談笑相手がオールドミスだと知ると何だかホッとする。ポケットに忍ばせた一口チョコレートは運良く3つある。談笑する2人のデスクに近づき、一口チョコレートを差し出した。
「あら、西田さん」
オールドミスがこちらを見上げた。九条さんは口をポカンと開けてこちらを見つめている。うん、今日も九条さんは可愛い。
「お裾分けです」
「えー!ありがとうございます」
オールドミスはさっそく一口チョコレートの包を剥いて口へ放り込んだ。
「九条さんもどうぞ。少しばかりですが」
「いつもありがとうございます。甘いの好きなので嬉しいです」
九条さんは少々出っ歯気味な前歯を見せて笑った。そして一口チョコレートをそっと、デスクの上にあるビーズ編の小さな籠にのせた。ビーズ編の小さな籠はお菓子なのだとか。冬眠前のリスのように、お菓子をしこたまため込む姿も大変愛らしい。
さり気なく自分も一口チョコレートをその場で食べる。
「そちらはどうですか。今年もなかなか面接に漕ぎ着けないなんて耳にしますよ」
さり気なく話題を振る。九条さんは少しバツの悪そうな表情をした。
「そうなんですよね。新卒採用は絶賛苦戦中です。中途採用の応募はちょこちょこ来るんですけど、内定辞退もここ最近はたて続けにあってなかなか結果に結びつかないですね」
「外部の私が言うのもなんだけど、ぶっちゃけここって給料低いじゃない?手当充実とか求人広告に書いてるけど、その手当も自治体のやつでしょ?仕事内容も自治体の手当の金額も同じなら、そりゃ基本給の高い他社行くわよ。なんて言ったの聞かれたら私の次の契約更新されなくなっちゃうね、ここだけの話にしてよ〜!」
坪内さんはおどけて人さし指を口元に当てた。九条さんは「言わないですよ〜」と媚びたように坪内さんと笑い合っていた。
「まあ、給与面を僕らの権限で変えていくのは難しいですからね。とにかくやれることはやってお互い頑張りましょう」
自慢の白い歯を見せて爽やかに微笑んでみせる。九条さんははにかんで頷いた。
デスクに戻ると数字と忙しなさに追われる。左隣のホワイトボードには『必達!!新卒採用25人!』の文字があり、その下には30の数字が振られたマス目がプリントされた用紙が貼り出されている。マス目には5枚の桜のシールが貼られていた。来年度入社の新卒採用者が決まると桜のシールをマス目に貼っていく。千葉県エリア長が「25人は必要だけど、それを超える分には大歓迎」と、30のマス目のものを作成し貼り出したのだ。来年度入社の新卒採用者を1月までに25人確保しなければならない。現時点で来年度入社の新卒採用者は5人だ。ここから内定辞退者が出てくる可能性が大いにある。今月末のエリア長会議で採用部が突かれるのは想像に難くない。
本社勤務の話に対して首を縦に振ったことをすでに後悔し始めている。本社ビルは綺麗だし、ICカードで入退館すると颯爽とした気分になる。1週間を乗り切った自分への労りとして、金曜日の夜に銀座や六本木に繰り出せる気軽さもある。そして何より九条さんに出会えたことは幸運だ。とはいえ、とすぐに否定的な言葉が頭をもたげる。本社勤務の採用部配属とはいえ、常に入社員の数字に追われて業務は営業とまるで変わらないし、土日は会社説明会や就職イベントに駆り出される。校舎長から入社したパートや講師のクレーム電話がかかってくることもしょっちゅうだ。今日の午前中も最近入ってきた大学生アルバイトにやる気が見られないと校舎長から電話がかかってきたが「知らねーよ」という言葉で突き返したい気持ちを抑えながら、何とか校舎長をなだめたのだ。
講師時代が羨ましく思えてくる。中学受験をしない地元公立の小学生と一次関数も分からないような地元公立中学の生徒に授業を行うことだけが自分の仕事だった。数字に追われることもなく、役職も就いていないし、責任という言葉から離れて仕事ができていたのだ。
「すみません、西田さん。今よろしいでしょうか」
背後から声をかけられ、振り向くと田川さんが書類を片手に立っていた。坪内さんと同じ派遣会社から来ているらしく、これまたオールドミスである。痩せているを通り越した不健康そうな体躯と、小さくて細い目から放たれる視線が、田川さんに冷たい印象を持たせている。いや、実際に冷たいのだ。
「はい、なんでしょう」
田川さんは僕のデスクに書類を置いた。
「コピー機に履歴書が置いたままになっていました。個人情報ですので、扱いには十分に気をつけてください。紛失でもしたら大きな事故になります」
同じオールドミスでも愛嬌のある坪内さんには好感が持てるのだ。しかし、田川さんのつっけんどんなものの言い方には神経を逆なでさせるものがある。派遣社員ではあるが、社歴は僕よりも長いようで、何かにつけて「気をつけください」「注意してください」と、自分のやり方を押しつけがましく言ってくるのだ。協調性に欠けた発言や思いやりを持てない行動から、次回の契約更新について課長に相談したが今も社員同然として勤務しているのだ。
「ああ、コピーしてそのままにしてしまったんだ」
田川さんは一瞥して自席へ戻った。履歴書に目を落とすと、事務パートに応募した主婦のものだった。これじゃ数字にならない、と少々がっかりしながら、履歴書を書類格納室へ収納する。
「履歴書をしまうので書類格納室の鍵を貸してください」
WEB会議に参加している課長は頷いて、デスクの引き出しから書類格納室の鍵を取り出して僕に渡した。課長の隣のデスクの田川さんに目をやると、つまらない表情で何やらパソコンに入力をしていた。
階段を上がり『書類格納室』のプレートが掛かった部屋のドアノブに鍵を差し入れる。開錠の音とともに扉を開けると、部屋いっぱいのキャビネが並んでいる。キャビネには大量のバインダーファイルが並べられており、職種ごとに棚が分かれている。職種から雇用形態と分かれ、職種事務の棚から雇用形態パートのバインダーファイルを取り出した。どんな人が応募したのか気になり、履歴書に目を落とす。ミミズのような文字でこちらの読む気持ちを削がれた。こんなに汚らしい文字を書く主婦が事務パートとして採用されるとは、よほど応募がなかったのだろう。再び履歴書に目を落とし、住所欄を読むと、年中求人広告を打ち出している地域と住所がほとんど重なっていた。これなら事務パートの採用もせざるを得ない。履歴書をファイリングし棚に戻した。
事務パートの隣には事務の正社員のバインダーファイルが並んでいる。書類格納室の出入り口に細心の注意を払いながら、正社員のバインダーファイルを手に取り九条さんの名前を探した。九条さん、九条百合恵さん、百合恵さん。
履歴書に貼られた証明写真の九条さんは幼くて、少々野暮ったさがある。が、それが可愛らしい。リクルートスーツに身を包み、前髪は斜めに流してボブカットにしている。ボブカットも良いが、九条さんはロングヘアが似合う。
『九条百合恵(満26歳)』
2年で楚々とした美人に変化するのかと驚きつつも履歴書を読み込んでいく。
2015年4月茨城県立東高等学校入学
2018年3月茨城県立東高等学校卒業
以上
聡明で美しい九条さんの最終学歴が高卒であるのは大変に意外である。高校の偏差値はそれほど低くはないが、僕の出身校よりはやや劣る程度であることにも意外性を感じる。
2018年4月株式会社ケアライフ入社
2026年3月株式会社ケアライフ
一身上の都合により退職
以上
現在に至る
高卒とはいえ、入社先は上場企業である。やはり九条さんは聡明な女性なのだ。九条さんの前には学歴など無に等しいのだろう。
飛ばして読んだ項目に目が吸い寄せられていく。九条さんの住所は茨城県T市で部屋番号も書いてあることから一人暮らしということが伺える。携帯番号の下四桁は九条さんのお誕生日となっており、こちらは諳んずることが可能だ。再び書類格納室の出入り口に細心の注意を払いながら、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。シャッター音が漏れないよう、無音カメラアプリをインストールする。さすがは都心、インストールはあっという間に終わった。九条さんの初々しい証明写真と住所と携帯番号を写し、バインダーファイルを棚に戻した。
恋する気持ちというのは人を大胆にする。いつも数字に追われ、エリア長の言いなりになっていた僕が大冒険できたのは、ほかでもない九条さんのおかげだ。九条さんからもらった勇気を胸に書類格納室から退出した。
課長に書類格納室の鍵を返却し、自分のデスクに戻った。浮き足立つ思いとはこういうことなのか。EXCELの画面を最小にして、検索エンジンに「茨城県立東高等学校 偏差値」を入力する。検索結果によると偏差値は63。なかなか優秀である。僕の教え子たちが逆立ちしたって合格することは無理な学校だ。続いて、「株式会社ケアライフ」を検索エンジンに入力する。会社名から想像はついたが、やはり介護関連の企業である。優しい九条さんに向いている業界かもしれない。
「西田さん、よろしいでしょうか」
突然の声かけに驚き、振り向くと仏頂面の田川さんが立っていた。
「今EXCELで作業されていますか?」
僕が検索エンジンを見ていたことを分かった上で、質問をする。田川さんの意地の悪さが表れている。
「EXCELの編集名が西田さんになっていましたので。私も入力したいものがあるので、西田さんの作業が終わったら教えてください」
重そうな足どりで再び田川さんは自席に戻った。同じボブカットでも証明写真の九条さんと田川さんでは雲泥の差、月とすっぽんである。EXCELを閉じ、田川さんに声をかけると「ありがとうございます」と素っ気ない声で返事をされた。やはり気遣いもできない田川さんの契約更新は見送るべきだと強く確信した。




