第5話 カシスオレンジ
疲労が滲む表情を隠そうともせずに、塾部門の採用課の面々が席に着いた。僕の隣には課長が座り、その隣を鶏ガラの田川、先輩達と並んでいる。九条さんを除く、各採用課の面々は不機嫌そうなオーラをまき散らしている。社会人であれば、自分の感情のコントロールくらいしっかりと管理してほしい。重くくすんだ雰囲気をぶち壊すかのように、野太い声が飛んできた。千葉県エリア長を筆頭に塾部門と保育部門のエリア長達がどやどやと座敷に向かってきた。
「いやいや、遅くなってすまないね!」
エリア長達が、ネクタイを緩めながら座敷に上がる。
「お疲れ様です。エリア長抜きで先に皆で乾杯しちゃおうかなって思ってたところですよ」
フランケンシュタイン佐藤は冗談めかして返した。
「悪い悪い、会議が長引いちゃってさ。皆はもう注文したの?」
「いえ、まだです。塾部門の皆さんも先ほど到着したばかりですので。皆さん揃ってからいっぺんに注文しちゃおうと思って」
フランケンシュタイン佐藤がペラペラ喋っている隣で、九条さんはエリア長達に飲み放題メニューを差し出した。こういう気遣いの差が顔に表れている。ここで一つ引っかかる。
「まさかまだ注文してなかったの?」
僕の問いかけにフランケンシュタイン佐藤はあからさまに嫌そうな顔をする。そしていつも以上に眉間にシワが深く刻まれていく。
「皆さんが揃ってから注文しようと思ったんです。あまり遅くなるなら私たちの分だけ先に注文するつもりでしたが、間もなく到着すると連絡があったので待っていました。お店の人にもそれは伝えています」
「僕はそんなこと知らされていないよ」
「いちいち西田さんに伝える必要あります?」
鼻で笑ったフランケンシュタイン佐藤は、僕に勝ったと思ったのか、塾部門の採用部メンバーやエリア長達に愛想を振りまいて注文内容を確認している。デキる女アピールが痛々しいほどに出しゃばりだ。出しゃばり佐藤がベルを鳴らし、全員分のオーダーを諳んじた。しかし、カシスオレンジの数量を誤った。
「すみません、カシスオレンジ3つじゃなくて2つに変更してください」
九条さんのさりげないサポートがあり、やっと飲み放題メニューの飲み物の注文が終わった。自分がよく見られることばかり考えているから、人の話をよく聞いていないんだ。九条さんのサポートがなければ、カシスオレンジを誰かが余計に飲む羽目になったじゃないか。腹立たしい女、さっさと辞めるか異動してしまえ。
各々の飲み物が手に渡ったところで、千葉県エリア長が乾杯の音頭を取った。グラスをカチリカチリとぶつける。僕は白黒はっきりした人間だ、同じテーブルのフランケンシュタイン佐藤と鶏ガラ田川のグラスを避けて乾杯していく。九条さんは礼儀正しく、僕よりもグラスの位置を下げて乾杯した。きっとご両親の躾が良かったのだろうな、幼少期の九条さんを想像し胸に温かなものが広がる。
「西田くん。飲み会の席で悪いけど、ちょっと一緒に来てもらえる?」
課長が小声で囁いた。課長の顔を見ると唇の端が震えている。
「いいですよ。でもここじゃマズイ話なんですか?」
レモンサワーを一つ煽り、横目で課長を見ると左手を額に当てていた。先ほどの震えといい、額に手を当てる仕草といい、体調が悪いなら帰ればいい。
「そうだね。ここで話すとあんまり良くないな。本当は西田くんが会社を出る前に話したかったんだけど」
「それって履歴書の話ですか?」
鶏ガラ田川の話を思い出して再びむしゃくしゃしてくる。課長の隣でしみったれた顔をしてちびちびと緑茶ハイを飲む姿が醜くて憎らしい。レモンサワーのグラスで横頬をぶん殴りたい衝動に駆られる。
「履歴書のこと知ってたの?他にも話したいことは山々だけどね」
「さっき田川さんから聞きましたよ。どうも僕のデスクを勝手に引っ掻き回して見つけたとか。いくら課長とはいえ、勝手に触られるのは気分が良くないですね。その辺は課の皆にも注意してくださいね」
課長は大きくため息を吐いた。あまりの大きさにテーブル中の視線が集まる。九条さんも気の毒そうな顔をして課長を見つめていた。四十手前の中年が、人前で苦労アピールするなんてみっともない。これ見よがしにポール・スミスのカフスを着けようが、惨めな加齢臭までは覆い隠せない。
「いや、やめておこう。月曜日にしっかり時間を設けて話をさせてもらうよ。15時から4階の会議室1に来てください。スケジュールにも入れたので出社時に確認してください」
まくし立てるように言うと、それきり口を一文字に結んで何も喋らなかった。それを見かねた坪内さんがヤンヤやんやと課長にやたらと話しかける。課長も輪の中心になれたことが嬉しいのか、馬鹿みたいに笑ったり相槌を打ってべらべらと喋っている。九条さんは他の採用課の面々と何やら楽しげに話している。連中のくだらない話に付き合うよりも、九条さんは僕との文学的で高尚な会話に価値を見出す女性だ。タイミングを見計らって席を移動することにしよう。
「松下課長も同じこと言ってました。やっぱり塾もウチも同じ感じなんですね」
「でも松下さんってテレアポ上手でしょ?松下さんがいれば実習からインターンに参加する学生さん結構集まると思うよ」
「実は松下課長って私たちの前ではテレアポしないんですよ。恥ずかしいみたいで。ね、九条さん」
「そうなんですよ!だから『いつの間に?!』って感じでテレアポリストが済になってたりするからびっくりなんですよ。松下課長だけじゃなくて佐藤さんも坪内さんも電話応対が丁寧なので、皆がいるところでテレアポするのが恥ずかしい気持ちわかります」
はにかむ九条さんはこの上なく可愛い。「もう、九条さんったら〜」と、坪内さんが九条さんの小さな頭を撫で回す。
「ほらほら、坪内さん暴走しすぎ!」
フランケンシュタイン佐藤が坪内さんの手を制し、ふざけ合う様子を見て課長と鶏ガラ田川、採用課の面々が笑い合っている。周りは笑い合っているのに、なぜか僕はその輪に入れない。いや、入れてくれない。
「アルコール入ってるだろうし、今なら松下さんもテレアポやってくれるんじゃない?おーい、松下さーん」
課長が手を振ると、隣のテーブルで顔を赤くした保育部門の採用課課長松下が手を振り返す。
「松下さん〜、ここで一つテレアポ披露してくださいよ〜」
課長の言葉に場がどっと笑う。何も面白くないのに馬鹿らしい。何も生み出さない無価値な飲み会は金輪際参加しないと強く決意した。
「いやいや、僕のテレアポは門外不出なのでダメでーす。うちの採用課の皆さんは電話応対が上手なので、僕のよりも皆さんのテレアポ聞いてみてくださいよ」
松下がおどけて返す。
「石野課長をはじめそちらの採用課の皆さんもテレアポがお上手と聞きますよ。ねぇ、九条さん」
いきなり話を振られた九条さんは慌てて烏龍茶のグラスから口を離す。
「そうですね、大変勉強になります」
「九条さん、合わせなくていいのよ。正直に『塾部門のテレアポ聞いたことありません』って言っていいんですからね」
「そうだよ、田川さんの言う通り!松下課長、うちの大切な九条さんを困らせないでくださいよね!」
フランケンシュタイン佐藤のオチで再び場がわっとにぎやかになる。
何だこの茶番は。何だこの非生産的なやりとりは。僕はこんなに低俗な人間たちと仕事をしているのか。人間のレベルはこうもかけ離れていくのか。僕をなぜ会話の輪に入れてくれないか分かった気がする。レベルが違うのだ。僕の人間のレベルの高さを知っているから、僕を会話に取り込む方法が分からないんだ。僕が自ら会話に入る他方法は無さそうだ。かと言って、こんな馬鹿げた会話の中心に入っても虚しいだけだ。くだらない話が落ち着くまで待とう。 僕は薄くてまずいレモンサワーを一人テーブルの片隅で飲み続けた。
小鳥が啄むように枝豆を食べ、冷奴に優しく箸を入れる。シーザーサラダのクルトンを一つ一つ箸で掴んで口に入れる。所作までも美しく、やはり僕の隣にいる女性は九条さんしか考えられない。はたから見ても僕らは美男美女のカップルになるだろう。九条さんの最終学歴が高卒という点はたしかに気がかりだが、卒業校の偏差値は悪くなかった。僕らの子どもは間違いなく美形になるし、きっと賢くなる。僕もこのまま行けばあっという間に課長の上に立つだろう。九条さんがいれば何もかもが完璧だ。九条さんの烏龍茶のグラスが空いたので、僕は自分の分のレモンサワーと九条さんの分のカシスオレンジを注文した。それを見ていたフランケンシュタイン佐藤が再び出しゃばって、他に注文がないか声を張り上げて確認をしている。フランケンシュタイン佐藤は僕がまるでそこにいないかのように振る舞う。僕が店員を呼んだのだからお礼くらい言えばいいものの、彼女はそういうマナーに著しく欠けている。ここでいちいち彼女に懇切丁寧に指導したところで、どうせ反抗的な態度を取るだろう。何も言ってやらない。お礼の言えない女として田川や坪内さんのようにオールドミス街道を進んで行くがいい。
飲み物が届き、各々に配られた。
「カシスオレンジのお客様?」
髪の毛を銀髪に染めた店員がテーブルを見渡す。みんな顔を見合わせている。そりゃそうだ、僕の好意で九条さんに頼んだのだからお前らの分ではない。
「それは九条さんの分だよ」
僕が顎で九条さんの席をしゃくった。しかし、九条さんのテーブルには空になったはずの烏龍茶のグラスが置かれていた。
「いえ、私は頼んでいません」
「そりゃそうだよ。僕が九条さんの分を頼んだのだから。遠慮しないで飲んでよ。前回もカシスオレンジ飲んでたし、飲めるでしょ?」
「西田くん、九条さんにちゃんと確認したの?」
課長が割り込んできた。
「いいえ。九条さんのグラスが空いていたので注文しました。どうせ二杯目も飲むのにわざわざ『飲みますか?』って聞くほうが面倒ですから」
課長が口を開けかけたとき、店員がグラスを回収しながらぶっきらぼうに言う。
「ウチ、グラス交換制なのでそういうのちゃんと確認してくださぁい。次から気を付けてください」
九条さんが悪いわけではないのに店員に「すみません」と謝っている。店員が戻ると、課長は僕に体を向けた。
「ちゃんと本人に聞いてから注文しないといけないよ。人によってはアルコールがダメな人もいるし、飲みたいものが決まってる人もいるんだよ。それにお店の人も困っちゃうから、他の人のグラスが空いたら思い込みで注文する前にまず本人に確認。いいね」
九条さんがいる前で、飲み会の席で僕に説教を垂れるとは。前々から弱気で幸薄なところが気に食わなかったが、この男は僕を公衆の面前で辱める姑息さも持ち合わせている。何て汚い男だ。課長のポール・スミスのカフスを全て引きちぎり、居酒屋の汚い便所に流し、猫背の背中に向かってカウンターの椅子で殴りたい。背中を丸めて許しを乞う課長の姿を妄想し自分の衝動を抑える。酒が入ってるからと、ここぞとばかりに僕を辱めやがって!僕への嫉妬をこんな形で晴らすなんで性格が悪い。
「でも九条さんは前回カシスオレンジ飲んでたのでアルコールは平気ですけどね」
僕が整然と事実を述べると、課長がこちらに掴みかかってくる勢いで座敷の畳に勢いよく手をついた。「どうした、どうした」と、エリア長達のテーブルもざわつく。
「石野課長、大丈夫ですよ!私飲めますから!3杯飲んでちょっと食べたら上がらせてもらおうと思っていたので!本当に大丈夫ですから」
九条さんが場を諌めてくれたおかげで、課長は僕から身を引いた。九条さんがエリア長に何やら説明しているらしい。四十手前の薄汚い中年が年下の女性にその場を収めてもらうなんて何とみっともない。僕はこんな惨めな親父の下で働いているのかと思うとうんざりした気持でやりきれなくなってくる。誰も僕を会話に入れてくれないくせに、説教のときだけ悪目立ちさせる。僕の社内での扱われ方があまりにも哀れだ。これを映像として証拠に収めておけば、ハラスメント窓口に提出できたのに。僕を不当に扱い、人前での公開説教、明らかな集団無視。これは立派なハラスメント行為に該当する。
スマートフォンの録音機能を立ち上げてテーブルの隅に置いた。お前たちの僕への悪口が録音されているとも知らずに、馬鹿騒ぎが続いている。塾部門の採用課の先輩がエリア長のテーブルに移動した。隣は鶏ガラ田川だが、僕が今移動すれば九条さんの近くに座れる。腰を上げようとした時、あろうことか九条さんの方が鶏ガラ田川の隣に座った!間違いない、九条さんも席移動するチャンスを伺っていたのだ。テーブルの隅に置いたスマートフォンを課長の後ろにそっと置いた。これなら悪口を録音しながら、九条さんの声も拾って後で聞き返すことができる。僕はカバンから読みかけの『若きウェルテルの悩み』を取り出し、耳の意識を九条さんに集中させ読書を再開した。ギョッとした顔で課長とフランケンシュタイン佐藤がこちらを見たが、何も言ってこない。読書に耽る人間に声をかけない配慮はできるらしい。しかし、時折坪内さんがこちらをちらちら見てくる。僕が会話に入ってほしいなら、ちゃんと声をかけるべきだ。普段はマシンガントークを繰り出すくせに、こういう時だけこちらの反応を伺うのは小者である。坪内さんのこういうまごついたところが嫌いだ。
「田川さんのおすすめ面白かったです。読み終わったタイミングで完結編が発売されたので明日買いに行こうと思っています」
「九条さんの好みと合致して良かったです。ベースにしている物語がなかなか過激だから人に勧めにくいけど、その人の作品を読んでいるならと思って思い切って言ってみて良かったです。完結編はうちの近くで取り扱っていないから、明日池袋のジュンク堂で買う予定です」
「池袋のジュンク堂いいですね〜。私もよく行っていたんですけど、家から車で30分のところに大きい本屋さんができたので、今ではそっちばっかりです」
「大型書店が近くにあるのはいいですね。差し支えなければ、その本屋さんの名前お伺いしてもよろしいですか?」
「もちろん!『鈴蘭台書店』という名前で、たしか東京の西の方にもあった気がします」
僕は『若きウェルテルの悩み』を読む手を止めた。すぐさまスマートフォンを手に取り、『鈴蘭台書店』を地図アプリで検索した。九条さんの自宅から鈴蘭台書店まで車で28分。おおよそ30分の距離なので、たしかに電車を乗り継いで池袋に行くより楽だ。
「東京の住所、帰ったら調べてみますね。じゃあ明日はその本屋さんでお買い物なんですね」
「はい!明日はきっと開店から閉店までずっといると思います。田川さんも完結編読んだらまた語りましょうね」
鈴蘭台書店は朝10時〜夜20時まで。10時間も店内に居続けるのはきついので、入り口近くに車を止めておこう。どうやら近くにコンビニや大型ショッピングモールもあるらしいので、九条さんが閉店までいなくても帰りはそこで時間が潰せる。それに僕の運転で鈴蘭台書店の帰りに大型ショッピングモールで一緒に買い物するのもアリだ。明日もまた九条さんに会えると思うと、途端に胸が躍り出す。僕はたっぷりの笑顔でフランケンシュタイン佐藤の話に相槌を打った。




