あれは初恋ではなく黒歴史①
これはアイネが藍音と入れ替わる前のお話──
すっかり陽が落ち、月が夜空に浮かんでいるというのに、王城は真昼のように明るい。そこに、ぞくぞくと馬車が吸い込まれていく。
城門をくぐる馬車はどれもピカピカで、馬車から降りた男女も負けず劣らず華やかな装いだ。
今夜は王城で、定例の夜会が開催される。そして招待客の中には、デビュタントを飾る若い女性も含まれていた。
その中の一人──アイネ・レブロンは、父親のエスコートで会場に足を踏み入れる。
一歩踏み出した途端、たくさんの視線を浴びてアイネは委縮する。
「背筋を伸ばせ」
前を向いたまま、父親であるルードヴェイが淡々とアイネに言う。
抑揚のないその声では、父親がどんな気持ちでいるのかわからない。アイネは無言で背筋を伸ばす。
視線をまっすぐにしたアイネの視界に、再び四方から無遠慮な視線が向けられる。
その視線の多くが異性からだというのはわかるけれど、どんな種類のものなのかはアイネはさっぱりわからない。
(これが……社交界というものなのですね)
大人の世界は想像したよりも厳しそうで、アイネは知らず知らずのうちに、また俯いてしまう。
「顔を上げなさい。何度も言わせるな」
今度のルードヴェイの口調は、やや尖ったものだった。
デビュタントで緊張している娘にかける言葉にしては、かなり情がないと思えるが、アイネは素直に従う。
アイネとルードヴェイは血の繋がった親子ではあるが、二人の間には埋めることができない溝がある。
7年前の夏、再婚したルードヴェイの妻ルマリアに向け、アイネは出会い頭に義母と呼ばずに名を呼んでしまったのだ。
アイネからしたら亡き母親の代わりではなく、一人の人間として家族になりたいという意思の表れだったが、他者からすれば他人行儀でしかなかった。
それから年月が過ぎても、あの時のアイネの気持ちは誰にも理解されることはなく、アイネ自身も真相を口にする勇気が持てないまま、家族の中で孤立した存在になってしまった。
寂しいという気持ちはあるが、アイネは仕方がないと思っている。誤解を解く機会がまったくなかったわけじゃないが、また自分の発言で家族を傷つけたらと考えると怖くて逃げ続けているのだから。
そんな自分に、父親であるルードヴェイはデビュタントの衣装を用意し、エスコートまでしてくれた。
今、会場にいるルードヴェイがどれだけ不機嫌でいようとも、今日のために与えてくれたそれらは揺るぎない事実であり、アイネは感謝の念を抱いている。
しかし心の中では、ほんのちょっぴり不満を抱えている。
なぜなら今日、この会場に顔も知らない自分の婚約者がいるからだ。
婚約者の名前はライオット・レブロン。クルークリン国で指折りの名門貴族、侯爵家の嫡男。
平凡貴族の──しかも家族から孤立している自分なんかがどうして選ばれたのだろうと思ったが、アイネとライオットの祖父同士がアカデミー時代からの親友で、友情の証に婚約を決めたらしい。
女性の幸せは、結婚相手で決まる。格上の貴族からの求婚は、幸せを約束されたようなもの。
けれどもそんな衝撃的な事実を教えられたのは、デビュタントを5日後に控えた晩。真っ先に心を占めた感情は困惑で、アイネは素直に喜べなかった。
そうして今に至る。無論、心の整理はまだついていない。自分が誰かの妻になることなんて想像すらできない。
(せめてもう少し早く教えてくだされば良かったのに……)
口に出せない恨み言を心の中で呟いて、アイネはチラリとルードヴェイを見る。
視線に気づいているはずなのに、ルードヴェイはこちらを見ようともしてくれない。
多少なりともデビュタント直前まで婚約者について伝えなかったことに、罪悪感を覚えているからなのだろうか。
もしそうなら、今更だ。不満をぶつけたりなんかしないから、せめて会場のどこにいるかだけは教えてほしい。
そんなふうに心の中でぼやいていれば、あっという間に会場の中央に到着した。クルークリン国では、デビュタントを飾る淑女は会場の中央で玉座に向けて最上の礼を執るのが習わしだ。
アイネもエスコートする父親の手を離し、ドレスの裾を広げて腰を落とす。すぐに招待客から歓迎の拍手があちらこちらから響く。これでアイネは、成人した女性となった。
デビュタントを飾った淑女は、玉座に向け最上の礼を執ったあとは、思い思いの時間を過ごす。
初めてのお酒を味わったり、ダンスを楽しんだり、年頃の同性たちとおしゃべりに花を咲かせたり。夜が更けるまで、特別な時間を楽しむ。
しかしアイネというと……壁に背を預けて、一人寂しくグラスを傾けている。しかもグラスの中身は、お酒ではなく果実のジュースだ。
エスコートしてくれた父親のルードヴェイは、どこかの貴族男性に声をかけられ歓談中だ。
自宅の屋敷では寡黙な父であるが、社交の場でも変わらず寡黙でいる。それなのに相手は気を悪くする様子はなく、ルードヴェイにこやかに話しかけ続けている。
そしてそんな父を見て、一人、また一人と、貴族男性が近づいて声をかけている。どうやらルードヴェイは、思っている以上に人望があるようだ。
これまで家族と触れ合うことがほとんどなかったアイネは、父親の意外な一面を見ることができて嬉しい。しかしこの調子では、こちらに戻ってくるのはいつになるのやら。
(ダンス……まだ、1曲も踊ってないのに……)
今日のためにレッスンは欠かさず受け、自室でたくさんステップの練習をした。その努力が水の泡になりそうな予感がして、アイネはひっそりと溜息を吐く。
視界にダンスを踊る男女が映る。皆、楽しそうで、壁の花になっている自分がより惨めになる。
これ以上、この光景を見ていたら泣いてしまいそうな予感がして、アイネはバルコニーに移動しようと手に持っていたグラスをウェイターに渡そうとした。その時、それを誰かがそれを奪った。
「あ……!」
「おや、驚かせてしまったようだね。悪かった」
目を丸くするアイネに詫びたのは、王族の衣装を身にまとった青年だった。
明日も更新します。
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