あれは初恋ではなく黒歴史②
昨日の続きです。
アイネに声をかけた青年は、艶やかな黒髪に、吸い込まれそうな深い青色の瞳。見たところ二十歳を過ぎているから、彼はおそらくこの国の王子だろう。
「とんでもございません、カイロス殿下。クルークリン国の若き太陽にご挨拶申し上げ……」
慌てて礼を執ろうとするアイネを片手で制したカイロスは、今度こそ手に持っていたアイネのグラスをウェイターに押し付けると一歩距離を縮めた。
「堅苦しい挨拶は、先ほど陛下にしたので十分です。私にはそのような態度をとらないでください。アイネ嬢」
「は、はぁ……」
意味深な笑みを浮かべるカイロスは、遠回しに王族ではなく一人の男性として接してほしいと訴えている。
しかし自分の軽率な発言で家族を傷つけてしまったトラウマから、もともと引っ込み思案だった性格は年を重ねるごとにひどくなり、アイネは友人らしい友人が一人もおらず、まして異性との交流は皆無だ。
そんなアイネがいきなり男女の駆け引きを持ち掛けられたところで、気づくわけがない。
キョトンとするアイネに、カイロスは苦笑する。
「これはこれは……なかなかの箱入り令嬢で……」
「え?」
「いえ。可憐な仕草が愛らしいとお伝えしたかっただけです」
「……はぁ」
愛らしいと言っておきながら、カイロスの視線は何だか獲物を狙う肉食獣のようで落ち着かない。
今すぐ逃げた方がいいと本能的に悟ったアイネは、一礼してカイロスと距離を取ろうとするが、相手は王族。そう簡単には逃がしてはくれなかった。
「私と、一曲いかがですか?」
差し出されたカイロスの手を凝視したまま、アイネは固まってしまう。ダンスを断れば不敬罪となってしまうかも。万が一、そうなってしまえば父親のルードヴェイに迷惑をかけてしまう。
それだけは避けたいアイネは、気持ちを押し殺してカイロスの手に自分の手を重ねようとした。その瞬間、二人の間に誰かが割って入った。
「失礼、殿下。この者は私と先約をしております故、どうかご辞退ください」
冷たい声なのに、まるで自分を守るかのように背を向ける青年に、アイネの胸がトクンと鳴る。
一方、カイロスは割り込んだ邪魔者にあからさまに驚いている。
「いやぁー……まさかこんな展開になるとはね」
心から驚いているカイロスだが、青年に向ける声音はどことなく親しみがある。まるでずっと前から心を許し合っている友人かのように。
けれどもう一人の青年は、表情が見えずともピリピリしているのが伝わってくる。単純に嫌いというわけではなく、もっと深く、悲しみすら感じる拒絶の感情だ。
この二人の間に、いったい何があったのだろう。初対面のアイネでは想像すらできないが、とにかく青年は自分を助けてくれた恩人である。
「あ、あの……」
アイネは勇気をふり絞って、青年のフロックコートの裾を少しだけ引っ張る。こっちを向いてほしくて。
その思いが通じたのか、青年はこちらを向いた。見上げなければ目を合わすことができない高身長の青年は、息を吞むほどに美しい容姿をしていた。
会場の灯りを受けて、眩しいほどに輝く金髪。宝石のようなエメラルドグリーン色の瞳は、研ぎ澄まされた刃のようだ。しかし良く見れば、その鋭さの中に優しい色が見え隠れしている。
(こんな素敵なお方がクルークリン国にいらっしゃったなんて……)
緊張と不満で押しつぶされそうだったアイネだが、今日初めてここに来てよかったと心から思った。
そんなふうに胸をときめかすアイネは、カイロスがいつの間にか去ったことに気づいていない。今のアイネには、名も知らぬ青年が世界の全てだ。
「ありがとうございます……助けて……いただいて……」
蚊の鳴くような声でアイネが礼を伝えれば、青年はふっと笑った。いや、正確には僅かに顔を歪めただけだった。
けれどアイネには、彼が微笑んでくれたように見えて、嬉しくてたまらない。
「わたくしアイネ・ディロンセと申します。もし良かったらあなたのお名前を……」
教えてください。そうアイネが続けようとしたその時、耳になじんだ声がすぐそばで聞こえた。
「アイネ、待たせた」
抑揚のない声でそう言ったのはアイネの父、ルードヴェイだった。貴族男性たちとの会話を終わらせ、大股で近づいたルードヴェイはアイネの隣に立つと、視線を青年に向ける。
「ああ、ライオット殿。娘の紹介はまだだったのに、良く気づかれましたな」
「え……?ええ!!」
素っ頓狂な声を上げたアイネは、ルードヴェイと青年を交互に見る。
「お、お父様……このお方が……ライオット様なのですか?」
「そうだ」
即答した父親と同じタイミングで、青年ことライオットも是と言いたげに小さく顎を引いた。
つまりライオットは、自分が婚約者だとわかっていたということで。
「それなら、もっと早く教えてくだされば良かったのに……」
つい恨み言を呟いてみたけれど、それを無視してルードヴェイはアイネに手を差し出す。
「まだ踊っていないようだから、早めに済ませておくぞ」
厄介ごとを片づけるような口調で言われ、アイネは黙り込む。
父親に反抗したかったわけじゃない。もっと他に踊りたい人ができたから。
(さっきのように、もう一度わたくしを助けてくださらないかしら)
言葉にできない想いを込めて、アイネはライオットに視線を向ける。けれども今回は助けの手は差し伸べられなかった。
「お父上の誘いを無下になさってはいけませんよ」
たしなめるように言われ、まるで自分が聞き分けのない子供のようになってしまったようで恥ずかしい。そうじゃない。ただ貴方と踊りたかっただけなのに。
そうライオットに伝える勇気がないアイネは、ため息を吐くことで気持ちを切り替えると、ルードヴェイの手に自分の手を重ねる。
そしてライオットに背を向けようとした、その時──
「このような形で顔を合わせることになり、すまない。近いうちに正式な場を設けるから待っててくれ」
肩に手を置かれ、ライオットから耳元で囁かれたアイネは、みるみるうちに顔が赤くなる。
そうだ。彼と自分は結婚をするのだ。今、一緒にダンスを踊ることができなくても、これから先、踊れる機会はいくらでもある。
それに気づいたアイネは、ライオットに小さく頷くとルードヴェイとともにダンスホールに向かった。
*
(ま、結局のところ、一緒にダンスを踊るどころか、異性としても認識されてなかったんですけどね)
ときめいていたのは自分だけで、相手は亡くなった妹に想いを馳せていたなんて、とんだ黒歴史だ。
カイロスからの強引な誘いを断ってくれたのは感謝しているけれど、あの時のピュアな恋心を返せという気持ちは、都築藍音に転生した今でも変わらない。
場所は変わってここは都築藍音の職場。今はお昼休憩中で、休憩スペースとして使っている小会議室では後輩の女子社員が理想の結婚について語り合っている。
家事は分担制がいいとか、育休は最低でも半年は取って欲しいとか。元の世界の男性が耳にしたら鼻で笑ってしまう内容だけれど、真剣に語り合えるこの世界はとても居心地が良い。
(……ありがとう。藍音)
アイネは、遠い世界で生きる友人に感謝の念を送る。今、自分が自分らしく生きていけるのは彼女のおかげだ。
都築藍音として生活して、気づけば一年が過ぎた。新しい恋はまだ始まる予感はないけれど、それでも充実した日々を送っている。
(あなたも、どうか幸せでありますように)
アイネは小会議室の小さな窓に目を向け、大切な友人の姿を思い出す。そして彼女が大好きだった塩味のカップラーメンの汁を飲み干した。
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