新しいプレッシャー
放課後、職員室に呼び出されたのは、転部してから初めてのことだった。
「佐藤くん、久しぶりだな。かけたまえ」
出迎えたのは、卓球部の顧問ではなく、校長だった。応接用の椅子に座るよう促され、佐藤は落ち着かない気持ちのまま腰を下ろした。
「肩の調子はどうだ」
「……おかげさまで、良くなりました」
「そうか。それは何よりだ」校長は、眼鏡の奥の目を、わずかに和ませた。「体が自由になったのなら、次は、その自由をどう使うかだな」
その声には、佐藤が想像していたような冷たさはなかった。むしろ、生徒の将来を案じる、熱心な教育者のそれに近かった。だからこそ、佐藤はかえって落ち着かない気持ちになった。
「推薦の件だが」校長は、机の上の書類に目を落としながら続けた。「卓球部を辞めたことで、無効になったと思っているかもしれないが――そうとも限らない」
「……どういう意味でしょうか」
「学業以外の活動実績も、総合的に評価する枠がある。演劇部の活動も、うまくやれば、十分に評価対象になり得るということだ」
佐藤の心臓が、小さく跳ねた。推薦がまだ望みとして残されている――その事実は、正直、安堵に近い感情を連れてきた。だが、続く校長の言葉が、その安堵を、じわりと侵食していった。
「ただ、一つだけ、私は気にかかっていることがある」
「気にかかっている、こと……」
「近頃、演劇部が、何やら妙な題材の脚本を書いているという噂を聞いた。学校批判めいた内容だと」
佐藤の背筋に、冷たいものが走った。まだ台本は完成すらしていない。それなのに、なぜ校長がその中身を知っているのか。疑問はすぐに、ある一つの可能性へと辿り着いた。
――監視されている。
「誤解しないでほしいのだが」校長は、身を乗り出すようにして続けた。「私は、生徒たちの創作意欲そのものを否定したいわけではない。むしろ、これほど恵まれた環境で学べる君たちが、その時間を、後ろ向きな不平不満の表現などに費やしてしまうことが、私には惜しくてならないのだ。せっかくの若い感性を、もっと前向きな、将来につながる形で活かしてほしい――それが、私の、教育者としての、偽らざる願いだ」
その言葉には、迷いも、揺らぎもなかった。むしろ、心の底からそう信じているのだと、佐藤にはわかってしまった。だからこそ、佐藤はうまく反論する言葉を見つけられなかった。
「君は、あの部の中にいる。もし、行き過ぎた方向に進んでいるようなら、私に、あるいは君の元顧問に、教えてほしい。それは、部の仲間たちのためでもあるんだ。彼らが、将来、後悔するような形で名前を残してしまう前に、正しい方向に導いてやれるのは、今、内側にいる君しかいない」
「……それは」
「難しく考える必要はない。誰かを売れと言っているんじゃない。学校を、そして君自身と、仲間たちの将来を守るための、些細な協力だと思ってほしい」
校長の口調は、あくまで穏やかで、真摯だった。だからこそ、その言葉の重みが、佐藤の胸に、鉛のように沈み込んでいった。悪意からではなく、善意のつもりで差し出されたものほど、拒みにくいものはない。
「推薦状の件、良い返事を期待している」
それだけ言うと、校長は書類に視線を戻した。話は終わりだ、という無言の合図だった。佐藤は、何も言えないまま、職員室を後にした。
廊下を歩きながら、佐藤の頭の中では、様々な思考が渦を巻いていた。
――推薦のために、部の仲間を売るのか。
――それとも、推薦を捨てて、仲間を守るのか。
あの日、体育館で肩を「自由にして」もらった時、佐藤は初めて、自分の本当の重さから解放された気がした。だが今、その代わりのように、また別の重さが、肩に乗せられようとしている。
演劇部の部室へと向かう足取りが、いつになく重かった。扉の前で、佐藤はしばらく立ち止まった。
中からは、いつもの賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
「……効率を考えると、佐藤くんに三役、兼任させるのが最適」凛の声が、いつも通りの平坦なトーンで響いた。「衣装の早替えは、五秒あれば足りる。計算済み」
「凛ちゃん、その計算、どこから来たのよ」結衣が呆れたように返す。「だから、この場面、佐藤くんに三役やらせるのは、さすがに無理があるでしょ」
「無理じゃないと思うけどな、佐藤くんなら」佐々木の声が続く。「本人、絶対『体力には自信があります』とか言い出すぞ、あれ」
「体力の問題じゃなくて、物理的に同じ舞台に三人同時に立てないでしょって話よ」
「……分身の術、使えない?」凛が、大真面目に、なおも食い下がっている声がした。
「凛ちゃん、今の会話、録音しておいて。いつか使えそう」
聞こえてくる声は、変わらず不揃いで、賑やかで、誰にも管理されていない、生の音だった。この声を守るために、自分は何を差し出せるのか、あるいは、差し出してはいけないのか。佐藤には、まだ答えが出せずにいた。
「……佐藤くん? そこにいるの?」
戸の隙間から、結衣が顔を覗かせた。佐藤は、慌てて表情を取り繕った。
「あ、いや、なんでもないです。今、行きます」
結衣は、一瞬だけ、探るような目を佐藤に向けた。だが、それ以上は何も聞かず、ただ「早く入って。凛の三役案、却下するの手伝って」とだけ言って、部室の中へ戻っていった。
佐藤は、その背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
――言えない。今はまだ、言えない。
自分の中に生まれた、この重さの正体を、誰にも打ち明けられないまま、佐藤は部室の戸を開けた。いつもと変わらない賑やかな空気が、佐藤を迎え入れる。だがその輪の中に入っても、佐藤の胸の奥だけは、一人、冷たいままだった。




