台本会議
一晩どころか、結局三日かかった。
佐々木は、鞄の底に眠らせていた大学ノートの山から、使えそうな断片を引っ張り出しては繋ぎ合わせ、また崩し、を繰り返した。何百というプロットの欠片はあっても、そのどれもが、誰かに読ませることを想定して書かれたものではなかった。人に見せるという行為が、これほど体力を削るものだとは、思ってもみなかった。
「――で、これが今のところの叩き台」
部室の机に広げたのは、まだ鉛筆書きのままの、ラフな構成メモだった。タイトルは、仮に『笑わない教室』としていた。
物語の舞台は、とある学校。生徒たちが、いつからか「正しい笑い方」を強制されるようになり、それに気づいた数人の生徒たちが、抵抗を試みる――という筋書きだった。
「……直接的すぎない?」
結衣が、メモに目を通しながら首を傾げた。
「直接的、か?」
「タイトルからして『笑わない教室』でしょ。誰が見ても、うちの学校のことだって分かっちゃうじゃない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「もっと寓話的に。舞台をどこか別の場所――たとえば、架空の国とか、遠い未来とか、そういう形にぼかすの。そうすれば、直接的な批判だって断言されずに済むし、何より、観てる人が『これって、もしかして……』って自分で気づく余地が生まれる」
「気づく余地、か」
佐々木は、結衣の言葉を頭の中で反芻しながら、ふと、既視感を覚えた。
「……いや待て。それ、僕が三日前に言ったやつじゃないか」
「え?」
「『直接的な批判じゃなくて、寓話みたいな形にするとか』って、僕が言ったんだよ。この前、この部室で」
結衣は目を丸くしてから、盛大に噴き出した。
「じゃあ、佐々木くん。自分で言ったこと、自分で忘れて、直球のタイトルで書いてきたってこと?」
「……面目ない」
佐々木は頭を抱えた。書いている間は、あれほど自分の中で明確だった方向性が、いざノートに向かうと、するりと抜け落ちてしまっていたらしい。頭で分かっていることと、実際に手を動かして書けることの間には、思っていた以上に大きな溝があるのだと、佐々木は今さらながら思い知らされた。
「まあ、いいわ」結衣はひとしきり笑ったあと、真顔に戻って続けた。「忘れてたってことは、それだけ心の中に、直接ぶつけたい怒りがあったってことでしょう。悪いことじゃない。……ただ、それをそのまま出しちゃったら、もったいないだけ」
たしかに、結衣の言う通りだった。佐々木は、その悔しさ半分、納得半分の感情を飲み込んで、頷いた。
「……分かった。仕切り直す」
佐々木は仕切り直すように、鉛筆を握り直した。たしかに、剥き出しの告発よりも、観客自身が真実に気づいていく過程の方が、演劇としては強度がある気がした。
「凛はどう思う」
水を向けられた凛は、レコーダーの録音レベルを弄りながら、しばらく黙っていた。
「……音として考えるなら」凛はぽつりと言った。「今の台本、生徒たちの『声』が、ほとんど出てこない。ずっと、主人公たちが喋ってるだけ。……揃えられてる側の生徒たちの、本当の声を、もっと拾うべき」
「揃えられてる側の、本当の声……」
佐々木は、その指摘に、思わず唸った。凛の言う通りだった。自分が書いた台本は、抵抗する側の視点にばかり寄っていて、抑圧されている側――つまり、今の学校の大多数の生徒たちの内側が、まったく描かれていない。
「佐藤くんは、どう思う」
「僕は……」佐藤は、少し言葉を選ぶようにしてから続けた。「僕自身、あの日まで、自分が縛られてることに気づいてなかった側の人間です。だから、台本の中の『抵抗する主人公たち』よりも、その周りにいる、まだ気づいていない生徒たちの気持ちの方が、正直、わかる気がします」
佐藤の言葉に、部室の空気が、また少し変わった。
「……じゃあ、そこを厚くしよう」佐々木は、鉛筆を握り直した。「主人公たちだけの物語じゃなくて、気づいていく生徒たちの群像劇にする。誰か一人の正義感で解決する話じゃなくて」
「いいわね、それ」結衣が頷く。「それなら、私たちがこの半年でやってきたことと、ちゃんと重なる」
その時、結衣がふと、遠くを見るような目をした。
「……ねえ、佐々木くん。人って、変化に気づくタイミングって、実はすごく遅いのよね。当事者ほど、気づくのが遅い」
「どういう意味だ?」
「……ううん、なんでもない」
結衣は、それ以上は言わず、台本の別のページをめくった。だが、佐々木は、その一瞬の横顔に、いつもの飄々とした余裕が抜け落ちていたのを、見逃さなかった。何か、彼女自身の経験に基づいた言葉のように聞こえた。だが、それが何なのか、佐々木には想像もつかなかったし、結衣がそれ以上語る気がないことも、なんとなく伝わってきた。
「……とにかく」佐々木は、あえて話を戻した。「この方向性で、書き直してみる。群像劇にするなら、登場人物も増やさないとな」
「私、書くの手伝うわよ」結衣が言った。「観察して集めた、生活のノイズのストック、たくさんあるもの」
「私も、音の面から意見出す」凛が続く。
「僕は、演技面で貢献します」佐藤も、いつもの調子で胸を張った。「あと、体力面でも」
「体力面て、何に使うんだよ」
「群像劇なら、僕、何役も掛け持ちできると思うので」
「それはそれで、ちょっと怖いな……」
佐々木は苦笑しながら、ノートの新しいページを開いた。白紙のページに向き合うことは、相変わらず怖い。だが、今はもう、一人で抱え込む必要のない怖さだった。
窓の外では、初夏の気配を含んだ風が、校庭の木々を揺らしていた。文化祭までは、まだ四ヶ月ほどある。書き直すべきことは山ほどあったが、この部室に流れる空気だけは、廃部通告を受けたあの日とは、もう別物になっていた。




