悪くないノイズ
演劇部の部室に、これまでになかった種類の音が増えた。
佐藤が加わってから一週間。部室には、ラケットを抱きしめる謎の発声練習の声や、シェイクスピア全集をめくるページの音、そして本人いわく「筋肉との対話」だという、謎の唸り声までが加わった。凛のレコーダーは、この一週間だけで、これまでの半年分よりも多くの「新しいノイズ」を記録していた。
「凛さん、僕の発声、どうですか」
佐藤が、腹の底から声を絞り出すようにして、何かの台詞を読み上げている。
「……声量、申し分ない。でも」
「でも?」
「体育館にいた頃の声と、同じ質。……誰かに聞かせるための声。自分のための声じゃない」
佐藤は、一瞬だけ動きを止めた。図星を突かれた時特有の、あの静止だった。凛はそれ以上追及せず、ただレコーダーの録音レベルを調整した。踏み込みすぎないことも、凛なりの距離の取り方だった。
「凛ちゃんの音の分析、地味に容赦ないよね」
結衣が、稽古用の台本の束を抱えながら苦笑した。
「事実を言ってるだけ」
「知ってる。それが一番、刺さるのよ」
部室の隅、佐々木は文化祭に向けての企画書らしきものを、うんうん唸りながら書いていた。廃部が今年度末に決まっているとしても、何かしらの「実績」がなければ、この四人が積み上げてきたものすら、証明する術がない。
「なあ、そろそろ本気で演目、決めないとまずいよな」
佐々木の呟きに、部室の空気がわずかに張り詰めた。文化祭までは、まだ半年近くある。だが、上演する脚本も、テーマも、何一つ固まっていない。
「私、思うんだけど」結衣が台本を机に置いた。「せっかくだから、私たちが今、実際に感じてることを題材にしたいわ」
「実際に感じてることって?」
「揃いすぎた笑い声。均一な歩き方。……この学校、どこかおかしいでしょ」
結衣の言葉に、凛は小さく頷いた。校内のアンビエントの変化は、凛が誰よりも早く気づいていたことだ。だが、それを「演劇」という形にするのは、また別の難しさがある。
「テーマとしては面白いけど」佐々木が慎重に言葉を選ぶ。「学校批判って取られたら、廃部どころじゃ済まなくなるかもしれないぞ」
「上等じゃない」
「上等じゃないだろ、廃部より最悪の結末があるかもしれないってことだぞ」
二人が言い合いを始める横で、佐藤が急に台本を胸に抱きしめながら、割って入った。
「あの、僕からも一つ、いいですか」
四人の視線が、佐藤に集まる。
「僕は、あの日、肩を自由にしてもらうまで、自分が何にそんなに縛られてたのか、わからなかったんです。……多分、この学校の生徒の大半が、同じだと思う。縛られてることにすら、気づいてない」
佐藤の声には、いつもの芝居がかった調子がなかった。初めて聞く、素の声だった。
「だから、僕は結衣さんの案に賛成です。ただの学校批判じゃなくて、『気づいていない誰か』に向けた話にできたら……それは、意味のあることだと思う」
部室が静まり返った。凛は、佐藤のその言葉を、レコーダーには残さなかった。この瞬間だけは、録音するべきではないと、なぜか思った。
「……佐藤くんが、そこまで言うなら」佐々木が観念したように息を吐いた。「まあ、テーマの方向性としては、悪くないと思う。ただ、書き方は慎重にやろう。直接的な批判じゃなくて、寓話みたいな形にするとか」
「寓話……」結衣が呟く。「悪くないわね。じゃあ、佐々木くんが書いてよ」
「な、なんで僕が」
「あなた、脚本家志望なんでしょ」
部室の空気が、一瞬にして凍りついた。佐々木の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「な……なんで、それを」
「鞄の底のノート、前から気になってたのよ。何百種類ものプロットが詰まってる、って顔に書いてあるもの」
凛は、佐々木のあの慌てぶりを、密かに録音しておけばよかったと、少しだけ後悔した。
「べ、別に、そんな大したものじゃ」
「大したものかどうかは、書いてみないとわからないでしょ。ここが、あなたにとって初めて『人前に出す』場所になるかもしれないわよ」
佐々木は、しばらく口をぱくぱくとさせていたが、やがて観念したように、鞄から一冊のノートを取り出した。
「……一晩、待ってくれ。何か、書いてみる」
その言葉に、部室の空気が、少しだけ柔らかくなった。凛は、四人分の息遣いと、それぞれの緊張と決意が入り混じった、この部室特有の音を、静かにレコーダーへ刻み続けた。
裏方に徹するはずの自分が、いつの間にか、この四人の物語の、一番近くで耳を澄ませている。それが少しだけ、怖くて、同時に――悪くない、とも思った。




