転部届
部室の引き戸を叩く音が、いつもと違った。
「トン、トン……トントン、トン」
「……なんだこの、変にリズミカルなノックは」
佐々木が眉をひそめながら戸を開けると、そこに立っていたのは、卓球部のユニフォームを着たままの佐藤だった。片手には大きな紙袋。もう片方の手には、なぜか分厚いハードカバーの本を抱えている。
「結衣さん、佐々木部長。お願いがあります」
佐藤は妙に芝居がかった、深々とした一礼をした。まるで舞台の上で口上を述べる役者のような所作だった。
「僕を、演劇部に入れてください」
部室の空気が、一瞬止まった。
「……え、いいけど」佐々木は戸惑いながらも先に反応した。「卓球部は? エースだろ、お前」
「辞めてきました」
「辞めてきましたって、簡単に言うけど……顧問、なんて?」
「『僕はピンポン球を打ち返すだけの機械には戻れない。これからは、言葉を打ち返したいんだ』と伝えました」
「重い……その台詞、重すぎるだろ……」
「顧問の反応は、『とりあえず保健室へ行け』でした」
佐々木は思わず頭を抱えた。想像に難くない光景だった。あの体育会系の顧問が、突然そんなことを言い出した部のエースに対して、どう反応すればいいのか分からず、とりあえず保健室送りにする――それはもう、ある意味順当な判断だったのかもしれない。
「あの、それで、その紙袋と本は何?」
結衣が興味津々といった様子で覗き込む。佐藤は誇らしげに、紙袋の中身を見せた。
「プロテインです。声も体も、資本ですから」
「本は?」
「シェイクスピア全集です。演劇をやるなら、まず基礎教養からだと思いまして」
佐々木は、もはや突っ込む気力も湧いてこなかった。ただ、部室の隅で凛が、興味深そうに小さく頷いているのが見えた。
「……本気度は伝わる。悪くない」
「凛まで肯定的なのか」
佐藤は、部室の真ん中に置かれた古い卓球台――今は台本や小道具置き場と化している――の前に歩み寄ると、おもむろに右肩をぐるりと回し、ボキボキと骨を鳴らした。
「卓球台があるなら、ここでも練習はできますね。ただし、これからは『演劇的卓球』を目指したいと思っています」
「演劇的卓球って、なんだよそれ」
「球を打ち返すのではなく、球と対話するんです」
「対話て」
佐々木がツッコミを入れる間もなく、結衣の目が、爛々と輝き始めていた。演出家スイッチが入った、というのが、長年の付き合いで佐々木にもわかる合図だった。
「いいわ! 佐藤くん、あなたのその『何かを演じたい』という熱意、大歓迎よ。まずは、そのラケットを『生き別れた恋人』だと思って抱きしめることから始めなさい!」
「はい、演出家!」
佐藤は本当に、両手でラケットを抱きしめた。傍から見ればただの奇行だが、本人はいたって真剣な顔をしている。
「……なあ、結衣。佐藤くん、剥がしちゃいけないところまで剥がれちゃってないか?」
佐々木は、小声で結衣にだけ聞こえるように尋ねた。あの日、肩甲骨を「解放」したことで、何か別のたがまで外れてしまったのではないか――そんな一抹の不安が、佐々木の胸をよぎっていた。
「いいじゃない」結衣は満足げに頷いた。「あれが、彼の『本当のフォーム』だったのかもしれないわよ。ずっと押し殺されてきた分、出てくる時は極端になる。それだけのことよ」
「極端すぎるだろ、どう見ても……」
そう言いながらも、佐々木は認めざるを得なかった。今の佐藤は、体育館で見た、あの凍りついたような表情の少年とは、まるで別人だった。良くも悪くも、感情が全部、体の外に溢れ出している。
一方で凛だけは、少し離れた場所から、いつものレコーダーを構えたまま、冷静にこう呟いていた。
「……佐藤くんの足音、練習前より三倍のデシベル。明らかに『見られること』を意識した歩き方に変わってる。……サンプリングの価値、あり」
「凛、お前は本当にブレないな」
佐々木は苦笑しながら、部員名簿の欄に、新しい名前を書き足した。
――佐藤悠人。
これで、演劇部は正式に四人になった。部員三名という数字は、もうこの部室のどこにも存在しない。
だが、喜びに浸る間もなく、佐々木の脳裏には、あの日の顧問の顔がちらついていた。佐藤が転部を告げた時、顧問は「保健室へ行け」と突き放すように言った、と佐藤自身は語っていた。だが、あの顧問が、本当にそれだけで済ませるとは、佐々木にはどうしても思えなかった。
体育館の裏手、消灯された卓球部の練習場で、顧問がスマートフォンの画面を睨みながら、一人立っていたことを――佐々木も、結衣も、そして当の佐藤本人さえも、まだ知らずにいた。
部室の引き戸を叩く音が、いつもと違った。
「トン、トン……トントン、トン」
「……なんだこの、変にリズミカルなノックは」
佐々木が眉をひそめながら戸を開けると、そこに立っていたのは、卓球部のユニフォームを着たままの佐藤だった。片手には大きな紙袋。もう片方の手には、なぜか分厚いハードカバーの本を抱えている。
「結衣さん、佐々木部長。お願いがあります」
佐藤は妙に芝居がかった、深々とした一礼をした。まるで舞台の上で口上を述べる役者のような所作だった。
「僕を、演劇部に入れてください」
部室の空気が、一瞬止まった。
「……え、いいけど」佐々木は戸惑いながらも先に反応した。「卓球部は? エースだろ、お前」
「辞めてきました」
「辞めてきましたって、簡単に言うけど……顧問、なんて?」
「『僕はピンポン球を打ち返すだけの機械には戻れない。これからは、言葉を打ち返したいんだ』と伝えました」
「重い……その台詞、重すぎるだろ……」
「顧問の反応は、『とりあえず保健室へ行け』でした」
佐々木は思わず頭を抱えた。想像に難くない光景だった。あの体育会系の顧問が、突然そんなことを言い出した部のエースに対して、どう反応すればいいのか分からず、とりあえず保健室送りにする――それはもう、ある意味順当な判断だったのかもしれない。
「あの、それで、その紙袋と本は何?」
結衣が興味津々といった様子で覗き込む。佐藤は誇らしげに、紙袋の中身を見せた。
「プロテインです。声も体も、資本ですから」
「本は?」
「シェイクスピア全集です。演劇をやるなら、まず基礎教養からだと思いまして」
佐々木は、もはや突っ込む気力も湧いてこなかった。ただ、部室の隅で凛が、興味深そうに小さく頷いているのが見えた。
「……本気度は伝わる。悪くない」
「凛まで肯定的なのか」
佐藤は、部室の真ん中に置かれた古い卓球台――今は台本や小道具置き場と化している――の前に歩み寄ると、おもむろに右肩をぐるりと回し、ボキボキと骨を鳴らした。
「卓球台があるなら、ここでも練習はできますね。ただし、これからは『演劇的卓球』を目指したいと思っています」
「演劇的卓球って、なんだよそれ」
「球を打ち返すのではなく、球と対話するんです」
「対話て」
佐々木がツッコミを入れる間もなく、結衣の目が、爛々と輝き始めていた。演出家スイッチが入った、というのが、長年の付き合いで佐々木にもわかる合図だった。
「いいわ! 佐藤くん、あなたのその『何かを演じたい』という熱意、大歓迎よ。まずは、そのラケットを『生き別れた恋人』だと思って抱きしめることから始めなさい!」
「はい、演出家!」
佐藤は本当に、両手でラケットを抱きしめた。傍から見ればただの奇行だが、本人はいたって真剣な顔をしている。
「……なあ、結衣。佐藤くん、剥がしちゃいけないところまで剥がれちゃってないか?」
佐々木は、小声で結衣にだけ聞こえるように尋ねた。あの日、肩甲骨を「解放」したことで、何か別のたがまで外れてしまったのではないか――そんな一抹の不安が、佐々木の胸をよぎっていた。
「いいじゃない」結衣は満足げに頷いた。「あれが、彼の『本当のフォーム』だったのかもしれないわよ。ずっと押し殺されてきた分、出てくる時は極端になる。それだけのことよ」
「極端すぎるだろ、どう見ても……」
そう言いながらも、佐々木は認めざるを得なかった。今の佐藤は、体育館で見た、あの凍りついたような表情の少年とは、まるで別人だった。良くも悪くも、感情が全部、体の外に溢れ出している。
一方で凛だけは、少し離れた場所から、いつものレコーダーを構えたまま、冷静にこう呟いていた。
「……佐藤くんの足音、練習前より三倍のデシベル。明らかに『見られること』を意識した歩き方に変わってる。……サンプリングの価値、あり」
「凛、お前は本当にブレないな」
佐々木は苦笑しながら、部員名簿の欄に、新しい名前を書き足した。
――佐藤悠人。
これで、演劇部は正式に四人になった。部員三名という数字は、もうこの部室のどこにも存在しない。
だが、喜びに浸る間もなく、佐々木の脳裏には、あの日の顧問の顔がちらついていた。佐藤が転部を告げた時、顧問は「保健室へ行け」と突き放すように言った、と佐藤自身は語っていた。だが、あの顧問が、本当にそれだけで済ませるとは、佐々木にはどうしても思えなかった。
体育館の裏手、消灯された卓球部の練習場で、顧問がスマートフォンの画面を睨みながら、一人立っていたことを――佐々木も、結衣も、そして当の佐藤本人さえも、まだ知らずにいた。
これで演劇部は4人になりました。
まぁ増えたところで廃部の危機は去ってませんけどね




