軽くなった体
右肩を回すたび、佐藤悠人はまだ、自分の体が信じられずにいた。
あれから三日。体育館の空気は、あの日を境に、明らかに変わってしまった――ただし、佐々木たちが思っていたのとは、少し違う方向で。
「佐藤! 何だその構えは!」
顧問の怒声が飛ぶ。佐藤は、かつての効率重視だった前傾姿勢を捨て、いつの間にか、妙に芝居がかった仰々しい立ち姿でラケットを構えるようになっていた。
「先生、今の僕にはわかるんです。球を打つんじゃない。球と『対話』するんです」
飛んできた球に対し、無駄に大きく踏み込み、一拍の「溜め」を作ってから、佐藤は渾身のカットを放った。
「行け、僕の孤独よ! ネットという名の境界線を越えて!」
パコォン、と乾いた音を立てて、球は相手コートの隅を鋭く抉った。だが、打った本人はラケットを握りしめたまま、天井を仰ぎ見ている。
「……今の一打、もう少し『絶望』が足りなかったな」
コートの外で見ていた同期の部員たちは、すっかり顔を引きつらせていた。
「佐藤、お前、あれから調子いいのか悪いのか、正直よくわかんねえよ……」
同期の部員が、恐る恐るそう声をかけてくる。悪意はない。ただの困惑と、好奇心と、少しの恐怖が、混ざり合って飛んでくる。それでも佐藤は、うまく笑い返すことができなかった――笑い返す代わりに、なぜか深々と一礼してしまうのだった。
「……まあ、な」
事実、体は軽い。ラケットを振る動作一つひとつが、まるで生まれ変わったかのように滑らかだった。あの日、結衣という女子生徒が自分の肩に指を潜り込ませた瞬間の感触――ゴリッという鈍い音とともに、何かが外れる感覚を、佐藤はいまだにうまく言葉にできずにいる。
だが、体が軽くなった代わりに、心の中には、今まで感じたことのない違和感が居座っていた。フォームまで妙な方向へ変わってしまったのも、その違和感のせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、佐藤自身にもよくわからない。
「調子いいなら、次の大会もエースで行けるな。推薦の件も、これで安泰だ」
顧問が、練習後にそう声をかけてきた。以前と変わらない、期待に満ちた笑顔。だが、その笑顔を見るたびに、佐藤の胸の奥が、じくじくと痛んだ。
――期待という名の、強欲な指の形。
結衣の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。あの瞬間まで、自分の肩を固くしていたものの正体を、佐藤自身、うっすらと気づいていた。だが、それを認めてしまえば、これまで積み上げてきた「エース」としての自分が、根底から崩れてしまう気がして、ずっと目を逸らし続けてきたのだ。
部活が終わり、一人で昇降口へ向かう途中、佐藤はふと足を止めた。
体育館の裏手、誰も使わない渡り廊下の先に、小さな明かりが灯っている。演劇部の部室だった。
窓の隙間から、賑やかな声が漏れ聞こえてくる。
「――だから、凛、あの音源、ちゃんとバックアップ取ったんでしょうね」
「取った。……三重に」
「三重て。心配性にもほどがあるでしょ」
「音は、消えたら戻らない。……人の気持ちと同じ」
「お前ら、また哲学っぽいこと言い出したよ……」
聞こえてくる声には、体育館の中で聞き続けてきた、あの「揃った」空気が一切なかった。誰かが誰かに合わせるでも、誰かの機嫌を伺うでもない。ただ、思ったことを、思ったままにぶつけ合っている。
佐藤は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
「――佐藤くん?」
不意に名前を呼ばれ、佐藤は飛び上がるように振り返った。部室の戸口に、結衣が立っていた。
「な、なんでもない。ただ、通りかかっただけで」
「へえ」結衣は疑わしそうな目をしながらも、それ以上は追及せず、代わりにこう尋ねた。「肩、その後どう?」
「……軽い。信じられないくらい」
「よかった」結衣は微笑んだ。それは、体育館で見せた挑発的な笑みとは違う、もっと柔らかいものだった。「あなたの肩は、剥がした。でも、心の方はどうかしら」
「……どういう意味だよ」
「あなた、期待されるエースを演じるの、疲れてない?」
その一言に、佐藤は言葉を失った。図星を突かれた、というより、初めて誰かに、自分の疲れの正体を言い当てられたような感覚だった。
「――疲れて、ないわけ、ないだろ」
思わず零れた本音に、佐藤自身が一番驚いていた。誰にも――顧問にも、両親にも、部の仲間にも――一度も口にしたことのない言葉が、こんな場所で、こんなにあっさりと出てしまうとは。
「そう」結衣は、それ以上深く踏み込まず、ただ静かに頷いた。「気が向いたら、また覗きに来ればいいわ。ここ、うるさいけど、誰も『正しい笑い方』を強要してこないから」
その言葉に、佐藤の中で、何かがかすかに揺れた。体育館の均質な空気と、この小さな部室から漏れ聞こえる、不揃いで賑やかな声。どちらが本当に息のできる場所なのか、佐藤にはまだ、答えが出せずにいた。
――だが、そんな佐藤の心の揺れを、遠くから静かに見ている者がいたことに、この時の佐藤は、まだ気づいていなかった。
体育館の窓の奥、消灯されたはずの卓球部の練習場に、顧問が一人、スマートフォンの画面を見つめながら立っていた。画面には、無機質な文字列が並んでいる。
『佐藤悠人 対象追跡:演劇部接触を確認』
顧問は小さく息を吐くと、画面をタップし、短いメッセージを打ち込んだ。
『了解しました。引き続き、ご報告いたします』
軽くなった佐藤君の肩は何故か本人を変な方向へ、そして意味深な行動をとる大人…




