解放の儀式
「自由にしてあげる。あなたの翼を」
結衣が佐藤の背後に回った瞬間、佐々木は自分の胃がきゅっと縮むのを感じた。周囲の卓球部員たちも、顧問も、何が起こっているのか理解できないまま、ただ固唾を呑んでこちらを見ている。
「佐々木くん、佐藤くんの腕を掴んで! 凛ちゃん、全開で!」
「な……なんで僕が」
そう言いながらも、佐々木の体は勝手に動いていた。結衣の指示には、なぜか逆らえない何かがある。反論する隙も与えられないまま、佐々木は佐藤の腕をがっちりと掴んだ。佐藤本人は、抵抗するでもなく、ただ茫然とこちらを見ている。まるで、自分の身に何が起きようとしているのか、理解する前にすべてが動き出してしまったかのように。
「凛、頼んだわよ」
指名された凛は、リュックからコンデンサーマイクを取り出し、体育館の床に手早く三脚を立てた。人前に出るのは、本来もっとも苦手なはずだった。だが今、凛の手つきに迷いはない。むしろ、いつもより真剣な横顔をしていた。
凛が手にしていたのは、乾いたパスタの束。二つに分けて、それぞれの手にしっかりと握り込む。
「……サンプリング開始。周波数、最大」
低く呟くと同時に、凛はマイクに向かって渾身の力でパスタをへし折った。
「バキバキバキッ! メキメキッ!」
スピーカーから放たれた音は、単なるパスタの折れる音とは思えないほどの威力を持って、体育館中に反響した。骨が砕けるような、あるいは古い殻が割れるような、暴力的なまでの快音。佐々木は思わず耳を塞ぎたくなったが、佐藤の腕を離すわけにはいかなかった。
「うああああああああああ!」
佐藤が絶叫する。結衣の細い指が、彼の肩甲骨の裏側に、ナイフのように深く潜り込んでいた。
「思い出して! あなたが初めてラケットを握った時の、あの無責任な楽しさを! 期待なんて、ゴミ箱に捨てなさい!」
凛が追い打ちをかけるように、二本目のパスタを折る。氷河が崩壊するような重低音が、床を伝って足元まで震わせた。
佐々木は、自分が握っている佐藤の腕が、細かく痙攣しているのを感じた。痛みなのか、それとも別の何かなのか、判別がつかない。
その瞬間、佐藤の背中から「ゴリッ」という感触と共に、何かが外れた。
「……あ」
佐藤の腕が、まるで重力から解放されたように、勢いよく跳ね上がった。
「軽い……。僕の体って、こんなに自由だったのか……!」
体育館が、一瞬にして静まり返った。誰もが、目の前で起きたことの意味を測りかねているようだった。顧問でさえ、口を半開きにしたまま、言葉を失っている。
佐々木は、握っていた腕をそっと離した。手のひらには、まだ佐藤の震えの余韻が残っている。
「……なあ、結衣。今、何が起きたんだ」
「肩甲骨が、剥がれたのよ」結衣は息を切らしながらも、満足げに笑った。「期待という名の指の形に、ずっと固められてた場所」
「そんな、比喩みたいな話で片付けていいのか、これ……」
佐々木は半信半疑のまま、佐藤を見た。だが本人が、右肩を大きく回しながら、心底驚いたような、それでいてどこか清々しい顔をしているのを見ると、これ以上何を言っても無意味な気がした。
「凛、大丈夫か」
佐々木が振り返ると、凛は両手に、へし折った後のパスタの欠片を握りしめたまま、肩で息をしていた。人前で、これほどまでに派手な音を立てたのは、初めてのことだったのかもしれない。裏方に徹するはずの自分が、今この瞬間だけは、誰よりも目立つ「演者」になっていたことに、凛自身も戸惑っているように見えた。
「……疲れた。でも」
凛は小さく、レコーダーの録音ボタンを確認した。
「録れた。……この音、絶対に無駄にしない」
その横顔には、いつもの怯えとは違う、何か確かな手応えのようなものが浮かんでいた。
顧問が我に返ったように、慌てて周囲に指示を飛ばし始める。練習は中断され、部員たちはざわめきながら、佐藤と、佐々木たちのことを遠巻きに眺めていた。
「……とりあえず、逃げるぞ」
佐々木がそう言うと、結衣は名残惜しそうに佐藤の方を振り返りながらも、素直に頷いた。
体育館を出て、夕暮れの渡り廊下を歩きながら、佐々木はまだ半分も状況を飲み込めずにいた。廃部通告からわずか数日で、自分たちは卓球部のエースの肩を、比喩とも現実ともつかない方法で「解放」してしまった。これから何が起こるのか、想像もつかない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――この一件は、絶対に、これだけでは終わらない。
佐々木の予感は、この数日後、思いもよらない形で現実になることになる。
結衣が佐藤くんの凝り固まった肩甲骨を剥がしてしまいました。
それはもうすごい力で…




