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エースと重圧(呪い)

体育館は、凛にとって最も苦手な場所のひとつだった。


ラケットが球を弾く音、床を擦るシューズの悲鳴、監督の怒声、応援の手拍子――音という音が反響し、増幅し、重なり合って、耳という耳に容赦なく押し寄せてくる。ヘッドホンを深く被り直しても、骨を伝ってくる低い震動までは遮りきれない。


「大丈夫か、凛」


隣を歩く佐々木が、気遣うように声をかけてきた。凛は小さく頷く。大丈夫、というのは嘘だったが、来ないという選択肢もなかった。


「……録りたいものがある。我慢する」


リュックの中には、指向性マイクと予備のレコーダーが入っている。人混みは苦手でも、この耳と、この機材だけは、誰にも譲れなかった。


体育館の扉を開けると、卓球部の練習風景が飛び込んできた。台と台が整然と並び、その間を、生徒たちが一心不乱に球を追っている。まるで、示し合わせたように同じ姿勢、同じ呼吸、同じ掛け声。あちこちから、球がラケットを弾く「パコン、パコン」という乾いた音が、規則正しく響いていた。凛の耳には、その規則正しさすらも「揃いすぎたノイズ」として引っかかった。


「……佐藤悠人。三年、卓球部主将」


凛は小声で呟く。放送部時代に作った、校内の主要な生徒の顔と名前を紐づける癖が、こんな時にまだ役に立つ。


卓球台の前、他の部員よりも一回り体格の良い男子生徒が、渾身の力でラケットを振り抜いていた。だが、その一振りは、ボールを大きく逸らし、隣の卓球台にまで転がっていく。今の一打だけ、他の台から聞こえる「パコン」という澄んだ音ではなく、「べちゃ」という、どこか湿った潰れた音がした。凛の耳が、その違和感を鋭敏に捉える。


「佐藤! またミスか! お前の推薦には、この部の存続がかかってるんだぞ!」


顧問の怒声が、体育館中に響き渡った。佐藤の肩が、びくりと震える。


凛は思わず、耳を塞ぎたくなる衝動を堪えた。怒声そのものよりも、その後に続く沈黙――佐藤が息を呑む、あの一瞬の「無音」の質が、凛の神経を逆撫でした。


「……あれ」


「どうした、凛」


「佐藤くんの右肩……音が、変」


「音? 見た目の話じゃなくてか」


「見た目もおかしい。……でも、それ以上に。今の『べちゃ』って音。あれ、力が入ってないんじゃなくて、逆。力が余計なところに溜まって、球を弾く瞬間だけ、抜けなくなってる。ラケットを振るときの衣擦れの音も、左右で全然違う。右だけ、まるで何かに引っかかってる」


佐々木が目を凝らすと、たしかに佐藤の右肩は、まるで見えない鎧を着せられているかのように、不自然に盛り上がり、固まっているように見えた。


「あれは……」


呟いたのは、いつの間にか隣に来ていた結衣だった。制止する周囲の声を振り切って、いつからそこにいたのか、結衣はすでに、佐藤の卓球台の脇まで足を進めていた。


「佐藤くんの肩甲骨。あれ、誰かの指の形に固まってるわね」


「指の形って……」佐々木が眉をひそめる。


「期待という名の、強欲な指の形よ」


結衣はそう言い切ると、周囲の「危ないですよ」「部外者は下がって」という声を軽やかに無視して、佐藤の立つ卓球台の前へと進み出た。凛はその後ろ姿を、レコーダーを構えたまま見送った。人混みの真ん中に、躊躇なく踏み込んでいける結衣の背中を見るたび、凛は少しだけ――羨ましいような、恐ろしいような、複雑な気持ちになる。


「佐藤くん! あなた、昨夜は何時に寝た?」


突然話しかけられた佐藤は、面食らったように目を瞬かせた。


「えっ……? 十二時過ぎだけど……」


「嘘ね。午前二時。スマホで『肩こり 解消』『イップス 治し方』を検索し続けて、ブルーライトで目が充血してる。そして、お母さんが夜食に持ってきたココアの砂糖の量に、少しだけイラッとしたでしょ」


「な、なんでそれを……!」


体育館中の視線が、一斉にこちらへ集まった。凛は反射的に肩を縮める。人の視線が集まる場所には、いたくない。だが、リュックの中のレコーダーだけは、しっかりとこの瞬間を拾い続けていた。


「お節介の真髄は、生活のノイズを読み取ることよ」結衣は佐藤の目を真っ直ぐに見据えた。「あなたは『いい子』を演じるために、自分の本当の声を喉の奥に押し込んだ。その固まりが、その肩よ!」


佐藤は言葉を失ったまま、右肩を庇うように、わずかに身を捩った。その仕草だけで、結衣の言葉が的を射ていることが、傍で見ている凛にもわかった。


「……凛、録れてるか」


佐々木の問いに、凛は小さく頷いた。


「録れてる。……この音、忘れない方がいい」


体育館の喧騒の中で、佐藤という少年の周りだけが、まるで別の空気を纏っているようだった。整いすぎた掛け声、揃いすぎた笑い声――その中に、たった一つ、不協和音のように軋み続ける肩。凛には、それが誰かに強く握られた「期待」の形そのものに聞こえた。


顧問が慌てて割って入り、結衣たちを下がらせようとする。だが、その一瞬、佐藤と目が合った。すがるような、それでいてどこか救いを求めるような目だった。


「先生、下がってください」


結衣は顧問の制止をやんわりと躱しながら、視線は佐藤から逸らさなかった。


「――やっぱり、今、ここで剥がすしかないわ」


「は? 剥がすって、今この場でか?」佐々木が思わず声を上げる。


「善は急げって言うでしょう」結衣はすでに、佐藤の背後へと回り込み始めていた。「佐々木くん、凛ちゃん。手伝って」


佐々木は、まだ状況を飲み込みきれないまま、結衣の切実な横顔を見た。いつもの飄々とした余裕はなく、何かに突き動かされているような光が、その目に宿っている。凛は無言のまま、リュックの中のレコーダーとマイクに、そっと手をかけていた。


体育館の喧騒の中で、この物語の――そして、あの少年を縛る「呪い」の正体を解く鍵が、今まさに動き出そうとしていた。

キーワードは肩甲骨

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