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ささやかな違和感

昼休みの廊下は、結衣にとって、いつも少しだけ息苦しい場所だった。


正確には、廊下そのものが苦しいわけではない。そこを歩く生徒たちの「揃いすぎた雑音」が、息苦しいのだ。


購買のパンを咥えながら走る生徒。友達と肩を組んで笑う生徒。スマホの画面を覗き込みながら移動する生徒。傍目には、どこにでもある普通の高校の昼休みの光景だった。だが結衣の目には、その一つひとつの動作の「間合い」が、以前よりわずかに均一になっているように映っていた。


――三ヶ月前、去年の冬頃からだ。新学期が始まった今も、それは変わらず続いている。


いつからか、生徒たちの多くが同じ場所で同じように立ち止まり、同じテンポで笑い、同じタイミングでスマホの画面を確認する。凛の言う「アンビエントの変化」というのは、こういうことなのだろう、と結衣は思う。まるで見えない指揮者が、校舎のどこかで拍子を取っているかのようだった。


「結衣、また百面相してるじゃん」


声をかけてきたのは、同じクラスの桜庭千夏だった。バレー部に所属して、もう二年になる。廊下の壁に寄りかかりながら、スポーツドリンクのペットボトルを片手に、呆れたような笑みを浮かべている。


「千夏。右手の指の絆創膏、そのこすれ方、独特ね。使い慣れない道具を、無理に持ってる時にできる跡だわ。……もしかして、本当は左利きなのに、右手でシャーペンを持つ練習をしてるんじゃない?」


「な、なんでそれ……」千夏は目を丸くした。「結衣、エスパーかなんかなの」


「エスパーじゃなくて、ただの観察よ。誰にも、本当は左利きだってこと、知られたくないのね」


「うっ……なんで、そんなことまでわかるのよ」千夏は苦笑いを浮かべながら、右手をそっと後ろに隠した。「結衣のそういうところ、たまに怖いんだよね。付き合い長いから慣れたけど」


「怖がられるのは慣れてるわよ」結衣は肩をすくめた。「レシーブの姿勢、下半身に無理な力が入ってる。膝、そろそろ限界じゃない?」


「……次の練習、ちょっとセーブするわ」千夏はばつが悪そうに笑うと、ペットボトルを軽く掲げて「じゃ、また」と、教室の方へ戻っていった。


入れ替わるように、購買の袋を抱えた一年生が、おずおずと結衣に声をかけてきた。入学式からまだ二週間と経っていない、真新しい制服を着崩し切れていない後輩――田村早苗。新入生歓迎期間中、演劇部の見学に来て、結局は入らなかった生徒の一人だ。


「あの、先輩。今の人と話してるの、ちらっと見えちゃったんですけど……なんか、占い師みたいですね」


「占いじゃなくて、観察よ」結衣は苦笑した。「田村さんは、クラス、もう慣れた?」


「まあ、それなりに……」田村は少し口ごもってから、思い切ったように続けた。「そういえば、先輩。最近、なんか変な感じ…しませんか。うちのクラス、まだ入学して二週間なのにみんな…不思議と同じタイミングで『やばい』って言うし、同じタイミングで笑うし……なんか、私だけみんなとズレてる気がして気持ち悪いんです…」


その一言に、結衣の中で何かが小さく音を立てた。田村は、自分の方がおかしいのだと思い込んでいるらしい。けれど結衣の目には、まるで逆に映っていた。ズレているのは田村ではない。むしろ、周りの生徒たちの方が、不自然なほど「揃いすぎて」いる。入学してわずか二週間の一年生にすら、もうその圧力は及び始めているのだ。


「田村さんがズレてるんじゃないわ。むしろ、周りが揃いすぎてるのよ」


「そうなんですか……? でも」田村は少しだけ悪戯っぽく笑うと、結衣の顔を覗き込んだ。「先輩はもともとズレてそうですけどね」


「それは否定しないわ」結衣は肩をすくめた。「私くらいズレてるほうが、ちょうどいいのよ。……揃わされるくらいなら」


田村はその言葉の意味を測りかねたように小さく首をかしげたが、それ以上は聞かずに、「じゃあ、また」と昇降口の方へ駆けていった。制服の裾を翻しながら遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、結衣は小さく息を吐いた。この「お節介」が、時に相手を居心地悪くさせることは、自分でもよくわかっている。それでも、他人の些細な変化を見逃すことが、結衣にはどうしてもできなかった。


――見逃したら、取り返しがつかなくなることを、知っているから。


その理由の輪郭を、結衣は誰にも話したことがない。佐々木にも、凛にも。話す必要もないと思っていたし、話したところで、過去にあったことが変わるわけでもない。ただ、他人の生活のノイズにだけは、誰よりも敏感でいたかった。それだけが、結衣にとっての、譲れない一線だった。


購買前のベンチに座り、パンを頬張りながら、結衣は凛の話を思い出していた。


「――放送部を追い出された理由、私も詳しくは聞いたことないな」


昨日、部室でぽつりと呟いた凛の過去について、佐々木も詳細は知らないらしい。噂によれば、凛は昼休みのたびに校内のあちこちにレコーダーを仕掛け、休み時間の環境音を記録して回っていたのだという。放送部の顧問がそれを問題視し、「盗聴めいた真似はやめろ」と注意したが、凛は「盗聴じゃない、記録」と言い張り、最終的には部を追われた――というのが、結衣の聞いた限りの経緯だった。


けれど結衣は思う。凛が集めていたのは、きっと「音」そのものではない。音の向こうにある、誰かのノイズだ。結衣が仕草や検索履歴から本音を読み取るように、凛は音の震えから、誰にも言えない何かを聞き取っている。似た者同士が、たまたま演劇部という小さな箱に流れ着いた――それだけのことなのかもしれない。


「結衣、こんなとこにいたのか」


声をかけてきたのは佐々木だった。片手に購買のコッペパンを持ち、もう片方の手には、いつもの大学ノートが挟まれている。


「佐々木くん、また新しいノート買ったの?」結衣がノートに目を留めて言った。


「べ、別に、そういうわけじゃ」佐々木は慌ててノートを鞄にしまう。「それより、聞いたか? 卓球部の噂」


「噂?」


「エースが、最近調子悪いらしい。春季大会の壮行会、あったろ。あの時から様子がおかしいって、クラスの奴が言ってた」


結衣の脳裏に、昨日見た新聞記事の写真が蘇る。目には力が入っているのに、口角だけが不自然に固まった、あの笑顔。


「――やっぱり」


「やっぱり、って?」


「ねえ佐々木くん。あの子の肩、私、放課後見ておきたいんだけど」


「肩? なんで肩なんだよ」佐々木は首を傾げた。調子が悪いなら、フォームとかメンタルとか、もっとそれらしい理由がありそうなものなのに、結衣はいつも、誰も注目しないような部分から切り込んでくる。


佐々木は溜め息をつきながら、コッペパンの最後の一口を頬張った。


「……お前がそう言うと、だいたい面倒なことになるんだよな」


「面倒なことになるってわかってて、放っておけないから、お節介って言うのよ」


結衣はそう言って、購買袋を握りつぶすと立ち上がった。廊下の向こうから、また、あの均一な笑い声が響いてくる。その中に混じっているはずのない、佐藤という少年の不協和音を、結衣はもう聞き分けられる気がしていた。


「放課後、体育館。凛にも伝えておいて」


「了解……なんで俺が伝令なんだよ」


ぼやく佐々木の声を背に受けながら、結衣は昼休みの廊下を、一人で歩き出した。

結衣の過去にも何かありそうですね

次回は卓球部を掻き回します

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