エピローグ
あれから詩織は時々、僚とともに夜の集まりにも参加するようになった。
きっかけは、彼らに聞きたいことがあったからだ。
僚の腕にはいつのまにか浅いけれども肩から肘かけて長い傷がついていて、何度も理由を聞いたが、話をそらされた。
どうやら保達は何か知っているようで、何度も聞き出そうとしても、皆、口を揃えて「愛情のしるしじゃない?」という以外、何も教えてくれない。
そして色々な集まりに参加するうちに、いつの間にか、詩織は愛美との言い合いにすっかり慣れてしまった。
「僚ちゃんの相手って大変じゃありません?」
「変わってあげましょうか?1週間もたず根を上げることでしょうね。」
「また僚ちゃんたら口説かれてましたよ。」
「あなたの言葉は鵜呑みにしないようにしてるの。前回の中国出張のこと、あなた本当は何もしらなかったんでしょ?同じ手には引っかからないわよ?」
「さて、何の話だか…?」都合が悪くなると、しらを切りとおす彼女の携帯がなる。
「その前にあなたが旦那様に捨てられたりしてねぇ。」詩織がつぶやいた。
愛美はぎっと睨みつけながら、電話をとるとやたら小さな声で話し始めた。どうやら会話をあまり聞かれたくないらしい。
「わかってるわよ。今から帰る…。だから、むかえに来て…。」
愛美は、旦那にこれ以上好き勝手やるなら別れるととうとう宣言されたらしい。それからこうしてコールがあると帰っていく。
「ホラ噂をすればなんとやらね。私の事ばかり気にかけてないで、自分の旦那様の心配をするのね。」
詩織はにっこり笑い、わざとらしく真っ白なハンカチをヒラヒラと振った。
すごすごと愛美が退散したあと、僚と詩織は二人でカウンターの席に腰掛けた。
「前から一度聞きたかったのだけど、どうして愛美さんと仲がいいの?」
あまりの単刀直入な質問に僚は思わず苦笑した。
すっかり以前のようななんでもいい会う仲に戻っていた。そんなあけすけな詩織の態度は、僚にとって嬉しいものだった。
「愛美は俺と似てる。あいつは一見いやな女に見えるだろうが、一度信じると決めたやつには、とことん信じる女だ。昔、盗難事件が起きたことがあった。慶介と保しかその場にいなかったから、誰もが二人を疑ったが、愛美は真っ先に違うと言い張った。結局はそいつが車の中においてきただけだったんだけどな。
俺達の事だって、別れることなど絶対にないと、あいつ1人は言い切ったらしいぞ。お前が保とできるなんて事や、俺がメイファンに走る事など、絶対にないと断言してくれたそうだ。…お前さえ、俺を信じなかったのにな。」
チクリとイヤミを言われて詩織はプイとそっぽを向いた。
「悪かったわよ。」
「だからあいつとは、なんとなく長い付き合いなんだ。」
「もしかして愛美さんを好きだったことがある?」
「全くそんな感情もない。愛美とお前とは共通点が何一つない。だから目がいくはずがない」
「じゃあ、前の妻とも私は似てるの?」
「あれは完全にしてやられた。あいつだけは違ったな。だから、失敗したんじゃないか?」
ふと携帯がなり、電話をとる。中国に出張中の部下の山下からだった。
「もう、どうしていいか…」べそべそと弱音を吐く山下に、僚は聞き取りにくい騒がしい店内から隅へ移動してあれこれと話こむうちに、1人になった詩織に酔っ払った男が声をかけてきた。
その男はちらりと左手を見て、指輪がないのを確認すると、
「さっきからきれいな人だなぁ、と思って見てました。少しお話する時間をいただけませんか?」
とやたら馴れ馴れしく話しかけてきた。
いつものようにやり過ごそうとした詩織に、その男は強引に詰め寄ってきた。その様子に気づき通話したまま駆け寄ろうとした僚より前に、保がすっと横にはいってきた。
「詩織ちゃん、君の旦那が機嫌がまた悪くなってるよ。」
男はそのセリフですぐに詩織から身を話した。
「あ、え…?人妻…?そりゃ失礼。」さっさと消えていった。
結婚指輪をはめた僚は、女性からのお誘いの声がぐんと減り、逆に指輪をはめておらず、最近美しさをました詩織には、ますます男達に声をかけられるようになった。
僚は以前にもまして、嫉妬深い男になったことを自分でも認めざるをえないほどになっていた。
「保さん、いつもありがとう…ところでね、やっぱりあの名義の件なんだけど…」
その言葉にぷうと保の声が膨らむ。
「離婚したらねっていったんじゃん。別れてないから教えない。」
今回もうまく聞き出せなかったか、と思った瞬間詩織の携帯がなった。保に一礼して「もしもし…?」と電話にでた。
今度は電話を切った僚が保の元に駆けつけてきた。
「おい保、ありがとな…ところで、何度もいってるが、あの代金を払わせてくれないか?」
またもやぷううと保の頬が膨らむ。
「僕からのつぐな…いいや、プレゼントだからいいって言ったじゃん。いいから受け取ってよ。」
じゃあねぇ、と手をふり戻っていった。相変わらず彼の周りにはたくさんの女がいる。
しかし以前のように遊び相手としてあちこち手を出すような事はしなくなったらしい。
すると電話を終えた詩織が僚に歩み寄ってきた。
「ごめんなさい、明日の日曜の休み、なくなちゃったの。お子さんが熱だしたパートさんから、代理で出勤頼まれたの。だから予定はキャンセルね。」
「おいおい、ようやくとれた二人での休みなんだぞ!」
「仕事なんだから、仕方ないじゃない?あら、これどこかで聞いたような…。いえ、違うわ、あなたから言われたセリフよね。」
またもや僚は言い返す言葉がなかった。あの一回目の離婚届の言い合いで、まさに詩織に放ったセリフだったから。
結局のところ、なにか変わったようで変わっていない生活だった。二人はせいぜい一ヶ月に1度、一緒にいれたらいいほうだった。
それでもなんだか幸せそうな様子の詩織に、僚は不思議で仕方なかった。
翌朝、詩織は台所にたって夫の朝食を用意しながら、彼の言葉を思い出し、くすくすと笑っていた。
「日に日にお前がどうしてほしいのかわからなくなっていくぞ」
これこそ、私と同じ台詞じゃないの…
でも今はこれでいい。生活がすれ違っていたっていいの。心さえすれ違っていなければ。
私にはもっと強くなる事が必要だし、そのために1人で充実した時間を過ごす事も必要なのよ。
でもそんな事、教えてあげない。そうして私だけをずっとみていてほしいから。
きっとどんな生活も考え方次第なんだわ。
僚が起きてきて、納得しない様子で、話しかけてきた。
「やっぱり仕事にいくのか?」
「もちろんよ、朝食は作って置いたわ。」エプロンをはずし、そそくさと仕事に行く準備をする。
「なあ、こんなすれ違った生活で、俺達は大丈夫か?お前は満足か?」
夫に後ろから抱きしめられ、詩織はその広い腕と胸にそっと身体を預けた。
そして、詩織はふりむくと、満足そうに微笑んで、そっと夫のほおにキスをした。
「…こんなすれ違った結婚でも、私は今、充分に…幸せよ。じゃあ、行ってきます!」
その笑顔は誰よりも美しく、輝いていた。
fin.