第9話 マドンナの誘いと、新たな目的地への期待
ゴールデンウィーク後半のキャンプが終わり、日常へと引き戻された昼下がりのこと。
僕は大きなバックパックを背負ったまま、自宅のリビングの扉を開けた。
「あ、お帰り、お兄ちゃん」
ソファに深く体を沈め、気だるげに足を投げ出しながら、妹の七柰がスマホの画面を親指で高速スライドさせていた。その手にはしっかりとポテトチップスの袋が握られている。
「ただいま。七柰、お前なぁ、その姿勢は行儀が悪いぞ。せめて足をソファから下ろしなさい」
「いいじゃん、家なんだから。固いこと言わないの。それより、お兄ちゃん。GWのキャンプはどうだったのよ? なんかやけに楽しそうに帰ってきたけどさ」
僕がリビングの椅子に荷物を下ろして一息つくと、七柰はポテチをつまんでいた手を止め、興味津々な目を向けてきた。
「あぁ、すごく楽しかったよ。琵琶湖の景色は絵画みたいに綺麗だったし、みんなで作って食べた食事もびっくりするほど美味しかった」
「ふーん……。それに、可愛い女子大生たちと一緒にすごして、夜は満天の星空の下でキャッキャウフフ……って、完全にお兄ちゃんだけのハーレム状態だったわけね」
からかうように言う七柰に、僕は思わず苦笑してツッコミを入れる。
「おい、失礼な妄想をするな。彼女たちはそんなんじゃない。本当に純粋にキャンプを楽しんでるんだよ」
「はいはい、そういうことにしといてあげる。でも、綺麗な景色に美味しいご飯かあ……。お兄ちゃんがそこまで夢中になるキャンプ、ちょっとだけ私も興味あるかも」
七柰はどこか羨ましそうな表情を浮かべた。普段はインドア派で、休日は部屋でアニメを見たりゲームばかりしている彼女がキャンプに興味を示すなんて珍しい。
「お前もやってみるか? サークルの連中に言えば、お前なら間違いなく大歓迎してくれると思うぞ。みんな面倒見がいいしね」
「うーん……でもさ、キャンプってお金がかかるんでしょ? テントとかシュラフとか、一式ちゃんとしたの揃えようとしたら、私のお年玉貯金が根こそぎ消えちゃいそうだし……そこが一番のネックなんだよね」
確かに、ゼロからすべての道具を買い揃えようとすれば、学生の財布にはなかなかの痛手になる。七柰が躊躇するのも無理はなかった。
「それなら心配いらないさ。正樹叔父さんが持っているキャンプ道具の余り、貸してくれるんじゃないか? お前がアウトドアを始めるって言えば、あの叔父さんのことだから、きっと大喜びですぐに貸し出してくれると思うぞ」
僕のキャンプ好きの血は、父親の弟である正樹叔父さんから色濃く受け継がれている。叔父さんは昔からキャンプギアの収集が趣味で、倉庫には使っていないテントやランタンが眠っているはずだった。
「あ、その手があったね! 正樹叔父さんなら、頼み込んだらピカピカのやつを快く貸してくれそう。それじゃあ、後で叶姉さんにLINEで連絡して、道具の在庫があるか聞いてみるよ」
「そうしな。もし道具が借りられたら、次の機会にサークルの皆にも紹介してやるよ。うちの妹がキャンプデビューするってなったら、宇都宮さんたちもきっと喜ぶはずだ」
「うん、なんだか面白そう! ちょっと前向きに考えてみようかな」
七柰はパッと表情を明るくさせ、さっそくスマホをいじって叔父の娘である叶姉さんへのメッセージ文面を考え始めた。
そんな妹の様子を見届けながら、僕は妹も加わるとしたら、さらに賑やかになるなと楽しい気持ちになった。
§
ゴールデンウィークの楽しい余韻がまだどこかに残っている中、大学の講義室には再び日常のざわめきが戻ってきていた。
キャンパスの並木道を通る風には少しずつ初夏の陽気が混じり始め、学生たちの装いも軽やかになっている。講義棟の大きな窓から差し込む午後の柔らかな光の中、僕は指定された座席に腰を下ろしていた。
「お疲れ様、水守君!」
弾むような明るい声を響かせながら、隣の席にストンと腰を下ろしたのは宇都宮さんだった。その栗色のミディアムボブが軽やかに揺れ、彼女の纏う爽やかな雰囲気が周囲の空気をパッと明るくする。
「お疲れ様、宇都宮さん。連休はしっかり疲れが取れた?」
「うん、もうバッチリ! それにしても、楽しかったよね。あのキャンプの余韻がすごすぎて、午前中の講義中もずっと琵琶湖の景色を思い出してニヤニヤしちゃってたよ」
そうやって宇都宮さんと楽しそうに笑い合っていると、ふっと上品な気配が近づいてきた。 顔を向けると、そこには先日までのキャンプですっかり仲良くなった更科美怜さんの姿があった。
その艶やかな黒髪のロングヘアが絹糸のように揺れ、整いすぎた顔立ちには涼やかな美しさが宿っている。彼女はちらりと周囲を気にしたあと、静かに僕たちの席のすぐ近くへと歩み寄ってきた。
「あの……水守君、宇都宮さん。先日は、本当にどうもありがとう。すっかりお世話になっちゃって」
更科さんは少しだけ頬を朱に染めながら、しおらしさを含んだ声で頭を下げた。以前の彼女なら、学園のマドンナとして誰とも群れず、他者を寄せ付けない冷ややかなオーラを放っていたはずだ。
けれど、あの湖畔の夜、そして美味しいすき焼きを共に囲んだ経験は、彼女の心の壁を確実に溶かしていた。
「更科さん! おはよう! 先日は本当にびっくりしたんだからね。でも、一緒にご飯食べられてすっごく楽しかったよ!」
宇都宮さんは嬉しそうにパッと手を叩き、更科さんの隣の空席をポンポンと軽く叩いて誘った。更科さんは少し照れくさそうに微笑みながら、その席に腰を下ろす。
「私も最初はまさかあんな風にキャンプに巻き込まれるなんて思っていなかったけれど……今となっては、参加して本当に良かったって思ってるわ」
更科さんが柔らかく微笑む。
「六ッ矢崎浜でのキャンプ、本当に楽しかったよね。今思い出しても最高だったな」
僕がその気持ちを口にすると、宇都宮さんは大きくうなずいた。
「うん! 本当にそう。景色もため息が出るほど綺麗だったし、何よりあの近江牛のすき焼きが美味しすぎて、私の料理人生の中でも五本の指に入る大成功だったもん!」
「私も……あの朝の景色と、温かいホットサンドの味、一生忘れないと思う。自然の中で食べるって、あんなに特別なことなんだって初めて知ったわ」
更科さんもマグカップでコーヒーを飲むような仕草をしながら、しみじみと当時を振り返る。
三人がそれぞれの言葉で前回のキャンプを懐かしんでいると、自然と会話のテーマは次の展開へとシフトしていった。
「ねえ、こうして話してるとさ、もう次のキャンプに行きたくてウズウズしちゃいんだけど……更科さんはもう次の予定とか考えてる?」
宇都宮さんが目を輝かせながら更科さんを見つめる。
「実はね、私、次のキャンプは、少し趣向を変えて『温泉に入れるキャンプ場』がいいなと思って、講義の合間にネットでいろいろ調べてみたの。それで、『あやべ温泉キャンプ場』っていうところに目星をつけてるのよね」
更科さんが名前を出すと、僕は「あそこか」と小さくうなずいた。
「あやべ温泉の敷地内に隣接している、自然豊かなキャンプ場だね。キャンプで思いっきり汗をかいたあとに、すぐ本格的な温泉に入れるなんて、最高の贅沢じゃないか」
僕が知識を披露すると、宇都宮さんは両手をパンと合わせて歓声をあげた。
「温泉、いいよねーーっ! 最高すぎる! キャンプのあとに、広いお風呂で手足を思いっきり伸ばしてさっぱりできるなんて、想像しただけで天国なんですけど!」
「そうよ、温泉の露天風呂に入りながら、夜空の星を眺めるなんてロマンチックじゃない?」
その言葉を聞いた宇都宮さんは、さらにテンションを跳ね上がらせて身を乗り出した。
「ねえ、更科さん! それならさ、そのあやべ温泉キャンプ場に、『星キャン』の皆で一緒に行かない!?」
「『星キャン』っていうと……確か、私が参加するように勧められた、あなたたちのサークルよね?」
更科さんが小首を傾げると、宇都宮さんは力強くうなずいた。
「そうそう! 更科さんももう大切なそのメンバーの一人なんだからね。今度の休みに、みんなでスケジュール合わせて行こうよ。絶対に楽しい思い出になるからさ!」
宇都宮さんの熱烈なアプローチに、更科さんは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと柔らかく魅惑的な笑みを浮かべた。
「そうね……。じゃあ、今回はソロキャンプじゃなくて、みんなと一緒にグループでのキャンプにしてみようかしら。なんだか、そっちの方が楽しそうだし」
「やったーーっ!! 更科さんも一緒だなんて、今回のキャンプも大盛り上がり間違いなしだね!」
宇都宮さんが嬉しさのあまり両手をパッと広げ、隣に座る更科さんの肩を軽く揺する。更科さんもまんざらでもなさそうな表情で、静かに微笑み返している。
「決まりだね。それじゃあ、今回の食事のメニューはどうするの? 姫子シェフ、また腕を振るってくれるんでしょ?」
僕が振ると、宇都宮さんは鼻を高くして、自分の胸をドンと叩いてみせた。
「ふふん、任せなさいって! 前回のすき焼きを超えるような、もっと美味しくてみんなの舌をうならせちゃうようなスペシャルメニューを今から厳選中なんだから! 期待しててよね!」
「うん。すごく楽しみにしてるわ。でも期待外れだったら、温泉の水風呂に五分間浸かってもらうから」
更科さんが冗談めかしてクールに微笑むと、宇都宮さんは「えー、それプレッシャーすごいんだけど!」と大げさに両手で頭を抱えてみせる。
講義の始まる予鈴が鳴り響くまでの間、僕たちの周りには、新しいキャンプへの期待と、かけがえのない仲間たちとの弾むような笑い声がいつまでも心地よく響き渡っていた。




