第8話 琵琶湖の朝焼け、とんちゃんホットサンドと新たな絆の始まり
静寂に包まれた滋賀・高島市の夜がゆっくりと白み始め、夜の帳が青みがかった朝の気配へと溶けていく。
ゴールデンウィークの早朝、ひんやりと冷えた琵琶湖の空気は、肌を刺すような心地よさと同時に、新しい一日の始まりを告げる清々しさに満ちていた。
昨夜、眠りにつく前に「明日はみんなで早起きして、琵琶湖から昇る最高の日の出を見ようね」と示し合わせていた約束通り、僕は午前四時半過ぎにそっと寝袋から這い出た。
周囲のテントからはまだ寝息が聞こえるか聞こえないかという静けさの中、キャンプ用のシングルバーナーを取り出し、チタンのクッカーに新鮮な水を注いで火を点ける。
青白い炎が静かに揺らめき、やがてコポコポと優しい沸騰の音が響き始める。ドリッパーに挽きたての豆をセットし、ゆっくりとお湯を落とすと、香ばしいコーヒーの芳醇なアロマが朝の冷たい空気にふわりと広がった。
「……ん、いい匂い。水守君、おはよ」
テントのジッパーがシャラリと小気味いい音を立てて開き、眠気眼をこすりながら最初に姿を現したのは宇都宮さんだった。
防寒着として厚手のパーカーを羽織っている。その少しボサッとしたミディアムボブが、いかにも朝起き抜けの学生らしくて妙に愛らしい。
「おはよう、宇都宮さん。ちょうど今、お湯が沸いたところだよ。温かいコーヒー淹れるから、少し待ってて」
「わぁ、生き返る〜。朝のコーヒーの匂いって、なんでこんなに幸せな気持ちになるんだろ」
フーフーと息を吹きかけながら温かいカップを両手で包み込む宇都宮さんに続いて、少し遅れて桐嶋さんと永澤さんもテントから顔を出した。
桐嶋さんは銀縁眼鏡の奥の目を細めながら「おはよう、朝の空気ってこんなに澄んでいたのね……」と深く深呼吸をし、永澤さんは「さ、寒いですけれど、すごく気持ちいいですね……!」とパステルピンクのウィンドブレーカーのジッパーを首元までしっかりと引き上げた。
そして、少し離れたところにあるソロ用テントからも、シャラリと布擦れの音が小さく響く。
目を向けると、昨日から僕たちの輪に加わった更科さんが、きちんとうがいを済ませてすっきりと整った表情で歩いてきていた。
「おはよう。みんな、早いのね」
「更科さんもおはよう! ほら、みんなで一緒に日の出を拝もうよ!」
宇都宮さんが嬉しそうに手招きすると、更科さんは少しだけ照れくさそうに微笑みながら、僕たちの側にそっと歩み寄ってきた。
僕たちはそれぞれにマグカップを手に持ち、湖畔の波打ち際へと並んで腰を下ろす。
その目の前には、息をのむほどに圧倒的な自然のショーが広がっていた。
この時期の琵琶湖は、早朝になると湖面から薄っすらと朝霧が立ち込め、東の空や対岸の山々がゆっくりと茜色に染まっていく、息をのむような美しい景色が広がる。
漆黒だった夜空のキャンバスが、群青色から淡いラベンダー色へ、そして鮮やかなオレンジから黄金色のグラデーションへと、刻一刻と表情を変えていく。波のない穏やかな湖面は巨大な鏡のようになり、その空の色彩を寸分違わず完璧に映し出していた。立ち上る薄い朝霧が日の光を浴びて、まるで金色のヴェールのようにふわりと揺らめいている。
「……わぁ……」
永澤さんが両手で口を押さえ、あまりの美しさに言葉を失う。
「すごい……。言葉が出ないくらい、綺麗……。こんな景色、テレビとか写真でしか見たことなかった」
宇都宮さんはコーヒーカップを持ったまま、瞬きするのも忘れたように東の空をじっと見つめている。
桐嶋さんも眼鏡の奥の瞳を潤ませながら、「本当に……。昨日の夜空の星たちといい、この琵琶湖の朝焼けといい、自然って時々、人間の想像を遥かに超える芸術を見せてくれるのね」としみじみと呟いた。
そして、いつもはクールで感情を表に出さない更科さんも、その圧倒的な光景を前にして、思わずといった様子で目を丸くし、そっと息を呑んだ。
「……うん、すごく綺麗。なんていうか、心の奥がすーっと洗われるような……そんな気分になるわね。ここに来て、本当によかった」
更科さんがぽつりと零したその素直な感想に、僕たちは顔を見合わせ、自然と温かい笑みを交わし合った。
やがて、対岸の山々の稜線から、眩い太陽の光が一筋、ピカリと顔を覗かせた。
黄金色の陽光が一斉に湖面を駆け抜け、僕たち四人の身体を優しく包み込む。朝の冷え切った空気が、太陽の温もりによって少しずつ緩み始めていく。最高の朝の幕開けだった。
「──さて!」
日の出の余韻に浸りながらも、お腹の虫がキュルリと鳴ったのか、宇都宮さんが両手をパンと叩いて急にシャキッとした姿勢に戻った。
「景色も堪能したことだし、そろそろお腹がペコペコだよ! 昨日の夜に引き続いて、今朝の朝食もこの私が腕を振るって最高のモーニングを作っちゃうんだから!」
そう言って、宇都宮さんはテキパキと動き出し、昨夜のうちにクーラーボックスに入れておいた食材や調理器具をテーブルの上に並べ始めた。
その手際の良さに、永澤さんが興味深そうにトコトコと近づいていき、覗き込みながら声を上げる。
「わぁ、すごーい! 姫子さん、今日の朝ごはんは一体何を作るんですか?」
「ふふん、今朝のメニューはね、これだよ!」
宇都宮さんが得意げに掲げたのは、滋賀県高島市の名物として知られる鶏肉の味噌ダレ漬け──「とんちゃん」をイメージした食材と、たっぷりの新鮮な地元野菜だった。
「今朝のメインはね、高島名物『とんちゃん』風アレンジホットサンドと、地元野菜のゴロゴロコンソメスープだよ!」
「とんちゃん風のホットサンド……!? そんなの絶対美味しいに決まってます……!」
永澤さんが目をキラキラさせ、まるで子どものようにはしゃぎながら材料の入ったパックを指でツンツンとつつく。
「いい匂いがしてきたわね」
「更科さんももちろん一緒に食べるよね?」
「うん、お邪魔じゃなければぜひ。お手伝いできることがあったら言ってね」
「お手伝いなんてとんでもない! お客様なんだから、美味しいものをただ待ってて貰えばいいんだよ!」
宇都宮さんはそう言うと、早速シングルバーナーに火をつけ、調理をスタートさせた。
まずは、ホットサンドメーカーの上下の鉄板にバターをたっぷりと塗り込み、食パンを綺麗にセットする。その上で、甘辛い味噌ダレに漬け込まれた鶏肉をフライパンで香ばしく炒め上げていく。ジューッという香ばしい食欲をそそる音が響き渡り、味噌とニンニクの濃厚な香りが周囲の空気に一気に広がった。炒めた鶏肉を、シャキシャキのキャベツと一緒に食パンの間にたっぷりと挟み込み、ずっしりと重みのあるホットサンドメーカーでしっかりとプレスする。
バーナーの火加減を調節しながら、両面がこんがりと美しいキツネ色になるまでカリッと焼き上げていく。
数分後、パカッと鉄板を開いた瞬間、サクッという心地よい音とともに、香ばしいバターと甘辛いとんちゃんの絶妙な匂いが爆発的に広がり、僕たちは思わず「うわぁ……!」と歓声をあげた。
それと並行して、もう一つのコンロではスープの準備が進められていた。
深めのクッカーにたっぷりの水を張り、一口大にゴロゴロと贅沢に切った地元の新鮮野菜──ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、そしてジューシーなウインナーを次々と放り込み、固形コンソメをポンと投入して火にかける。
あとは蓋をして、じっくりとコトコト煮込むだけだ。野菜が柔らかくなるにつれて、コンソメの優しいスープに素材の旨味がしっかりと溶け出し、湖畔のひんやりとした朝の空気に染み渡るような、温かくて極上のスープが完成していた。
「お待たせしました! 高島名物『とんちゃん』風アレンジホットサンドと、地元野菜のゴロゴロコンソメスープの完成でーす!」
宇都宮さんが満面の笑みで宣言すると、僕たちはそれぞれに出来立てのホットサンドとスープを受け取り、焚き火の周りに並べられたチェアへと腰掛けた。
全員がきれいな円の輪を作るようにして座り、湯気の立ち上る朝食を目の前にして、自然と笑みがこぼれる。
「それじゃあ、みんな揃ったことだし……いただきまーす!」
宇都宮さんの合図とともに、僕たちは一斉に出来立てのホットサンドにかぶりついた。
「んんーーっ……!! 美味しいっ!!」
宇都宮さんが両手で自分の頬を押さえながら、たまらないといった表情で声を弾ませる。
「本当です……! 外側のパンがカリッカリに焼かれていて、中のバターの風味と、この甘辛いとんちゃんのジューシーな鶏肉、それにシャキシャキのキャベツの食感が完璧にマッチしてる……! 朝からこんな贅沢なホットサンドが食べられるなんて幸せすぎます……!」
永澤さんはリスのように両頬をパンパンに膨らませながら、夢中で次の一口へと手を伸ばしている。
桐嶋さんも、眼鏡の奥の瞳を満足そうに細めながら、ゆっくりと味わうようにうなずいた。
「ええ、本当に絶品よ。ピリッと効いた味噌ダレのコクが淡白な鶏肉にしっかり染み込んでいて、ボリューム満点なのに全然しつこくないわ。朝からすごく元気が湧いてくる味ね」
そして、更科さんも、ホットサンドを一口食べた瞬間、その整った美しい瞳を大きく見開いた。
「……っ。これ、すごく……美味しい……。キャンプの朝って、もっと簡素なパンか何かで済ませるものだと思い込んでいたけれど、こんなに温かくて手の込んだ食事が野外で食べられるなんて、なんだか感動しちゃうわね」
更科さんが少しだけ表情を緩ませてそう呟くと、宇都宮さんは鼻を高くして得意げに胸を張った。
「でしょでしょ! 私の料理の腕前を舐めてもらっては困るんだからね! さらに、このスープも飲んでみて!」
促されるまま、私たちはマグカップに口をつけ、地元野菜のゴロゴロコンソメスープを一口すする。
「はぁ……あったかい……」
永澤さんが思わずといった様子でため息を漏らす。
ひんやりと冷え切った朝の湖畔の空気の中で、じっくり煮込まれた野菜の甘みと優しいコンソメの塩気が、胃の腑からじんわりと染み渡っていく。ゴロゴロと入ったジャガイモやニンジンはスッとフォークが通るほど柔らかく煮込まれており、一口ごとに自然の恵みの深さが感じられた。
「このスープ、すごく優しい味ね。昨夜のすき焼きとはまた違った方向性で、朝の冷えた体にすっと染み込んでいくわ……。野菜の旨味がこれでもかってくらい溶け出していて、本当に美味しい」
桐嶋さんがスープの入ったマグカップを両手で優しく包み込みながら、しみじみと語る。
「うん、本当に最高だね。宇都宮さん、昨日のすき焼きに引き続き、今回の朝食も大成功間違いなしの完璧なチョイスだよ。ごちそうさま」
僕がそう伝えると、宇都宮さんは「へへーん、お褒めに預かり光栄です!」とすっかり満面の笑みを見せた。
こうして、琵琶湖の壮大な日の出を眺めながら、皆で円になって囲んだ朝食の時間は、言葉では言い表せないほど温かく、かけがえのない贅沢なひとときだった。
この大自然の中で同じ釜の飯を共に囲み、同じ景色を共有したことで、魂の距離がぐっと近づいたような確かな連帯感が生まれていた。
朝食を美味しく平らげたあとは、驚くほどゆったりと穏やかに流れていった。
チェアに腰掛けながら昨日までの出来事を振り返って他愛のないおしゃべりをしたり、時折吹き抜ける晩春の風を感じながら、それぞれのペースでまったりとした時間を満喫する。
更科さんも、僕たちのところへやってきて、文学部の講義の裏話や、次に挑戦したいキャンプギアの話題について楽しそうに言葉を交わしていた。彼女のその柔らかく自然体な笑顔を見るたびに、このサークルに彼女が加わってくれたことは、本当に素晴らしい奇跡だったんだなと改めて実感させられる。
やがて、時計の針は正午へと近づき、チェックアウトの時間が刻一刻と迫ってきた。
「さあ、名残惜しいけれど……そろそろ本格的に最後の撤収作業を始めないとね!」
桐嶋さんの凛とした声かけを合図に、私たちは一斉に動き出した。
自分たちの手で苦労して建てたドーム型テントのフライシートを外し、ポールを丁寧に関節から抜いて折りたたみ、専用の収納バッグへと綺麗に収めていく。ペグも一本残らず地面から引き抜き、泥をきれいに拭き取ってからペグケースにしまい込む。
テーブルやチェアもコンパクトに折りたたみ、クーラーボックスや調理器具と共に、それぞれの大きなバックパックへと隙間なくパッキングしていった。
ゴミの分別も管理人さんから渡された専用袋に従って完璧に行い、私たちが使っていたキャンプサイトの区画は、来たときよりも美しく、何も痕跡を残さないほどピカピカの状態に磨き上げられた。
「よし、これですべての撤収作業、完璧に完了!」
宇都宮さんが大きなバックパックをしっかりと背負い直し、両手を腰に当てて達成感に満ちた笑顔を浮かべる。
僕たちは綺麗に整えられた『六ッ矢崎浜オートキャンプ場』の芝生サイトを振り返り、名残惜しさを胸に抱きながらも、管理人さんにお礼の挨拶を告げてキャンプ場を後にした。
帰り道のバス停へと続く砂利道を歩きながら、ふと空を見上げると、昨日からずっと私たちを優しく見守ってくれていたかのような快晴の青空が広がっている。
背中にずっしりと心地よい重みを感じるバックパックの中には、たくさんの笑顔と、忘れられない美しい景色、そして何よりも大切な仲間たちとの強い絆がぎっしりと詰まっていた。
こうして、僕たち『星空トーク会・キャンプ部』の初めての本格的なキャンプは、大成功のうちに幕を閉じたのだった。




