第7話 湖畔の夕暮れ、マドンナの乱入と絶品すき焼き
暮れなずむ空が茜色から深い群青へと移り変わるころ、『六ッ矢崎浜オートキャンプ場』の芝生サイトには、あちこちで小さな灯りがともり始めていた。
静かな湖面を渡る風は少しだけ冷たさを増しているけれど、僕たちが力を合わせて設営したドーム型テントの脇には、すでに薪が積み上げられ、今夜の宴の準備は万端に整っていた。
「それじゃあ、そろそろ夕食の準備を始めるよ。今夜の献立は、ドゥルルルルル……」
宇都宮さんが、まるでテレビの司会者のようにもったいぶったセルフドラムロールを口ずさみながら、満を持して高らかに宣言した。
「ジャジャーン! なんと──すき焼きだよ!」
うん、知ってた。
心の中で密かにそうツッコミを入れた僕をよそに、宇都宮さんは「な、なんですとー!」と自分で自分に驚いて見せたあと、「ふふん。驚いたでしょう? まさかキャンプですき焼きをするとは予想だにしなかったみたいだね」と、これでもかとばかりのドヤ顔を決めてみせる。
その可愛らしい一人芝居を見て、桐嶋さんと永澤さんが顔を見合わせながらこっそりクスクスと笑い声を漏らした。
今夜のメインディッシュは、料理上手な宇都宮さんが作る地元のスーパー『JA新旭町Aコープパネス』で気合を入れて買い込んだ、近江牛と近江野菜のすき焼き風だ。
カセットコンロの上に家庭用の浅型鍋をドンと据え、まずは贅沢に牛脂を引いてじっくりと熱する。
ジューッと香ばしい音が響いたあとに立ち上る極上の脂の匂いが、周囲の食欲を容赦なく刺激していく。
そこに美しいサシの入った近江牛を一枚投入し、表面の色が変わる程度にサッと焼いてから、食べやすくざく切りにした近江野菜や椎茸、エリンギ、ネギなどのキノコ類を一気に炒め合わせる。
野菜からじゅわっと水分が出てきたところで、特製のすき焼きのタレを回しかけ、蓋をしてグツグツと力強く煮込んでいく。
さらに、サイドメニューとして、炊き立ての近江米で作った塩おにぎりと、スライスしたトマトとモッツァレラチーズを交互に美しく並べてオリーブオイルと塩コショウをさっと振った滋賀のトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ風もスタンバイ完了となった。
「うわぁ……香りがもう反則すぎます……!」
永澤さんが我慢できないといった様子でごくりと喉を鳴らし、桐嶋さんも眼鏡の奥の瞳をキラキラと輝かせながら鍋の様子をじっと見つめている。
グツグツと美味しそうな音を立てて煮詰まる鍋の中では、甘辛いタレを吸い込んだ近江牛と野菜たちが最高の表情を見せていた。
仕上げに生卵を小皿に割り入れ、トロトロに絡めて口に放り込めば、お肉のとろけるような甘みと地元の新鮮野菜の深い旨味が口いっぱいに広がり、冷えてきた湖畔の夜を最高の温かさで包み込んでくれることだろう。これ以上ないほどの贅沢な晩餐の始まりだった。
そして、みんなで「いただきます!」と手を合わせ、まさに最初のひと口を口に運ぼうとした、その瞬間──。
「あの、ちょっといい……?」
背後からかけられた、どこか気まずそうな澄んだ声に、僕たちはピタリと手を止めた。
「え……?」
桐嶋さんが驚いた顔で振り返る。
「どうしたんですか?」
と僕もその視線を追って振り返ると、そこに立っていたのは、なんと昼間に噂をしていたあの学園のマドンナ──更科美怜その人だった。
「ほら、やっぱり更科さんだった! 私の目は間違ってなかったんだよ!」
宇都宮さんが「ほれ見たことか!」とばかりに得意げに胸を張る。
更科さんは少し気まずそうに目を細めながら、僕たちを見据えた。
「あ……あなた、確か、同じ学部の……」
「宇都宮姫子だよ! 私たちは、『星空トーク会・キャンプ部』っていうサークルのメンバーなの!」
「そう。……それでね、少し頼みがあるんだけど」
更科さんは言葉を少し詰まらせながら、どこか言いづらそうに続けた。
「キャンプ用のガスボンベを忘れてきちゃったみたいで……。お湯も沸かせないし、料理が作れなくて困っているの。よかったら、その、予備のガスボンベを貸してくれないかしら……?」
完璧主義で知られる彼女が、まさかそんなうっかりしたミスをするなんて。
その意外すぎる弱点に、僕たちは思わず顔を見合わせた。
「ガスボンベね! そんなの全然いいよ! でも、それだけじゃなくてさ……そうだ、一緒に夕食を食べない?」
宇都宮さんがパッと満面の笑みを浮かべて、思いがけない提案をぶち上げた。
「えっ……? 一緒に……?」
「うん! 今ちょうど、私特製の近江牛すき焼きが完成したところなんだから! 一人で食べるより、人数が多い方が絶対に美味しいし楽しいって!」
「でも、私は急に出てきたお邪魔虫だし……迷惑じゃ……」
「迷惑なんてそんなことないよ! ねえ、みんなもいいよね?」
宇都宮さんに促され、桐嶋さんも優しく微笑みながらうなずいた。
「ええ、もちろん大歓迎よ。困った時はお互い様だわ。さあ、遠慮しないで座ってちょうだい」
永澤さんも「はい、すごく美味しそうにできたので、ぜひ一緒に食べましょう!」と元気よくお椀を差し出す。
更科さんはしばらく戸惑ったような表情を見せていたが、僕たちの温かい空気に押されるようにして「……じゃあ、お言葉に甘えて」と小さく頷いた。
彼女は自分のテントからお気に入りの折りたたみチェアを持ってくると、私たちの輪にちょこんと加わり、パチパチと薪が爆ぜる鍋の周りを囲んだ。
みんなで箸を手に取り、いざ更科さんの皿に取り分けられた近江牛のすき焼きを食べてもらうと、彼女の整った美しい瞳が丸く見開かれた。
「……っ! これ、すごく……美味しい……」
いつもはクールで滅多に感情を表に出さない更科さんが、思わずといった様子で呟く。
甘辛いタレが染み込んだ柔らかいお肉とシャキシャキの近江野菜のハーモニーに、彼女の表情がふっと柔らかくほどけた。
「本当ね、お肉が口の中でとろけるようだし、タレの旨味が野菜の芯までしっかり染み込んでいて絶品だわ……!」
桐嶋さんが眼鏡の奥の瞳を満足そうに細め、もう一口とお箸を動かす。
「うんうん、最高に美味しいです! この生卵を絡めると、さらにまろやかになって何杯でも食べられちゃいそう……!」
永澤さんもリスのように頬をふくらませながら、幸せいっぱいの表情で頷いた。
僕も一口食べてみると、じゅわっと溢れる近江牛の上質な脂の甘みとキノコ類の出汁が絶妙に絡み合い、冷え切った湖畔の体に染み渡るような最高の味わいに思わずうっとりしてしまった。
「でしょでしょ! Aコープで買ったこの近江牛、マジで最高なんだから!」
宇都宮さんが自分のことのように得意げに胸を張り、サイドメニューのカプレーゼや塩おにぎりも次々と更科さんに勧めまくる。
はじめは緊張気味だった更科さんも、美味しい食事と彼女たちの気さくな人柄にほぐされたのか、少しずつ自分の言葉で料理の感想を語るようになり、気がつけばすっかり和やかな雰囲気に包まれていた。
やがて、大満足の夕食を終えた僕たちは、夜の闇がすっかり深まった湖畔で、パチパチと心地よい音を立てる焚き火の周りにチェアを寄せ合い、食後の温かいコーヒーをゆっくりと味わっていた。
赤々と燃え盛る炎の明かりが、五人の顔を優しく照らし出す。ふと、更科さんの手元に目をやった宇都宮さんが、気になっていた疑問を投げかけた。
「そういえばさ、更科さんって普段はすごくクールで都会的なイメージがあるんだけど、昔からキャンプが趣味だったの? なんか、私たちのイメージと全然違うからびっくりしちゃった」
その質問に、更科さんは少しだけ照れくさそうにカップの縁を指でなぞり、小さく息をついた。
「……実を言うとね、以前はアウトドアなんて全く興味がなかったの。でもね、たまたまネットの動画で見かけた『サトシのぼっちキャンプ』っていうソロキャンプの番組に、ものすごく影響を受けちゃって……それからすっかりハマっちゃったのよね」
そのタイトルを聞いた瞬間、宇都宮さんが「あー、あれね! 私も見たことある!」と勢いよく同意して身を乗り出した。
『サトシのぼっちキャンプ』なら僕も何度か見たことがある。
画面の隅々まで行き届いた無駄のない編集や、誰にも媚びず、自分のためだけに気の向くまま自然のなかで心身を解放するその独自のスタイルは、見る者を強く引きつける中毒性を持っている。
無骨なギアを愛し、買い出しのスーパーで思わぬ出会いに翻弄されながらも、一人静かに焚き火と向き合う姿は、一見すると近寄りがたい孤高の美少女である更科さんの心をも激しく揺さぶったらしい。
「そう、その番組の、画面の向こうでヒロシさんが誰にも邪魔されずにただ自分の時間を楽しんでいる姿が、なんだかすごく自由で羨ましく見えて……。私も、あんな風に都会のしがらみから離れて、自分の居場所を自然の中に作ってみたいって思っちゃったのよね。……意外と、こういうミーハーなところがあるの、私」
更科さんが少し自嘲気味にクスリと笑うと、永澤さんが「意外どころか、すごく親近感が湧いちゃいました!」と嬉しそうに微笑んだ。
そのやりとりを見つめながら、桐嶋さんがふと眼鏡のブリッジを押し上げ、まっすぐに更科さんを見据えた。
「ねえ、更科さん。せっかくこうして巡り合えたんだし、これも何かの縁だわ。よかったら、私たちのサークルに入らない?」
「……え? 私が、あなたたちのサークルに?」
「そう! 私たち、『星空トーク会・キャンプ部』は、これから本格的に活動していくところなの。更科さんが加わってくれたら、もっと賑やかで面白くなること間違いなしだし、大歓迎だよ!」
宇都宮さんも力強く賛同し、永澤さんも大きく何度も頷く。
更科さんは少しだけ驚いたように目をパチクリとさせたあと、腕を組んでじっと考え込んだ。静かに揺らめく焚き火の炎が、彼女の整った横顔の陰影を美しく浮かび上がらせる。
「……そうね。もし、ソロキャンのように自分一人の時間や静かな空間もしっかりと確保してもらえるのだとしたら、考えてみてもいいわ」
更科さんは少しだけ柔らかい笑みを浮かべてこう言った。
「私、基本的に人付き合いの柵とか、群れるのはあまり得意じゃないの。でも……あなたたちのサークルは、なんだか変に気負っていなくて、すごく雰囲気が良さそうだし……何より、さっきのすき焼きもすごく美味しかったから」
「やったー! じゃあ、正式にメンバー加入ってことで決定ね!」
宇都宮さんが嬉しさのあまり両手をパッと広げ、思わず更科さんの手をギュッと握りしめた。
更科さんは少し面食らいながらも、嫌がる様子もなく、ふっと穏やかな微笑みを返した。
夜も更け、そろそろお開きの時間になると、更科さんは「それじゃあ、私はそろそろ自分のテントに戻るわね。今夜は美味しい夕食をご馳走さま、すごく楽しかったわ」と言い残し、自分のテントへと静かに帰っていった。
その後、僕たちもそれぞれのテントへと分かれて眠る準備を始めた。
一つのテントに三人で並んで寝袋に潜り込んだ宇都宮さんたちが、今日一日の出来事や更科さんの加入のことで、テントの中から楽しげおしゃべりする声が、夜の静寂の中に心地よく漏れ聞こえてくる。
更科美怜という新しい仲間が加わって、これからのキャンプ部はいったいどうなってしまうのだろう。
そんな賑やかでワクワクする未来を想像しながら、僕はシュラフの温かさに身を委ねた。
満天の星空と優しい焚き火の残り香に包まれながら、胸の奥から湧き上がる穏やかな温もりに身を預け、僕はゆっくりと心地よい眠りの世界へと落ちていったのだった。




