第45話 清流と渓谷の歓声、冷たい水飛沫とヤマメつかみ取りの大奮闘
『舟屋食堂』で新鮮な海の幸を心ゆくまで堪能し、お腹も心もすっかり満たされた一行を乗せた車は、伊根の穏やかな港町を後にして、今度はぐっと内陸側──兵庫県北部の香美町や養父市方面の山深きエリアへと進路を向けていた。
海岸線の開放的な景色から一転して、車窓の景色はみるみるうちに豊かな緑に包まれた山岳風景へと移り変わっていく。
幾重にも重なる山並み、木々の間から木漏れ日が差し込む美しいワインディングロードを、ハンドルを握る叶姉さんが丁寧な運転で進んでいく。
「うわあ……! 海もすごく綺麗だったけど、山のこの深い緑色も、空気がひんやりしててめちゃくちゃ気持ちいいですね!」
後部座席で窓の外を眺めながら、七柰が大きく深呼吸をする。車内には、ほんのりと森の土や木々の香りが混じった爽やかな風が通り抜けていた。
「そうね。京丹後から少し足を延ばして兵庫県北部に入ると、今度は一気に大自然の渓流や滝のスポットが広がるらしいの。午後は、そんなマイナスイオンたっぷりの山と川で、思いっきりアクティビティを楽しみましょう」
後ろの席から美怜さんが声を弾ませると、隣に座っていた美波さんがハンドルを握る叶姉さんの横顔を見つめながら微笑んだ。
「本当だね。海辺とはまたガラリと空気が変わって、木々の香りがすごく心地いいよ」
「そうですね……! 私、こういう山の中の深い緑を見るのって、なんだかすごく新鮮で……。都会のビルとかとは全然違う、生き生きとした匂いがするっていうか……なんだかすごく、心が落ち着く気がします……!」
さらにその隣で、少し恥ずかしそうに両手をキュッと握りながら口を開いたのは涼花さんだ。その控えめながらも嬉しそうな言葉に、車内の空気がさらに和やかになる。
美怜さんがタブレットの画面を閉じながら、「涼花ちゃんの言う通り、マイナスイオン効果は抜群ね。お肌にもすごく良さそうだわ」と優しくほほ笑んだ。
前方を走る正樹叔父さんの車との車間距離を確かめつつ、僕は隣でハンドルを握る叶姉さんに話しかけた。
「叶姉さん、前の叔父さんの車、綺麗に先導してくれてますね」
「ええ、そうね。お父さんがしっかりと安全に引っ張ってくれているから、私たちも安心してついていけるよ。それにしても、車窓から見える木々のグラデーションが本当に綺麗で、こうして走っているだけでも癒やされるね」
叶姉さんが朗らな笑みを浮かべながら、サイドミラー越しに後続車を確認する。
「ほんとですね。海の次は山と川……最高のスケジュールだなあって思います」
僕がそう言うと、叶姉さんはふふっと優しく微笑んだ。
「さあ、次はどんな素晴らしい体験が待っているのかな。みんなも楽しみにしているようだし、目的地まであともう少しだよ」
車はやがて日本の滝100選に数えられる名瀑や、清らかな渓流が流れる山間部へと到着した。
車を駐車場に停め、一歩外へ踏み出した瞬間、一同は「わあ……!」と思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、夏の暑さを一瞬で忘れさせてくれるような、キリッと引き締まった冷涼な空気。すぐ傍を流れる渓流からは、激しく水飛沫を上げる滝の音が轟音となって響き渡り、辺り一帯に無数のマイナスイオンが立ち込めている。木々の隙間から差し込む光が、空中を舞う水滴に反射してキラキラと淡い虹色の光の輪を描いていた。
「すごーい! 空気がめちゃくちゃ美味しいし、お肌が喜んでる感じがする……!」
七柰が両手で自分の頬をパタパタと扇ぎながら、渓流の方へトコトコと駆け寄る。
「本当に……! 都会の喧騒が嘘みたいに静かで、聞こえてくるのは風の音と水の音だけだね」
美波さんがゆっくりと深く息を吸い込みながら、周囲の豊かな自然を見渡す。
「わぁ……本当に水が透き通っていて、底の石まで綺麗に見えます……! あ、見てください、あそこに小さな魚がスイスイ泳いでますよ!」
涼花さんも透明な水面を指さしてパッと目を輝かせた。
「さて、ここからは今日の午後のメインイベントだよ! 綺麗な川での川遊びと、なんと『ヤマメのつかみ取り・釣り体験』に挑戦します!」
姫子さんの合図に、メンバーたちのテンションが最高潮に達した。
渓流の脇に整備された浅瀬の特設エリアには、山からの冷たく澄んだ水が勢いよく引き込まれており、その中を元気に泳ぎ回るヤマメたちの姿が透けて見えている。
「うわっ、ほんとにいっぱい泳いどる! あの魚、めっちゃ素早くスイスイ動いてるやん!」
菱川さんが関西弁を響かせながら目を丸くして水面を覗き込むと、隣にいた茅野さんも大きくうなずいた。
「ほんとっすねー! めっちゃ透き通ってて綺麗だし、あんなに元気に泳いでる魚を捕まえるとか、絶対楽しいやつっす!」
「ふふ、見かけによらず結構すばしっこいから、捕まえるのはなかなか一筋縄ではいかないわよ。みんな、濡れてもいい動きやすい服にちゃんと着替えてきたわよね?」
美怜さんがすでにスポーティなサンダルに履き替えながら、メンバーたちを見回す。もちろん全員、水遊び用の準備はバッチリだ。
少し離れた木陰のベンチでは、車を停めた正樹叔父さんと叶姉さんが温かい眼差しでこちらを見守りながら声をかけてくれた。
「お、若い連中はこれから川に飛び込むのか。風邪ひかないように気をつけるんだぞー」
「怪我のないように、思いっきり楽しんできてね」
「はーい! 見ててください、大漁にして見せますから!」
と七柰が元気いっぱいに手を挙げて宣言した。
§
いよいよ渓流の浅瀬エリアに足を踏み入れた瞬間、一同は「冷たーーっ!」と思わず声を揃えて飛び上がった。
「ひゃあぁ、冷たい! 氷水みたい……っ!」
七柰が両足のつま先を水につけただけで、その冷たさにキャッキャと飛び跳ねる。それもそのはず、山から直接流れ込む雪解け水や清水は、真夏であっても驚くほどキンキンに冷えていたのだ。
「ううっ、足を入れただけで感覚がなくなっていきそう……。私、こういう冷たい水に入るとすぐ足がつっちゃうかも……って、ひゃっ!?」
涼花さんが恐る恐る一歩目を踏み出した瞬間、その冷たさに肩をびくんと震わせ、小さく悲鳴を上げた。
「うわぁ、足元キンキンやん! でも気持ちええわぁ!」
と菱川さんが元気よく水しぶきを立て、「うわ、冷たっ! でもこれ、テンション上がるっすね!」と茅野さんも気合を入れてサンダルで水に入っていく。
「でも、慣れてくるとこれがめちゃくちゃ気持ちいいよ! ほら、あそこの岩陰に一匹隠れてる!」
美波さんが裾をまくり上げ、慎重に水に足を浸しながら指を差す。そこには、背中に美しい斑点模様を持ったヤマメが、ヒュッと素早く別の岩影へと身を隠したところだった。
「待て待て〜! 逃がさないよー!」
七柰が、腰を落として両手を広げながらヤマメを追いかけ始める。
けれど、長靴ではなく素足やサンダルで入っている水の中は、足元が滑りやすく、思うように体が動かない。
「うわっ、きゃっ! なになに、この子めちゃくちゃ素早いんだけど! 手からスルスルすり抜けるじゃん!」
七柰が両手で水面をバシャッと叩くように掴みかかるが、肝心のヤマメはひらりと華麗にその指の間をすり抜けて、冷たい水の中へ消えていく。
「ああっ、惜しかったね、七柰ちゃん! もっとこう、パッと上から抑え込むんじゃなくて、優しく包み込むように……って、わわっ!?」
隣でアドバイスしようと一歩踏み出した美怜さんが、苔のついたツルツルの石に足を乗せてしまい、バランスを大きく崩した。
「わ、足が、足が滑るっ……! きゃあぁぁぁっ!」
派手な水音とともに、美怜さんが見事に水の中へと尻餅をつく。一瞬にして服の裾から背中までがびしょ濡れになり、頭の上には水飛沫のシャワーが降り注いだ。
「えっ……!? 美怜さんっ! 大丈夫ですかっ……!?」
すぐ近くにいた涼花さんが、あまりの突然の出来事に目を丸くしてポカンと口を開けたまま硬直する。
「うわ、美怜さんダイナミックにいってもうたやん! 大丈夫かー!?」
と菱川さんが驚き、茅野さんも「美怜さん、めっちゃびしょ濡れっすよ……!」と慌てて駆け寄る。
「ぷはっ……! つ、冷たっ……! まさか私がこんなドジを踏むなんてね……!」
美怜さんが両手で顔を拭いながら、お尻をペタペタと叩いて立ち上がる。その普段のクールな姿からは想像もつかないびしょ濡れっぷりに、岸で見守っていた大人たちも含めて、現場が一気に爆笑の渦に包まれた。
「あはははっ、美怜、大丈夫!? 見事にダイナミックにハマっちゃったね!」
美波さんがお腹を抱えて大笑いし、七柰も「美怜さん、まるでウォータースライダーから飛び出してきたみたいでしたよ!」と手を叩いてケラケラと笑う。
「もう……! せっかく気合いを入れて準備してきたのに、まさか山の洗礼を一番に受けることになるなんて……!」
美怜さんが少し頬を赤らめながらも、自分でも面白くなってしまったのか、くすくすと思い出し笑いを漏らす。
「も、もう……びっくりしましたぁ……。美怜さん、怪我はありませんか? お洋服、すごく濡れちゃってますよぅ……」
涼花さんjが心配そうにパタパタと駆け寄り、自分の持っていたタオルを差し出す。その慌てふためく姿に、美怜さんも「ありがとう、涼花ちゃん。怪我はないから安心してちょうだい」と優しく微笑んだ。
「ふふ、でもこれだけ冷たい水なら、一気に目が覚めて最高よね。ほら、みんな、笑ってる場合じゃないわよ! 逃げられた魚たちを今度こそ捕まえるわよー!」
美怜さんが別のタオルで髪を拭きながら、負けじと両腕まくりをして水底を覗き込む。
「よし、こうなったら一人で追うより、みんなできちんと包囲網を作るわよ!」
すっかり濡れ鼠になりながらも、美怜さんが逆に闘志に火がついたのか、水から上がらずにそのままの気合で陣頭指揮を執り始める。その前向きな姿に、みんなのモチベーションが一気に跳ね上がった。
「賛成よ! じゃあ、私と夢で下流側をしっかりブロックするから、七柰ちゃんは上流側から追い込んで!」
咲さんがテキパキと指示を出しながら、水中で両手を大きく広げて壁を作る。夢乃さんも「私もそっちのサポートに回ります!」と元気に加勢した。
「任せてください! 絶対に逃がさないんだから……!」
七柰が息を潜め、じっと水面を見つめる。足元の冷たさも、もうすっかり忘れているようだ。
上流から美波さんがゆっくりと足を動かし、ヤマメを特定の浅瀬へと追い込んでいく。魚たちが一斉にパニックを起こして右往左往したその瞬間──。
「今だーーっ!」
七柰が勢いよく両手を水面に突っ込み、そのまま胸元へと抱え込むように引き上げた。
「わっ……! 捕まえた……っ! 取れたよーーっ!」
七柰の開いた両手の間の中で、ピチピチと元気よく跳ねる銀色のヤマメ。
その眩しい姿に、全員から「やったーーっ!」「すごーい!」と大歓声が上がった。
「すっごい立派なヤマメやん! 七柰ちゃん、ナイスファイトすぎるわ!」
菱川さんがパチパチと大きな拍手を送り、美波さんも「見事な連携プレイだったね!」と褒め称える。
「すごーい、見事にゲットっすね!」と茅野さんも満面の笑みを浮かべる。
「すごいです、七柰ちゃん……! あんな素早い魚を素手で捕まえちゃうなんて、カッコよすぎます……!」
涼花さんも自分のことのように両手をパチパチと叩いて大喜びし、そのあともチームワーク抜群の彼女たちは次々とヤマメをゲットしていき、気がつけばバケツの中は数匹の立派なヤマメでいっぱいになっていた。
「いやあ、お見事だったな!」
遠くのベンチから近づいてきた正樹叔父さんが、濡れながらも満面の笑みを浮かべるメンバーたちを見て目を細める。
叶姉さんも感心したように上品に微笑んだ。
「皆、本当に良い表情をしているいね。都会では絶対に味わえない、最高の体験だよね」
冷たい水で冷えた体を軽く拭き、温かいお茶で一息つきながら、先ほどの美怜さんの大転倒の話題で再びドッと笑いが起きる。
マイナスイオンの立ち込める美しい渓流には、彼女たちの弾けるような笑い声と、忘れられない青春の一ページがいつまでも心地よく響き渡っていた。




