第38話 大遠征キャンプ旅行の始まり
七月末日、午前六時五十五分。
京都の厳しい夏の朝は、まだ午前七時前だというのに、すでにアスファルトの熱を溶かすようなじりじりとした陽射しを纏って始まっていた。蝉の合唱がコンクリートの壁に反響し、街全体が巨大な温室のように熱を帯びている。
けれど、そんな気だるい暑さなど今日の僕たちの胸の高鳴りには一切の影も落とせなかった。いよいよ待ちに待った、総勢十人による三泊四日の大遠征キャンプの幕開けなのだ。
自室のベッドから飛び起きた僕──水守奏多は、クローゼットから引っ張り出したお気に入りのアウトドアウェアに袖を通した。
選んだのは、通気性と速乾性に優れたオリーブグリーンのカーゴショーツに、動きやすさを最優先したチャコールグレーの吸汗速乾Tシャツ。その上から、強い日差しや急な天候の変化にも対応できるように、薄手の撥水マウンテンパーカーを羽織る。足元は、長時間の歩行や砂浜での活動でも疲れにくい、タフなビブラムソールのトレッキングサンダルだ。首元には、汗拭き用のフェイスタオルをラフに掛け、腰にはカラビナでマルチツールと小型のポーチをぶら下げている。まさに、これから始まる大冒険へ向かう少年の装いだった。
自室のドアをガチャリと開けてリビングに降りると、そこにはすでに完璧な準備を終えて待ち構えていた妹の七柰の姿があった。
「お兄ちゃん、おはよーっ! ついに来たよ、今日だよ、夏休み大遠征キャンプ初日だよっ!」
七柰は興奮のあまりその場でピョンピョンと跳ねながら、満面の笑みで僕に飛びついてきた。彼女の今日のコーディネートは、とびきりキュートでアクティブなガールズ・アウトドアスタイルだった。
動きやすいストレッチ素材のベージュのショートパンツに、爽やかなスカイブルーのロゴ入りTシャツ。その上には、紫外線対策と冷房対策を兼ねたパステルピンクのパーカーを羽織り、足元はポップな配色の水陸両用スニーカー。頭にはつばの広いサファリハットを斜めに被り、斜めがけにしたお揃いのミニショルダーバッグには、お気に入りのデジカメが大切そうに収められている。お下げ髪の毛先がぴょんぴょんと跳ねて、彼女の抑えきれないワクワク感をそのまま形にしたようだった。
昨夜は遠足前の小学生のように何度も「ちゃんと起きられるかな」「忘れ物ないかな」とLINEで他のメンバーたちとメッセージを送り合っていたのを思い出すと、なんだか微笑ましい。
「七柰、そんなに跳ねたら、出かける前に体力が切れちゃうぞ。でも、すごく似合ってるよ、その格好」
「ほんと? やったあ! この日のために昨日の夜から何度もコーディネート組み直したんだから! お兄ちゃんもそのマウンテンパーカー、すごくカッコいいよ。なんか、本当のプロの冒険家みたい!」
七柰がクルリと一回転して見せると、リビングの窓から差し込む朝陽が彼女の笑顔を一層まぶしく照らし出した。
そして、僕たちがリビングで荷物の最終確認をしていたまさにその時、ピィンポーンと軽やかなチャイムの音が響き渡った。
「あっ、来たっ!」
七柰が弾かれたように玄関へと走り出し、鍵を開けてドアを押し開ける。
そこには、見慣れた、しかし今日はいつも以上に頼もしく見える二台の車が、朝の静かな住宅街の道路に並んでエンジンをアイドリングさせていた。
一台は、キャンピングカーの王道である、白とメタリックブルーの洗練されたカラーリングが眩しい大型のキャブコン。運転席から降りてきたのは、僕たちの頼れる正樹叔父さんだ。いつもの温和な笑顔に、今日はしっかりとアウトドア用のサングラスをかけ、その引き締まった体躯にはプロのキャンパーのような風格が漂っている。
そしてもう一台は、グループ全員の荷物をたっぷりと積み込めるよう、シートアレンジを最大限に広げたスタイリッシュな大型ミニバン。その運転席のドアが開き、スラリとした長身を軽やかに降ろしてきたのは、僕たちの叔母であり、卓越したドライビングテクニックを持つ叶姉さんだった。彼女はスマートなシルバーのフレームグラスをかけ、スタイリッシュなシャツにパンツルックというクールな装いで、涼しげな笑みを浮かべている。
「おっ、奏多に七柰、おはよう! いい顔じゃないか。荷物は全部まとまったか?」
正樹叔父さんが大きな声で笑いながら、僕たちの背中をポンと叩いてくれた。
「おはようございます、正樹叔父さん! はい、荷物は完璧です。皆のワクワクも満タンに積み込んでありますよ!」
僕が元気に返事をすると、ミニバンのほうから助手席の窓がウィーンと音を立てて下がり、中から顔を出した叶姉さんが優しく微笑んだ。
「おはよう、二人とも。さあ、時間ぴったりだ。ぐずぐずしてると丹後の海が私たちを待ちくたびれちゃうからね。手際よく乗り込みなさい」
「「はーい!」」
僕たちは大きなバックパックと、前回のバイト代でそれぞれが新調したばかりのキャンプギアの入った収納ケースを、手際よく車へと積み込んでいく。
今回の移動チームの割り振りは事前にしっかりと決まっていた。
正樹叔父さんがステアリングを握る6人乗りキャブコンには、姫子さん、咲さん、夢乃さんの三人が乗り込む。
そして、叶姉さんが運転する7人乗りのミニバンには、僕、七柰、美怜さん、美波さん、涼花さんの五人が乗り込むことになった。
「それじゃあ、他のメンバーを拾いつつ向かおうか。皆、シートベルトはしっかり締めるんだよ!」
正樹叔父さんはそう言ってからキャブコンにに乗り込んだ。重低音の心地よいエンジン音を残してスルスルと走り出す。
「よし、私たちも後に続こうか。みんな、乗り心地はどう?」
叶姉さんがバックミラー越しに後ろを振り返りながら問いかけると、ミニバンの後部座席に陣取った僕たちは、それぞれに元気よくうなずいた。
§
午前七時半。
京都・左京区の住宅街を抜け出したミニバンは、朝の柔らかい陽射しを浴びながらスムーズに走り出し、京都縦貫道の入口へと向かってスピードを上げていった。
車内は、発進した瞬間からすでに遠足前夜の子供部屋のような、最高に賑やかな空気に包まれていた。
運転席の叶姉さんが流す爽やかなインディーズ系のドライブミュージックが心地よく響く中、後部座席は早くもトークのラリーで大盛り上がりを見せている。
「いやぁ、ついに始まりましたね、三泊四日の大遠征キャンプ! 私、昨日の夜は新しく買った自分のクッカーセットとチタンマグを眺めてたら嬉しすぎて全然眠れなかったんですからね!」
助手席の後ろの席、窓際に座る涼花さんが、少し目を輝かせながら両手をギュッと握りしめて言った。彼女は今日も、動きやすいチェック柄のシャツにデニムのロングスカートというお洒落な装いだ。
「ええっ、涼花さん、それじゃ寝不足でバッチリクマができちゃってるんじゃないですか?」
七柰が振り返りながら大袈裟に目を見開くと、車内の一角から「クマなんてできてないわよ、可愛い顔してるじゃない!」と美怜さんが優しくツッコミを入れた。
「皆アルバイト代で手に入れたお気に入りのギアを車に積んでるから、昨日からテンション上がりっぱなしだったものね。ちなみに美怜は、例のスノーピークの『TAKIBIサンド スキレット』、ちゃんとトランクの特等席に積んできた?」
セカンドシートの中央に座る美波さんが、隣に寄り添う美怜さんの肩に優しく触れながら微笑んだ。
美波さんは、涼しげな白いリネンシャツにクロップドパンツという、大人の余裕を感じさせる上品なアウトドアコーデ。その隣に座る美怜さんは、淡いブルーのカーディガンにゆったりとしたデニムというスタイルで、窓の外を流れる緑豊かな北山の山々を眺めながら優しくうなずいた。
「もちろんよ、お姉ちゃん。昨日届いたばかりのピカピカのスキレット、ちゃんと大事な箱に入れて一番取り出しやすい場所に積んできたわ。今夜のキャンプの晩餐で、あのスキレットを使って極上のアヒージョを作るのが今から本当に楽しみで仕方ないの」
美怜さんが嬉しそうに微笑むと、車内はさらに温かい空気で満たされた。
「さすが美怜さん、準備万端だね。ちなみに美波さんも、新しく買った3人用テントとダウンシュラフはバッチリですか?」
僕が助手席から後ろを振り返りながら尋ねると、美波さんはパッと顔を輝かせた。
「ええ、もちろん。美怜と一緒にゆったり眠れるお揃いのテントも、これからのキャンプで大活躍間違いなしのダウンシュラフも完璧に積み込んできたよ。今夜からそのテントで眠るのが本当に楽しみ」
「いいねぇ! 皆がそれぞれの『最高の相棒』を連れてのキャンプだなんて、テンションが上がらないわけがないよ」
運転席から、叶姉さんがルームミラー越しにウィンクを飛ばす。
「私もこうして若い皆とキャンプ旅行にいけて、これ以上ない最高の朝だね」
「叶姉さん、いつも運転ありがとうございます。皆の新しいギアもすごく綺麗に収まっていて、さすがプロの技ですよね」
僕が声をかけると、叶姉さんは「ふふ、褒めても何も出ないわよ、奏多。でも、その言葉だけで私は十分嬉しいけどね」と楽しそうに笑った。
「ねえねえ、お兄ちゃん! 京都縦貫道に入ったら、いよいよトンネルを抜けたときの景色が変わるよね。丹後の海って、すごく青くてキラキラしてて、私、日本海側に行くの初めてだから、今からテンション上がりっぱなしなんだよ!」
七柰がスマホの画面で今日の現地の天気予報を確認しながら、嬉しそうに足をパタパタさせる。
「そうだね、丹後半島は海がすごく綺麗だし、今日の最初の目的地である琴引浜の鳴き砂なんて、全国でも数少ない貴重な場所だからね。みんなで砂の上をキュッキュッて鳴かせるのが、今からすごく楽しみだなぁ」
僕がそう答えると、涼花さんがパッと顔を輝かせた。
「あ、私、本で読んだことがあります! 琴引浜の砂って、不純物のない綺麗な二酸化ケイ素の砂だから、歩くときに摩擦で美しい音が鳴るんですよね。私、ドジ踏んで砂浜でおおごけして砂まみれにならないように、今日一日は一歩一歩を慎重に歩きます……っ!」
涼花さんが真剣な顔で自分の両足を見つめると、美怜さんがクスッと上品に笑って彼女の肩を抱き寄せた。
「大丈夫よ、涼花ちゃん。万が一転げ回っても、私が波打ち際ですぐに引き上げてあげるから安心して。それに、今回はお仕事じゃなくて純粋なプライベートのキャンプ旅行なんだから肩の力を抜いていきましょう」
「美怜さん……ありがとうございますぅ……! 私、今日の海水浴では、絶対に海の底の貝殻の精霊に怒られないように上品に泳ぎます……!」
涼花さんの独特すぎる表現に車内は再びドッと笑いに包まれ、京都縦貫道を心地よいスピードで走り抜けるミニバンの中は、まるで一つの大きな家族のように温かく、笑顔と弾む会話が途切れることはなかった。
北へ、北へ、日本海の青い水平線を目指して、僕たちの車は順調に距離を縮めていく。
§
午前十時十五分。
京都縦貫道の終点から一般道を経由し、丹後半島の海岸線を走るワインディングロードを抜けた私たちの目の前に、突如として言葉を失うほど鮮烈なパノラマが飛び込んできた。
「「わぁぁぁ――っ……! すごいきれい……っ!」」
七柰と涼花さんが思わずというように声を合わせて叫んでいた。
車窓の向こう側に広がっていたのは、視界のすべてを埋め尽くすような、透き通るコバルトブルーの日本海。その海岸線に沿って、真っ白な砂浜が弧を描くようにどこまでも続いている。
先導していた正樹叔父さんのキャブコンがハザードランプを点滅させながらスッと左側の広い駐車場へとハンドルを切ると、叶姉さんの運転するミニバンもそれに続いて静かに停車した。
「よし、皆、お疲れ様! 無事に最初の目的地、琴引浜掛津海水浴場に到着だよ!」
エンジンの息が止まると同時に、車のドアが次々と開き、新鮮な潮風が車内へと一気に流れ込んできた。磯の香りと、夏めいた太陽の匂いが、私たちの五感を心地よく刺激する。
キャブコン側からは、待ちきれないといった様子で姫子さんが真っ先に飛び降りてきた。
「うわぁ、空気が美味しい! それに海がめちゃくちゃ青い!」
姫子さんは両手を大きく広げ、海風を全身で受け止めながらくるりと回ってみせた。彼女の今日の格好は、スポーティなネオンカラーのキャップに、鮮やかなオレンジ色のショート丈Tシャツ、動きやすいレギンスという、まさに海の似合う元気っ娘スタイルだ。
続いて降りてきた咲さんは、上品なサングラスを頭に掛け直し、穏やかな海原を見つめて微笑んだ。
「本当ね、波の音がまるで遠くの音楽みたいに心地いいわ。こんな綺麗な浜辺で、まず最初ののんびりした時間を過ごせるなんて最高じゃない」
咲さんは、涼しげな白いロングワンピース姿の大人のリゾート感溢れるコーディネートだ。
そして夢乃さんも、ふんわりとした白いブラウスの裾を風になびかせゆっくりと車から降りてきた。
「うわぁ……本当に素敵なところですね。波打ち際を歩くだけで、なんだか心のモヤモヤが全部洗い流されちゃいそうです……!」
夢乃さんがうっとりと目を細めると、視線の先、どこまでも続く純白の砂浜には、夏休みを満喫する家族連れやグループの姿がちらほらと見えていた。色とりどりのパラソルが点々と咲き誇り、子どもたちの無邪気な笑い声や、遠くから波を越えて楽しげな歓声が風に乗って届いてくる。海水浴客は多すぎず少なすぎず、これから始まる夏の解放感を盛り上げるのにちょうどいい賑わいだ。
そんな活気あるビーチの景色を眺めながら、正樹叔父さんが大きな荷物入れのハッチバックを開けながら声を飛ばした。
「さあ、皆! スケジュール通り、ここからは午前中のメインイベントだ! まずは琴引浜の名物である『鳴き砂』をみんなの足で踏みしめて、そのあと一足早い夏の海水浴を思いっきり楽しもうじゃないか!」
正樹叔父さんの号令に、メンバーたちが「おーーっ!!」と力強い歓声を響かせた。
青空の下、透き通る海と純白の砂浜が広がる丹後半島の特等席で、僕たちの夏休み大遠征キャンプの物語がきらめきを放ちつつ動き出そうとしていた。




