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第36話 ネガティブ全開!? 失敗と仲間たちの絆


 七月上旬のうだるような暑さが続く中、僕と、美怜さん、そして涼花さんの三人は、夏休みの三泊四日大遠征キャンプの資金を稼ぐために、いつもの部室代わりに使っていたファミリーレストラン『フルール』のスタッフとして新たな一歩を踏み出すことになった。


 採用の面接は、僕たちが日頃から常連客として顔を馴染ませていたこともあり、店長さんの温かい計らいで驚くほどすんなりと通過した。


 そして迎えた初出勤の日。バックヤードのロッカールームで真新しい制服に身を包んだ僕たちは、少しばかりの緊張と期待を胸にフロアへと足を踏み入れた。


 僕がウェイター、涼花さんがウェイトレスとして表のホールを担当し、美怜さんは料理の腕前を買われてキッチンを担当することになっている。


「それじゃあ、新米スタッフの皆、今日から『フルール』の一員としてよろしくお願いね!」


 フロアの隅で、先輩スタッフであり僕たちの仲間である姫子さんが、ピシッと背筋を伸ばしながら頼もしい笑顔で声をかけてくれた。彼女はこの店で長くアルバイトを続けており、今回は僕たち新人への指導係を任されている。その制服姿はいつも以上にキリッとしていて、なんだかとても頼もしく見える。


「はいっ! 先輩、今日は一日どうぞよろしくお願いします!」


 涼花さんは、お下げ髪を綺麗にまとめ、少し大きめの制服の袖をキュッとまくりながら、緊張でカチコチになりつつも元気いっぱいに返事をした。


「涼花ちゃん、そんなに肩に力入れなくても大丈夫よ。笑顔と大きな声、それだけ忘えなければなんとかなるでしょうから」


 キッチン用のコックコートのようなエプロンに身を包んだ美怜さんが、バックヤードの扉からひょっこり顔を出し、優しく微笑みながら声をかけた。ガラスの向こうの厨房から漂ってくる香ばしいハンバーグの匂いが、これから始まる忙しい業務の雰囲気を伝えてくれる。


「美怜さん、キッチンも大変そうですけど、頑張ってくださいね!」


「ええ、美味しいお料理をすばやく提供できるように、裏方からしっかりサポートするわ」


 美怜さんが頼もしくサムズアップをしてみせると、涼花さんの緊張もほんの少しだけ和らいだようだった。


「よし、それじゃあさっそく、ホールの基本からビシバシ教えていくよ! 奏多君も涼花ちゃんも、ついてきてね!」


 姫子さんの元気な号令を合図に、僕たちの初めてのアルバイト業務が盛大に幕を開けたのだった。



   §



 ランチタイムのピークが近づくに連れて、広々とした『フルール』の店内は、次々と訪れるお客さまでみるみるうちに満席に近づいていった。


 ホールを担当する僕と涼花さんは、注文を取るメモ帳とペンを手に持ち、フロア中を文字通り駆け回るように動き回っていた。


「いらっしゃいませ。お好きな禁煙席へどうぞ」


 僕が爽やかな笑顔を心がけながら新しく入ってきたお客さまをご案内していると、反対側のテーブル席から「すみません、注文お願いします」という声が響いた。


「はい、ただいまお伺いします」


 僕はすばやくオーダーパッドを片手にそのテーブルへと駆け寄る。


 その一方で、数メートル離れた場所では、初めての接客に奮闘する涼花さんの姿があった。


「あ、あの……! ご注文はお決まりでしょうか……っ!」


 涼花さんは、少し上ずった声でメニュー表をのぞき込む老夫婦のお客さまに対応している。その手元は、緊張のあまりメモ用紙を持つ手が細かく震えていた。


 見ているこっちまでハラハラしてしまうような初々しさだけれど、持ち前の真面目さと一生懸命さが伝わってきて、なんだか応援したくなる。


「ええとね、私はハンバーグランチのライス大盛りね。あと、相棒はこのチキンドリアを頼むよ」


「は、はいっ! ハンバーグランチのライス大盛りと、チキンドリアですね……!」


 涼花さんは必死の形相でメモ帳に文字を走らせる。


 ここまでは順調にいっているように見えた。けれど、このあとのほんの小さな油断が、彼女のネガティブスイッチを全開にしてしまう引き金になるとは、この時はまだ誰も予想していなかったのだ。


「ご注文の確認をいたします! ハンバーグランチのライス大盛りと、チキンドリアで間違いないでしょうか……。あ、あの、ありがとうございます! 少々お待ちくださいませ!」


 涼花さんは深々と頭を下げ、無事に注文を厨房の美怜さんたちへ通そうと振り返った──その瞬間だった。


 ガタッ!


「ひゃっ……!?」


 足が絡まり、涼花さんのバランスが盛大に崩れた。


 運悪く、その手には、ほかのテーブルへ運ぶためにトレイに乗せられていたお冷やの入ったグラスが載せられていた。。


 ジャバァァァ……ッ!


 綺麗な水の入ったグラスは無残にも宙を舞い、お客さまの足元へと見事に着水した。テーブルクロスの一部と、お客さまの洋服の裾のあたりが、見事にびしょ濡れになってしまったのだ。


「きゃあああっ……!?」


「わわっ、申し訳ありませんっ! ご、ごめんなさい、本当にごめんなさいっ……!」


 フロアの一角で起きた小さな悲鳴と水しぶきの音に、店内が一時的にピタリと静まり返った。


 お客さまは突然のことで目を丸くしていたけれど、近くを通りかかったベテランのフロアスタッフと姫子さんがすぐに駆けつけ、「お客さま、大変申し訳ございません! ただいまおしぼりをお持ちします!」と素早く丁寧に対応してくれたおかげで、大事には至らずに済んだ。


 幸いにも、お客さまは「おや、若いお姉さん、気をつけてね。拭いてもらったから大丈夫だよ」と、とても温かい言葉をかけて笑って許してくださった。


 けれど、当の本人である涼花さんにとっては、その優しさがかえって自分のふがいなさを際立たせるように感じられてしまったらしい。


 バックヤードの隅に引っ込んだ涼花さんは、両手で自分の頭を抱え込み、その場にしゃがみ込んでしまった。



   §



「はうぅぅ……終わった……私の人生、もう完全に終わった……」


 バックヤードのスタッフ休憩スペースの隅っこで、涼花さんは膝を抱え、小さく丸くなりながらぶるぶると震えていた。その目からは、大粒の涙がポロポロと零れ落ちている。


「すいません……私なんかいてすみません……。クソ雑魚ナメクジで、ドジで間抜けな底辺クソ人間な私が、こんな素晴らしいファミレスのフロアを歩くなんて人類への冒涜でした……。もういっそ、このまま消えて古代の化石になりたいです……。いや、明日から生きてる価値もないから、溝の泥水でもすすって死んだほうがいいですよね……うううっ……!」


 彼女の脳内では、すでに全宇宙を巻き込んだ最悪のネガティブスパイラルが最高潮に達していた。


 ちょうどランチの小休憩のタイミングでバックヤードに戻ってきた僕と、厨房から慌てて駆けつけた美怜さん、そして心配そうに眉をひそめた姫子さんの三人が、その現場にすぐさま直行した。


「す、涼花ちゃん! そんなに自分を卑下しちゃダメだって! 誰だって最初は失敗することくらいあるんだから!」


 僕は慌てて彼女のそばに駆け寄り、かがみこんで必死に声をかけた。


「そうよ、涼花ちゃん。お客さまも『気にしないで』って優しく笑ってくださったじゃない。怪我人が出たわけでもないし、そんなに思い詰める必要なんて全くないわよ」


 美怜さんも心配そうに覗き込みながら、優しく彼女の背中をポンポンと手で摩った。


 けれど、一度底なしのネガティブモードに入ってしまった涼花さんの耳には、僕たちの励ましの声も半分ほども届いていないようだった。


「うう……、優しくしないでください、奏多さん、美怜さん……。私なんて、どうせ生まれつきのドジっ子で、何をやっても中途半端で、みんなの足を引っ張ることしかできない疫病神なんです……。そうだ、お詫びに店の床を自分の髪の毛でピカピカに雑巾掛けしてから、静かに郷里へ帰って農業を営みます……。いや、農業の神様にも嫌われそうだから、やっぱり山奥の洞窟で一人孤独に暮らします……」


「いや、洞窟で暮らすって極端すぎでしょう! そこまで行くと逆にサバイバル能力高すぎてドジっ子どころじゃなくなるよ!」


 僕は思わずツッコミを入れてしまった。


 隣で聞いていた姫子さんも、腕を組んでフッと小さく息をついたあと、明るく元気な声で涼花さんの肩をガシッと掴んだ。


「ちょっと、涼花ちゃん! クソ雑魚ナメクジだなんて、そんなもったいないこと言っちゃいけないよ! いい? 先輩であるこの私が保証するけど、初めてのアルバイトでランチのピーク時に水こぼしたくらいで凹んでたら、この業界じゃ一秒も生き残れないんだからね!」


「ひえっ……!?」


「でもね、裏を返せば、それだけ一生懸命に働いていた証拠じゃない。最初から完璧にできる人なんて一人もいないんだからさ。ほら、顔を上げてごらん! せっかくの可愛いお顔が涙でぐしゃぐしゃになっちゃってるよ」


 姫子さんは自分のエプロンのポケットから綺麗なハンカチを取り出し、涼花さんの涙を優しく拭い取ってあげた。


「姫子さん……美怜さん……奏多さん……」


 先輩の温かい言葉に、涼花さんはさらに涙をあふれさせながら、潤んだ瞳で僕たちを見上げた。


「私、みんなと一緒に夏のキャンプへ行くために、どうしてもお金を稼ぎたくて……。なのに、初日からこんな大失敗しちゃって、もう自信がなくなっちゃって……」


「そんなことないよ、涼花ちゃん」


 僕は彼女のまっすぐな目を見つめながら、力強くうなずいた。


「涼花ちゃんがどれだけ今度のキャンプを楽しみにしていて、そのためにどれだけ一生懸命バイトを頑張ろうとしているか、僕たちはちゃんと分かってるよ。失敗したっていいんだ。次に同じ失敗をしないように気を付ければ、それで十分なんだからさ」


「そうよ。失敗を恐れて何も挑戦しないことの方がよっぽど勿体ないわ。涼花ちゃんには、私たちにはない素直さと、一生懸命お客様に向き合う素敵な長所があるんだから、自信を持ってちょうだい」


 美怜さんも美しく微笑みながら、お姉さんのような包容力で彼女の手をそっと握りしめた。


「ほら、休憩時間もあと少しで終わっちゃうよ! 後半戦は、私と奏多君でしっかりフォローしてあげるから、二人で一緒に美味しいオムライスやハンバーグをお客さまの元へ届けに行こう!」


 姫子さんがピョンと立ち上がり、みんなに向けて元気いっぱいに手を突き上げた。


「……はいっ! 私、クソ雑魚ナメクジから、今日のところはとりあえず『一歩進んだ新米ウェイトレス』に進化できるように、後半も気合を入れて頑張ります……っ!」


 涼花さんは目を赤く腫らしながらも、ようやく柔らかい笑みを浮かべ、両手で自分の頬をパチンと軽く叩いて気合を入れ直した。


 こうして、初日から波乱万丈だったアルバイト前半戦を乗り越えた僕たちは、それぞれの持ち場で再び一丸となり、夏のキャンプ資金を稼ぎ出すために、夕方のピークタイムへと向けて再び元気にフロアへと戻っていくのだった。








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