第33話 美山の朝露と、新たな絆を結ぶ帰路
深い夜の帳がゆっくりと明け始め、南丹市美山町の豊かな自然に包まれた『美山町自然文化村キャンプ場』の空が、淡い茜色から爽やかな朝の青へと染まっていく。
由良川の川面をすべるように朝靄が立ち込め、木々の葉の先からポトリと落ちる雫が、差し込む朝日を浴びてキラキラと宝石のように輝いていた。
鳥たちのさえずりで目が覚めた私は、シュラフの心地よい温もりからそっと這い出し、テントのジッパーを開けた。ひんやりと冷たく、けれどどこか甘い初夏の清々しい空気が、寝起きの肺の奥まで一気に満たされていく。
「ん……、ふあぁ……。おはようございます、更科さん……!」
少し遅れて、隣のテントから羽鳥さんが眠たそうに目をこすりながら顔を出した。お下げ髪は少し寝癖でふわっと跳ねていて、昨夜の賑やかな余韻を残したまま、ふにゃりと柔らかく微笑む。
「おはよう、羽鳥さん。よく眠れた?」
「はい! 満天の星空を天井にして眠るなんて初めてでしたけど、なんだか包まれているみたいですごく熟睡できました……。それにしても、朝の空気の美味しいこと!」
羽鳥さんは両手を大きく空に向かって伸ばし、気持ちよさそうに深呼吸をした。昨日の夕方、カップ麺を忘れて絶望の淵にいた女の子とは別人のように、その表情は晴れやかでエネルギーに満ちあふれている。
「それじゃあ、そろそろ美味しい朝食の準備を始めようか」
「やったぁ! 料理のお手伝い、私に全部任せてください!」
私たちはテキパキと動き出し、昨夜と同じ中央のテーブルにガスバーナーとスキレット、クッカーをセッティングした。朝の澄んだ空気の中で調理を始めるこの時間も、キャンプの大きな醍醐味の一つだ。
今日の朝食のメニューは、昨日よりもさらに気合を入れた贅沢なラインナップにしていた。
まずメインとして取り出したのは、『フラワートルティーヤの朝食ブリトー』だ。
モチモチとした市販のフラワートルティーヤ(薄焼きパン)を軽く温め、その上にジューシーに炒めたウインナー、ふんわりとしたスクランブルエッグ、シャキシャキのレタス、そしてとろけるチーズをたっぷりと乗せてクルッと手際よく巻き上げる。仕上げにスキレットの表面を軽く焼き目がつくまで香ばしくローストすると、小麦とバターのたまらない香りが周囲にフワッと立ち込めた。
そして汁物には、朝の冷えた体に優しく染み渡るスープを用意する。
カット野菜とトマトの『ミネストローネ』だ。
市販のカット野菜、ベーコン、そして旨味の詰まったトマト缶をクッカーに入れ、コンソメスープベースでコトコトと煮込むだけ。手軽でありながら、トマトの酸味と野菜の甘みがギュッと凝縮された本格的なスープが完成する。
さらに、甘いものには目がない女の子同士の特権として、デザートも忘れてはいない。
バナナとメープルの『フレンチトースト』。
あらかじめ卵液(卵、牛乳、砂糖)にたっぷりと浸しておいた食パンを、バターを引いたスキレットでこんがりと黄金色に焼き上げる。ジューシーに火が通ったトーストの上に、スライスしたバナナを並べ、上から黄金色のメープルシロップをたっぷりと回しかければ、まるで街のカフェのモーニングのような一皿が仕上がった。
「わぁ……! これ、本当に私たちがキャンプで作ってるんですよね……!?」
羽鳥さんは、目の前に並んだ色鮮やかで美味しそうな朝食の数々を見て、目をハート型にさせながら両手をパチパチと叩いた。
「うん、材料をあらかじめ下準備して小分けにしておけば、キャンプ場でも簡単に本格的な朝ごはんが作れるのよ。さあ、冷めないうちにいただきましょうか」
「はいっ! いただきます!」
私たちはそれぞれ、焼きたてのブリトーを両手でしっかりと持ってガブリとかじりついた。
「んんーーーーっ……! 美味しいっ……! トルティーヤの生地がモチモチしてて、中からチーズがとろけ出して、スクランブルエッグとウインナーの塩気が絶妙にマッチしてます……!」
羽鳥さんは目を丸くして感動を表現しながら、すぐにお椀を手に取ってミネストローネのスープを一口すすった。
「はぁぁ……、このトマトの酸味と温かさが、朝のひんやりした体に染み渡る……。生き返るようです……」
「トマトのビタミンと野菜の栄養がたっぷり入ってるから、今日のエネルギーチャージにはぴったりよ。ほら、デザートのフレンチトーストも食べてみて」
私が勧めたフレンチトーストを一口食べた羽鳥さんは、あまりの美味しさに思わずほっぺたを押さえた。
「バターの香りとメープルシロップの甘さが、トロトロのバナナとベストマッチです……。こんなに優雅で贅沢な朝食が野外で味わえるなんて、私、本当に夢を見ているんじゃないかって思っちゃいます」
彼女は満面の笑みを浮かべ、それからふっと遠い目をして呟いた。
「……あのとき、もしカップ麺を忘れていなかったら、私は一人でコンビニのパンをモソモソと食べて、そのまま寂しくテントに戻っていたはずなんです。そう思うと……カップ麺を忘れて、本当に大正解だったよ、更科さん!」
「あんなに絶望していたのに、ポジティブに回収するんだね」
「だってもう、今日という日があまりにも楽しすぎて、昨日の絶望が遠い昔のことみたいに思えるんですもん!」
朝の光を浴びながら、私たちは他愛のない冗談を言い合い、朝食のプレートを綺麗に平らげた。お腹も心もこれ以上ないほど満たされ、最高の一日のスタートを切ることができたのだった。
朝食を片付けたあとは、午前十一時のチェックアウトの時刻に向けて、少しずつキャンプギアの撤収作業を進めていった。
昨日使った焚き火台の灰を丁寧に処理し、ペグを一本ずつ土から抜いて泥を拭き取り、ワンポールテントのフライシートを綺麗に畳んでスタッフバッグに収めていく。羽鳥さんも自分のテントの片付けに悪戦苦闘しながらも、私に教わりながらテキパキと荷物をまとめていく。
「ふう、なんとか全部パッキングできました……! キャンプって、来る時はワクワクですけど、帰る時は『あぁ、終わっちゃったんだな』って少し切なくなりますね」
自分のザックとバッグを綺麗に並べ終えた羽鳥さんは、名残惜しそうに自分が過ごしていたサイトを見回した。
「そうね。でも、綺麗に片付けたあとのサイトを見るのも、それはそれで達成感があって好きよ。さあ、忘れ物がないか最後にもう一度チェックしておきましょう」
そうしてから、私たちは管理棟に立ち寄り、お世話になったキャンプ場に挨拶を済ませてから、近くのバス停へと向かう帰路についた。
美山の自然美に別れを告げ、心地よい疲労感を体に感じながら、私たちは京都駅へと向かう路線バスの座席に並んで腰掛けた。
ガタンゴトンと心地よい揺れを立てるバスの窓から、新緑の山々や澄んだ由良川の流れがゆっくりと後ろへと流れていく。車内は静かで、乗客もまばらだった。
隣の窓際で、羽鳥さんは少しだけ気恥ずかしそうに指先をもじもじと動かしてから、ゆっくりと私の方を向いた。
「更科さん……。今回は本当に、最初から最後までお世話になりっぱなしで……ありがとうございました。カップ麺を忘れたときはどうなることかと思ったけど、人生で一番素敵な思い出になりました」
彼女は深々と頭を下げた。その真剣な眼差しには、出会ったときのネガティブな影は微塵もなく、確かな信頼と温かな親愛の情が宿っていた。
「ううん、私も一人で本を読むだけのソロキャンプも好きだけど、羽鳥さんのおかげで予想外に賑やかで楽しい時間を過ごせたわ。こちらこそありがとう」
そう言って微笑みかけると、羽鳥さんは少しだけ頬を朱に染め、それから思い切ったように自分の両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「あの……、更科さん。図々しいお願いなんですけど……私、今回のキャンプですっかりアウトドアの楽しさに目覚めちゃったんです。それに、昨日の夜にビデオ通話でお話しした『星キャン』の皆さんのことも、すごく素敵だなって思って……。あの、もし迷惑じゃなければ……私、その『星キャン』のグループに……入れてもらうことって、できますか?」
一気に言い切った彼女の顔は、緊張と期待で真っ赤に染まっていた。振る舞いは少しおっちょこちょいかもしれないけれど、目の前のことに真っ直ぐで、誰とでもすぐに心を通わせられる素直さを持っている。
私はその質問を待っていたかのように、嬉しそうに目を細めてうなずいた。
「もちろんよ。私なんかがいいのかなって思ってるかもしれないけど、奏多君たちもきっと大歓迎してくれるはずよ。みんな新しい仲間が増えるの、絶対に喜ぶから」
「ほんとですか……!? 私みたいなドジっ子でネガティブな人間でも、あの素敵なグループの仲間に入れてもらえるんですかっ……!」
「うん。それに、羽鳥さんみたいに一生懸命で明るい子が加わってくれたら、これからのキャンプがもっともっと賑やかで楽しいものになると思うな」
私の言葉を聞いた瞬間、羽鳥さんの瞳から大粒の涙がポロリとこぼれ落ちた。
でも、それは悲しみの涙ではなく、嬉しさと安心感でいっぱいの、キラキラと輝く笑顔の涙だった。
「はいっ……! よろしくお願いします、更科先輩……いえ、美怜さん!」
「ふふ、うん。よろしくね、涼花ちゃん」
バスが京都市内の街並みに入り、賑やかなビルや見慣れたキャンパスの近くを通り過ぎていく。
窓の外の空はどこまでも高く青く晴れ渡り、私たちの胸の奥には、これから始まる新しい仲間との眩しい未来への期待が、温かく満ちあふれていた。




