第32話 石子地温泉の湯けむりと、画面越しに広がる新しい縁
スキレットですっかりお腹を満たし、芳醇なハーブの余韻に浸りながらまったりと過ごしていると、キャンプ場の夜気は一段と冷え込みを増してきた。初夏の山間部とはいえ、日が落ちてからの冷え込みは油断ならない。
そんな時こそ、この『美山町自然文化村キャンプ場』が誇る最高の贅沢──敷地内にある日帰り入浴施設『石子地温泉』の出番だった。
「ふう、お腹がいっぱいになった後の温泉なんて、文字通り天国ですね……!」
羽鳥さんは、持参した着替えを入れた小さなスパバッグを両手で大切そうに抱えながら、私と一緒に管理棟のほうへと歩き出した。その足取りは、夕方のカップ麺紛失事件ですっかり打ちひしがれていたときの面影が嘘のように、軽やかでウキウキとした弾みを帯びている。
「本当にね。由良川のせせらぎを聴きながら入る露天風呂は、日頃の大学の課題や講義の疲れをすっかり洗い流してくれるから、私もここのお風呂はすごくお気に入りなのよ」
「わあ、露天風呂があるんですか? しかもこの澄んだ空気の中でお湯に浸かれるなんて、想像しただけで最高です……!」
私たちは受付を済ませ、脱衣所で手際よく服を脱ぐと、心地よい木の香りが漂う浴室へと足を踏み入れた。
天井の高い内風呂でまず軽く汗を流してから、ゆっくりと戸外の露天風呂へと通じる引き戸を開ける。
「わぁ……!」
羽鳥さんが思わず感嘆の声を漏らした。
目の前に広がるのは、見上げるほどの漆黒の夜空に瞬く満天の星々と、ライトアップされた周囲の新緑が美しく重なり合う幻想的な空間だった。ひんやりとした夜風が火照った肌を優しく撫で、そのコントラストがたまらなく心地よい。
私たちは湯船にそっと身を沈め、肩までお湯に浸かった。
「はあぁ……生き返るぅ……」
羽鳥さんはお湯の中で小さく息を吐き出し、まるでトプコンのモグラが地表に顔を出したかのような、心底安心しきった表情で目を細めた。お湯の温かさが、キャンプの準備や慌ただしさでこわばっていた筋肉の芯までじわじわと染み渡っていくのが分かる。
「お湯の温度も熱すぎずぬるすぎず、ちょうどいい塩梅ね」
「そうですね……。更科さんとこうして並んでお湯に浸かっていると、なんだか夢を見ているみたいです。大学で遠くから見つめるだけの存在だったマドンナの更科さんと、まさか美山の温泉で一緒に星空を見上げるなんて、以前までの私には絶対に想像できなかった未来です」
お湯の中で小さくパシャパシャと水音を立てながら、羽鳥さんは少し照れくさそうにはにかんだ。
「マドンナはやめてって言ったはずだけど。でも、こうして同じ学部で、同じようにキャンプを好きになる子と出会えたのは、私もすごく嬉しいわよ。大学の講義のこととか、今度キャンパスでも一緒に図書館で勉強したりしましょうか」
「本当ですか!? ぜひお願いします! 私、レポートでいつも行き詰まっちゃうから、賢い更科さんに教わえたら百人力です……!」
湯けむりの向こう側で羽鳥さんがパッと顔を輝かせる。温泉の効能も相まって、彼女の頬はほんのりとピンク色に染まり、とても可愛らしい。
私たちはそれからしばらくの間、大学の講義の裏話や、最近お気に入りの小説の作家についてなど、他愛のないガールズトークを温泉の心地よいぬくもりの中で存分に楽しんだのだった。
§
温泉で身も心もすっかり温まり、湯上がりの火照った体を冷ましながら自分のテントサイトへと戻ってきた私たちは、お気に入りの折りたたみチェアに再び腰掛けた。
夜のキャンプサイトは、あちこちのテントから漏れるランタンの優しいオレンジ色の光が幻想的な雰囲気を醸し出している。
「ふう、やっぱり温泉のあとの飲み物は格別ですよね。あ、更科さん、これどうぞ!」
羽鳥さんが手際よくガスバーナーでお湯を沸かし、持参していたマグカップに純ココアの粉を溶かして、私に差し出してくれた。
「ありがとう、羽鳥さん。気が利くのね」
「へへっ、これくらいお茶の子さいさいです。美味しい夕ご飯をご馳走していただいたお礼ですからね!」
私たちはマグカップを両手でしっかりと包み込み、甘く濃厚なココアを一口ずつゆっくりと喉へと流し込んだ。カカオの芳醇な香りとミルクのコクが、夜風で少し冷えかけた体に優しく染み渡っていく。
静かに流れる由良川のせせらぎの音に耳を傾けながら、私たちは並んで星空を見上げていた。
その時だった。
ザッ……! ガサリ……!
キャンプサイトのすぐ脇にある薄暗い茂みの奥から、草木を激しく揺らすような低い物音が突然響き渡った。
「ひぃっ……!?」
羽鳥さんは持っていたマグカップを危うく落としそうになりながら、びくりと全身を硬直させ、音のした方へと怯えた目でしがみつくように身を縮こまらせた。
「な、なに今の音……!? まさか、熊……っ!? この美山の深い森から、飢えた熊が私たちを狙ってやってきたんじゃ……っ!」
「落ち着いて、そんなわけ──」
「ひゃああ、私もうダメだぁ! こんなところで若くして熊の餌食になって、消化されちゃうなんてあんまりだぁ! お父さん、お母さん、親不孝な娘を許してください……っ!」
見事なまでの超ウルトラネガティブ思考が発動し、羽鳥さんは頭を両手で抱え込んで地面にしゃがみ込んでしまった。目はすでにぐるぐると描けそうなほど真っ白になり、全身がブルブルと震えている。
「大丈夫だってば。この辺りはちゃんと管理されたキャンプ場だし、さっきの音はどうせ野生の小動物か、あるいはただ風で枝が揺れただけよ」
私は呆れたような、しかし少し可笑しそうな苦笑いを浮かべながら、彼女の肩をポンポンと軽く叩いて宥めた。
「ほ、ホントぉ……? 本当は実はグリズリー級の凶暴な野生動物が、私たちの柔らかいお肉を狙ってヨダレを垂らしているんじゃなくて……?」
「そんなわけないでしょう。ほら、見てみなさいよ」
私が懐中電灯の光をそっと茂みのほうへ向けると、草木の隙間から、ピクンと長い耳を動かした一匹の小さな野うさぎが、こちらをきょとんとした丸い目で一瞥したあと、ピョンピョンと慌てて闇の向こうへ跳ね去っていくのが見えた。
「あ……、うさぎさん……だったんだ……」
羽鳥さんはトロンと涙を浮かべた目をパチクリとさせ、ようやく全身の力を脱力させてその場にぺたりと座り込んだ。
「ほらね、言ったでしょう。あまり物事を何でも最悪の方向に結びつけないの」
「うう……、恥ずかしい……。私、さっき本気で遺言を脳内で書き留めかけてました……。更科さん、肝っ玉座りすぎですよ……」
顔を真っ赤にして赤面する羽鳥さんの頭を、私は「よしよし」とからかうように撫でてやった。
そんなハプニングのあと、私たちはすっかり落ち着きを取り戻し、焚き火の小さな炎を眺めながらまったりとした時間を過ごしていた。
「そういえば、更科さん。このキャンプ場って、山の中なのに意外と電波の繋がりがいいんですね。スマホのアンテナがバリバリ立ってますよ」
「本当だね。管理棟の近くは中継局が近いからかしら。SNSのチェックや連絡もスムーズにできそうね」
私の言葉に、羽鳥さんは「たしかに、さっきからSNSのタイムラインとかすごくサクサク動きますね」と感心したようにうなずいた。それを聞いて、私はふと、いつも仲間たちとワイワイ楽しんでいるグループキャンプの顔ぶれを思い出した。
「そうだ……。羽鳥さん、もしよかったら今、私の大切な仲間たちにビデオ通話で連絡してみない?」
「えっ……? 更科さんのお友達にですか……?」
羽鳥さんは目を丸くして、少しだけ緊張した面持ちで私を見つめた。
「うん。実は最近、私、仲の良いグループでよく一緒にキャンプをしていてね。みんなすごく賑やかで面白い人たちなんだ。ちょうど今、みんなもそれぞれの場所で過ごしている頃だし、電波が良いならちょっと顔を出してみたらどうかなって思って。もちろん、無理強いはしないけれど……どうかな?」
「わ、私みたいなのがいきなり画面に映ったら、きっとびっくりされちゃいますよね……。でも、更科さんが大切にしているお友達の皆さん、すごく気になります……! お邪魔じゃなければ、ぜひお話してみたいです!」
羽鳥さんは少しもじもじしながらも、好奇心とワクワク感が入り混じったような笑顔でコクリとうなずいた。
そこで私は、スマホを取り出してグループチャットを開き、ビデオ通話のボタンをタップした。
コール音が数回鳴ったあと、画面の向こうでパッと明るい映像が切り替わり、見慣れた顔ぶれが次々と映し出された。
『あ、美怜さんだー! お疲れ様です!』
最初に元気な声を響かせたのは七柰ちゃんだ。その隣には、いつもニコニコと優しい笑顔を浮かべる美波お姉ちゃん、そして穏やかな眼差しの夢乃さんや咲さんの姿もある。
『美怜ちゃん、ソロキャンプ楽しんでる? ちゃんと美味しいもの食べてるー?』
少し離れたところからは姫子さんの弾けたような明るい声が飛んでくる。さらに、画面の端には奏多君や、おっとりとした表情の正樹叔父さん、そして叶姉さんの姿まで見えている。
総勢8名もの大人数が集まっているものだから、一つのスマートフォンの画面に全員が収まりきらず、カメラの枠の奪い合いのようにみんながワイワイと顔を寄せ合っている。
『わぁ……! 画面いっぱいにすごい大所帯……!』
隣でその様子を覗き込んでいた羽鳥さんは、あまりの賑やかさと豪華な顔ぶれに気圧されて、思わず小さな悲鳴を上げて固まってしまった。
「皆、突然ごめんね。今ね、美山のキャンプ場でソロキャンプをしてるんだけど、さっきサイトですごく素敵な女の子とお友達になってね。一緒にビデオ通話に入りたがってたから、みんなに紹介したくて掛けちゃったの」
私がそう紹介すると、画面の向こうの空気が一気にさらに華やいだ。
『えっ! 美怜ちゃんにお友達ができたの!?』
『はじめましてー! 私は七柰です! よろしくねー!』
『こんばんは、美怜ちゃんとお友達になってくれて嬉しいわ。私は咲よ』
七柰ちゃんや咲さんをはじめ、みんな口々に温かい歓迎の言葉をかけてくれる。
「は、はじめまして……! 私、同じ大学の文学部で、美怜さんと同じテントサイトにいる羽鳥涼花と言います……! 今日、カップ麺を忘れちゃって飢え死にしかけていたところを、美怜さんにめちゃくちゃ美味しい手料理で救済していただいた不束者です……!」
羽鳥さんは緊張のあまり直立不動の姿勢になり、スマホの画面に向かって深々と90度のお辞儀をした。そのあまりの真面目すぎる自己紹介に、画面の向こうから一斉にクスクスと笑い声が漏れた。
『カップ麺忘れちゃったの? 可愛いー! 大丈夫だよ、美怜ちゃんの料理の腕前は確かだから、絶対お腹いっぱいになったでしょ!』
姫子さんが気さくに笑顔で手を振ってくれる。さらに美波お姉ちゃんが優しく微笑みながら話しかけた。
『涼花ちゃん、初めまして。美波だよ。美怜ちゃんは普段ちょっとクールに見えちゃうかもしれないけど、本当はすごく面倒見が良くて優しい子だから、ぜひ仲良くしてあげてね』
画面の向こうは相変わらずの楽しげな雰囲気に包まれている。
私はスマホのカメラを切り替え、今夜私たちが食べた『美山地鶏と季節野菜のスキレット・ハーブロースト』やメスティンご飯の写真をみんなに見せた。
「見てよ、これ。今夜私たちが作った夕食のメニューなんだけど、羽鳥さんもすごく美味しそうに食べてくれたのよ」
『わぁ、すっごく美味しそう! ハーブの香りがこっちまで伝わってくるみたいです! 奏多君、今度私たちもこれ作ってみましょうよ!』
夢乃さんが楽しそうに隣の奏多君に話しかけ、奏多君も「うん、いいね! いつかキャンプで作ってみよう」と爽やかに笑う。
大学の日常から離れた場所で、私の大切な仲間たちと、新しくできた友人である羽鳥さんが、こうしてスマホの画面を通して一つに繋がっている。その不思議で温かな縁の広がりを実感しながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
それからもしばらくの間、次のキャンプの計画や、美山の自然の素晴らしさについてワイワイと楽しく語り合い、画面越しにみんなと笑顔を交わしたあと、私たちは名残惜しくもビデオ通話を終了した。
「ふう……。なんだか、夢みたいな時間でした……。美怜さんのご友人たちの皆さん、本当に温かくて素敵な方たちばかりですね。私、すっかりファンになっちゃいました」
羽鳥さんはスマホの画面が暗くなったあとも、まだ興奮冷めやらんといった様子で自分の胸に手を当てて深く息をついた。
「でしょう? あんな風にいつも賑やかで、温かい人たちに囲まれているの。今回は私一人のソロキャンプだけど、こうして新しい出会いがあって、皆とも繋がれて、本当に最高の休日になったわ」
時計の針はすでに深夜をまわり、周囲のキャンプサイトはすっかり深い静寂に包まれていた。由良川のせせらぎの音だけが、サラサラと規則正しく私たちの夜を優しく包み込んでいる。
「そろそろ、明日の朝の撤収もあるし、テントに入って寝ましょうか。羽鳥さん、今日は本当に色々な意味でドラマチックな一日だったわね」
「はいっ! カップ麺を忘れたときはどうなることかと思ったけど、人生で一番最高で忘れられないソロキャンプになりました。更科さん、おやすみなさい!」
私たちはそれぞれのテントのジッパーをゆっくりと引き下ろし、温かな寝袋の中にもぐりこんだ。
頭上に広がる満天の星空に見守られながら、私は心地よい疲労感と幸福感に身を委ね、穏やかな眠りへと落ちていくのだった。




