第31話 美山の清流と、思わぬ隣人のパニック
新緑が深く色づき始め、木々の隙間からこぼれる木漏れ日が心地よい初夏の季節。
京都市内の喧騒を離れ、北へ車を走らせた先にある南丹市美山町。
昔ながらの日本の原風景が色濃く残る『かやぶきの里』で知られるこの町の一角に、豊かな自然に抱かれた『美山町自然文化村キャンプ場』は静かに佇んでいる。
敷地脇を穏やかに流れるのは、底まで透けて見えるほど透明度抜群の由良川だ。川面を渡る風はどこかひんやりとしていて、せせらぎの音が耳に心地よく響く。
そのキャンプ場のフリーサイトの一角に、洗練されたダークグリーンのワンポールテントを美しく設営し終えた私──更科美怜は、今、お気に入りの折りたたみチェアに深く腰掛けていた。
最近は、奏多君や姫子さんたち『星キャン』の仲間たちと賑やかで楽しいグループキャンプをすることが続いていた。大人数で囲む焚き火や、みんなで作るダイナミックな料理の数々は、どれもかけがえのない最高の思い出だ。
けれど、それとはまた違うベクトルで、たまにはこうして一人きりで静寂に身を委ねるソロキャンプの時間も、私にとっては欠かせない大切なルーティンだった。
静かにコーヒーを啜りながら、私が手に取っているのは一冊の本。
カナエ先生の『放課後のアンサンブル~君と過ごしたあの夏~』シリーズの待望の新刊だ。
「……相変わらず、鮮やかな描写だわ」
ページをめくるたび、吹奏楽部のコンクールに向けて青春のすべてを賭ける高校生たちの熱量が、活字を通してビシビシと伝わってくる。汗の匂いや、楽器の金属が放つ冷たい輝き、そして仲間とぶつかり合いながらも絆を深めていく瑞々しい感情の揺らぎ。読んでいるだけで、私自身の胸の奥まで熱く満たされていくような感覚があった。
それに、このキャンプ場の大きな魅力といえば、何といっても敷地内にある日帰り入浴施設『石子地温泉』の存在だ。汗をかいたあとに露天風呂へ直行できるなんて、ソロキャンパーにとってはこれ以上ない贅沢の極みと言える。
豊かな自然、静寂、読書、そして温泉。完璧な休日を満喫していたその時だった。
ガサゴソ、バタバタ……!
静寂に包まれたキャンプサイトに、妙に慌ただしく、どこか切羽詰まった物音が響き渡った。
「うう……、嘘でしょ……? そんな、どうして……ない、ない……ッ!」
耳を澄ますと、すぐ隣の区画にテントを張っていたソロキャンパーの女の子が、自分のバッグやコンテナボックスの中身をひっくり返す勢いで、必死に何かを探しているのが見えた。
彼女はきれいに二つ結びにしたお下げ髪を揺らしながら、半泣き状態で荷物の山をかき分けている。年齢は私と同じくらい。
見かねた私は、栞を挟んで本を閉じ、ゆっくりと立ち上がって彼女のテントサイトへと歩み寄った。
「あの、どうかしたの? 何か探し物?」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、まるで幽霊でも見たかのような驚愕の表情でこちらを振り返った。
「えっ……? うそ、まじ……? もしかして、学部で噂のクールビューティーマドンナ、更科さん……!?」
予想外すぎる返答に、私は思わずまばたきをした。
「はい? マドンナなんて大層なものじゃないけれど……」
「あ、あわわわ! 失礼しました! 私、同じ文学部の講義がいくつか被ってる羽鳥涼花です! まさかこんなところで更科さんに遭遇するなんて……!」
羽鳥さんと名乗ったその女の子は、真っ赤になりながら慌ててお辞儀をした。ネガティブというか、表情や感情がくるくる変わる忙しい子のようだ。
「そうなんだ、奇遇ね。同じ大学の人が近くにいるなんて思わなかったわ。それで、さっきからすごく慌てていたみたいだけど、何かトラブルでもあったの?」
私が優しく問いかけると、羽鳥さんは途端にガックリと両肩を落とし、まるでこの世の終わりみたいな顔でうなだれた。
「それが……聞いてくださいよ、更科さん。私、今日の夕食用にすごく楽しみにしていた大好物のカップ麺と、あとちょっとしたお惣菜のパックを大きめのトートバッグの底に入れておいたはずなんです。なのに、いざ食べようと思って荷物を探したら……どこにも、影も形もないんです……!」
「バッグを忘れてきちゃったのかしら?」
「はい……もしかしたら実家の玄関に置き忘れちゃったのかも……っ!」
羽鳥さんは頭を抱え、目の端にうっすらと涙を浮かべながら震え声を絞り出した。
「どうしよう……。このままじゃ私、今日の夜を越えられずに餓死しちゃう……。美山の野生の鹿の餌食になるか、それとも冷たい川の藻屑と消えるしかないんだ……!」
「……一食か二食抜いたくらいで、人間は餓死したりしないと思うけど」
あまりの飛躍したネガティブ思考に、私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。でも、お腹を空かせたキャンパーにとって、夕食を失う絶望感は痛いほどよく分かる。ましてや、初めてのソロキャンプに近い状況ならなおさらだ。
私はトランクの方へ少し目をやり、それから彼女の不安そうな顔を見つめ直した。
「よかったら、私の夕飯を少し分けてあげましょうか? ちょうど今から作ろうと思っていたところだし、一人分としては少し多めに材料を持ってきてるから」
「えっ……? そ、そんなの申し訳ないです! 更科さんの貴重なディナーを私が奪うなんて、そんな恐れ多いことは……っ!」
「大げさだなあ。それに、こんな綺麗な川のほとりで誰かがお腹を空かせて泣いているのを横目に、一人だけ美味しいご飯を食べるのは、さすがの私も気が引けるわ」
そう言って微笑みかけると、羽鳥さんは申し訳なさそうにしつつも、お腹の虫がキュルルと盛大に鳴る音を隠しきれず、真っ赤な顔で小さくうなずいた。
「……じゃあ、お言葉に甘えても……いいですか? その代わり、私にできるお手伝いなら何でもしますから!」
こうして、静かに一人で本を読むはずだった私のソロキャンプの夜は、想定外の賑やかな共同ディナーへと様変わりすることになったのだった。
すっかりと太陽が山の端に沈み、キャンプ場の空は濃い藍色から夜の帳へと移り変わっていく。周囲のテントからも、あちこちで焚き火の煙や、夕食を準備する楽しげな話し声が漂い始めていた。
私たちのサイトの中央には、小さなポータブルの焚き火台と、ガスバーナーをセットしたテーブルが置かれている。
「すごいですね、更科さん! ソロキャンプなのに、こんなにおしゃれなスキレットやスパイスボックスを持ってきてるなんて、まるで雑誌のワンシーンみたいです」
羽鳥さんは、私の手際を横で見つめながら、目をキラキラと輝かせている。さっきまでの絶望モードが嘘のように、すっかり好奇心旺盛な女の子の顔に戻っていた。
「道具にこだわり出すとキリがなくなっちゃうのよ。今回の夕食メニューはね、美山の恵みをたっぷり味わうスキレットディナーにするつもりなの」
私がそう告げると、羽鳥さんは「おぉ……!」と身を乗り出した。
メインとなるのは『美山地鶏と季節野菜のスキレット・ハーブロースト』だ。
ジューシーな鶏肉に、ひとくち大に切ったじゃがいも、玉ねぎ、パプリカなどのゴロゴロ野菜をふんだんにスキレットに入れ、オリーブオイルとハーブ塩、ニンニク、そして隠し味の醤油でじっくりと香ばしく焼き上げる。事前に下味をつけてジップロック等の密閉袋で持参していたため、現地ではスキレットに流し込んで火を通すだけで、手間いらずで本格的な味わいが楽しめる優れものだ。
さらに、汁物として用意したのは『具だくさんポトフ』。
ソーセージや余った野菜をコンソメスープでコトコトと煮込むだけで、冷えてきた夜の体にじんわりと染み入る温かさを作り出す。
そして、お米は『メスティンで炊く美山のお米』だ。現地の道の駅で手に入れたばかりのピカピカの新米を、ソロ用のメスティンでじっくりと炊き上げる。
「うわぁ……いい匂い! お腹の底から食欲が刺激されていきます……。私、実はキャンプってただのサバイバルだと思ってました。でも、こんなに美味しいご飯が食べられるなら、ハマる人の気持ちがすごくわかります」
「そうよ、不便を楽しむのもキャンプの醍醐味だけど、やっぱり美味しいご飯は旅の最大の楽しみだもの。はい、羽鳥さん、じっとしてないで、この串焼き用の野菜をカットするのと、ポトフの具材を鍋に入れるの、手伝ってくれる?」
「はいっ! 任せてください!」
羽鳥さんは気合十分といった様子で、小さなアウトドアナイフとカッティングボードを両手でしっかりと受け取った。少しぎこちない手つきではあるものの、真剣な眼差しで野菜に向き合っている。
彼女の不器用ながらも一生懸命な姿を見ていると、なんだか微笑ましい気持ちになってくる。
前回の『星キャン』で、美波お姉ちゃんや姫子さんたちとワイワイ料理を作ったときの楽しさとはまた違う、穏やかで静かな時間がここには流れていた。
「あ、ニンニクの香りがすごく立ってきましたね! このハーブ塩の爽やかな香り、たまりません……!」
「そうね、地鶏の脂とハーブが混ざり合って、最高のソースになってくれるわ。そろそろご飯も蒸らしの時間が終わる頃ね」
ガスバーナーの火力を調整しながら、私たちは手際よく作業を進めていく。ポトフのスープからはポトフ特有の優しいコンソメの香りが漂い、スキレットからはジュージューと食欲をそそる芳醇な音が響き渡る。
「お待たせ。できたわよ」
「わぁ……! いただきます!」
私たちはそれぞれ木製のプレートに、炊き立てのツヤツヤしたご飯と、ハーブロースト、そして温かいポトフを綺麗に盛り付けた。
「んんーーーーっ……! 美味しい……っ! 地鶏の旨味が皮までパリッと閉じ込められていて、ハーブとニンニクの風味が口いっぱいに広がる……それに、このメスティンで炊いたお米の甘さがまた格別です……!」
羽鳥さんは一口食べるごとに、全身で感動を表現するようにパタパタと手を揺らしている。その美味しそうな食べっぷりを見ているだけで、私までなんだか胸がいっぱいになって嬉しくなった。
「よかった。口に合って何よりだわ」
「あの、更科さん。私、さっきはあんなに情けなく取り乱しちゃって……。でも、こうして美味しいご飯を分けてくださって、本当にありがとうございます。私、大学でもっと更科さんとお話ししたかったんですけど、いつもクールで凛とされていて、なんだか近寄りがたいオーラがあったから……」
羽鳥さんは少し恥ずかしそうに頬をポリポリとかきながら、小さな声で本音を漏らした。
「クールビューティー、だっけ?」
「ひゃっ! 聞こえてました!?」
「ふふ、さっき自分で言ってたじゃない。そんなに硬くならなくていいわよ。私も普段は本を読んでばかりのただの大学生だし、キャンプの時はこうしてのんびり過ごすのが好きな、ごく普通の女の子なんだから」
私の言葉に、羽鳥さんはほっとしたように胸を撫で下ろし、くすくすと笑った。
「なんだか、今日のキャンプは一生忘れられない思い出になりそうです。カップ麺を忘れたときはどうなることかと思ったけど、結果的に更科さんとこうしてゆっくりお話できて、本当によかった……!」
「そうね。人生、何がきっかけで面白い出会いに繋がるか分からないものだわ」
夜の帳が完全に下り、頭上には満天の星空が広がっていた。由良川のせせらぎがサラサラと心地よいBGMとなり、私たちの焚き火の炎を優しく揺らしていく。
温かい夕食を囲みながら、私たちは大学の講義のことや、好きな小説のジャンル、そしてそれぞれのこれからの夢について、時間を忘れて語り合った。一人で静かに過ごすソロキャンプも素晴らしいけれど、こうして思いがけない縁で温かな誰かと分かち合う夜も、決して悪くない──いや、むしろ何物にも代えがたい贅沢な時間なのだと、私は心の底から実感していた。




