第23話 星降る夜のシネマナイトと、名前を呼ぶ距離感
コテージを包み込んでいた夕闇は、いつの間にかより深く、吸い込まれそうなほどの漆黒の夜へと姿を変えていた。
外では、山あいの冷えた夜風が木々の葉を揺らし、カサカサと心地よい衣擦れの音を立てている。
コテージの室内は温かで穏やかな空気が満ち、天井の暖色系の照明に加え、アンティーク調のオイルランタンの優しい光が、部屋の隅々まで柔らかなオレンジ色の影を落としている。
「ふぁぁ……美味しいご飯でお腹がいっぱいになると、なんだか急にまったりしたモードになっちゃうねぇ」
七柰はコテージの中央に置かれた大きなウッドテーブルの脇で、ふうっと小さく息を吐きながら両手をパタパタと動かす。その表情には、一日中大自然の中で遊び尽くした心地よい疲労感と、夜の部への期待感が入り交じっていた。
「本当ね。外の空気がひんやりしてきた分、こうして暖かいお部屋に戻ってくると、なんだかホッとするわ」
桐嶋さんはマウンテンパーカーを脱ぎ、すっきりと動きやすい上品なニット姿になりながら、ソファの端に優しく腰掛けた。眼鏡の奥の瞳が、ランタンの光を反射してきらりと知的におしゃれに輝いている。
広々とした室内には、皆でゆったりとくつろげる大きめのソファやクッションが並び、まるで自宅のリビングにいるかのような居心地の良さを演出してくれている。
「さてさて、お腹の準備も心の準備も完璧になったことだし……。いよいよ今夜のメインイベント、みんなでまったり楽しむ『コテージ映画鑑賞会』の始まりだよ!」
宇都宮さんが両手をパンと大きく叩いて気合を入れると、部屋全体の空気が一気にワクワクとした高揚感に包まれた。
「それじゃあ、さっそく映画を選ぼうか。みんな、今夜は何が観たい?」
とあらかじめ用意しておいたタブレット端末をテーブルの上に置いた。画面の光が、覗き込んだ僕たちの顔をぼんやりと青白く照らし出す。
「えーと、キャンプで美味しいご飯をたくさん食べたばかりですけど、グルメな内容で、観ていてすっごくハッピーになれる映画がいいなぁ!」
七柰が両手を合わせて目を輝かせながらリクエストする。
「おっ、いいねぇ七柰ちゃん! それなら、私のとっておきのオススメがあるよ。ほら、この映画なんだけど……どうかな?」
宇都宮さんがタブレットの画面をスルスルとスクロールさせ、一つの作品を指さした。そこに映し出されていたのは、鮮やかなフードトラックと、腕利きシェフの笑顔が描かれたおしゃれなポスターだった。
「あ、これって……!」
桐嶋さんがすぐに気づいたように声を上げる。
「そう、三ツ星レストランのシェフがいろいろあって、自分のフードトラックを始めて再起を目指す映画なんだよね! 観ているだけで、とびきり美味しそうな料理が次々に出てきて、最高にハッピーで心地よい気分になれるヒューマンドラマなの!」
宇都宮さんが熱っぽく解説すると、美波さんも「あ、私、その映画気になっていたの! 音楽もすごく素敵らしいし、まさに夜のまったりした時間に観るのにぴったりだね」と大きく賛同した。
「じゃあ今夜の一本目は、そのフードトラックの映画に決定だね」
宇都宮さんがそう言ってタブレットを操作して再生ボタンを押すと、タブレットの画面から、リズミカルで心地よい音楽と、南国を思わせる鮮やかな映像がフワッと広がった。
僕たちは、ソファや床に並べられたふかふかのクッションに思い思いの体勢で身を預け、映画の世界へと引き込まれていった。
作中で次々と生み出されるアツアツのキューバサンドや、香ばしいスパイスの香りが画面越しに伝わってくるような料理の数々に、さっきまでお腹いっぱいだったはずの僕たちの胃袋が、再び優しく刺激されていく。
「うわぁ……美味しそう……。あんなの絶対、深夜に観たら反則ね……」
更科さんがお腹のあたりをそっと押さえながら、うっとりとした表情で呟く。
クスッと笑えるユーモアと、家族や仲間との絆を描いた心温まるストーリーに、コテージのなごやかな雰囲気がさらに深まっていく。
美味しい料理があり、大切な仲間たちと過ごしているこの極上の時間そのものが、映画の登場人物たちに負けないくらい最高にハッピーなものに感じられた。
§
約二時間にわたる三ツ星シェフのフードトラックの物語が温かなエンディングを迎え、心地よい余韻に浸りながらエンドロールを眺めていると、宇都宮さんがパッと明るい声で振り返った。
「ふぁぁ、最高に癒やされたねぇ! お腹も心もすっかり満腹だよ。でも、夜はまだまだこれからだし、せっかくだからもう一本くらい何か観ちゃう?」
その提案に、部屋中のメンバーが「そうですね!」「もう一本いきましょうか!」と口々に賛同した。
「じゃあ、次の作品は何にする? 誰かリクエストある?」
宇都宮さんがそう言ってタブレットの画面を再び選択画面に戻そうとした時、ひときわ元気よく、スッと手を挙げた人物がいた。
「はいっ! 私、次の映画は決めてます!」
声を弾ませたのは、七柰だった。妹のパッチリとした目は、なぜかいつも以上に妖しく、そして楽しげにキラキラと輝いている。
「おっ、七柰、何か観たいお目当ての作品があるのか?」
「うんっ! 私、次は、スリルがあってドキドキするような、ホラー映画が観たいです!」
七柰のその無邪気な一言が、コテージの空気を一瞬にしてピタリと凍りつかせた。
ホラー。
その二文字が聞こえた瞬間、部屋の隅で映画の感想を語り合っていた更科さんの動きが、まるでスローモーションのようにピタリと止まった。
「え……? ホラー……?」
聞き返すように七柰の顔を見る更科さんの顔から、スッと血の気が引いていくのがはっきりと分かった。彼女の美しい顔がみるみるこわばり、唇が小さくわなわなと震え始める。
「ホ、ホラー……? ホントに……? いや、あの、キャンプの夜にホラー映画なんて、雰囲気にそぐわないんじゃ、その……」
更科さんは、引きつった笑みを貼り付けながら言葉を濁らせた。
その様子を斜め前からじっと見つめていた宇都宮さんが、ニヤリと意味深な笑みを浮かべながらスルスルと彼女に近づいていった。
「あれれ~? 更科さん?」
宇都宮さんは更科さんの顔をのぞき込むようにして、小首をかしげる。
「もしかして更科さん……ホラーとか、めちゃくちゃ苦手だったりする……?」
「なっ……! だ、誰が苦手よ! そんなわけないでしょう!」
図星を突かれたのか、更科さんは慌てて声を裏返しながら立ち上がった。彼女のプライドが猛烈に反応しているのが、見ているだけで手に取るように分かる。
「そ、そんなことないわよ! 私がホラー映画ごときでビビるわけないじゃない! むしろホラーなんて大好物だし、余裕のよっちゃんよ! バッチコイよ! どんな怖いお化けでもかかってきなさいって感じよ!」
更科さんは必死に両腕を胸の前で組み、虚勢を張るように大きく胸を張ってみせた。
だけど、その足元はわずかにブルブルと震えており、目はあさっての方向を泳ぎまくっている。
その必死すぎる強がりっぷりを横目で見ながら、隣に座っていたお姉さんの美波さんが、ふっと優しく、そしてどこか楽しげなクスリとした笑い声を漏らした。
「もう……美怜ってば、相変わらず見栄っ張りなんだから。そんなに分かりやすく顔に書いてあるのに、強がりなんて言わなきゃいいのにねぇ」
美波さんが呆れたような、それでいて愛おしそうな目を向けると、更科さんは「お、お姉ちゃんまでそんなこと言わないでよ! 本当に平気なんだからね!」と、真っ赤になった顔でさらに声を張り上げた。
「ふふふ、そこまで言うなら、今夜の二本目は満場一致で『最恐心霊スポット・真夜中の山狩りドキュメンタリー』に決定だね!」
宇都宮さんが面白がってさらに煽るものだから、更科さんは「ちょっ、まっ、そんなガチなやつ決めるの――っ!?」と、本気で青ざめてその場に崩れそうになっていた。
結局、みんなでワイワイと話し合った結果(大部分は宇都宮さんの好奇心と七柰のワクワク感に押し切られる形で)、少しだけマイルドなホラー映画を観ることに落ち着いたのだけど──。
映画が始まってから十分も経たないうちに、その結末は最初から決まっていたかのように訪れた。
画面の暗い森の奥から、突如として不気味なノイズとともに画面いっぱいに映し出された怨霊のアップ。
「ひゃあぁぁぁぁーーーーっっっ!!???」
コテージ全体が揺れるのではないかと思うほどの、更科さんの絶叫が夜の静寂を切り裂いた。
「きゃあぁぁぁ! 出たぁぁぁ! 見ない! 私、絶対に見ないからぁぁぁ!!」
更科さんは恐怖のあまり目をぎゅっと固く閉じ、隣に座っていたお姉さんの美波さんの腕にしがみつくと、そのままソファの上に丸まってガタガタと震え出した。
「もう、美怜、落ち着いて。映画のキャラクターだから本当に飛び出してきたりはしないから」
美波さんは、怯えきって子猫のように小さくなっている妹の背中を、優しくポンポンとリズミカルに叩いてなだめ続ける。
「うわぁ……! 本当にめちゃくちゃ怖いやつじゃん……!」
七柰も最初は「ホラーが見たい!」と意気込んでいたものの、いざ始まってみると想像以上の本格的な怖さに気圧され、僕の腕にしがみつくようにして目を覆っていた。
「はははっ! 更科さん、さっきの『バッチコイよ!』の勢いはどこに行ったのさ!」
宇都宮さんはお腹を抱えて大爆笑し、桐嶋さんも「ふふ、でもこうやってみんなでキャーキャー言いながら観るホラーも、キャンプの夜ならではの醍醐味ね」と楽しそうに紅茶のカップを傾けている。
結局、その後の映画は肝心のホラーシーンのたびに更科さんの悲鳴が響き渡るという大騒動になり、笑いと恐怖(?)に満ちた賑やかな夜のシネマナイトは、こうしてあっという間に過ぎ去っていったのだった。
§
時計の針が夜の十一時を回り、さすがに一日中動き回った疲れがドッと押し寄せてきた僕たちは、そろそろ就寝の準備を始めることにした。
コテージの奥にある広めのベッドルームへと移動し、僕たちはレンタルしていた清潔な布団をみんなで並んでズラリと敷き詰めていく。
「うわぁ、こうやって皆で並んで布団を敷くと、なんだか修学旅行の夜みたいで、すごくワクワクしちゃいますね!」
七柰がふかふかの布団の上にゴロンと寝転がり、両手を大きく広げながら嬉しそうに足をバタバタとさせる。
「本当ね。お部屋全体がほんのり木の香りがして、すごく落ち着く空間だわ」
更科さんも、さっきまでのホラー映画の恐怖ですっかり疲れてしまったのか、お姉さんの美波さんに寄り添うようにして布団に潜り込みながら、ホッとしたような優しい笑みを浮かべた。
皆がそれぞれパジャマやリラックスウェアに着替えて布団の中に横たわったその時──。
部屋の明かりを落とした薄暗い空間の中で、宇都宮さんがふと、思いついたようにパッと顔を上げた。
「ねぇ、皆。ちょっといい?」
宇都宮さんの声に、布団に潜り込んでいた全員の視線がスッと彼女へと集まった。
「こうして一緒に京都からキャンプに来て、美味しいご飯を自分たちで作って、夜は映画を観てキャーキャー騒いでさ……。なんだか、私たちもうすっかり『最高の仲間』っていうか、本当の家族や昔からの大親友みたいな関係になってきたと思うんだよね」
宇都宮さんは少し照れくさそうに頬を掻きながら、まっすぐな目で僕や更科さん、そして美波さんを見渡した。
「だからさ、提案なんだけど……。これからは、お互いのことをもっともっと距離を縮めて、下の名前で呼び合わない? 水守君とか、更科さんとか、まだ苗字で呼んでる人たちともさ!」
「 下の名前で、ね……」
更科さんが噛み締めるように呟き、自分の胸元を軽く押さえる。
「そう! 私たちもうともにキャンプを愛する仲間なんだからさ、いつまでも『更科さん』とか『宇都宮さん』じゃ、なんだか少しだけよそよそしい気がしちゃってさ。ねぇ、どうかな?」
宇都宮さんのその提案に、桐嶋さんが上品に微笑みながらうなずいた。
「賛成だわ。私も、幼馴染みの姫たち以外ともっと仲良くなりたいと思っていたし、名前で呼び合う方がこのアットホームな雰囲気にはぴったりだもの」
「うんうん、私も大賛成! 皆下の名前で呼んだ方が絶対に楽しいよ!」
七柰も布団の中から勢いよく上半身を起こし、キラキラした目で賛成の意思を示す。
「そうだね……。宇都宮さんの言う通り、これだけ濃い時間を一緒に過ごしてきたんだし、もっと自然に呼び合えたら素敵だと思うよ」
僕がそう言うと、更科さんは少しだけ頬を赤らめながら、恥ずかしそうに下を向いた。
「なんだかちょっと照れくさい気もするけど……でも、私も皆とそんな風に家族みたいに親しくなれたら、すごく嬉しいな……」
更科さんがトロンとした目で呟くと、お姉さんの美波さんが優しくその頭をなでた。
「そうね、美怜。せっかくだから、今日をきっかけに皆で下の名前で呼び合いましょ。奏多君たちも、私のことも、『美波』って気軽に呼んでね」
美波さんの穏やかな言葉に、コテージの空気がさらに温かな絆で満たされていく。
「よし! じゃあ、今からお互いの下の名前を呼び合う練習をしながら寝ようか!」
宇都宮さん──姫子さんが元気いっぱいに宣言し、部屋中に温かな笑い声が広がった。
「じゃあ……おやすみ、奏多君……?」
更科さん改め美怜さんが、遠慮がちに僕の名前を呟く。
「おやすみ、美怜さん」
僕が答え、他の皆もそれぞれ、少し照れくさそうな声音で下の名前を呼び合い始めた。
満天の星空が広がる大森リゾートキャンプ場の夜。
コテージの布団の中で並び合う僕たちの距離は、今日の楽しい思い出とともに、これまでよりもずっと近く、温かなものになっていった。




