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城の世璃  作者: 秦江湖


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番外編:硝子の塔の新しい子供(前編)

東京の夜は、星が見えない。

 その代わり、地上には人間たちが作った何百万もの光が、絶え間なく瞬いている。


「……退屈」


港区のベイエリア。地上五十階建てのタワーマンションの最上階で、あたしは分厚い防音ガラスに額を押し付けて呟いた。

 背後では、お兄様がイタリア製のソファに深く腰掛け、分厚い洋書を読んでいる。手元のクリスタルグラスには、犬飼が調達してきた「新鮮な血」が注がれていた。

 ここでの生活は快適だ。雨風もしのげるし、下界の騒音も届かない。お兄様と二人きりの、完璧なお城。


でも、たまには外の空気が吸いたくなる。


「お兄様。あたし、少しお散歩してくる」

「ああ。いっておいで」


お兄様は本から目を離さずに、優しく微笑んだ。


「犬飼さんをつけておこうか?」

「ううん、いらない。あいつの心臓の音、うるさくて嫌いだから」

「わかった。迷子にならないようにね。お腹が空いたら、適当につまんでいいよ」


まるで「戸棚のお菓子を食べていいよ」と言うような、甘い声。

 あたしは嬉しくなって、白いワンピースの裾を翻して玄関へ向かった。




専用エレベーターで地上に降りると、生ぬるい夜風が頬を撫でた。

 車の排気ガスと、アスファルトの匂い。

 あたしは裸足のまま、マンションの敷地内にある小さな公園へと歩いていった。

 綺麗に整備された人工芝。等間隔に植えられた、作り物みたいな木。

 西伊豆の、あの湿った深い森に比べると、ここはまるでプラスチックのおもちゃ箱みたいだ。


キィ、キィ。


金属が擦れる音が聞こえた。

 公園の片隅にある、小さなブランコ。

 そこに、一人の人間が座っていた。


男の子だった。

 年齢は、十歳か十一歳くらい。

 こんな夜中に、一人ぼっち。

 しかも、その服装は奇妙だった。季節外れの薄汚れた半袖シャツに、サイズの合っていないズボン。足元は、片方だけ踵が潰れたスニーカー。

 周囲にそびえ立つ高級マンション群とは、全く不釣り合いな存在だった。


あたしは、音も立てずに近づいた。

 鼻をひくつかせる。


――うわぁ。


強烈な匂いがした。

 安いアルコールの匂い。吐瀉物の匂い。

 そして、古い血と、皮膚の下で鬱血した血の匂い。

 極めつけは、彼の魂から立ち上る、濃厚な「絶望」と「死の予感」の匂いだった。


「こんばんは」


あたしが声をかけると、男の子はビクリと肩を震わせ、弾かれたように顔を上げた。

 街灯の光の下で、その顔が露になる。


……綺麗な顔。


それが第一印象だった。

 まつ毛が長く、線が細い。ガラス細工のように繊細な造形。

 でも、その美しい顔の右半分は、どす黒い痣で腫れ上がり、唇の端からは血が滲んでいた。

 男の子は、あたし――泥で汚れた白いワンピースを着て、裸足で立つ少女――を見て、目を丸くした。


「……だれ?」

「あたしは世璃。ねえ、どうしてそんなにボロボロなの? 転んだの?」


わざとらしく首を傾げて聞くと、男の子は怯えたように視線を落とし、自分の膝を強く抱え込んだ。


「……かえらないと。でも、かえりたくない」


蚊の鳴くような声。

 あたしは隣のブランコに座り、彼の脳波こころにそっと触れた。

 泥の王の力。人間の薄っぺらい思考なんて、本のページをめくるように簡単に読み取れる。


途端に、あたしの頭の中に「映像」が流れ込んできた。


――狭くて汚い部屋。

 ――酒瓶を握りしめて怒鳴り散らす男(父親)。

 ――ヒステリックに叫びながら、熱湯の入ったカップを投げつける女(母親)。

 ――蹴られ、踏みつけられ、髪を掴まれて引きずられる痛み。


『帰ったら、今度こそ殺される』


それが、この男の子の頭の中を支配している、たった一つの事実だった。

 両親の機嫌が、今日は最悪だ。今夜あのドアを開ければ、自分はきっと生きて朝を迎えられない。だから、この公園で震えながら、死刑執行の時間を先延ばしにしているのだ。


……ふうん。

 どこにでもある、つまらない人間の悲劇だ。

 普段なら「不味そうなお肉」として無視するところだけど。


あたしは、彼の中に、少しだけ「お兄様」の面影を見た。

 西伊豆の洋館で、両親の狂気と因習に縛られ、ただ消費されるのを待つしかなかった、かつてのお兄様。

 人間の子供って、本当に無力だ。

 自分より大きい大人が狂ってしまったら、逃げることもできずに、ただ殺されるのを待つしかない。


「ねえ」


あたしはブランコから立ち上がり、男の子の目の前に立った。

 そして、彼の腫れ上がった右頬に、そっと手を伸ばした。


「ひっ……!」


男の子が身をすくめる。

 でも、あたしが頬に触れると、彼は不思議そうに目を瞬かせた。

 あたしの体温は、爬虫類のように冷たい。その氷のような冷たさが、彼の熱を持った痣の痛みを、麻酔のように和らげたのだ。


「死ぬのって、怖いの?」


あたしが黄金色の瞳で見つめながら尋ねると、男の子は吸い込まれるようにあたしを見つめ返し、こくりと頷いた。


「……こわい」

「そう。じゃあ、死なない方法を教えてあげる」


あたしは、にっこりと笑った。

 牙の先が、唇から少しだけ覗く。


「そのまま、おうちに帰りなさい。

 何があっても、お部屋の隅でじっとしているの。

 そうしたら、あとで『遊び』に行ってあげるから」


「あそびに……?」


「うん。お掃除のお手伝い。

 ……約束だよ」


あたしは彼から手を離し、くるりと背を向けた。

 この子が、これから始まる「儀式」の痛みに耐えられる器かどうかはわからない。

 でも、もし耐えられたら。

 この美しいガラス細工みたいな男の子は、きっとお兄様も気に入る「可愛い弟」になるだろう。


「じゃあね。あとで」


あたしはスキップをしながら、夜の闇の中へ溶けていった。

 背後で、ブランコの男の子が、すがるような、でも得体の知れない恐怖に震えるような目で、あたしの白いドレスを見送っているのがわかった。


さあ、急がなきゃ。

 少しだけ、お腹も空いてきたしね。

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