番外編:硝子の塔の新しい子供(後編)
タワーマンションの裏手にある、カビ臭い団地の一室。
男の子が帰宅した途端、予想通りの地獄が始まっていた。
「どこほっつき歩いてたんだ、このクソガキッ!!」
酒焼けした父親の怒声と、鈍い打撃音。
男の子は玄関のたたきに蹴り倒され、頭を抱えてうずくまっていた。母親はそれを見下ろし、「あんたが産めって言ったんじゃない!」とヒステリックに叫びながら、手元の灰皿を投げつけた。
額から血が流れ、男の子の視界が赤く染まる。
父親が、台所から包丁を持ち出してきた。
ああ、今日で終わるんだ。男の子が目を閉じ、痛みに備えた、その瞬間。
ドガンッ!!
アパートの分厚い鉄扉が、爆発したように吹き飛んだ。
蝶番を引きちぎられた鉄の塊が、父親の顔面を直撃し、そのまま壁へと叩きつける。
静寂が落ちた。
「……え?」
母親が間抜けな声を漏らす。
土煙が晴れた玄関に立っていたのは、一人の美しい女だった。
十八歳くらいだろうか。濡れたような漆黒の長い髪と、純白のワンピース。陶器のように滑らかで大人びた肢体は、このスラムのような部屋には圧倒的に不釣り合いだった。
「約束通り、遊びに来たよ」
あたしは、微笑みながら部屋に入った。
裸足の足の裏で、父親から流れ出した血だまりを踏みつける。
「な、なんだお前! 警察を呼ぶぞ!」
我に返った母親が、金切り声を上げる。
うるさい。あたしは一瞬で距離を詰め、その細い首を片手で掴み上げた。
「が、ぎっ……!?」
「静かにして。近所迷惑でしょ」
あたしは、肉体のバネを使い、母親の首を万力のように締め上げた。人間の頸椎なんて、枯れ枝より脆い。
ボキリ。
くぐもった音と共に、女の首が奇妙な方向へ折れ曲がる。ゴミを捨てるように手を離すと、それは痙攣しながら床に転がった。
あたしは、壁際で固まっている男の子を見下ろした。
彼は、血だまりの中に立つあたしを、恐怖ではなく、どこか恍惚とした表情で見上げていた。まるで、地獄に舞い降りた天使を見るように。
「さてと。お肉の回収、手伝ってくれる?」
あたしは、台所に落ちていた包丁を拾い上げ、まだ温かい『両親だったもの』の解体を始めた。
*
深夜の地下駐車場。
犬飼は、黒塗りのセダンの運転席で、胃薬を水で流し込んでいた。
そこへ、後部座席のドアが開く。
乗ってきたのは、美しい女主人の世璃と……血まみれの服を着た、見知らぬ少年だった。
世璃の手には、ずっしりと重い、血の滲んだボストンバッグが握られている。
「……世璃様。その子は?」
犬飼の背筋に、嫌な汗が伝う。
世璃は、少年の肩を抱き寄せながら、無邪気に笑った。
「拾ったの。可哀想だったから、今日からあたしたちの弟にするの」
犬飼は息を呑んだ。
弟にする。それは、単なる保護ではない。彼らを縛る「泥の王」の呪いに、この少年を巻き込み、人間を辞めさせるという宣言だ。
怪物が、自らの意思で繁殖(増殖)を始めている。
その事実に、犬飼は絶望的な目眩を覚えたが、逆らうことなどできはしない。
「……承知いたしました。お出しします」
犬飼は震える手でエンジンをかけ、タワーマンションの地下駐車場へと車を走らせた。
*
ペントハウスの重厚なドアが開く。
あたしは、少年の手を引いてリビングへと入った。
「お帰り、世璃。……ずいぶんと大荷物だね」
窓際で、お兄様が振り返った。
その瞬間。
あたしの隣にいた少年が、ビクンッ、と全身を硬直させた。呼吸が止まり、小刻みな震えが彼の身体を支配する。
――無理もないわ。
暴力的な父親や、残酷なあたしとは次元が違う。
お兄様が放つのは、捕食者としての圧倒的な「格」だ。
黄金色に輝く瞳。完璧に均整の取れた冷たい美貌。蛇に睨まれた蛙のように、少年の本能が「この存在の前では、逃げることも死ぬことも許されない」と警告を発しているのだ。
少年は、恐怖のあまりその場にへたり込みそうになった。
「お兄様、この子、新しい家族にしようよ」
「ほう?」
お兄様は少年に近づき、その怯えた顎に手を添えて、顔を上げさせた。
少年は涙をポロポロとこぼしながら、声も出せずに震えている。
「……なるほど。いい目をしている。絶望の底を知っている目だ」
お兄様は満足そうに微笑み、少年の頭を優しく撫でた。
「歓迎するよ。君の地獄は、今日で終わりだ」
「さあ、ご飯にしましょう!」
あたしはボストンバッグから、綺麗に切り分けた「両親の肉」を銀の皿に並べた。
お兄様は、ワイングラスを用意し、自分の手首にナイフを当てた。赤い血――泥の王の因子である、灼熱のマグマ――が、グラスを満たしていく。
「さあ、食べなさい」
テーブルに座らされた少年の前に、生の肉と、血のグラスが置かれる。
自分を虐待していた両親の肉。
少年は震える手でそれを取り、目を閉じて、口に運んだ。
クチャリ、と咀嚼する音が響く。そして、血のグラスを一気に飲み干した。
「……あ、がッ……!?」
数秒後。
少年は喉を掻きむしり、カーペットの上に転げ回った。
『泥の王』の血が、彼の脆弱な人間の細胞を内側から焼き尽くし、再構築していくのだ。体温は異常に跳ね上がり、全身の骨が軋む音を立てる。
「痛いよね。でも、我慢するのよ」
あたしは、熱にうなされ、血の涙を流して痙攣する少年の頭を、膝枕で優しく撫で続けた。
お兄様も、ワインを傾けながら、その変異の過程を愛おしそうに見守っている。
人間としての死。そして、怪物としての産声。
この高熱は、数日は続くだろう。
*
三日後の夜。
東京の街は、相変わらず無数の光に包まれていた。
ペントハウスの窓際に、三つの影が並んでいる。
長身の青年と、美しい少女。
そして、新調された黒い服を着た、もう一人の少年。
「気分はどうだい?」
お兄様が尋ねると、少年はゆっくりと振り返った。
顔の右半分の痣は、完全に消え去っていた。
それだけではない。彼の瞳は、あたしたちと同じ、暗闇で爛々(らんらん)と輝く黄金色に染まっていた。
もう、彼の魂からは「恐怖」の匂いはしない。あるのは、冷たく透き通った狂気だけ。
「……お腹が、空きました」
少年は、窓の外の1000万人の光を見下ろしながら、妖しく微笑んだ。
「お父さんとお母さん……とっても、美味しかったです」
あたしとお兄様は顔を見合わせ、満足そうに笑い合った。
成功だ。あたしたちの、初めての家族。
犬飼が背後で青ざめている気配がしたが、そんなことはどうでもいい。
硝子の塔で、あたしたちの「お城」は、さらに大きく、強固なものになったのだから。




