ずっとお城でくらしたい
食後の片付けが終わると、リビングには再び静寂が戻った。
犬飼が、血のついたソファを丁寧に拭き清め、ワゴンと共に去っていく。
部屋に残ったのは、満たされた二匹の獣と、窓の外に広がる1000万人の夜景だけ。
お兄様は、窓際に立ち、グラスに残った赤い液体を揺らしていた。
その背中からは、かつての「儚さ」は完全に消え失せ、代わりに圧倒的な「孤高」が漂っている。
彼はもう、守られるだけの存在ではない。
この東京という巨大なジャングルに君臨する、食物連鎖の頂点だ。
「……ねえ、世璃」
お兄様が、ふと呟いた。
その視線は、夜景の彼方――遠く離れた西伊豆の方角を見ているようだった。
「那美は、僕を『外の世界』へ逃がそうとした」
「うん。そうね」
「あの子は、この広い世界で、僕に自由になってほしかったんだ」
お兄様は、自分の左足を見下ろした。 かつて那美が命を懸けて守ろうとした、人間の足ではない。 他人の肉と、怪物の細胞で練り上げられた、異形の足。
「でも、僕は結局、逃げられなかったね」
お兄様は自嘲気味に笑った。
「西伊豆の洋館を出て、こんな都会の真ん中に来ても。 僕たちは結局、分厚い壁とガラスで閉ざされた、自分たちだけの『城』を作って、引きこもっている。 やっていることは、あの頃と何も変わらない」
それは、那美への懺悔だろうか。 いいえ、違う。 お兄様の声には、後悔の色なんて微塵もなかった。 あるのは、深い満足と、揺るぎない確信だけ。
「違うよ、お兄様」
あたしは、お兄様の隣に並んだ。
ガラスに映る自分たちの姿を見る。
美しい青年と、可憐な少女。
でも、その正体は、人を喰らい、人を従え、永遠に生き続ける化け物だ。
「あたしたちは、逃げられなかったんじゃない。 『選んだ』のよ」
あたしは、お兄様の手を取った。
冷たくて、硬くて、愛おしい手。
「外の世界なんて、うるさくて、汚くて、退屈なだけ。 だから、あたしたちが心地よく暮らせる場所を、自分たちで作ったの。 それが『お城』よ」
場所なんて関係ない。 西伊豆の崖の上でも、東京の摩天楼でも。
お兄様とあたしがいて、誰にも邪魔されない空間があれば、そこがあたしたちの城になる。
那美。可哀想なお姉ちゃん。 あなたは「自由」こそが幸せだと信じていたけれど。 あたしたちにとっては、この「閉鎖された楽園」こそが、何よりの幸せなの。
「……そうだね」
お兄様は、あたしの髪にキスをした。
甘い血の匂いと、腐敗の香りが鼻孔をくすぐる。
「僕は、君といられればそれでいい。 たとえ世界中を敵に回しても。 たとえこの身が腐り果てて、土塊になっても」
お兄様は、窓ガラスに手を当てた。 眼下には、無数の人間たちが、明日の生活を憂い、泣き、笑いながら蠢いている。
彼らは知らない。 自分たちの頭上に、飢えた神々が住んでいることを。
「世璃。 僕たちは、これからもずっと一緒だ」
「うん。ずっと一緒よ」
あたしは、お兄様の胸に顔を埋めた。
ドクン、ドクン。
二人の心臓の音が重なり合い、一つのリズムを刻む。
それは、永遠に止まることのない、呪われた愛の鼓動。
外の世界では、時間が流れ、人が死に、時代が変わっていくだろう。
でも、このガラスの塔の中だけは、永遠に変わらない。
あたしたちは、今日も、明日も、その先も。 甘い毒と血の匂いに包まれて、微睡み続けるのだ。
そう。
あたしたちは、ずっとお城で暮らしてる。




