硝子の塔
場所は変わって、東京。 港区のベイエリアにそびえ立つ、真新しいタワーマンションの最上階。
ペントハウスのリビングは、全面ガラス張りになっていて、そこからは東京の夜景が一望できた。
地上の星空。 無数のビル群が放つ光の粒。高速道路を流れる車のテールランプ。 それら全てが、巨大な宝石箱をひっくり返したように輝いている。
「……綺麗ね、お兄様」
あたしは、冷たいガラスに額を押し付けて、眼下の光の海を見下ろした。 西伊豆の、あの漆黒の闇も好きだったけれど、この人工的な光も悪くない。
だって、この光の一つ一つが、全部「人間の命」なんだもの。
「ああ。絶景だ」
背後から、お兄様の声がした。 お兄様は、イタリア製の革張りのソファに深く腰掛け、クリスタルグラスを傾けている。 中に入っているのは、年代物のワイン……ではなく、もっと粘度のある、鉄の匂いがする液体。
お兄様の姿は、以前とは少し変わっていた。 髪を短く整え、オーダーメイドのスーツを着こなしている。
その立ち居振る舞いは、洗練された都会の紳士そのものだ。
異形の左足も、特注のズボンと靴で巧みに隠されている。
誰も、彼が人間ではないなんて気づかない。ただの「ミステリアスな大富豪」にしか見えないだろう。
ピンポーン。
控えめなチャイムが鳴った。 重厚な防音ドアが開き、執事服を着た老人が入ってくる。 犬飼だ。 白髪が増え、背中は少し丸まったけれど、その目は以前よりも鋭く、そして虚無的だった。 彼は恭しく一礼した。
「ご主人様。お客様がお見えです」
「通してくれ」
お兄様が短く命じる。 犬飼が下がり、代わりに一人の若い女が入ってきた。
派手なドレスを着た、モデル風の美女だ。 彼女は、緊張と興奮で頬を紅潮させている。
「は、はじめまして……! お招きいただき、光栄です」
彼女は、お兄様を見てうっとりとため息をついた。
無理もない。
今のお兄様が放つフェロモンは、人間を魅了する毒そのものだから。
彼女は、西麻布の会員制バーで犬飼にスカウトされ、ここまで連れてこられたのだ。
『特別なVIPパーティーがある』という甘い言葉に誘われて。
「よく来てくれたね。歓迎するよ」
お兄様が立ち上がり、紳士的に手を差し伸べた。 女は震える手でその手を取り、夢見心地でソファに座る。
「素敵な夜景ですね……。こんな場所に住んでいるなんて、まるで映画みたい」
「気に入ってくれたかい? ここは、僕たちの新しい『お城』なんだ」
お兄様は、女の隣に座り、優しく肩を抱いた。 女の鼓動が早くなるのが聞こえる。
期待。野心。そして、微かな違和感への不安。
それらが混ざり合った匂いが、部屋に充満する。
――美味しそう。
あたしは、窓際からその様子を眺めていた。 今日のメインディッシュだ。
西伊豆では、あんなに苦労して手に入れていた獲物が、ここでは向こうから勝手にやってくる。
玄関を開けて待っているだけで、欲に目が眩んだ人間たちが、蛾のように飛び込んでくるのだ。
「ねえ、君」
お兄様が、女の耳元で囁いた。
「僕のコレクションを見たくはないかい?」
「コレクション……ですか?」
「ああ。とても美しくて、残酷なコレクションだ」
お兄様の目が、妖しく光った。 女は催眠術にかかったように、お兄様の瞳に見入っている。
「……はい。見たいです」
それが、合図だった。
お兄様の口元が、ニヤリと歪む。 裂けた。 耳まで届くほどに、大きく。
「――ッ!?」
女が息を呑む。悲鳴を上げようとして、声が出ない。 お兄様の左手が、女の首を背後からガシリと掴んでいたからだ。
「いい声で鳴いておくれ。 ここは防音だから、誰にも遠慮はいらないよ」
ガブッ。
お兄様の牙が、女の白い喉に突き刺さった。
鮮血が飛び散り、高級な革のソファを汚す。
女の手足がバタバタと暴れるが、数秒でその動きは止まった。
あたしは、ゆっくりと近づいた。
お兄様が顔を上げ、血まみれの口で微笑む。
「おいで、世璃。 都会の味は、少し化粧品の味がするけれど、悪くないよ」
「うん。いただきます」
あたしは、女の腕に噛み付いた。
窓の外には、1000万の光。
そのすべてが、あたしたちの食料であり、おもちゃだ。
西伊豆の田舎で、コソコソと暮らしていた頃が懐かしい。
ここは天国だ。
あるいは、巨大な養豚場だ。
犬飼が、無表情でワゴンを押してくる。 新しいタオルと、掃除用具。
彼の手際は完璧だ。死体はすぐに処理され、跡形もなく消えるだろう。
そしてまた明日には、新しい「お客様」がやってくる。
あたしたちの饗宴は、終わらない。
この巨大な都市が、あたしたちを飲み込むのが先か。
あたしたちが、この都市を食い尽くすのが先か。
それは、誰にもわからない。
*************
死体の処理を終えた犬飼は、バックヤードの給湯室で、血のついたゴム手袋を外した。
老いた手には、無数の皺と、洗っても落ちない血の臭いが染み付いている。
彼は懐から、一枚の写真を取り出した。 スマートフォンの中にある画像だ。
留学先のヨーロッパで、晴れやかに笑う娘・美咲の姿。
彼女はピアニストになる夢を叶え、今は向こうで幸せな家庭を築いている。
『パパ、仕送りありがとう。孫の顔を見せに、いつか帰るね』
そんなメッセージが添えられている。 犬飼の口元が、わずかに緩んだ。
――来るな。一生、帰ってくるな。
彼は心の中で祈った。
この汚れた金で、お前は光の中を歩けばいい。
パパはここで、一生この化け物たちの世話をして、泥を被り続けるから。
それが、愚かな父親ができる、唯一の償いだ。
犬飼はスマホの画面に口づけをして、電源を切った。
そして、虚無的な「執事の顔」に戻り、ワゴンを押してリビングへと戻っていった。
彼の心は空虚だ。 けれど、その空虚さだけが、彼をこの地獄に繋ぎ止める鎖だった。




