正論(147)夫婦茶碗
翌朝6時の少し前。
目を覚ましたセイロンガーがリビングに行く。ダイニングキッチンから、思いがけず魚を焼く香ばしい匂い。見ると雪菜がキッチンで料理をしていた。
「セイロンさん、早いね。おはよう」
雪菜は白いタンクトップにグレーのスウェット地のショートパンツを履き、さらにエプロンをかけて料理をしている。狙っているのかいないのか、セクシーに見える。しかも、寝起きのはずなのにうっすらと化粧をしている。
「おはよう、雪菜さんこそ。もしかして朝食を?」
セイロンガーが挨拶を返して尋ねた。
「うん、昨日キッチンの冷蔵庫に入っている食材は使っていいって言ってたから。今、あじの一夜干しを焼いてるの。それと卵焼きとお味噌汁に味のり。朝ご飯、こんな感じで大丈夫かな?」
お気づきだろうか? 会話が互いに敬語じゃないことに。昨晩、バルコニーでの打ち上げの中、雪菜の提案で、せっかく同居するのだから敬語はやめようということになったのだ。もちろん鬼島は誰に対しても敬語は使わないのでセイロンガーと雪菜の間の話である。
「もちろん。久しぶりに人が作った朝食を食べられて嬉しいよ。ありがとう」
親しげに話すセイロンガーにジワる雪菜。
(昨日酔った勢いで敬語禁止を提案して本当に良かったわ。グッジョブ、昨日の私!)
「ううん、私に出来ることなんてこれくらいしかないから。お口に合えばいいけれど……」
(卵焼きは甘さほんのり、しょっぱい系。男ってやつは、甘口よりご飯が進む方が好み。そして、味噌汁の具は大根とお揚げ。男はキツネ並にお揚げが好き。これは厳然たる事実よ)
正しいかどうかは別として、謙虚で甲斐甲斐しい女を演じつつ腹では知略を巡らす水沢雪菜。『男をつかむならまず胃袋から』を実践すべく、今日は4時半起きである。先ほどからあくびが3分間隔で襲ってきている。我慢する度に顔が硬直し、涙目になっていた。
そんな雪菜を邪魔するように、遠くリビングに通じる廊下から唸り声が聞こえた。
「うあぁぁぁ……だぁぁぁ……ぐぁぁぁ……」
熊ではない。
「だらあぁぁ眠いぃ〜、んで腰痛ぇ〜。……お、なんか、いい匂いしやがる」
言いながらふらふらと鬼島がリビングを抜けてダイニングに入ってきた。
「ふっ、おはよう鬼島。ちゃんと時間通りに集合できたな?」
セイロンガーが意外そうに言う。
「うっす……なにせ、目覚まし鳴らしながらエミリーちゃんがよぉ、起きろ起きろってずーーっと話しかけてくるんだわ。寝てらんねぇから仕方なく起きたわ……」
そして、キッチンで料理をする雪菜に目をやる。
「おぉ、いいねぇ、水沢ちゃん。見目麗しき若奥様って感じだぜ。何作ってるんだ?」
「朝ご飯。あじの開きと卵焼きに味噌汁」
雪菜がぶっきらぼうに答える。声のトーンまで違う。
「いいじゃん。卵焼きは甘口で頼むぜ!」
そう言って鬼島は、さっさとバルコニーに朝の一服に行ってしまった。
「セイロンさんも卵焼き、甘口が良かったかしら?」
「どちらも好きだよ。大丈夫」
「そう、よかった。えーと、お茶碗は……」
「あぁ、来客用の食器が棚にあるはずだから、それを使ってくれ。俺のはそっちに別に置いてあるから」
雪菜が食器棚から人数分の茶碗と皿を出そうとする。来客用とセイロンガーの個人の分は分けて置いてある。青い茶碗を取ると、その下に薄桃色の小ぶりな茶碗があるのに気づいた。
(ひぇい! こ、これは完全に女物の食器……。私の……なわけあるかっ。いたんだ、夫婦茶碗を仲良く使うような相手が……)
雪菜は知らなかった。セイロンガーになる前の、交際相手の存在を。
トレセンで大曲博士や江口麻里を前に語ったように、その女性とは自身の改造を機に別れた。仮に結婚したとしても、改造された姿では彼女を幸せにしてやれる未来が想像できなかった⸻それが理由だった。
変身機能の実装を目前に控えた今、違う選択があったのではないかと考えないわけではない。
食器棚に残されたままの茶碗は、誰が使うわけでもなく、ただそこに在り続けている。
捨てる理由が見つからなかったのか、それとも、捨ててしまうにはあまりに自分勝手な別れだったのか。
その答えは、セイロンガー自身にも、まだわからないのかもしれない。




