正論(146)バルコニーの赤と黒
セイロンガーはダイニングキッチンにある流しで空き缶をすすいでいる。鬼島に灰皿代わりとして渡すためだ。
リビングに通じるガラス張りの扉はこの日の夕方、鬼島によって割られていた。破片は警察によって片付けられたようだ。
騒ぎがあってから数時間経つが、リビングにはまだ大勢の見知らぬ人の匂いや、気配が漂っているように感じられた。もちろん、自分たち以外はこの家に居ないことはエミリーによって確認済みなのだが。
やがて、遠く廊下の方から、低い鼻歌が聞こえてきた。
「ん〜〜♪ んん〜〜♪ ん〜〜ん〜……♪」
鬼島だ。あれほど歌うなと釘を刺したのにもうこれだ。チッと舌打ちしたが、間を置いてフッとため息のような笑いが漏れた。
(あれでも多少は気を使って小声で鼻歌をやっている)
「へぇ、ここが台所か」
「どうした鬼島、喉でも乾いたか? 部屋の冷蔵庫にも多少の飲み物は常備してあったと思うが」
空き缶に水を入れてから振り向くと、鬼島がビール缶を持って手を掲げている。
「あぁ、だからセイロンちゃんと打ち上げでもしてから寝ようと思ってよ。今日は目まぐるしくてすぐに寝ても色々と考えちまう。あとヤニも切れてるしな……」
「そうか、俺もちょうど一杯やってから寝ようと思っていた。今時分は夜風も気持ちいいから、バルコニーで呑もうか」
リビングを抜け、重く大きな窓を開けてバルコニーに出る。広いバルコニーは半分ほど雨よけのひさしがかかっている。そこに黒い丸テーブルと、ラタン材の椅子が置いてあった。
「ううぁ〜〜あぁぁ……」
鬼島が腰痛のため猛獣のような唸り声を上げながら腰を下ろした。さっそく煙草にカチカチカチと火をつける。セイロンガーにも勧めるが手振りで断られた。
プシュッと缶ビールを開け、乾杯する。
「ほいっ、じゃあ、お疲れさん!」
「お疲れさん」
赤と黒のヒーローは、マスクの口をカシャリと開けてビールを流し込む。改造された当初これが難しく、セイロンガーはよく咳き込んだ。
プフゥ〜〜ッと息を吐いた鬼島、
「いい風が入りやがる。そこにはただ〜風がぁ吹いているだけ〜♪……なんつってな」
また歌った。
「……お前のそのすぐ歌う癖、昔からなのか?」
「まぁな。何も考えたくない時には歌うのがいちばんいいし、気分が良くなる。ムショでもよく作業中に歌って刑務官に怒られてたっけ。……セイロンちゃんは歌わないのか?」
「いや、運転中や家にひとりの時は歌うか。歩きながら歌って登場はしないがな?」
「へぇ、どんなのをやるんだ?」
「ナット・キング・コールとか、色々な」
「けっ、洒落てやがる。ア〜ィラビュ〜♪ フォザセンチメンタルリーズン〜♪ ってか? それとも、スマ〜イル♪ か?」
鬼島は意外にも英語の歌を歌ってみせた。しかも、セイロンガーの好きな歌だった。
「ほぅ、演歌ばかりじゃないんだな?」
「まぁな。クラブでお姉ちゃんにモテるために色々覚えてるうちによ」
鬼島は煙草の煙を吐き出しながらその頃に思いを馳せた。戦いを忘れるように夜な夜な繰り出した銀座や新宿歌舞伎町。
「昔は流しのオヤジがクラブにいてな? ギターで伴奏をつけてくれたもんだ。あのオヤジ、もう死んじまったかな……うん、まぁ、死んだか」
「そうか、動機はアレだが……意外な趣味を発見した」
鬼島に対し、格闘技以外の共通点をまったく見出せなかったセイロンガーだったが、少しだけ嬉しく感じた。
「あ、女と言えば、水沢ちゃんも呼ぶか!」
鬼島は立ち上がり、バルコニーを右にぐるりと回り込んで雪菜の部屋に行こうとする。
「待て待て! 窓から回り込んだら怒られるぞ? 呼ぶなら、ちゃんとドアをノックしろ。まったく危ないやつだ……」
その後、雪菜もバルコニーに合流し、お互いのことを語らいながら、シェアハウス初日の夜は更けていった。




