回想三 今、笑ったよな。
「せ、専任講師・・・」
何も言えないような気持ちになって、頭を押さえて、そう呟いた。
「なるほど、同い年と偽って参加させたのか。あの子たちのやりそうなことだ」
狼狽えている僕とは対照的に、彼女は納得した様子で、平然と別のフランスパンにバジルが練り込んであるバターを塗って頬張った。
「桐島さんが希望して年サバ読んだわけじゃないってことは分かった」
「ふむ」
彼女は頷く。フランスパンを頬張ってなければ、「無論だ」と言いたいところなのだろう。
道理で、態度が尊大で、言葉遣いが上から目線で、他の女の子は敬語使うわけだ。
専任講師は先生だ。先生ぽいではなく、彼女は本当に先生なのだ。
はっとした。
と、いうことは、この人、僕より年齢が上なのではなかろうか。
大学生というから、大学生に見えていたけれど、〝講師〟はともかく〝専任講師〟は自分の本務校があって、大学に雇われている専門家のはず。理系のことはよく分からないけれど、大学院を出た後、ある程度研究成果を残していて、先生としての実績がある人でないとなれない、というのは文系と変わらないだろう。
まじまじと彼女を見た。小柄で綺麗な感じだから、全く僕と同い年か年下だと思っていたけど、言われてみれば見た目も確かに僕より歳月経ているように、見えなくもない。なんというか、貫禄があるし。
まさか、三十・・・越えているとか。
疑惑の彼女は僕の視線を気にも留めず、カリカリに焼いたベーコンが入ったカルボナーラの皿のクリームソースをフランスパンに付けて食べ、カルボナーラの皿を確保するように自分の方に寄せた。
まだ食べるのか。
「食べるの好きなんですねぇ・・・」
「ふむ」
無論だ、ということだ。
「食べる事を楽しめないのは不幸だ。目の前に好物があるのだから、遠慮する理由もない」
「もしかして、イタリア料理の店って、桐島さんのリクエスト?」
「リクエストはしていない。あの子たちが私の好みを覚えていたのだろうな」
ふーんと今時風の女の子たちを眺める。
「慕われてるんですね。どうして学生と?専任講師って、そこまで接触ありましたっけ。僕は文系でしたけど、在籍しているときはそこまで専任講師と接触がなかった気がします」
「専任講師でもゼミを持つ人はいるがね。私の場合は、祐徳大学の卒業生でもあって、恩師のゼミの子たちの面倒を見ているんだ。恩師が不在のときは、私が簡単なことを教える。研究室で質問にも答える。それが縁で、よく話すようになった。あの子たちは皆、四年生なんだよ」
先輩、後輩の間柄でもあるというわけか。
「君は何と言われてこの食事会に来ているんだ」
「合コンですよ」
桐島さんは半眼でジトッと彼女たちを眺め、ボソッと呟いた。
「やっぱりそうか。〝トモダチ〟が男ばっかりなわけだ」
「まさか合コンて言われてなかったんですか!」
どんだけ気安いんだこの人。
恩師に頼まれて人に教える、ということは、ちゃんと一から十まで全部理解出来ていると認められているということだ。それくらい、専門的な知識のある優秀な人。もしかして、博士号とか取っちゃったりしているのだろうか?
そう思うと、雲の上の人のように感じるもの、だという気がするが。
四年生の女の子たちにとっては、雲の上の人、ではないらしい。
何歳か気になる。結構若いのかな。だけど、問答無用の雰囲気を醸し出すあたり、化け物並みに若いとかも有り得そうな気がしてくる。
うわー。それ考えると怖くなってきた。
考えている間にフランスパンの籠を彼女は空っぽにした。彼女が最後のひとかけらを口にしようとする前に訊く。
「桐島さん何歳なんですか?」
「二十八だ」
あれ。
「意外と歳、離れてないんだ。僕は今二十四なんです」
「そうか」
「何が専攻なんですか?」
「物理だ」
「あ、白衣似合いそうですね」
「は?」
「白衣着て颯爽と歩いてそう!」
やや白眼視された後、彼女はぼそりと言った。
「・・・君はどうなんだ」
「え、白衣ですか?」
僕は白衣着ないけど、とかぼけてると、カルボナーラを自分の皿に盛り付けながら彼女は眉間に皺を寄せた。
「違う。どういうことをやっているのだ、と訊いている」
「はぁ・・・えっ」
彼女からそういう興味を持たれるとは思わなかったので、びっくりした。彼女からカルボナーラの大皿を差し出され、なんとなくそういう流れになって受け取って僕も自分の皿に盛る。
「えーっと・・・僕は実家のお店の手伝いをしているんです」
「店?」
「はい。ヨーロピアン風だったり、カントリー風の雑貨を扱っているお店なんです。商店街の紅一点なんですよ」
「そうか。実家ね」
「そう、実家。親父と母さんが始めた」
「継ぐんだ?長男か」
「いや、僕は次男なんです。兄貴は家を出て結婚して会社に勤めています」
「ほう」
「親の店を継ぐとか、そういうの嫌だったみたいです。兄貴、よく分からないけれど、突っ張ってましたから」
「君は?継ぎたかったのか?」
その彼女の問いは、僕が高校三年生の頃に、何度も自分に問いかけた問いだった。
躊躇いなく、頷く。
「はい。小さい頃から親父の店が好きだったから」
赤い薄明かりの店内。
ガラスケースに綺麗な銀細工の商品や、陶器の置物が置いてある。
壁には鏡や時計が掛けてあり、ドライフラワーが下がっている。
複雑な柄や花模様のハンカチが置いてあり、レターセットやメモパット、料理道具といった日用品も置いてある。
商店街に建ち並ぶ店。その中でうちの店だけ、異質だった。
おとぎ話の様な世界。
幼い心に、わくわくした。
「親のものを継ぐのは、大変だろう」
「そうですね。今は親父や母さんのセンスの店だけど、僕が継いだら、僕が考えていかなくてはならないし、僕の色も出したいし。バランス取っていかなきゃならないんです。でも、両親の作った空間を守りつつ、自分の好みを生かしていければな、って思ってますよ」
「・・・何時、決めた?継ぐって」
「高校三年生の頃。部活、サッカーやっていて、もっとやりたいななんて気持ちもあったんですけど、チェーンのファミレスでバイトをしてて、そんなとき、家に帰って来ると〝ああ、うちの店っていいなぁ〟って思う瞬間が増えて。最終的にはお店を継ぎたいっていう結論が出たので、将来に備える様な進路にしました。大学もそれで選んで進みました」
「経済学部か何か?」
「はい」
「どうしてそこまで、親の店をやりたいと思ったんだ?」
「うーん、何と言うか、さっき言ったように、〝うちの店っていいなぁ〟って、思ったんですけど、親父とお袋の作った店で働きたい、ああいう店を僕も作りたいって思ったんです。継いだときに、僕の好みも入ったお店になると思うんですけど、そのとき、僕のセンスも含めたお店が周囲に認められて、好きになって貰えれば、きっと嬉しいですから。そうなったら、凄く幸せだなーって」
お店に入った人は、常連さんも、初めて来店した人も、じっくりお店の雰囲気に浸りながら商品を見る。子供の頃から、そんなお客さんたちの様子を、ずっと見て来た。
商品を眺めながら歩く。あるところで目を留め、足を止める。手にとって、見つめる。場合によっては買って行く。何かを購入した人も、見ていただけの人も、皆満足して帰る。
うちの父さんと母さんの店って凄いんだな、と思っていた。
人を惹き付ける空間を作り出す、両親が凄いと思った。
僕も、そうなりたいと思った。
「今度店に来て見て下さいよ。なんか、素敵な店だから」
「自画自賛か?」
「自分が働いているんだから、自画自賛出来るくらい自信がないと」
「・・・なるほど」
カルボナーラを巻いたフォークを空中で静止した。
宙を眺めた彼女は、少し思案して、言った。
「親孝行だな」
「いや、そんなんじゃ」
兄貴が継がないと言ったからスムーズに僕が継ぐ流れになったようなものだ。親父と母さんは暢気に、継いでくれれば嬉しいや、でもまあ好きなことをやんなさい、という感じ。僕が他の事をやりたいって言っても、やらせてくれただろうし、応援してくれただろう。
「桐島さんも親孝行なんじゃないの?立派にすごい大学で、研究してるんだから」
「親孝行?そうかも知れないな。経歴だけは立派だ」
皮肉っぽく言うから、驚いて彼女の横顔を見ると、無表情なのは変わらないけどなんとなく陰が見えた。
「好きで、やってることじゃないの?」
「ずっと勉強してこの道を選んだのだから、そうなのだろう」
「そうなのだろうって」
恐らく、みたいな言い方するものかなぁ?
もぐもぐと咀嚼する彼女の視線が宙を泳いでいく。まるで自分の脳内をなぞるように。
ごっくんと飲み込んでから言った。
「まあ、研究も実験も好きだな」
「ふーん・・・何か嫌なことがあるんですか?あ、分かった、人間関係でしょ」
「一応人間関係には困っていない」
人間関係に困らないなんて、相当人望あるのか相当気にしない性格なのではと一瞬頭を過ぎったけど、彼女が言葉を続けたので慌てて意識を戻した。
「幼稚園の頃から化学的なものに興味があった。勉強してみれば伸びた。周りの勧めで有名校に進んだ。年を経ることに、伸びた。大学から推薦が来た。教授に気に入られて高度なものを学んだ。アメリカの大学院で優秀な成績を得て、実績も出来たから博士号を取得できた。望まれて専任講師として教授の研究室に戻った。確かに、自他共に認める恵まれた経歴だと思う」
「は、はくしごう・・・」
やべぇ、本当に取ってた。
さらっと自分のキラキラしい経歴説明したよこの人。
彼女の経歴が自分の想像以上だったので驚嘆した。
僕の様子を気に留めず、伏し目勝ちに自分の略歴を、おごりも自慢も卑屈も差し挟まずに言ってのけた彼女は少し顔を上げ、お冷のグラスを手にとった。
「しかし、ほとんど人に勧められて、そうやって選んできた人生だ。偶々それが自分に合っていた。それだけだ。偶に考えるんだ。他の道はなかったのかと。本当にこれで良かったのか、と。考えれば考えるほど、判然としない」
彼女はグラスの中の氷と水をくるくる回しながら、思案するように黙った。僕は黙って彼女が続けるのを待つ。
彼女は口を開いた。
「私の研究は物理学に関することだ。何か世の中に役に立つものになるかも知れない・・・だが科学というものは全部、プラスに利用されるわけではない。悪用もされるかも知れない。便利な生活は科学の賜物だが、核兵器も科学の産物だ。使用用途の二面性、功罪。科学界にとってそれは永遠の課題だ。自分が科学界の末端であることは理解しているつもりだが、そんな紙一重の研究をしている私は何なのだろう。存在的にどんな意義を持つ?そんなことを考えると消極的思考の渦中にすっぽり嵌ってしまう。自分は何の意味があって生きているのか、とか、何で生きているのか、とか。一般的に自分の存在理由を考えるらしい思春期も、知識の吸収だけをしていれば良かったから、考えもしなかった」
彼女の思わぬ内心の吐露だった。
頭が良くて世間から認められると、それだけ違うことを考えるから、一般的に考えそうなことを考えないようになってしまうのだろうか。
優秀だったから、人から勧められて、なんとなくその道に進んで、それがぴったり嵌っちゃって。子供の頃からそうだと、あんまり考える必要もなく、上手くいってしまうのかも知れない。
なんだ、こういうストレートにエリート街道まっしぐらの人もそういうことを考えるんだ。
そう考えると彼女が身近に感じられて、彼女の中のネガティヴな悩みを告白しているっていうのに、僕はちょっと嬉しくなった。
どうして僕に話したんだろう。いや、分かる気がする。身近な人にも、普段挨拶くらしかしない人にも、あの学生の女の子たちにも話せなさそうな話だから。多分この時、何でもない、第三者に近い人間に話してみたかっただけなんだろう。
記憶を巡らす、思い出す。僕も悩んだ、そういうこと。進路を考える時期。死ぬほど悩んだ。
「僕は、意味があるかないかなんて、自問自答しても分かりませんでした」
彼女は黙ったまま、頬杖をついて談笑している友人たちを眺めている。フォークの手はいつの間にか、止まっている。僕の話を聞いているのか自信がなかったけど、続けた。
「自分に合っているのか、合ってないのかも。やったことが、正確なのか、間違っているのかも、分かんないです。ただ、自分がやりたいと思ったこととか、やるべきだ、と感じたこととか。分かるのはそれだけです。正しいか間違っているかなんて、神様じゃないんだから、他の人にとってどうであるとかも、分からない。全部正しいことができるなんてことも、思わない」
僕が継ぐとしたら一生地元で生きていくのかな。お店をやることが、僕の生きる意味になるのかな。もっと違う道で、すごく偉大になれる可能性なんてあるのかな。
お店をやることで僕は社会的に存在意義がある?
僕に価値がある?
お店を継ぐ事が正しい?
兄貴が継ぐ方が、正しい?
今の僕はそれ程の価値があるのか?
分からない。日本という国にある、とある街の商店街のお店で働いている僕なんて、ちっぽけだ。
いや。どんなことをやっても、ちっぽけだ。
僕は、価値も何もそれ以前に、ただの人間の一人。
でも、僕は、生きている。
「意味も、意義も分からない。地球上の存在において正当か不当かも、全ッ然分からない。でも自分がやりたいとか、挑戦したいとか、好きとか嫌いとかは、自分の中では、確かだから」
いやしかしこの人、物理界のホープなんだから僕のことと引き比べて語ったらまずいだろうか。科学者の社会的責任とかあるだろうし。
とか考えたら、あれ?
段々何が言いたいのか分からなくなってきた。えーっと何だ?
「つまり、その、自分で選んで、自分で決めなきゃ。間違っているかどうか考えたところで、いや考えた方が良いかも知れないけれど、でも存在について考えても出て来ないです、答えなんて。でも自分で決めた道を歩いたら、初めて、自分としての意味が出て来るんじゃないかって、僕はそう思いました。生きていくことに、自分の意味を持てるって。あーもう、なんかよく分からなくなってきた」
こっちはしどろもどろだっていうのに、彼女は平然とした横顔。冷静な表情だ。
情けない気持ちになったけれど、自棄になって言った。
「生きてる意味も理由も、分からないです。多分、一生。それできっと良いんです。存在するだけで良いんです」
ああ自分は何を熱く語っているんだと羞恥、オーバーヒートしそう、と思っていたのに、それが一気に吹っ飛んだ。
彼女の横顔の口端が、上がるのを見たので。
「ふむ・・・じゃあ、在るだけで良いか」
目を見張った。僕の話、ちゃんと聞いていたんだ。
彼女はどこか、明るい表情だ。しっくりきたかのように、言葉を吟味するように、彼女はそれから口を開く。
「私でも、自己判断くらいなら、出来るからな」
そう、満足気に言うと、彼女はカルボナーラを食べるのを再開した。黙々と食べる彼女を見つめ、僕はぼうっとした。
今、笑ったよな。
その人をどうしても「思って」しまう具体的な理由って、何なのだろう。
彼女の冷然とした美しさに、惹かれた?
頭の良さに、感心した?
上からの物言いでも人を不快な気分にさせない所に、感服した?
意外と沢山喋れて、楽しかった?
いや、なんだか感覚的なものが心を占めていたんだ。
笑ったら、柔らかいなと思った。
もっと知りたい表情だった。
それは恋には満たない小さな灯りで、恋より温かい気持ちで、じわりと胸に広がるそれを、大切にしたいと思った。
「日向ちゃん、連絡先教えてくれませんか?僕と付き合って欲しいです」
「ぬ?!」
食べている途中に話し掛けられたからか、日向ちゃんと呼ばれたことにか、連絡先を訊ねられたことにか、付き合って欲しいと言われたことにか、自分が動揺してしまったことにか。
ものっすごく嫌な顔をした日向ちゃんが、面白かった。