神の加護が届かない距離
王都の最高級ホテル、その最上階にある聖女の私室。
リリアはシルクの寝着に身を包み、姿見の前で自身の髪を梳いていた。
「ふふ、これで明日からはあのむさ苦しい男の顔を見なくて済むわ」
レンがいなくなったことで、パーティの取り分が増える。トールとの結婚も間近だ。自分の未来は輝かしい光に満ちている――彼女はそう確信していた。
カサリ、と部屋の隅の影が揺れた。
「……誰?」
リリアが鋭い声を上げる。
影の中から音もなく現れたのは、数時間前に追放したはずの男――レンだった。その手には、月光を浴びて鈍く光る一本の鋼鉄ナイフが握られている。
「な、レン……!? どうやってここへ……! 結界の魔道具が作動しなかったの!?」
「ああ、これのことか?」
レンが部屋の入り口に設置されていた高級な防犯魔道具を踏みつける。魔道具は赤く明滅していたが、レンが近づいた瞬間にふっと光を失い、ただの石ころと化した。
「っ、不法侵入ね! トール様を呼ぶわ!」
リリアは勝ち誇った笑みを浮かべ、胸元のブローチに手をかけた。勇者トールと位置情報を共有し、危険を知らせるための超高級な魔法アイテムだ。
だが、リリアがそれを起動しようとした瞬間――レンが一歩、踏み込んだ。
二人の距離が、3メートルを切る。
フッ、とブローチに宿っていた強大な魔力が消えた。冷たいただの金属の塊へと変貌する。
「え……? 嘘、起動しない……?」
焦ったリリアは、自らの最強のチートスキル【神聖結界】を展開しようと両手を突き出した。神の加護により、あらゆる物理・魔法攻撃を弾く絶対防御の光。
「【神聖結――」
しかし、何も起きない。光の粒子一つさえ浮かばない。
まるで最初から魔法など存在しない世界に放り込まれたかのように、部屋の中が静まり返る。
「な、なんで!? 私の魔法が……スキルの発動感が消えた!? あなた、一体何をしたの!?」
「何もしていないさ。ただ、俺の近くにいるだけだ」
レンは冷徹な足取りで、さらに距離を詰める。
「いや、来ないで! 【大治癒】! 【聖なる光】! 出てよ、なんで出ないのよぉ!」
リリアは狂ったように呪文を叫び、レンに手をかざす。だが、レンの「周囲3メートル」の中では、神の奇跡も、世界の法則も、すべてが強制的にかき消される。
彼女がどれだけ高位の聖女であろうと、この領域内では魔法も使えない、ただの非力な少女にすぎない。
「トール様! トール様、助けてぇーー!」
涙と鼻水で美しい顔を歪め、リリアはドアへと走ろうとした。
だが、その細い手首を、レンの冷酷な手が掴む。
「ひっ……!」
「トールは来ないよ。お前が自慢していた魔法のブローチは、もうただのゴミだ」
レンはリリアを床に押し倒し、その馬乗りになった。
「レン、待って、お願い! 私たちが悪かったわ! パーティに戻してあげる! だから、命だけは――」
「お前たちには、地味で攻撃スキルのない無能に見えたんだろう?」
レンはリリアの首筋に、冷たい鋼鉄のナイフの刃をあてがった。
魔力も付与されていない、何の変哲もないただの鉄の塊。だからこそ、魔法無効化の領域内でもその「物理的な切れ味」だけは100%機能する。
「この半径3メートルは、神の加護すら届かない俺の領域だ。お前がどんなに神に祈ろうが、ただの鉄の刃でお前の首元を切り裂けば……お前は死ぬ。それだけの単純な世界だ」
「いや……嫌ぁあああ! 死にたくない、死にたく――」
リリアの絶叫が部屋に響き渡る。
しかし、その声がトールに届くことは二度となかった。
ザクッ、と肉を切る鈍い音が静寂に消える。
かつて自分をゴミのように見捨てた幼馴染の命が、ただの物理現象として掌から零れ落ちていくのを、レンは冷たい目で見つめていた。
「まずは一人目だ、トール」
レンは返り血を拭い、再び夜の闇へと姿を消した。翌朝、最愛の婚約者の無惨な姿を見つけた勇者が、どんな顔をして絶望するのか。その光景を想像しながら。




