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ベルン戦記 〜辺境出身者の成り上がり物語〜  作者: 膝栗毛


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第七章 グルンバッハの盆地

引き継ぎお楽しみください

出兵の朝は、霧だった。

春の終わりに近い季節だというのに、グルンバッハ方面からの冷気が盆地に向かって流れ込み、街道を白く塗りつぶしていた。兵たちは無言で隊列を組んだ。誰もが、この作戦の異様さを肌で感じていた。

正式な出兵命令が出た。ゲオルグ将軍が帝都の直命に従う形を取った以上、ルシアンは満足そうな顔で見送った。

しかしその二日前の深夜、ロイは十二人の兵を連れて、誰にも告げずに砦を出ていた。


グルンバッハへの街道を進みながら、アルスは隊列の中で地図を頭に描き続けた。

盆地まであと半日の距離。

北の丘にロイたちがいるはずだった。採掘跡に入り込み、身を潜めている。連絡手段は、狼煙だった。白煙一本が「異常なし」、二本が「敵影あり」、三本が「包囲確認」。

アルスはエリアスに並んで歩きながら、小声で言った。

「斥候の報告はまだですか」

「ない」エリアスも小声で答えた。「それ自体が、おかしい」

「斥候が帰ってこない」

「三組出した。全て音信不通だ」

アルスは、その言葉の意味を考えた。

斥候が帰ってこない理由は二つある。一つは、捕まった。もう一つは、道を塞がれている。どちらも、敵が既にこちらの動きを把握しているという意味になる。

「情報が漏れています」アルスは言った。

エリアスは無言で頷いた。

「砦の中から、です」

また頷いた。

「ルシアンが」

「確定はできない。しかし状況からすれば」エリアスは言葉を切った。「今さら引き返せない。将軍は命令に従った形を取っている。ここで止まれば、命令違反になる」

アルスは前を向いた。

将軍は隊列の先頭で、馬上から無言で前を見ていた。その背中に、アルスは老司祭の言葉を思い出した。

知恵は、死者から受け取り、生者のために使え。

使いどころは、今だ。


盆地の入口に差し掛かったのは、昼を過ぎたころだった。

霧は晴れていた。代わりに、重い曇天が空を覆っていた。

アルスは北の丘を見た。

白煙が、二本上がっていた。

「敵影あり」だ。

アルスはすぐにエリアスに告げた。エリアスは将軍のもとへ走った。ゲオルグは一度だけ北の丘を見て、静かに頷いた。

隊列は止まらなかった。

止まれば、疑われる。

しかし全員が、緊張の中で目を動かし始めた。

盆地に入ってしばらくすると、街道の両側の丘の茂みが、微かに動いた。

アルスには見えた。

数は、多い。

「囲まれています」アルスは小声で言った。「両側の丘と、正面の森。三方から」

「退路は」

「後方はまだ塞がれていない。しかしもう少し進めば完成する」

エリアスが将軍に伝えた。将軍は馬上で、ゆっくりと周囲を見渡した。顔に、焦りはなかった。

「アルス」将軍が低く呼んだ。

「はい」

「北の丘まで、どのくらいだ」

アルスは地形を計算した。「走れば四半刻。ただし丘の斜面は急です。騎馬では難しい」

「ロイはそこにいるか」

「いるはずです」

将軍は少しの間、沈黙した。

そして言った。「命令を出す。全員、聞け」


命令は、三つだった。

一つ。歩兵の半数が北の丘へ向かう。アルスが先導する。

二つ。残り半数と騎馬はゲオルグ将軍が率い、盆地の中央で陽動を行う。敵の注意を引きつけ、できる限り時間を稼ぐ。

三つ。エリアスは後方の退路を確保する。

「将軍が陽動を」エリアスが声を上げた。「それでは将軍が」

「俺が一番目立つ」ゲオルグは言った。「敵は俺を狙っている。俺が動けば、そちらに引きつけられる」

「しかし」

「副官」将軍の声が、静かに遮った。「お前の仕事は退路を守ることだ。俺の心配をする暇はない」

エリアスは、一瞬だけ目を閉じた。

「……わかりました」

将軍はアルスを見た。「行け」

「はい」

「一つだけ言っておく」将軍は静かに言った。「お前が考えなければ、今日ここで全員死んでいた。それは覚えておけ」

アルスは、何も言えなかった。

頷くことしかできなかった。


アルスが歩兵百五十を連れて北の丘へ走り始めた瞬間、盆地に鬨の声が響いた。

待ち伏せしていた聖王国軍が動いた。

アルスは走りながら後ろを見た。将軍が馬を駆り、盆地の中央へ向かっていた。聖王国兵が、そちらへ集まっていく。陽動は機能していた。

丘の斜面は急だった。草が濡れていて、足が滑った。それでも兵たちは走った。アルスは先頭で、足場を確かめながら登った。

丘の中腹まで来たとき、上から声が降ってきた。

「遅い!」

ロイだった。

岩陰から出てきたロイは、後続の兵たちに向かって叫んだ。「右側を登れ、足場がある!急げ!」

百五十の兵が、ロイの指示した経路を伝って丘を登り始めた。

「採掘跡は」アルスは息を切らせながら言った。

「ある。ちゃんとあった」ロイは走りながら答えた。「それと、もう一つ見つけた」

「何を」

「お前が言ってた、地図にない抜け道だ」

アルスは足を止めた。「本当か」

「本当だ。採掘跡の奥が、北側の谷に繋がってる。馬は無理だが、人間なら通れる」

アルスは、一瞬だけ目を閉じた。

老司祭が地理誌に書き残した記述。グルンバッハ。北の丘。G・R記。

知っていた。この老人は、知っていたのだ。

「案内できるか」

「できる」

「全員を通せ。将軍が陽動している間に、北側の谷に抜ける」

ロイは頷いた。「将軍は」

「後で合流する」アルスは言った。「信じるしかない」


採掘跡は、思ったより広かった。

朽ちた木材が散乱し、天井の低い横穴がいくつも並んでいた。その奥の一本が、北側の谷へ続いていた。ロイが松明で照らしながら先を行き、百五十の兵が続いた。

狭い穴の中を進みながら、アルスは後ろが気になって仕方なかった。

盆地では今、将軍が戦っている。

エリアスが退路を守っている。

自分にできることは、この百五十を安全に逃がすことだけだった。

穴を抜けると、北の谷が広がっていた。空が開け、冷たい風が吹いてきた。兵たちが次々と出てくる。

全員が出たところで、アルスは振り返った。

南の空に、黒煙が上がっていた。

盆地の方角だった。


合流したのは、日が傾いたころだった。

エリアスが後方の退路を確保し、将軍が陽動から離脱した。損耗は出た。騎馬の何騎かが戻らなかった。しかし、壊滅は免れた。

全員が集まったとき、ゲオルグ将軍は馬から降り、その場に立っていた。

鎧に傷があった。腕から少し血が滲んでいた。しかし将軍は、平然とした顔で兵たちを見回した。

「生きているか」

全員が、応えた。

将軍は頷いた。それだけだった。

アルスのところに来て、一言だけ言った。

「採掘跡は、あったか」

「ありました」

「そうか」将軍はわずかに目を細めた。「その地理誌を書いた人間に、礼を言いたいな」

アルスは、答えなかった。

老司祭に礼を言いたい気持ちは、自分も同じだった。


野営地を設営した夜、エリアスがアルスを呼んだ。

二人きりになると、エリアスは静かに言った。

「ガレン・ロースの名前を聞いたのは、昨日だけではないな」

アルスは答えなかった。

「地理誌に書き込みがあったのか」

「はい」アルスは言った。「採掘跡のことが、余白に書かれていました。それ以外にも、いくつか」

「他には何があった」

「戦術論の最後のページに、文章がありました」アルスは言った。「帝国参謀部にいたと書いてありました。それと、表紙の裏に消した文字があって」

「機密戦術集覧か」エリアスは静かに言った。

アルスは、息を呑んだ。

「知っているんですか」

エリアスはしばらく黙っていた。

夜風が吹いて、松明が揺れた。

「少しだけ、話す」エリアスは言った。「全部は話せない。まだ話せない理由がある。ただ、お前には知る権利があると思う」

「聞かせてください」

エリアスは、地面を見た。

「ガレン・ロースは、二十五年前まで帝国参謀部の中枢にいた人間だ。帝国の戦略を立案し、皇帝陛下に直接助言する立場にいた」

「なぜ村に」

「失脚した」エリアスは言った。「当時、帝国参謀部の中で内部対立があった。今のグライム公爵と同じ構造だ。平民出身の参謀が、貴族出身の将校たちの意向に沿わない戦略を立案した。正しい戦略だったが、貴族たちの利権を損なう内容だった」

アルスは、静かに聞いていた。

「罠を仕掛けられた。今日お前たちが経験したのと、同じ種類の罠だ。偽の情報、書き換えられた記録、身に覚えのない汚職の証拠。ガレン・ロースは全ての地位を剥奪され、帝都を追われた」

「それが二十五年前」

「そうだ」エリアスは顔を上げた。「そして彼が最後に辿り着いた場所が、帝国の最果て、ベルン村だったということだ」

アルスは、しばらく黙っていた。

老司祭の顔が、頭に浮かんだ。

礼拝堂の椅子に座り、膝の上に本を開いていた老人。子供のアルスが文字を間違えると、定規で膝を打った老人。死んだ人間の言葉を聞かせてくれた老人。

その人が、帝国参謀部の中枢にいた。

同じ罠を仕掛けられて、全てを失って、村に来た。

「なぜ俺に本を」アルスは聞いた。「なぜ俺に教えたんですか、あの人は」

エリアスは、少し考えてから答えた。

「それは、俺にはわからない」静かな声だった。「ただ、想像することはできる。自分が果たせなかったことを、誰かに続けてほしかったのかもしれない。正しいことのために知恵を使う、誰かに」

アルスは、戦術論の最後のページの言葉を思い出した。

正しいことのために、使ってほしい。

そのままの言葉だった。

「エリアス先輩」アルスは言った。「あなたは、ガレン・ロースを知っていた。個人として、知っていた」

エリアスは答えなかった。

しかしその沈黙が、答えだった。

「全部は話せないと言いましたね」アルスは続けた。「わかりました。今は聞きません。ただ、いつか話せるときに、話してください」

エリアスは、しばらく松明の炎を見ていた。

それから、静かに言った。

「ああ」

一言だけだった。しかしその一言には、何年分かの重さがあった。


その夜遅く、アルスは三冊の本を開いた。

ハルデン戦役記。地理誌。帝国参謀部・機密戦術集覧第三巻。

今日初めて、三冊目の本の本当の名前を声に出した。

老司祭は、この本を持ってベルン村に来た。二十五年間、礼拝堂の小さな棚に並べていた。そして死ぬ前に、アルスに渡した。

なぜアルスだったのか。

それはまだわからなかった。

しかし、老司祭がこの本をアルスに残した意味は、少しだけわかった気がした。

知恵は、正しいことのために使う。

それを体現できる人間を、老人はずっと待っていたのかもしれない。そして二十五年越しに、その人間を育てることができた。

アルスは本を閉じた。

手の中に、三冊の重さを感じた。

本の重さではなかった。

老司祭の二十五年と、今日死んだ兵士たちと、これから来る戦いの全てが、そこにあった。


翌朝、撤退した部隊が砦に戻ると、ルシアン・クロームが出迎えた。

笑顔だった。涼しい、感情の乗らない笑顔だった。

「ご無事で何よりです、将軍閣下」

ゲオルグは無言でルシアンを見た。

ルシアンは続けた。「残念ながら、今回の作戦は失敗に終わりました。帝都への報告書を作成しなければなりません。損耗の規模と、指揮判断の妥当性について、詳細な報告が必要です」

将軍を裁く準備を、既に始めている。

アルスは、ルシアンの笑顔を見た。

昨日の採掘跡の穴の中と、同じ種類の暗さを感じた。

しかし今は、出口が見えていた。

老司祭が残した本が、今日また一つ、命を救った。

そして次は、将軍を救う番だった。

アルスは、頭の中で考え始めた。

次回もお楽しみに

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