表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベルン戦記 〜辺境出身者の成り上がり物語〜  作者: 膝栗毛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/12

第六章 仕掛けられた罠

引き継ぎお楽しみください

ルシアン・クロームの監査は、一週間続いた。

表向きは穏やかだった。書類を確認し、将校たちに話を聞き、砦の設備を視察する。怒鳴ることも、咎めることもなかった。にこやかに、丁寧に、全てをこなした。

だからこそ、不気味だった。

エリアスは毎晩、その日ルシアンが何を見て、誰と話したかをアルスに伝えた。アルスはそれを書き留め、パターンを探した。

「兵站の記録を重点的に見ている」アルスは三日目の夜に言った。

「何かあるか」エリアスが聞いた。

「補給の数字に、意図的に操作された痕跡があります」アルスは書類を指差した。「帝都から送られてきた補給品の記録と、実際に届いた数が合わない。誰かが中間で抜いている」

エリアスは眉をひそめた。「それは前から知っていた。辺境への補給は、輸送業者が絡んでいる。その業者がグライム公爵の息のかかった商会だ」

「つまり、ルシアンが監査に来た本当の目的は」

「その不正を我々のせいにすることだ」エリアスは静かに言った。「補給品の横領を、辺境守備隊の将校が行ったように書類を整える。そうすれば、将軍の失脚と、前線部隊の解体が同時に実現できる」

アルスは、その構図を頭の中で展開した。

将軍を失脚させる。前線部隊を解体する。その過程で、アルス自身も巻き込まれる。

精巧な罠だった。戦場の戦術と同じ構造を持っていた。相手の弱点を突き、退路を塞ぎ、逃げ場をなくす。

「証拠を押さえれば、逆に使えます」アルスは言った。

「わかっている。しかし証拠を集める時間がない。監査は残り四日だ」


四日目の朝、事態が動いた。

ルシアンが、ゲオルグ将軍に対して一枚の命令書を提示した。

内容は、グルンバッハ方面への即時出兵だった。聖王国の大部隊が集結しているという情報があり、先手を打って叩けという帝都からの直命だった。

アルスは、その命令書の写しを見せてもらった瞬間に、胃が冷えた。

「この情報は」アルスは言った。

「帝都の情報部から来ている」エリアスが答えた。

「斥候は出しましたか」

「これから出す」

「間に合いません」アルスは地図を広げた。「命令書には三日以内の出兵とある。グルンバッハまでの距離を考えると、斥候が戻る前に出発しなければならない」

エリアスは黙っていた。

アルスは地図を指でなぞった。「グルンバッハ方面の地形を見てください。ここは三方を丘に囲まれた盆地です。大部隊が入り込んだら、退路が限られる。もし情報が偽りで、敵が待ち伏せしていたとしたら」

「包囲される」エリアスは静かに言った。

「守備隊の主力が全滅します」

二人は向き合った。

「ルシアンがこの命令書を持ってきた意味がわかるか」エリアスが言った。

「従えば罠にはまる。従わなければ、帝都の直命に背いたとして将軍が裁かれる」アルスは答えた。「どちらに転んでも、ゲオルグ将軍は終わる」

「そういうことだ」


その夜、アルスは眠れなかった。

天幕の中で地図を広げ、書き込みを続けた。出口を探した。しかし、どこを考えても袋小路だった。

正面から命令に逆らえば、将軍が裁かれる。命令に従えば、部隊が罠にはまる。証拠を集めようにも、時間がない。

ロイが天幕に入ってきたのは、夜半を過ぎたころだった。

「また起きてるのか」

「眠れない」

「珍しいな」ロイは隣に腰を下ろした。「そんな顔、初めて見た」

「そんな顔とはどんな顔だ」

「答えが出ない顔」ロイは言った。「お前がそういう顔をするのを、俺は初めて見た」

アルスは、地図から目を離した。

「答えが出ないんだ」

「俺に話してみろ」

「お前にわかる話じゃない」

「わからなくていい」ロイは言った。「話すと整理できることがあるだろ。俺は聞くだけでいい」

アルスは少し考えて、話し始めた。命令書のこと、地形のこと、グライム公爵とルシアンの意図のこと。ロイは黙って聞いていた。時々頷き、時々眉をひそめた。

話し終えると、ロイはしばらく黙っていた。

それから言った。

「なあ、アルス。その神父様から貰った本の中に、こういう話はないか。罠を仕掛けられたときの話」

アルスは、少し考えた。

「ある」

「どうしてた、その本の中の人たちは」

「罠だと気づいた上で、罠の中に入った将軍がいた」アルスはゆっくり言った。「ただし、罠の構造を事前に理解して、相手が想定しなかった動き方をした」

「つまり」

「罠の中に入りながら、罠を壊した」

ロイは頷いた。「それだ」

「しかし今回は、地形的に退路が」

「地形の話は俺にはわからない」ロイは遮った。「でも、相手が想定しなかった動き方って、何かあるか」

アルスは黙った。

頭の中で、地図が展開した。グルンバッハの盆地。三方の丘。唯一の退路。

そして、もう一度、地理誌の記憶を引っ張り出した。

あの地域の地形。川の位置。丘の高さ。

そして、一つの記述が浮かんだ。

グルンバッハ盆地の北丘、古い採掘跡が点在する。現在は放棄されている。

アルスは、目を上げた。

「ロイ」

「何だ」

「お前に頼みたいことがある」

「言え」

「北の丘の採掘跡を、事前に確保できるか。少人数で、誰にも気づかれずに」

ロイは少し考えた。「何人いる」

「十人もいれば十分だ。ただし、足が速くて、口が堅い奴が必要だ」

「わかった」ロイは立ち上がった。「いつまでに」

「明後日の夜明け前」

「やる」ロイは迷わなかった。「それで将軍を守れるか」

「守れるかどうかは、まだわからない」アルスは正直に言った。「ただ、可能性が生まれる」

「十分だ」

ロイは天幕を出た。

アルスは再び地図に向かった。今度は、出口が見えていた。


翌朝、アルスはエリアスのところに行った。

「作戦案があります」

エリアスは無表情のまま聞いた。アルスが話し終えると、しばらく黙っていた。

「リスクは高い」

「はい」

「失敗すれば、将軍だけでなく、お前も終わる」

「わかっています」

「なぜそこまでする」エリアスは静かに聞いた。責めているのではなく、本当に知りたそうな口調だった。

アルスは少し考えた。

「将軍が俺に言った言葉があります。三十年かけて辿り着いた答えが同じだった、と」

「覚えている」

「あのとき俺は、将軍が三十年で行ったところに、自分はまだ出発点でいると思いました」アルスは続けた。「将軍がいなくなれば、俺の出発点がなくなる。それは困る」

エリアスは、しばらくアルスを見た。

それから、小さく笑った。

本当に小さく、一瞬だけ。しかしアルスには、それが見えた。

「将軍に話す」エリアスは言った。「採用されるかどうかは、将軍が決める」


ゲオルグ将軍は、アルスの作戦案を聞いた後、長い沈黙を置いた。

「北丘の採掘跡を拠点にする」将軍は繰り返した。「敵の包囲が完成する前に、そこを押さえる」

「はい。採掘跡は地図に記載のない抜け道がある可能性があります。少なくとも、高所からの観測拠点になります。包囲された場合も、そこだけは守れる」

「可能性だらけだな」

「情報が足りません。ただ、動かなければ確実に罠にはまります」

将軍はアルスを見た。

「お前は怖くないのか」

「怖いです」アルスは答えた。「ただ、怖いと言っていても命令は来る。来た以上は」

「考えるしかない、か」将軍は続けた。アルスが言おうとした言葉を、先に言った。

そして将軍は立ち上がった。

「やってみろ」


ここで話が変わる。

アルスが地理誌の採掘跡の記述を見つけた夜、奇妙なことに気づいた。

その記述の余白に、薄く、鉛筆で何かが書かれていた。

老司祭の字だった。

アルスが気づかなかったのは、文字が極めて薄く、しかも記述の端に小さく書かれていたからだ。ランプをぎりぎりまで近づけて、ようやく読めた。

グルンバッハ。北の丘。G・R記。

Gはガレン、Rはロース。老司祭の名前だ。

アルスは、しばらく動けなかった。

老司祭が、グルンバッハを知っていた。

なぜ。

辺境の村の老司祭が、帝国東部の、この小さな盆地の地名を、地理誌の余白に書き記していた。

アルスは、地理誌の他のページを調べ始めた。


あった。

別のページにも、老司祭の字があった。

カルマ街道、第三橋梁。補強工事、帝暦三百四十年。

また別のページには。

ランドール城塞、東壁に欠陥あり。帝暦三百五十二年当時。

そして、戦術論の最後のページに、一段落の文章があった。

老司祭の字で、丁寧に書かれていた。

この本を読んでいる者へ。私はかつて、帝国軍の参謀部に属していた。名をガレン・ロースという。私が辺境の村に来た理由は、書けない。ただ、この本と地理誌に記したことは、いつか誰かの役に立つかもしれない。読んだ者に知恵を授けることが、今の私にできる唯一のことだから。正しいことのために、使ってほしい。

アルスは、長い時間、その文章を見ていた。

老司祭が、帝国軍の参謀部にいた。

あの、辺境の村で静かに祈りを捧げていた老人が。子供のアルスに文字を教え、本の読み方を教え、死んだ人間の言葉を聞かせてくれた老人が。

何かがあって、村に来た。

書けない理由が、あった。

アルスは、戦術論の表紙の裏を確かめた。

薄く、消しかけた文字があった。

よく見ると、元々あった題名を消した跡だった。

かろうじて読める字を、アルスは解読した。

帝国参謀部・機密戦術集覧 第三巻

アルスは、息を呑んだ。

老司祭が遺したのは、ただの古本ではなかった。

帝国参謀部が作り、そして何らかの理由で表に出なくなった、機密の書だった。


翌朝、作戦の準備を始めながら、アルスはエリアスを呼び止めた。

「一つ聞いてもいいですか」

「何だ」

「ガレン・ロースという名前を知っていますか」

エリアスの動きが、一瞬だけ止まった。

ほんの一瞬だった。しかし、アルスには見えた。

「知らない」エリアスは答えた。

嘘だ、とアルスは思った。

しかしそれ以上は聞かなかった。今は、グルンバッハの準備が先だ。

老司祭の秘密は、逃げない。

アルスは布袋の中の三冊を確かめた。

これが何であるかが、少しずつわかってきていた。

そしてそれは、戦場の外に、もう一つ大きな戦いがあることを意味していた。

次回もお楽しみに

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ