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ベルン戦記 〜辺境出身者の成り上がり物語〜  作者: 膝栗毛


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第五章 グライム公爵の影

引き継ぎお楽しみください

それから三ヶ月、辺境の戦線は膠着した。

聖王国軍の別動隊は、エスタ川での敗北以降、大きな動きを見せなくなった。国境沿いの小競り合いは続いていたが、どちらも決定的な一手を打てずにいた。

その膠着した三ヶ月で、ロイ・バロウという男の名前が、辺境守備隊の中に静かに広まっていった。


最初に話題になったのは、ダーレン峠の哨戒任務だった。

十人一組の哨戒隊が峠道を見回っていたとき、聖王国の斥候部隊、三十人と鉢合わせした。三倍の敵に包囲されかけた瞬間、ロイは命令を待たなかった。

「俺についてこい」

それだけ言って、敵の中心に向かって突っ込んだ。

後から聞いた話では、ロイが槍を振るう速度と力が尋常ではなく、最初の五人を瞬く間に薙ぎ倒したらしい。残りの聖王国兵は、一人の男の突撃に一瞬だけ怯んだ。その隙に哨戒隊の残り九人が続いた。三倍の敵が、崩れた。

全員無事に帰還した。

隊長のハンス軍曹は報告書にこう書いた。ロイ・バロウ一等兵の突撃が局面を打開した。戦場における胆力、他の追随を許さず。


二度目はグルンバッハ村の防衛戦だった。

聖王国の別動隊、百五十が村に迫った。守備側は四十。どう考えても守り切れない数だった。

しかしロイは、村の入口にある石造りの水車小屋に目をつけた。

「ここを塞げ。俺が入口を押さえる」

水車小屋は村への道を半分ふさぐ位置に建っていた。ロイは残りの三十九人を小屋の陰と建物の中に配置し、自分は入口の正面に立った。

「お前が囮か」隣の兵が震えながら言った。

「違う」ロイは槍を構えた。「壁だ」

最初の突撃で、ロイは先頭の五人を止めた。文字通り、止めた。押し返した、ではない。前に進めなくさせた。大柄な身体と、人外じみた膂力で、狭い入口を一人で塞いだのだ。

横からの援護と相まって、百五十の部隊は入口で詰まった。密集した敵に、屋根の上から石と矢が降り注いだ。

四十対百五十の戦いは、一時間後に引き分けで終わった。聖王国軍は損害を嫌って撤退した。

守備側の損耗は、七名だった。


三度目は夜襲の迎撃だった。

深夜、野営地に聖王国の精鋭部隊が奇襲をかけてきた。暗闇の中、兵たちはパニックになった。指揮系統が一瞬で崩れた。

そのとき、ロイの怒鳴り声が暗闇に響いた。

「落ち着け!俺の声が聞こえる奴は俺のところに来い!」

声の力というものがある。内容ではなく、声そのものが人を動かすことがある。ロイの声は、そういう種類の声だった。低く、太く、迷いがなかった。

暗闇の中で、バラバラになっていた兵たちが、声を頼りに集まってきた。ロイはその場で即席の陣形を作り、奇襲部隊を押し返した。

翌朝、ゲオルグ将軍はロイを呼んだ。

「夜襲の迎撃、よくやった」

「当たり前のことをしただけです」ロイは言った。

「当たり前のことが、なぜあの状況でできた」

ロイは少し首を傾げた。「暗いのは相手も同じだと思ったので。だったら声で動けばいいと」

ゲオルグは、しばらくロイを見た。

「お前、怖くなかったのか」

「怖かったです」ロイは即答した。「でも、アルスがもっと怖い目に遭ったとき、俺がいなかったら誰が助けるんだって思ったら、動けました」

ゲオルグは何も言わなかった。

しかし、その日の夕方、エリアスに一言告げた。

「ロイ・バロウを伍長に上げろ」


アルスは、ロイの武勲の話を毎回、誰かから聞かされた。

本人はいつも大したことではないという顔をしていた。飯を食いながら「今日もちょっとやり合った」と言い、それが三十人を相手に一人で道を塞いだ話だったりした。

「お前、死ぬぞ」アルスは言った。

「死なないよ」ロイは飯を口に運びながら答えた。「俺が死んだら誰がお前を守るんだ。死ねない」

「その理屈はおかしい」

「おかしくない。俺はお前のために生きているんだから、お前が生きている限り俺は死なない。完璧な論理だ」

「完璧に破綻している」

「うるさい」

アルスはため息をついた。それからロイの顔を見た。笑っているが、目の下にうっすら疲労の色がある。三ヶ月で、ロイは何十回戦ったかわからなかった。

「無理するな」アルスは言った。

「してない」

「している」

ロイは少しだけ、笑顔の質が変わった。「……わかった。でも、お前も無理するな」

「俺は身体を張っていない」

「頭を張ってるだろ。毎晩遅くまで地図を見て、朝一番に起きて、ずっと何か考えてる。それも無理のうちだ」

アルスは、返す言葉がなかった。

二人は並んで、黙って飯を食った。

それで十分だった。


四ヶ月目に入ったころ、砦に一通の書状が届いた。

差出人は、帝都。グライム公爵府。

エリアスがその書状を持ってゲオルグのところに来たとき、将軍の顔が珍しく険しくなった。

「何と書いてある」

「辺境守備隊の戦費が過大だという指摘です。補給の削減を検討するとあります」

「戦費が過大だと」ゲオルグの声が低くなった。「今、前線で戦っている最中だぞ」

「それは承知の上で、帝都はそう言っています」エリアスは淡々と書状を読んだ。「加えて、辺境守備隊の指揮系統について、帝都による監査を実施するとあります。担当はグライム公爵府の代理人が務めるとのことです」

ゲオルグは、しばらく黙っていた。

アルスはその場に居合わせていたが、将軍の沈黙の重さが、これまでと違うことに気づいた。怒りではなく、疲労でもなく、どこか深いところからくる、重い何かだった。

「グライム公爵か」ゲオルグは呟いた。

「ご存知ですか」アルスは思わず聞いた。

将軍は少し間を置いてから答えた。「帝国の国政を動かしている男だ。皇帝陛下の耳元に、いつも張り付いている」

「なぜ辺境守備隊に関心を持つのでしょう」

エリアスが答えた。「関心があるのは辺境守備隊ではない」

「では」

「お前だ」エリアスはアルスを見た。「エスタ川の作戦の報告書は、帝都にも届いている。平民出身の伝令兵が戦術を立案し、貴族出身の将校たちの議論を覆したという話は、それなりに広まっている」

アルスは何も言わなかった。

「グライム公爵は、平民が軍内で頭角を現すことを、根本的に嫌っている」エリアスは続けた。「理念の問題ではなく、利権の問題だ。軍の上位ポストは、貴族の子弟が占めることで維持されている秩序がある。そこに異物が入ることを、彼は許さない」

「俺のような辺境の平民が、それほど脅威になるとは思えませんが」

「今はそうだ」ゲオルグが言った。声が静かだった。「だが、公爵は先を見る。お前が三年後、五年後にどこにいるかを考えたとき、早いうちに潰したほうが得だと判断したのだろう」

アルスは、その言葉の意味をゆっくりと咀嚼した。

自分はまだ何者でもない。ただの平民の伝令兵だ。それでも、帝都の権力者が先手を打ってくる。

つまり、逆に言えば。

「将軍は、俺がそれほど伸びると思っていらっしゃるのですか」

ゲオルグは、少しだけ表情を緩めた。「思っているから、お前を育てている」


グライム公爵府の代理人が砦に到着したのは、書状から十日後だった。

名をルシアン・クロームといった。

二十八歳。細身で、姿勢がいい。整った顔立ちに、涼しい目をしていた。笑うと感じが良さそうに見えるが、目が笑っていない種類の男だった。

アルスは、廊下でその男とすれ違った。

ルシアンはアルスを一瞥した。通り過ぎる、その一瞬だけ。

しかしその一瞬に、アルスは奇妙な感覚を覚えた。

見られた、という感覚ではなかった。

測られた、という感覚だった。


夜、エリアスが言った。

「ルシアン・クロームを知っているか」

「今日、廊下で見ました」

「どう思った」

アルスは少し考えた。「賢い人だと思いました」

エリアスは眉を上げた。「一瞬すれ違っただけで、なぜそう思う」

「歩き方です」アルスは答えた。「砦の中を歩きながら、周囲を確認していました。視線が一箇所に留まっていない。地図を読むような目で、砦全体を測っていた」

エリアスはしばらくアルスを見た。

「正しい。あの男は公爵の参謀だ。頭が切れる。そして」エリアスは声を少し落とした。「お前の存在を、既に把握している」

「どうしてわかるのですか」

「今日の夕方、俺のところに来た。世間話のふりをして、エスタ川の作戦の立案者が誰かを確認してきた。俺が答えると、何も言わずに頷いて去った」

アルスは、黙った。

「気をつけろ」エリアスは言った。「あの男の怖さは、怒鳴らないことだ。静かに、気づかないうちに、罠を作る」

「どんな罠を」

「それがわかれば苦労しない」エリアスは珍しく、少し疲れたような顔をした。「ただ、お前に一つだけ言っておく。これから先、理不尽な命令が来ることがある。無謀な作戦を押しつけられることがある。そのときでも、お前には考え続けてほしい。諦めずに、どうすれば生き残れるかを」

アルスはエリアスの顔を見た。

この人が、こんなことを言うのは初めてだった。

「先輩は、そういう目に遭ったことがあるのですか」

エリアスは一瞬だけ、何かを思い出すような顔をした。

「ある」それだけ言った。

それ以上は話さなかった。


その夜、アルスは天幕の中で、三冊の本を前に並べた。

戦術論を開いた。読み慣れたページが目の前に広がる。しかし今夜は、戦術の話ではなかった。

アルスが探していたのは、権力の話だった。

権力を持つ者が、台頭する者を潰そうとする。それは戦場と同じ構造だ。相手は先手を打ってくる。こちらは後手に回っている。情報が少ない。

ならば、まず情報を集めることだ。

ルシアン・クロームは何を目的にここにいるか。監査という名目の裏に、何があるか。

グライム公爵は何を守ろうとしているか。

そして、自分には何ができるか。

本の余白に、アルスは書き始めた。

夜が更けても、ペンは止まらなかった。


翌朝、ロイがのんきな顔で天幕に入ってきた。

「お前、また徹夜か」

「少しだけ」

「目が真っ赤だぞ」ロイは呆れたような顔をした。「何を考えてた」

「敵の話だ」

「聖王国のか」

「違う」アルスは本を閉じた。「もっと厄介な敵の話だ」

ロイはしばらくアルスの顔を見た。それから、いつもより少しだけ真剣な顔で言った。

「俺に戦えるやつか」

「直接は戦えない。剣や槍の届かない場所にいる」

「じゃあお前の出番だな」ロイは言った。あっさりと、迷いなく。「お前が頭を使う間、俺が周りを守る。それが俺たちのやり方だろ」

アルスは、ロイの顔を見た。

幼馴染の、笑顔。

「ああ」アルスは言った。「そのやり方で行く」

外から、朝の点呼の声が聞こえてきた。

二人は立ち上がり、天幕を出た。

朝の光が、砦の石壁に当たって白く輝いていた。

次回もお楽しみに

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